喪失

 ためらっていることがあった。それは、ある質問をすること。
 例えば朝、着替えの手伝いをしてくれる侍女に。会議の休憩中、差し入れを持ってきてくれる騎士に。
 そう、機会はいくらでもあったのだ。
 しかしゼルダが口を開こうとする度に、不安が胸を押し潰し、声が出なくなる。怖い。否定されることがどうしようもなく怖い。
 一方で、彼女はついに「それ」を口にしてしまう未来を見ていた。今は自分に嘘をついているけれども、誤魔化しきれなくなる日は必ずやってくる。
 ゼルダはただ、遺されたものが消えていくことがどうしようもなく恐ろしく、また我慢ならなかった。
 彼女にできるのは、膨れ上がる恐怖を押し殺し、今日もただ、月に向かって呼びかけるだけ。
 ねえ、本当に「彼」はハイラルに存在したの——?



「もういいわ。ここで降ります」
 昼のハイラル平原に、馬車が緩やかに静止した。率いる二頭の毛並みはどちらも艶やかで美しい。車体は真っ白く塗られており、装飾は抑えられているものの、細部に漂う上品さは隠しようがない。お忍びの旅、という趣きだった。
 客席の、半透明のベールをかぶった女性は、のどかな平原を窓に見る。
「いいのですか、入り口までまだしばらくありますが」
 馭者が車中の主人を振り返る。
「わたし、もう子供じゃないもの。歩いていけるわ」車中から苦笑の響きが伝わってきた。「それに、許可されたのはわたし一人です。あまり大勢で行ったら、怖がられてしまうかも……?」
 おどけてみせた声は、春の陽射しのように馭者の心配を溶かしてしまう。
「分かりました。お気をつけて」
 許しを得たと同時に、女は外へと舞い降りた。いや、飛んだ。まるで重さを感じさせない軽やかな跳躍。馭者が声をあげる間もなく、ふわりと野に降り立つ。
 女は悪戯っぽく微笑んだ。そのドレスの裾からは、白くほっそりとしたくるぶしが覗いていた。裸足だった。
「大丈夫です。では、明日の同じ時間に、ここにお願いしますね」
 そう言って女は慇懃に礼をした。ひまわり色の髪が風に泳ぐ。その表情といい、行動といい、まるで子供のようだった。
 彼女の大胆さにハラハラしていた馭者は、その笑顔を見て諦めたように息を吐き、冷静に指摘する。
「……少なくとも、靴は履いていってくださいね。大事な会談なのですから」
 女は赤面して、両手に引っかけていたブーツを履く。
「こ、これでいい?」
 目を細めて首肯し、馭者は馬の首を巡らした。「うまくお話がまとまることを祈ります、ゼルダ様」
 ハイラル王女・ゼルダは目でうなずいた。そして、ふと表情を翳らせる。
「ちょっと訊いても良いかしら」
 が、その呟きは馬蹄に紛れて消えてしまった。
 まただめだった。
 困ったように微笑み、あっという間に去りゆく馬車を見送る。それが影も形もなくなった後、ゼルダは草原をのんびり下っていった。
 ——森へ。



