まだ見ぬあなたへ

 がくん。
 机から肘が外れた衝撃で、リンクは覚醒した。
 目の前には何冊ものノートと参考書が広げられており、その脇にはインクの乾いたペンが転がっている。
(あー……。オレ、試験勉強中に寝てたのか)
 時計を見れば、午前零時を少し回ったところだった。
 無理な体勢で寝たせいで、肩が凝っていた。頭をはっきりさせるついでに伸びをする。その拍子に、カレンダーが目に入った。今日の日付に赤く印が付いている。
 そうだ、今日は建国記念日だった。
「お邪魔するよ」
 背後でドアが開く音がしたので振り向くと、自室の入り口にはリンクの保護者、ニコが立っていた。
「ニコ……なんでこんな時間まで起きてんだ。じいさんなんだから早く寝ろよ」
「お誕生日おめでとう」
 リンクは瞬きをした。
「あ……ああ。どうも。そんな話、別に朝でもいいのに」
 返事がぎこちない。建国記念日とはすなわち自分の誕生日である。それは頭の片隅で覚えていたが、正面から祝われるとは思ってもいなかった。
「リンクは起きてるだろうと思ってね」
 ニコは何やらお盆を持っていた。ホットミルクの差し入れだ。もう百歳を超えた老人なのだし、こぼしたらどうするのだと文句を言いかけ、結局諦めた。実際、何度も指摘はしたのだが、ニコはありとあらゆる家事を自分でこなしてしまう。リンクの介護など、まるで必要としていないのだ。
 リンクは渡されたミルクをありがたく頂いた。ニコも自分の分に口をつけたので、どうやらここに居座って話をするつもりらしい。勉強机と本棚以外ろくな家具のない部屋だから、ニコにはベッドに座ってもらうことになる。
「勉強の方は順調かい?」
「あんたに心配されなくたって、絶対に合格してみせるさ」
 リンクは自信を持って宣言した。
 彼は目下のところ、ハイラル王国の正機関士になるため必死に試験勉強をしていた。彼の実力なら十分に合格圏内だ、と予備校の先生からのお墨付きもある。
 第一の関門である筆記試験は、来週行われる。それをクリアすれば、次は実地試験だ。筆記試験に関しては城下町の予備校に通ってカバーし、汽車の運転は同じ村に住むシロクニから習っていた。
 本来、正機関士になるためには、まず副機関士として二年間の実務経験が必要になる。しかし、リンクはとにかく早く機関士になりたかったため、難関の予備校に通うことによって免状をもらい、実務経験をパスした。そうすれば、副機関士を経由せずに直接正機関士を狙うことが可能になるのだ。
 ひたすら最短コースを進むリンクに対し、ニコは少し思うところがあるようだ。
「もう一年くらい、勉強していても良かったのに」
「オレが機関士にならなきゃいけない理由、知ってんだろ。それに、あんたに余計な負担はかけたくないからな」
「気遣ってくれるのかい?」
「ちっちげーよ。恩は売るものであって、売られるもんじゃねーんだよ!」
「親は子供のあれこれを負担するものだよ」
 ニコが屈託なく笑ったので、リンクはからかわれていることに気づいた。
 その後沈黙が訪れ、リンクは再び勉強に集中し始める。しばらく経ってふと振り返れば、保護者はベッドの上で船をこいでいた。
「おい! いいから寝に行けよ」
 老人を揺り起こし、無理やり立たせる。すると、案外すぐに意識を回復したニコは、まっすぐにリンクと視線を合わせた。
「……ねえ、リンクは機関士になって、その後はどうしたいんだい」
「はあ?」
 リンクはくっきりと形の良い眉をひそめる。
「別にいーだろ、何をしようとオレの勝手だ」
「いやいや重要なことだよ。きみは頭がいいから、『燃え尽き症候群』って言葉も知ってるだろう」
 ニコの台詞のいちいちが、ぐさりと胸に刺さる。痛いところを突かれて、リンクは低い声を出す。
「……機関士になって、がんがん稼いで、何か悪いのかよ」
