ラピスラズリ



「ミドナ、ミドナ!」
 ああ、アイツが呼んでいる。早く起きなければ。
 ワタシが重いまぶたを持ち上げると、リンクの顔が見えた。その目の端がきらりと光っている。ぎょっとした。ま、まさか。
『泣いてる、のか?』
 瞬間、リンクの顔からすべての表情が抜け落ちた。ぽかーんという擬音がふさわしい。
「はあ?」
 ぼやけた焦点を合わせてもう一度確認し、見間違いだったと悟る。アイツの頬から滴り落ちたのは、天からぱらぱら降り注いだ小雨だ。
 気づけば、ワタシはリンクの腕に抱えられていた。影の結晶石の力を借りてハイラル城の結界を破った後、気を失っていたらしい。
「寝ぼけてるみたいだな」
 リンクは口元を緩める。恥ずかしさがこみ上げてきて、頬が熱くなった。
『ふん、お前じゃあるまいし。だいたい、今朝だってワタシに起こされたろ』
 そうだ。今日は、テルマの酒場にたむろする仲間たちとリンクが約束した、ハイラル城突入の日。しかし城を包む結界を破るためには、ワタシが光の世界に姿を現さなければならず、城下町の混乱を考えるとこの作業はなるべくこっそり行いたい。すなわち、彼らと共に行動することはできない。影の存在が公になってはいけないのだ。
 だから、早起きして抜け駆けしよう、そう声高に提案したのはリンクの方なのに、奴は堂々と寝坊しやがった。
「……お疲れさん」
 リンクはしゅんとした。
「あとは、俺がやるから。ミドナは休んでろよ」
『冗談言うなよ。お前ばっかりに任せておけるか』
 ワタシだって影の世界で手にいれた魔力が——と言いかけて、思い出した。影の結晶石を扱った時の、見えざる存在に体を乗っ取られたかのような感覚。ぞくりと体が震える。
 黙り込んだワタシを不審そうに覗き込むリンク。ワタシは喉から声を絞り出した。
『気持ち悪くなかったのか、さっきのワタシの姿』
「うん? あー、確かに蜘蛛っぽかったけど。別に」
 スタルチュラ駆除で慣れてるし、とリンクは首を傾けた。どっと安堵の波が押し寄せる。ワタシなんか緊張して夜も眠れなかったというのに。こいつは、どこにいてもどこまでも、いつも通りだった。
 それが少しだけ羨ましいのは、みんなにはナイショだ。
 リンクは剣と盾を背負い直した。
「じゃ、行こうか」
 ハイラル城の巨大な正門をくぐっても、小雨はしとしと降り続いていた。




 ハイラル城の閉ざされた正面扉の鍵を探すため、中庭の探索を始めたワタシたちの前に、大きな影が立ちふさがる。退路は結界で閉ざされ、戦闘を回避するすべはない。
「なんとなくわかってたけど……やっぱりお前か」
 リンクの唇が弧を描く。そういう表情になると、獲物を前にしたケモノのような凶悪さが見え隠れする。本当にこいつは故郷で大人しく牧童をやっていたのか?
『コノ俺ガ、遊ンデヤルゼ!』
 庭のあちらこちらで襲いかかってきたブルブリンたちを、とりまとめる存在——今まで何度も対峙してきたキングブルブリンの登場だ。魔物は余裕ぶってコキコキと肩を鳴らした。腰にはこれ見よがしに小さなカギをぶら下げている。
『油断するなよ』
「まあ任せておきなって」
 リンクは悠々とマスターソードを構える。キングブルブリンは相変わらず大きな斧を武器としているようだ。リーチがとてつもなく長い。如何にして懐に潜り込むか、が戦いの焦点になる。
 斧が横薙ぎに振るわれると見るや否や、リンクはキングブルブリンに向かって回転アタックを繰り出した。
『え!?』
 斧と地面の間をするりと抜けきった。結果的に一気に距離を詰めることができ、回転の力を利用してそのまま立ち上がる。次の瞬間、白銀の線が袈裟掛けに走った。どう、と倒れ伏すキングブルブリン。恐ろしい切れ味である。
 居合い。金色の狼に教わったという、奥義の一つだ。習った当初は全く使いこなせなかった技をリンクは見事に決めて、たったの一撃で圧倒してしまった。
 小さなカギを頂こうと近寄ったところで、キングブルブリンはよろめきながら立ち上がった。
 まだ余力があったのか、と身構えるワタシたちへ向けて、
『行ケ……』
 キングブルブリンは小さなカギを放った。リンクは反射的にキャッチする。
 どこからともなくやってきたブルボーに、魔物の長がまたがった。
『俺達ハ、強イ者ニ従ウ! ……タダ、ソレダケノコト』そうしてハイラル城から出て行ってしまう。
 雷に打たれたように固まっているリンクにワタシは、
『アイツ……喋れたんだな』
 それだけの言葉をかけた。




