在りし日の言葉

 初めて見た影の世界は、リンクの想像よりもずっと美しかった。
 地の果てまで続く雲が空を覆い、緩やかにうねっている。黒とオレンジの陰影は絶え間なく移り変わり、見る者を飽きさせない。心底、美しいと思った。
 ——ミドナ。
『なんだよ』
 俺さ、影の国ってもっと怖いところかと思ってたよ。あのトワイライトみたいに。
 でも違った。本当に綺麗な国なんだな。
『……そう、かな。ワタシは、ハイラルの夕暮れが好きだ。
 あっちに行って初めて分かったよ。黄昏は、昼と夜の間だから——すぐに消えてしまう儚い時間だからこそ、特別美しいんだ』
 そうかもしれない。しかし、リンクは確かに光の世界とは違う、この国特有の空に感動したのだ。
 ミドナは沈黙を打ち破り、
『なあ、リンク……。最後のわがままを聞いてくれないか?』
 彼は瞬きした。
 何だよー、急に改まっちゃって。
 などと茶化すが、彼女は真剣な表情を崩さない。
『とにかく、聞いて欲しいんだ』
 分かったよ、と渋々承諾する。彼女が軽く息を吸ったのが分かった。
『どんな理由があったにしろ、ワタシは一度この影の世界から逃げ出したんだ。自分を長として認め、慕ってくれた影の人たちを残して』
 そこで一旦区切り、遠くを見るような瞳で国を見渡す。あの日のことを——影の王家から追放されたはずのザントが反逆の牙を剥いた日のことを、思い出しているのだろうか。
『今も残された人たちは、苦しみながらもこの世界で助けが来ると信じてる。
 それなのに、助けに来たのがこんな醜い姿をした怪物だと知ったら……がっかりするだろ?』
 そんなことはない、と言いかけて思い出した。ケモノの姿に変化した勇者を忌み嫌った、光の世界の人々を。
 彼はぐっと詰まり、口をつぐんだ。表情に苦渋が滲んでいる。
『だから、もう少しの間だけでいいんだ。迷惑かもしれないけど……リンクの影になってていいかな?』
 何言ってんだよ、いいに決まってる。
 しおらしいミドナなんて、調子が狂って仕方ない。早くその痛ましい表情を消してしまいたくて、わざと明るく言った。
 さ、とっとと世界を救っちゃおうぜ?
『ゴメンな……』
 そうじゃないんだ。謝罪なんて、聞きたくなかったのに。
 その言葉を聞いたとき、リンクは在りし日の彼女の言葉を思い出した。



 今となっては遥かな過去の出来事に思える。トワイライトに包まれたカカリコ村で、コリンたちが教会の隅で震えながら口々に言っていた。「リンクがきっと助けに来てくれる」と。思わず涙が滲みそうになる。
 そこに、むかつく声が水を差した。
『オマエが助けに来ると信じているんだとよ! 健気な子供だね〜』
 耳に障る高笑いに、ケモノ姿のリンクは眉をひそめる。
『目の前にいるのに気づかれないなんて、オマエも可哀想に……。クククッ。
 神に選ばれた力を持ってるばっかりに。このトワイライトの中では、魂にも、ましてや影の魔物にもなれず』
 彼はただひたすら反発していて、あのとき彼女の言葉に含まれた哀愁を感じとれなかった。でも、今なら分かる。
『誰もオマエがしたことなんか、分かっちゃいない。ずっと孤独に戦うしかないんだもんな。
 恨むんなら、ゼルダ姫を恨むんだな! こうなることを選択したのは、あの姫さんなんだから……』
 寂しげに終わりを結んだあの言葉。あれは、もしかしたらミドナ自身に宛てて放ったのかもしれない。
 魔物でも魂でもない存在。抵抗むなしく国を明け渡してしまった王女。
 そして彼女もまた孤独だった。



『なあにぼーっとしてんだよ』
 にやりと笑うミドナ。ゼルダはリンクに非難の目を向けた。この大事な時に、と言外に語って。
 復活を遂げた魔王をこの手で倒し、全てを終わらせた三人は、黄昏時の砂漠の処刑場にやってきていた。鏡の間にてお別れの時だ。
 ちょっと思い出してたんだよ、今までのことをな。
 と勇者がごまかし、
 ……最後、ですからね。
 光の姫が目を細める。
『そうだな。これで、お別れだな。所詮、光と影は交わっちゃいけないんだ。
 だけど、この世には、もう一つの世界があるってことを……忘れないでくれよ』
 リンクは力強く頷いた。ゼルダが優しい瞳で語る。
 光と影は表裏一体。どちらが欠けても成り立ちはしないもの。
 神がこの世に陰りの鏡を残されたのは……それは、きっと我々の出会いを繋ぐためなのだ、と。
 わたくしは、そう信じています。
 ミドナの夕日色の髪が揺れた。
『ゼルダ……アンタ、いい人だな。ハイラルが、みんなアンタみたいな人なら、うまくやっていけるかもな』
 一歩踏み出す。その先に光の階段が現れた。
『ありがとうな』
 そう言って、真っ直ぐリンクを見つめる。
『姫さんが、言ったろ。鏡がある限り、また会えるって』
 鏡がある限り、のくだりを妙に強調していたのは気のせいだろうか。だがその事に注意を払う間もなく、彼の瞳は一点に惹き付けられる。
 ミドナが、泣いていた。
 その姿があまりに綺麗で静かなものだから、二人は声を失ってしまう。
『リンク……』
 絶対に見たくないと思っていた表情なのに、魅入られたように目を離せない。
『ま……』
 涙の粒が不自然に浮かび上がり、彼女の手のひらに集中した。
『またな……』
 キラキラと光を纏って雫が宙を舞い、陰りの鏡に吸い込まれた。一瞬ののち、表面にヒビが入る。
 はっとした時には、ミドナは光の階段を掛け上っていた。
 一気に上る勢いだったが不意に足を止め、振り返る。リンクと目が合った。永遠に等しい一瞬の中で、彼は返事をした。
 ああ。またな。
 影の女王は満足げな表情で自分の国の入り口へ向かう。鏡が割れて、粉々になった破片が黄昏の中で雪のように輝いた。彼女自身もいつしか光の粒へと姿を変え、うずまく魔法陣の中へ消えていく。
 ミドナ……。
 突然の出来事に驚きを隠せないゼルダを尻目に、リンクは呟く。彼女には分からないだろうが、今回の移動はいつもと違ったのだ。
 大丈夫さ。だって、影の住人のあいつが、光になって帰ったんだからな——。

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