「悪いわけじゃない。でも、きみの人生はきっと、機関士になってからの方が長いんだ」
 今は、試験に合格するという目標に向かって、一直線に行動している。しかし、その目標がなくなってしまったら——「燃え尽き症候群」の言葉通り、リンクがその後の長い年月を無気力に過ごしてしまう可能性は十分にある。彼自身、その危惧はしていた。
 だが、彼はどうしても機関士になりたかった。そのせいで、たとえ人生を損なうことになっても……
「あーあ。自分の誕生日にニコから説教されるとは思わなかったぜ」
 これはリンクらしくない、逃げの論法だった。他人相手ならいくらでも毒舌になれるのに、この保護者にだけはまるで敵わないのだ。
 ニコはふっと頬を緩めた。
「誕生日だからこそ、だよ。
 合格してくれるのは嬉しい。きみはわしの誇りだ。でも——シロクニやわしのためじゃなく、リンクには自分のために機関士になって欲しい」
「……考えとく」
 リンクはぶっきらぼうに返事をし、机に向き直った。
 ニコが部屋から出て行く気配がしても、彼の脳内には「燃え尽き症候群」という単語がグルグル回っていた。



 筆記試験をぶっちぎりの一位で突破したリンクは、一ヶ月という長丁場の実地試験に挑んだ。
 例年通りならば、ハイラル全土を舞台として、与えられた汽車を自由に操ることができるはずだった。だが、近ごろの線路消失事件により、王国を構成する四つの大陸のうち、リンクの暮らす「森の大地」しか試験会場として使い物にならないらしい。リンクは正直、未だに事件解決の糸口を見つけられない国家に対して怒りがわいたが、試験に合格するまではおとなしくすることにしていた。
 今回、実地試験に挑むのは彼だけだ。筆記試験の合格者が他にいなかったためである。もともと筆記の時点で超難関なのだ。よって、否が応でもリンクに注目が集まった。実地試験で彼の汽車に乗りたがる客の数は、過去最大になることが予想されていた。十代に入ったばかりの少年が一次試験を通過するなんて、前代未聞のことだ。王国関係者も、おそらく線路消失事件における失態を誤魔化すために、積極的に宣伝して回った。
 こうして鳴り物入りで始まったリンクの試験だが、本人は大した手応えを感じていなかった。
「なんかつまんねーなあ……」
 試験中に機関士席であくびをするくらいだ。リンクが優秀すぎるせいもあって、問題は何も起こらなかった。とにかく張り合いがない。中には彼の運転に対して難癖をつけてくる客もいたが、それもリンクが完璧なテクニックを見せれば黙った。
 ——その客がリンクの汽車に乗り込んできたのは、もう試験も終盤にさしかかった頃だった。
 いかにも慣れた様子でステップを上がってくる客の顔を見て、リンクは思わず声を上げそうになった。
「シ……!」
 ぎりぎりで口をつぐむ。乗客は、リンクの汽車の師匠である、シロクニだった。見慣れたつなぎ姿ではなかったが、頭にはいつものようにバンダナを巻いている。
 今のリンクはあくまで機関士なのだ。彼は努力してシロクニから視線を外し、
「どこまで?」
 言葉少なに訊ねる。シロクニも知らんぷりをして、「モヨリ村まで」と答えた。
 たまたま空っぽだった客車の、一つの座席が暖まった。それを確認してから、汽車は静かに線路の上を滑り出す。
 冷静に運転しながらも、リンクは脳内でもやもやと疑問をもてあそんでいた。
(なんで師匠が乗ってきたんだよ……)
 もしかすると、彼が試験官なのだろうか。リンクは内心身構えた。実地試験の合格判定は、普通の乗客に混じっている試験官が行うものと定められていた。しかし、ここまであからさまな相手が、果たして試験官になるものだろうか——
 異変が起こったのは、モヨリ村までの道筋も中ばに達した時だ。
 順調に汽車を走らせるリンクの前に、目を疑うような光景が広がっていた。
 本来あるべきはずの場所に、線路がない!