 降り止まない小雨は、少しずつリンクの体力を奪っていくようだった。目に見えて鈍くなる動き、減っていく口数。勇者の衣は水を含んで重くなり、ブーツはぬかるみにはまったせいでドロドロだ。雨宿りをしようにも、城の中にはタートナックがうようよいて、なかなか腰を下ろす事が出来ない。
『そろそろ休まないか?』
「うん、あの塔だけ攻略したらな」
 指さした先には、ハイラル城の両翼にある物見やぐらであろう塔が建っていた。ここからなら、まっすぐに伸びる細い張り出し廊下を渡っていけばいい。
 案外元気そうな声だったけど、油断はできない。何せ最後には、未知数の強さをもつ相手が待ちかまえているんだ。
 気合いを入れ直すため、リンクはマスターソードの柄を握る手に力を込めた。
 目の前の塔からは、ギャアギャアやかましい魔物の声が降り注ぐ。
「うげっ、めんどくさい」
 リンクは露骨に嫌そうな顔をした。塔の中から大量のリザルフォスが現れて、こちらへ突き進んできた。おまけに物見窓ではブルブリンが火矢を引き絞っている。攻略に時間の掛かる、鬱陶しい敵のオンパレードだ。見ているだけのワタシだってげんなりした。
 嫌々ながら、リンクが一歩踏み出したときだった。彼を狙った一条の矢が何かに阻まれ、獲物に届くことなく地に落ちる。尖塔の窓からこちらを弓でねらっていたブルブリンたちが、相次いで蹴落とされた。さらに爆音とともに突然リザルフォスの足下が炸裂し、哀れ魔物は廊下から脱落する。
「あ」『お』
 ピューイ……。
 聞き覚えのある鳴き声。立派な翼を持った獰猛そうな鷹が、空を自由に駆けていた。あれは、リンクがトアル村なんかでよく呼び出していた——
「もしかして!」
 彼の青ざめた頬に喜びが広がっていった。リンク以外に鷹を操れるのは一人しかいない。
「リンク!」
 四つの口が、異口同音に叫ぶ。城の中庭を見下ろすと、置いてけぼりにしたはずの酒場メンバーたちが勢ぞろいしていた。
 張り出し廊下から身を乗り出して、リンクが笑顔を振りまく。
「ありがとう! 助かった」
「後ろは私たちにまかせてくれ」
 女性騎士アッシュが頼もしく長剣を降りあげた。
 これは助かる。目の前の敵が一掃されただけでなく、体力温存のためにたびたび無視してきた魔物を駆逐することができる。
 アッシュは騎士団で鍛えた剣捌きを発揮してカーゴロックを切り裂き、ラフレルは肩に担いだ大砲でブルブリンを向かい打つ。めぼしい敵を軒並み蹴散らしてしまうと、四人のバラバラな足音は遠ざかっていった。
 リンクが抜け駆けをした理由はきっと、察してくれたのだろう。本当に、いい仲間を持っている。それは勇者という称号に関係なく、紛れもない彼自身の美徳だ。
「シャッドも戦えるのかな、あいつ弱そうだけど」
 リンクは嬉しそうに軽口をたたいていた。