 踏み込む度に、ギシギシと橋板が不穏な悲鳴を上げる。ちゃんと手入れされているのだろうか?
 王国の東に位置する広大な森。この奥に、長い間存在を隠蔽されていたコキリ族の集落がある。
 平原から森へ渡るつり橋の造りにも、過ぎ去った歳月が伺えた。森から出れば死ぬ、森に入れば魔物になるという、物騒な噂——どちらも事実だったのだが——が立てば、誰も近寄らなくなるのは当然だ。
 上手いな、とゼルダは思った。森とそこに住むコキリ族を守るために、よく練られた策だ。先代の森の守り神「デクの樹」に会えなかったのは実に残念だった。
 というのも、先の魔王の侵攻に、コキリ族は守り神も森の賢者も失ってしまったのだ。かの種族は子供の姿から成長することがない。国家の元首たるゼルダは、無防備な彼らに対して早急に手を打たねばならなかった。
 それが、今回の訪問理由のひとつ目だ。
「うわっ……とと」
 必死にぐらぐらのつり橋と格闘していると、不意に寂しさがこみ上げてきた。ほとんど前人未踏の場所なのに、感動を分かち合うべき人が隣にいない。
 生まれたばかりの新たなデクの樹は、ゼルダの訪問に条件をつけた。案内人はこちらで用意するので、どうか一人で来てほしい。手紙(おそらく代筆)にはそう書かれていた。
 それくらいは軽いものだと、二つ返事で呑んだものの。今、ゼルダは城にいるときには想像し得なかった黄昏色の感情に襲われていた。
(気のせい、気のせい。久々のプライベートだし、あんまり森が神秘的だから、ちょっと感傷的になっただけよ)
 本当の意味での「危ない橋」を渡りきり、入り口らしき朽ち木のアーチの前に立つ。ここまで来てもコキリ族一人見あたらないので、さらに心細くなった。
「入っちゃって大丈夫、よね?」
 アーチの先は光の加減で、塗りつぶされたように真っ暗だ。
 行くしかない。
 ゼルダは意を決して歩き出す。その背を押したのは、ここへ来たもうひとつの目的だった。
「彼」の故郷を、この目で見てみたい。
「……まあ」
 森が開けていた。入り口はあんなに暗かったのに、ここには燦々と日差しが降り注いでいる。
 木々に寄り添うように建てられた小ぢんまりとした家たち。丘をつなぐように吊られた橋。鏡のような池。まるで箱庭のようだけれど、本当に、こんな場所に人が住んでいるのだ。
 あたりはしんと静まりかえっている。久々の訪問者(しかも大人)を、隠れて観察しているのだろうか。だがゼルダは、そんなに悪い気分ではなかった。
 草いきれとともに、空気中には光る玉がふわふわと漂う。これが噂に聞く妖精珠かしら。
 眠っていた子供心が、むくりと起きあがるのを感じる。みるみる感覚が鋭敏になっていくようだ。
「おい、アンタ」
 声をかけられたのはその時だ。慌てて振り向くが、そこには誰もいない。
「……どなたでしょう」
「デクの樹サマに会いに来たんだろ? 案内してやる」
 それは嬉しいのだが、どこに目の焦点を合わせるべきか迷ってしまう。
 と、足が見えた。かなり低い位置にあって、くすんだ緑色の半ズボンを穿いている。子供の足だった。
(え)
 疑問が形になる寸前、順番に体のパーツが現れる。右足、左足……胴体と頭は同時。つまり、右足から踏み出したようだ。
 こうして一人の男の子が姿を現した。生意気そうな瞳とへの字に結んだ唇、そばかすだらけの頬。傍らには妖精も連れている。
 ゼルダはアッと声を上げかけた。その服装は色といい、垂れたとんがり帽子といい、「あの人」のまとっていたものそっくりだった。
 コキリ族だ!
「道案内、よろしくお願いします」
 声に驚きが滲まなかったのは上出来だろう。彼女はこっそり息を吐いた。
「あの、お名前は?」
「ミドだ、コキリのミド」
 しかしその名前は、「彼」の口から聞いたことはなかった。
 ゼルダは優雅に会釈し、ミドについていく。またもや姿が消えて焦るが、傍らの妖精は変わらず光を放っていた。コキリ族は一定の距離を置くと、目に見えなくなってしまうらしい。彼らが比喩的に「妖精」と呼ばれる由縁だ。
 しばらく歩くと、入り口とは別のアーチの前に着いた。
「この先にデクの樹サマがいらっしゃる」
「分かりました。ご案内ありがとうございます」
 ミドは照れてそっぽを向いた。わざとらしいがに股で歩み去る。
「まっすぐ行けばいいのですね」
 ほどよい緊張が背筋に走る。いける、大丈夫だ。
 ゼルダの口元に、あるかなしかの笑みが浮かんだ。



