春を待つ夕闇

 行きはよいよい、帰りはこわい。
 どこで聞いたのだろうか。リンクの脳裏に、この言葉がぽっと浮かんできた。状況が状況だからだろう。
(はあ……)
 だから、ため息の固まりが喉まで出かかったのも、仕方のないことだ。
 彼方に沈んだ太陽のわずかな名残が、地平線を真っ赤に燃やした。ゲルド砂漠は夜を迎えようとしている。急激に空気が冷えていき、篭手の下に鳥肌が立つのが分かった。
 ミドナを鏡の間で見送って。リンクは王女ゼルダと二人、砂漠の処刑場を経由して、熱い砂の大地まで降りてきた。陰りの鏡が割れたと同時にポータルは閉じてしまい、帰る手段がなくなったためだ。元々ミドナがいなければ、ワープは使えないのだが。
 不慣れな王女をエスコートしつつ、未だに亡霊や毒ムイの蔓延る処刑場を無事に切り抜けた——リンクの並々ならぬ努力は、推して知るべきだろう。おかげでくたびれ果ててしまった。これから、さらなる道のりを越えねばならないことを考えると、気が滅入る。
 そもそも、ハイラルから砂漠へ至る道は、深い山脈によって閉ざされていた。行き来する方法は人間大砲、もしくはポータル。残された前者もハイリア湖からの一方通行なので、帰りには使えない。そもそも姫に大砲入りを強いるのは論外だ。
 幸いにもリンクは、砂漠に居を構える大妖精と面識があった。彼女に頼んでハイラルの精霊の泉に送ってもらう、というプランで決定した。
 ただ、処刑場から大妖精の洞窟までは、徒歩では軽く一両日はかかってしまう。それも歩き慣れた彼の基準で、だ。ろくな装備をしていないゼルダは、たちまち体力が奪われてしまうだろう。しかし、他に方法はないのだ。最終的な判断を下したのはリンク自身だったが、今になって少し後悔している。
 軽く息を整え、
「……あの、ゼルダ姫」
「なんでしょうか」
 隣を歩いていたゼルダは、立ち止まった勇者を不審そうに見た。
 正直、リンクは彼女が苦手だった。希代の名工が彫り上げた胸像にも匹敵するであろう、美しく整った顔立ち。額には、容姿を引き立てるように凝った意匠が施されたティアラが、燦然と輝いている。
 ガラス越しに鑑賞すれば、ため息しか出ないだろう。が、言葉を交わすとなると話は別である。勇者といえど元々ただの田舎者であるリンクは、正面から向き合うと気後れしてしまった。彼女の背負う目に見えない肩書きはもちろん、彼と正反対のごく真面目な性格が邪魔をして、うまく打ち解けられないのだ。ガノンドロフと戦ったときはエポナの背に相乗りもしたが、無我夢中のことでよく覚えていない。
 リンクはなるべく相手を刺激しないように、丁寧に申し上げた。
「このままだと、野宿することになりそう、なんですけど……?」
「わたくしは構いませんよ。あなたの判断に任せます」
 ゼルダは眉一つ動かさない。もしや表情を変えると、化粧が崩れるのだろうか? 失礼な考えがリンクの頭をよぎった。
 とはいえ……。いくら承諾されたとはいっても、相手はお姫様。ヒールのブーツは足を踏み出す度に、砂に埋まる。顔には表れずとも、疲れていないはずがなかった。
 今更ながら、悔恨の情がよぎる。ゼルダの申し出通りに、多少なりとも護衛の兵士をつれてくるべきだった。「ミドナとの別れを邪魔されたくない」という自分勝手な思いに振り回されることなく。何より、慣れない気配りを必要とするせいで、勇者の精神的負担は増大の一途をたどっていた。
 考えこみながら、ざくざく、無言で砂を踏みしめる。ゆるい丘を一つ乗り越えたところで、遠方に揺らめく明かりが見えた。焚かれた炎。生命の営みの象徴だ。
(あれは……もしかして)
 地図と照らしあわせ、一つの答えを得る。
「野宿は野宿ですが、多少はマシな環境で眠れるかもしれません」
 ゼルダはかすかに目を見開いた。先ほどまでとは打って変わり、リンクは確固たる足取りになっていた。
「何を見ても、驚かないでくださいね」
 いよいよ建物らしき骨組みが見えた。冷えた頬に、炎が熱を与えていく。案内された先は、ブルブリンという魔物の巣窟であり、砂漠のキャラバンと呼ばれる場所だった。
 どことなく焦げ臭いキャラバンの、大仰な入り口の前には。彼が冒険中に何度も対峙した魔物、キングブルブリンが立っていた。
「よう。泊めてくれないかな」
 気さくに声をかける。リンクはいたって友好的な表情だが、一方でいつでも剣を抜けるだけの気迫が漂っていた。
 キングブルブリンは長の証である大きな角を誇示しながら、
『場所ナラアイテイル。好キナトコロデ眠レ』
 二人の緊張が和らいだ。リンクは醜悪な緑の顔の魔物から視線をはずして、
「だ、そうです。ちょっとニオイはキツいかもしれないけど」
「……あまりよろしくない環境には、慣れていますから」
 どことなく皮肉っぽい言い回しだった。
(そういえば、ゼルダ姫が幽閉されていた塔は、かなり埃くさかったな……)
 思い出し、リンクは苦笑した。
 魔物に先導されるままキャラバンに入り、たき火の近くに座り込んだ。今夜の糧と思わしき、ブルボーの丸焼きが目に入る。意外とおいしいのかもしれないが、近づくと鼻が曲がりそうになるので、試食したことはない。
 そこらを徘徊するブルブリンたちに目をやりつつ、リンクは背中の装備をはずした。すぐ手に取れる位置に剣を置いて、キングブルブリンを見上げる。
「だいぶ少なくなったなー、おまえの部下たちも」
『マダスコシ、はいらるニ残シテイルカラナ』
「へえー。あっちの征服も、まだ諦めてなかったんだ」
 勇者としては間違った発言だった。傍らに、聞かない振りをしたゼルダも腰を下ろす。ドレスの裾が汚れようがお構いなし、という姿勢はリンクの関心を誘った。
 ブルブリンが行ったのを確認して、勇者は腰のポシェットから携帯食を取り出した。冒険中には散々お世話になったものだ。デスマウンテンより高くハイリア湖より深い郷土愛を示すかのように、メニューにはトアル山羊のミルクで作ったスモークチーズ、干したカボチャなどがずらりと並んでいる。
 軽くたき火であぶってから、山羊の角を削って自作したナイフでチーズを切り分け、王女に差し出した。
「見た目はあれですけど、結構おいしいんですよ。どうぞ」
「ありがとう」
 ついでに、残り少ない水も一気に消費してしまおうと、水筒も渡す。魔物たちがここを拠点としているということは、そう遠くない場所に水脈があるのだろう。少なくとも備蓄はされているはずだ。あとで分けてもらう魂胆だった。
「そういえば俺、ハイラル城に村からの献上品を届けにいく予定だったんですよね、元々は。そのとき届けられなかった代わりに……は、ならないかな」
「おいしいですよ。剣と盾よりはよほど嬉しいと思います。あれは形式的なものですから」
 乾パンにチーズを挟みこみ、ゆっくりと食む。素朴どころか粗食とも呼べる代物だが、ゼルダは言葉通りやわらかい表情になっていた。
 食事がひと段落したところで、王女は膝の上に両手をそろえ、尋ねた。
「ブルブリンの長とあなたが、どのような関係だったのか——訊いてもかまいませんか」
「……ああ。いいですよ」
 リンクは話した。献上品を届けにいく当日、村がブルブリンたちに襲われて、友人がさらわれたこと。オルディン大橋やハイリア大橋で一騎打ちをしたこと、このキャラバンやハイラル城で剣と斧を交え、激しくぶつかり合ったこと——。
「姫は、城や国を荒らしていた魔物と俺が仲良くするのは、嫌ですか?」
 ゼルダは瞳を閉じて、淀みなく言う。
「嫌でないといえば嘘になります。ですが、今まで対立していたのに、どうして協力しあえるのか。それが、理解できないのです」
「それは……お互い様だから、かな」
 夜空を見上げてリンクは呟く。雲一つなく、星がきれいだ。
「俺は、あいつの子分たちを数え切れないほど倒してきました。さぞ悔しかったでしょうね。
 一方、さらわれた幼なじみは、ショックで記憶喪失になりました。あれを知った時のことは、ちょっと思い出したくもない。
 ……悲しみや不幸の度合いを比べることは、できないんじゃないかな。だから、どっちもどっちだと思うし、それについては何も言わないことにしているんです。
 それに。俺は今の状況を気に入っていますから」
 それが、魔物を友人と呼ぶ理由だった。ハイラル城の決戦で、分かったのだ。互いに因縁はもう終わったのだと。リンクの怒りの矛先は、とっくの昔にザントやガノンドロフへとシフトしていた。最後に全力を出して決着をつけられたことで、満足したのかもしれない。思いは同じだったのだろう、キングブルブリンは晴れ晴れとした顔で城の鍵を渡してくれた。
「そう思えたら……すてきですね」
 ゼルダの呟きはあまりにも小さすぎて、隣のリンクの耳には届かなかった。