 鬱陶しい小雨は止んだ。その代わりに、空には見たこともないほど不穏な雲が渦巻いている。風が強い。天空のキャンバスはほの赤く染まっていて、日の暮れを予感させた。
 ワタシたちは玉座の間を目の前にした、外階段までたどり着いていた。最奥への扉は開きっぱなしの、大歓迎状態。あの向こうに魔王が待っているんだ。
「いよいよだな……」
 珍しくリンクが緊張感たっぷりの声色になっている。そうだろう、ドキドキするに決まってるよな。
 リンクは眉をハの字にして、後ろを振り返った。さっき倒したタートナックの亡骸が気がかりなのか?
「正直、さっきの扉の奥に何があるか、気になって気になって仕方ないんだ」
 ……はあ。直前の扉の話か。しっかり鍵がかかっていて入れなかった部屋が一カ所あったのだ。
 影の女王であるワタシの勘では、あそこは宝物庫だ。でも教えてやらない。今にも身を翻しそうにうずうずしている横顔なんて無視だ、無視。
 こうなったら、無理矢理にでも真剣なムードにしてやる。
『この向こうで、ゼルダが助けを待っているんだ』
 今だって、胸に感じる暖かさ。ゼルダがあの時くれた大切な力を、必ず返すんだ!
『だから——』
「あのさ」
『なんだよ』気合いを入れ直したところに茶々だ。これ以上の間抜けな発言は許さないぞ?
 ムッとして首を回せば、リンクの静かな瞳に出会った。暴力的な風にくすんだ色の髪がなぶられている。
「ミドナは、この旅……長かったと思うか?」
 澄んだ空色の光に射抜かれて、ワタシは沈黙する。
 ごうごうという風の音がうるさい。それなのにリンクの声はよく響いてきた。
 考え考え、答えを出す。
『短かったよ。ザントを倒すのに無我夢中だったから、かな』
 目をつむれば、たくさんの記憶たちが脳裏に浮かび、ぎゅっと圧縮されていくのが分かった。
 リンクは天高く渦巻く雲に、視線を投げる。
「俺にとっては、長かった」一端区切って、
「でも。終わりが見えたのに、寂しくはないんだ。これが俺の生涯でも、最高の思い出になるって分かってるから」
 奴の荒れた唇が綺麗な弧を描いた。いい笑顔だ。
 それがもったいないと思うのは、照らし出す光が鈍いオレンジ色だからだろう。こいつには黄昏なんかより、朝焼けが似合う。
「ミドナ。いっしょに思い出を締めくくりに行こう!」
 リンクが差し出したのは、利き腕と反対の右手だ。ワタシに配慮してくれたのかしら。
 ワタシは迷わず手を取った。大きさの違う手のひら。
 篭手越しでも、お前の日溜まりみたいなあったかさは分かるよ、リンク。




 リンクは負けてない。でも……ワタシは負けてしまった。
 もやもやした黄昏色の化け物になった魔王に、あと一歩及ばなかった。影の結晶石を使っても、だ。
『必ず後からワタシも行く。とびっきりの夕焼けの下で出迎えてくれよ』
 リンクとゼルダを平原に逃がす直前、格好つけてそんなことを口走ったのに、この有様。信じられないという顔で手を伸ばしたリンクの姿が、目に焼き付いていた。
 自分の体はどこにも見あたらない。ただ意識だけが、闇の中を漂っている。
 悔しい、と感じているのか。分からない。ただ、こうしてワタシが妙に落ち着いていられるのは、リンクが必ず仇をとってくれる、と信じているからだろう。
 ワタシが死んだら、リンクは泣いてくれるのだろうか? 「長い」旅だったのに、ついにアイツの涙を拝む機会はなかった。
 そうだった、アイツの感情には一部、おかしなところがある。
 対面している人の気持ちを、自分のもののように写し取ってしまうことが、何度かあった。ワタシがザントに対して抱いていた復讐心も——もしかしたら、トアル村の子供たちがさらわれた時の怒りも。感受性が強いのか主体性がないのか、理由は分からないが。
 元々リンクがマイナスの感情を持つこと自体を苦手としていることには、うすうす感づいていた。親がいないって聞いたから、そのあたりがアイツの心に妙な具合に作用しているのかもしれない。
 あれだけの時間を一緒に過ごしていたのに、こんなこともあやふやなままなんて、な。
 ああ、やっぱり短かったよ、ワタシたちの旅は。もっとくだらない話をしても良かったんだ。ちゃんとリンクの与太話を聞いておけば。ほとんどが郷土自慢で、鬱陶しいから聞き流してたからな。ククク。
 そのかわり、旅をしているときの記憶はたくさん残ってる。影の国と違ってハイラルは広いから、ほとんどが移動時間だったような気がするよ。エポナの待機場所を巡ってちょっと喧嘩をしたり、釣り堀に寄るか否かで揉めたり。とるに足らないことばっかりだった、でも楽しかった。
 いつごろからだったか。ワタシはアイツが、影の世界に光をもたらしてくれるかもしれないって、思い始めたんだ。
 ……こりゃあ、完全に魔王の言うとおり、光に絆されてるよな。
 真っ暗な空間を漂い続けるのは終わりが見えなくて、空恐ろしい気分になる。闇が怖いだなんて、思いもしなかったよ。影は、黄昏はワタシにとって心地よいものだったから。
 あれ、だんだん明るくなってきた。差し込んできた光に、懐かしさすら覚える。これはリンク、やっぱりお前が——?