「では、入り口に関所を設置し、常に兵士を配備する。森の中には一切踏み込まない、干渉もしない。
 これでいいのですね?」
 最後の確認では、特に慎重に言葉を選んだ。デクの樹は『いいデスよー』と、緊張感のかけらもない声を出した。
 予想外に、あっさりした会談だった。ゼルダはどんな要求にも対応できるよう、様々なプランをたてて臨んだ。そして、もっとも無難な案をまず提案したのだが、それがあっと言う間に成立してしまった。意見がまとまらず平行線を辿るような会議に慣れていた分、拍子抜けだ。これでいいのかしら、と不安になってしまう。
 ゼルダは巨大な枯れ木の足元にいた。かつて天を目指した枝が中途で折れている様子はもの悲しくも、威厳の残り香を感じさせた。カサカサに乾ききったこの木が、先代のデクの樹だった。
 現デクの樹はまだほんの子供、若木だ。『今年の秋は実が成りそうデス』と誇らしげに話していた。どんな実なのだろう。
 名残惜しいが、もう表向きの用事は終わってしまった。
「では、私はこれで」と腰を浮かしかけると、
『ゼルダサン、せっかく難しいお話が早く終わったのですから、昔話をするデス』
「……はあ」
 ゼルダは体勢を戻した。デクの樹が持ち出そうとする話題は、見当もつかなかった。
『リンクサンについて、ボクが知っていることを全て話すのデス』
 脊髄に電流が走った。
「知っているのですか!?」
 突然血相を変えたゼルダにも動じず、デクの樹は可愛らしい目をしばたく。
『ハイ。ボクはリンクサンのおかげで発芽できたのデス』
「リンク、のおかげ……?」
 いつ以来だろう、彼の名前を口にしたのは。彼の話を他人から聴くのは。
 高鳴る胸の鼓動は、指先まで揺らすほどだ。
『彼が森の賢者を目覚めさせ、森から魔を払ってくれなければ、ボクは生まれることができなかったのデス』
『ボクは、父から聞いていた彼の出生について話したデス。彼はコキリ族ではなく、ハイリア人だと』
『彼は静かに聞いていたデス』
 ゼルダは、次々と淀みなく語られる思い出を、夢のような心地で聞いていた。
 デクの樹が言葉を切る。彼女の反応を見ているようだ。
「わたし……怖かったんです」
 ぽつり、落とされる言葉。それは雨の始めの一滴だ。
「おかしいな、と思った時には遅かった。国を救ったはずの時の勇者はいつの間にか、戦争とともに人々の記憶から消えようとしていて。
 彼のことを尋ねるのが怖かった。そんな人いましたか、と答えられたら、わたしは」
 あの暗黒の七年間が、言いようもなく辛かったのは分かる。でも、だからといって救国の英雄を「なかったことに」していいのだろうか? 確かにリンクは自分の名前が歴史に残ることは望まなかったけれど、それとこれとは全く違う。
 ゼルダは顔を覆った。
「わたしは彼を見殺しにしようとしていた」
 堰を切ったように、雨は激しく降りしきる。彼女の頬を、温かい雫がつたっていた。
『ゼルダサン……』
 王女は肩を震わせ、微笑んだ。雨あがりに一条の光が差し込む。
「彼は、リンクはここにいたのね」