 翌朝。旅装を整え、二人は肩の力が抜けた様子でキャラバンの出口に立った。リンクはキングブルブリンに皮袋を投げる。
「世話になったよ。これ、少ないけどうちのカボチャな。……あ。いくら美味いからって、頼むから畑泥棒なんてしてくれるなよ」
 片目を閉じて茶化した。
「これから、どうするんだ?」
『はいらる二戻ル。アノウマイ水ハ、砂漠デハ飲メナイ』
「——ですってよ、王女様」
 勇者は意地悪な笑みを浮かべている。ゼルダはことさら、生真面目に答えた。
「我が国を愛してくれるのは嬉しいことです。ですが、これからどのような行いを積もうとも、過去のすべてを払拭することはできませんよ。正式の記録に、あなたがたの悪行三昧をしっかりと残しますから。
 覚悟を決めてくださいね」
「うっわ。手厳しい……」
「もちろん、勇者と打ち解けた後のことも記しますけれど」
 しれっと言うゼルダに対し、リンクはうそ寒そうに腕をかきあげた。
 そろそろ立ち去ろうとしたとき、キングブルブリンが歩み寄ってきた。手には木でできた見慣れぬものが乗っている。弓に似た武器のようだった。
「なんだこれ。くれるのか?」
『拾ッタ。人間ノ武器ダカラ、人間ガ使エバイイ』
「それもそうだな。サンキュー」
 ゼルダがのぞき込み、脳内にある知識の図書館から似た事物を捜し当てた。
「これはボウガンですね。弓の一種です。腕に装着して使ったはずですよ」
「へえっ、おもしろそうだな。ちょっとトレーニングしてみるかな」
 二人は、足として貸してもらったブルボーにまたがった。数日前の決戦の再現ができあがるが、緊張感には欠けていた。
「んじゃ、またどこかで」
『達者デナ』
「お世話になりました」
 朝日が昇る。勇者と姫は砂漠に繰り出していった。

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