 見習い機関士は、できる限りスムーズに汽車を停止させた。この路線は森の中にあり、普通の汽車は通らない。近道と思って選んだのが徒となった。
 おまけに、今からバックして路線を変えても、モヨリ村に着く前に夜になってしまうだろう。日没後の運行は禁じられているため、本日はここで立ち往生することが確定したわけだ。
 ある意味、乗客がシロクニだけで助かったと言うべきか。リンクは帽子を脱いで客車に向かった。
「お客様。実は、この先の線路がなくなっておりました。申し訳ございませんが、今夜は車内泊ということに……」
「ああ、構わないさ」
 リンクの申し出にも、シロクニは快諾してくれた。
 万が一のために、食料や水、寝るための備えは汽車に用意していた。不測の事態を考え、このあたりを常に揃えておくのも機関士の重要な仕事だ。寝台車はないが、我慢してもらうしかない。
 携帯用の燃料で火を焚き、試験勉強中の夜食で覚えた料理をつくる。たとえシロクニと二人きりでも、汽車と共にある以上リンクは機関士だ。まだ気は抜けない。
 簡単なスープを出すと、シロクニは蒸気をあごに当てながら質問してきた。
「なあ、見習い機関士さん。あんたはどうして機関士を目指してるんだ?」
 あくまで乗客として訊ねているようだ。それだけに、リンクは非常に答えづらかった。
「それは——」
 言いさして、唇を噛む。シロクニがわざわざ質問してくるからには、何か意図があるに違いない。
 彼が機関士を目指しはじめたのは、まさしく目の前にいるシロクニが原因だったのだ。
 リンクは鈍く痛む頭で、ある出来事を思い出す。



 昔から、リンクはシロクニと仲が良かった。元々はニコからのつながりだったと覚えている。ほとんど誰に対しても反抗的な態度を取るリンクだが、唯一シロクニにはそれなりになついていた。その理由としては、約十年という年の差と、シロクニがお城の兵士という立派な職に就いていたことが挙げられるだろう。
 そのシロクニが、突然「城の兵士をやめる」と言い出した。今から三年前のことだ。
「えっ。なんでだよ。剣ぶんぶん振り回して、似合ってたのに」
 本人からその知らせを聞いたリンクは、意外さに目を見開いた。惜しい気持ちが隠しきれない様子だ。すると、シロクニは照れくさそうに笑った。
「実は機関士になりたいんだよ」
「機関士〜?」
 リンクは不満げな顔をした。武器を持って国を守る兵士と比べ、すすにまみれる機関士は、少年にとってあまり格好よくなかったのだ。
 だがシロクニは堂々と胸を張った。
「兵士もいいけどさ、基本的にはお城を守るだけだろ。正機関士になれば、自分の好きなところに行けるんだ。海賊だったご先祖様のこと、ちょっと思い出すんだよな。城下町で、こっそり運転の練習もさせてもらってるんだ」
「でも汽車なんて、線路の上しか走れないじゃん」リンクはつまらなそうに言い返す。
「広い大地を駆ける快感は、何にも代えられないぞ」
 そう豪語するシロクニは、今までリンクが見たこともないような、満ち足りた表情をしていた。
「ふうん……」
 リンクは不服だった。兄のような存在の人が、急に離れていくような気がしたのだ。しかしシロクニの決意は固く、何を言っても覆せない雰囲気があった……
 その翌日のことだった。モヨリ村から、家畜の牛が逃げ出すという事件があった。村人が総出で探すことになり、リンクも嫌々ながら捜索に参加した。
 そして、たまたま彼が一番最初に牛を発見した。牛はよりにもよって線路上をうろうろしていた。ここからが至難の業だ。牛がこちらに気づいて逃げ出す前に、大人たちに知らせなければ。
 脳内で策を練りながら一歩、牛に近づいた時だった。線路の向こう側から汽車がやって来た。当然、汽車は汽笛を鳴らす。音に驚いた牛は線路から逃げだし——こちらに突進してきた。
(えっ)
 凍り付いたように体が動かない。リンクは迫り来る牛を見つめて呆然としてしまった。
「リンク!」
 自分を呼ぶ声がして、次の瞬間彼は突き飛ばされた。
「……!」
 草原をごろごろ転がってから跳ね起きると、視界には走り去る牛と、足を押さえてうずくまるシロクニが映った。