 ミドさんはリンクの親友だったそうですね、とゼルダがさりげなく言ってみたところ、彼は突沸した。
「んなわけあるかーっ!」
 森全体に響き渡るほどの大声だった。驚いた小鳥たちが飛び立つ。反響が終わった頃、ミドはうろたえて赤面した。
 木の葉が笑うようにさざめいた。ゼルダは、くすりと笑う。
「……そうなんだ。デクの樹様から聞いたのですが。でも、リンクの思い出話はあるわよね。ぜひ聴きたいわ」
「アイツに興味でもあんの?」
「あるある。ハイラルで一番あるって自負しています」
「そりゃすごい」
 それでもサリアには適わないだろうな、と無意識に出ただろう台詞にムッとする。森の賢者サリア、リンクの幼馴染み。
「ゼルダさん、今日泊まっていくんだろ。明日みんなを集めて話してやるよ、リンクのこと」
「本当? ありがとう!」
 それにしても「ゼルダさん」だなんて、城の者が聞いたら卒倒するだろう。彼はゼルダのことをハイラル女王だと認識しているのだろうか? でも、そのぞんざいな扱いが、何故か嬉しかった。
「ミド君はもしかすると、コキリの族長さん?」
「ボスだ、ボス。ミドのアニキ」
「へえ〜、アニキ……」
 リンクは多分アニキなんて呼ばなかっただろうな、と考えるとちょっと可笑しくなる。顔にも出ていたようで、「何だよ」ミドに見つかってしまった。
「ホラ。ここがアイツんち」
「あ……」
 樹の上に簡素な作りの家がくっついている。生まれた瞬間からお城暮らしだったゼルダからみると、まるで小鳥の巣のようだ。はじごまで子供の肩幅にあわせてある。
 リンクの家を見ることができたのは嬉しかったが、何故ここに連れてこられたのだろうか。ゼルダが目で尋ねると、ミドが親切にも説明してくれた。
「客人が来ることなんてなかったからさ、屋根のある空き家ってここしかなくて。寝泊まりする場所、アイツんちだけどいいよな? 掃除はしてあるし、食事は後で持ってくるから」
「へ」
「じゃあまたなー」ミドは手を振って行ってしまう。
「ちょ、ちょっとっ」
 途方に暮れるのも一瞬だった。これはまたとないチャンスではないか、お宅訪問の!
 木登りなどという、王女らしからぬ行為に励むこと数十秒、ゼルダはひらりと木の上に降り立った。
「お邪魔しまーす」
 早速部屋の中を調べ回る。「リンクの記録 クモ退治100匹 つりあそび68センチ」……。案外まめだった時の勇者をくすりと笑ってから、後で怒られそうだ、と思う。
 ——後って、後はないじゃない。ゼルダは苦笑した。
(わたし、まだ諦めてないんだ。リンクに会うこと)
 明日の思い出語りが、心底楽しみだ。
 机の上には、書きかけらしき手紙が広げてあった。罪悪感を覚えつつ、文面に目線を走らせてしまう。
「今はまだ会えないけど、必ず迎えにいくよ、ゼルダ」
 そこには拙い字でそう記してあった。
 戦いの末には七年前への帰還が待っていること——すなわちゼルダと永遠に会えなくなること——を、彼が予期していたはずはない。きっと、この思いつきで書き留めたような文章は、ゼルダがシークに扮して行方を眩ませていた頃の話だろう。
 ゼルダ、と呼びかけられた当人は、何度も目を往復させる。やがて文面はぼやけて読めなくなった。
「待ってますよ……リンク、いつまでも」



 朝。森の朝は早く、ゼルダは階下からの声で目を覚ました。久々の熟睡だった。
「おーい寝ぼすけ、朝だぞ!」
 ミドの声だ。おや、頭が混乱しているのはゼルダだけじゃないらしい。リンクが帰ってきたとでも、勘違いしてしまったのだろうか。
 彼はこの木の上から飛び降りたりしていたのかしら。危ないなあと思った反面、それは子供っぽくて面白そうな行為だった。
「今行く!」
 凛とした声が響く。今の結構リンクに似てなかった? ゼルダは自画自賛する。
 ダンスのステップを踏むように、外へ躍り出た。地上にミドや他のコキリ族の姿が見えた。それなりに高低差はある。
 はしご? そんなものは必要ない!
 王女という地位にまとわりつくしがらみを振りほどくようにクルリと一回転すると、目を閉じ、ゼルダは自らをリンクに重ねた。
 彼ならもちろんこうすると確信を持って、地を蹴る。つかの間、浮遊する。
 ゼルダは飛んだ。

inserted by FC2 system