 黄昏色のハイラル平原に、眩しい光が満ちている。太陽と違うその光源は、ワタシをどことも分からない空間から引っ張りあげた、光の精霊たちだった。仮面のように表情の読めない顔だけど、そこには今までにない柔らかさを感じる。
『あなたには、申し訳ないことをしました』
 口を開いた大蛇はラネールだ。確かに過去一度この精霊によって、ワタシの命の灯火は消えかけた。でもあれはザントの奸計にはまったせいであり、精霊がやりたくてやった訳じゃない。そう伝えた。
『いいえ、私たち精霊はあなたのことを利用して、勇者を』
『気にしてないさ』
 終わりさえ良ければ全て良し、影の女王は寛大だからな。ワタシは腰に手を当てて、笑った。……おや? 自分の体がなんだかおかしい。こんなに低い位置に腰がある。
『あっ』
 ワタシは手を見つめた。青白く細長い指を。
 戻っている、影の民として、あるべき姿に! つまり、魔王の魔力から解放されたんだ。誰のおかげかって、そりゃあ決まってる。
「ミドナー!!」
 くたびれた喉を精一杯振り絞って、こちらに一直線に走ってくる、大切な相棒——リンク。
 久々の体で少しふらついたけど、そんなところを見せるわけには行かない。ワタシの晴れ姿だ。
 近くまでやって来てから、リンクは目を丸くして立ち止まった。ワタシはいたずらっぽく目を細める。
『なんだよ? 何とか言えよ。あんまり綺麗すぎて……言葉がでないか?』
 リンクはくすっと笑った。
「本当に、綺麗だな」
 あまりに素直な返事で、らしくもなくワタシは赤面した。
「ミドナもそう思うだろ?」
 うん、どういう意味だ。
「ハイラルの夕焼けだよ。いつ見ても、最高じゃないか」
『……ああ』
 ワタシは毒気を抜かれた。一方のリンクは、ワタシのバックにある大きな空を見ている。未明から続いた激闘の証に、あちこち泥まみれでひどい状態だけど、彼はすがすがしい表情をしていた。
 完全に黄昏に目を奪われている奴の注意を引くために、ごほんと咳払いする。
『あのさあ、ワタシの姿……おかしくないかな』
「いや。すごく格好いいな。背も高くてうらやましい」
 ゼルダ姫とエポナに二人乗りしたんだけど、背丈のせいでいまいち雰囲気が出なかったんだ、と言って破顔した。相変わらずな奴だ。
『ところでお前、ワタシに何か言うことがあるんじゃないか?』
 ワタシたちは、どちらともなくにやりとする。
「おかえり。ミドナのためにとっておきの黄昏が見える平原で待ってた」
『出迎えご苦労。ただいま、リンク』
 ちなみに。「絆されるってどういう意味だったんだろう」とうそぶいたリンクに、肘鉄を加えたのは余談だ。

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