 ……あの時シロクニがかばってくれなければ、リンクは牛の体当たりを受けて確実に大怪我をしていただろう。しかし、リンクのせいでシロクニは一生消えることのない傷を負い、正機関士の帽子を受け取ることなく、その道を断念してしまった。城の温情により機関士の免許は与えられたが、自由に汽車を運転することはできなくなった——
 ニコに「機関士になって、その後はどうしたいんだ」と訊ねられた時、リンクがはっきり答えられなかったのも、そのせいだ。少年を突き動かしていたのは、罪悪感に近いものだった。



 あの事故があった後、リンクは猛然と試験勉強を始めた。それと同時に、自分でも知らなかった才能が開花した。彼はどうやら人並み以上に頭がいいらしい。同年代の子供たちと話が合わず、いつも最後は喧嘩になっていたのはこのせいだったのかもしれない。シロクニの指導もあって、彼は非常に難しいと言われた予備校の入学試験にも楽々合格した。
 でも、この三年前は長かった。最短ルートを通ってきたのに、彼の気持ちは焦るばかりだった。
 夜の帳の降りた、汽車の中で。リンクは自分の人生を変える発端となったシロクニ自身の質問に、なんとか答えようとする。
「オレが機関士を目指してるのは、ある人の代わりなんです」
「へえ、代わり。てことは、機関士になるのは自分の望みじゃなくて、誰かに強制されたものだと?」
 シロクニは挑発するように語尾を上げた。リンクは目を伏せる。
「……いや、そうじゃない」
 否定してみせたものの、理由は上手くまとまらない。続きを話せないでいると、シロクニは窓の外に目線を飛ばした。
「もしも、機関士になるのが自分の望みじゃなかったとしても……汽車に乗っていて、気持ちよくなかったか? 行くべき道は——線路は決まっているのに、どうしてもその先を見たくはならなかったか」
 シロクニは、悩む弟子の心へ直接問いかける。
「俺にそれを教えてくれたのは、ゼルダ姫様だった」
 リンクは顔を上げ、静かに息を吸い込んだ。
 ゼルダと言えば、今回の試験の最高責任者だった。リンクと同年代でありながら、王国における汽車・線路関連事業のトップをつとめているのだ。しかし、今回の線路消失事件に関しては今のところ無為無策だから、リンクは少し……いや、かなり一方的に嫌っていた。
 シロクニは懐かしそうなまなざしで語った。
「昔、まだ幼かった姫様と一緒に、汽車に乗ったことがあってな。その時、ゼルダ姫様が窓の外を眺めながら、こう言ったんだ」
『不思議ですね、シロクニ。決まった線路の上を走っているはずなのに、私はとってもわくわくしています。そこにまだ知らない景色があると思うからでしょうか? 私も、その先に行ってみたいのです』
 王女という至高の地位にありながら未知のものを求めるのは、やはりテトラ女王の——海賊の血を引いているからだろうか。
 シロクニは自信を持って断言した。
「そうだ。お前も姫様に会えばきっと、機関士になって自分が何をしたいのか分かるはずだ」
 リンクは肩をすくめる。
「そうかな……?」
 試験をクリアして、正機関士になって、安定した収入と地位を手に入れて。その先に自分が見つけるものが、何なのか。
 ……それを見つけることが、リンクにとっての「冒険」になるのだろうか。
 少年は軽く肩をすくめた。
「ま、試験が終わればお姫様とは会えるよな。本当にゼルダ姫が師匠の言う通りの奴なのか、オレは自分の目で見極めるよ」
 その顔には、いかにも彼らしい不敵な笑みが浮んでいた。
 未来に向かう線路の先にあるものは、誰しも知ることができない。それでも、その線路は自分の力で切り開くことができる。もしも自分と一緒に線路を引いていく相手がいるのなら……会ってみても悪くない、と思った。
 この時のリンクは、無論知るよしもなかった。正機関士になった後、幽霊と化したゼルダ姫と一緒に、ハイラル全土を巡る冒険を繰り広げることになるなんて——

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