ほおずき色の季節

 何故雨の降る前は土の香りがするのかしら。
 ウーリは急いで洗濯物を取り入れながら、すんすん鼻を動かした。
 空はどんより曇天。湿った綿のような雲が、広大な天空のキャンバスにじっとりと横たわっている。おかげで下地の青色はこれっぽっちも見えない。
 なんだかこの空、ふちいっぱいまでミルクをそそいだコップみたい。あと一滴でも垂らしたら、滝みたいに雨粒がこぼれ落ちちゃうに違いないわ——。
 頬に生ぬるい風があたった。それはまるで不機嫌な空がふうっと漏らしたため息のようだ。
 ああ、早くしないと雨の匂いが大事な大事な産着に染みついてしまう。
 ウーリはこの春に二人目の子供を出産したばかりだ。幸いにも母子ともに命に別状はなかったが、あれは第一子コリンのとき以上の難産だった。現在二人の子供達は、この地を守る光の精霊ラトアーヌの加護の下健やかに育っている。
 ウーリは微笑み、手に持つ小さな服に目を落とした。
 そういえばこの産着、イリアちゃんからもらったのよね。
 イリアはこのトアル村の可憐な一輪のスミレ——もとい、村長の一人娘だ。年下の面倒見が良く律儀でしっかり者。村の父母達からの評価も高い。
「イリアちゃんはこんな田舎にもったいないくらい気立てのいい子だねえ」
「まあ、おばさまったら」
 ——このような雑貨屋の女主人、セーラとのやりとりを聞いたこともある。とりわけウーリとは歳も近く気が合った。こうして出産祝いには気の利いた手織りの服を贈ってくれる仲である。いい娘だ、と思う。
 昔から、村長であり彼女の父親であるボウには、何度もその可愛らしさ、賢さを長々と自慢されたものだ。まさに鼻高々という調子で。
 ウーリは真っ白い産着に父娘の姿を透かし見て、目を細めた。
 さてと。これでおしまいね。
 籠に最後の洗濯物を放り込み、雲のコップの具合を伺おうと空を仰ぐ。
 ……と。
 あら、イリアちゃん?
 噂をすれば影、当のスミレちゃんがあちらを横切って行くではないか。しかもお急ぎのご様子だ。
 もうすぐ雨だっていうのに、家には帰らないのかしら。
 彼女の針路は村長宅とは全くの反対方向だった。しかし脇目もふらずに駆けてゆく。すぐにウーリの視界からは消えてしまった。
 声はかけそびれた。伸ばした手が虚しく空を掴む。
 一体、どうしたんだろう。
 ウーリは洗濯籠を抱え込んだままつかの間立ち尽くしていたが、はっと我に返った。愛する我が子の母を求める声が家の中から聞こえてきたのだ。
 あの声はきっとお乳ね、と検討をつけ、彼女の足は軽やかにターンを決める。
 もう、走り去るイリアの後ろ姿は思考の隅に追いやられていた。



 ああ、せいせいした!
 大きく伸びをして、ぐるぐる肩を回して。イリアはふん、と息を吐く。
 もう飽き飽きよ。何てったって私がいい子ぶらなくちゃいけないの?
 まぶたの裏には、昨日から村に——イリアの家に滞在している旅の男の外套姿が映る。そしてあの好色そうな藍の目が。
 同じ青色なのに、リンクとは全然違う、濁った目だった……。
 寒さのせいではなしに、彼女はぶるっと震えた。
 この村には宿がない。その必要がなかったからだ。外の人、特に城下町の人がトアル村を訪れることなど滅多にない。いるとしても旅の途中にやむを得ず寄り、どうか一晩の宿を、という人ばかりだ。トアル村はハイラルの端の端に位置し、交易で栄える街道からは外れている。そんな田舎村に好んで来るような人がいたら、よほどの理由があるのか、好事家もしくは酔狂なのか、と村中で噂が立つに違いない。
 しかし、そろそろ宿も必要なのかもしれない。何しろトアル村はあの勇者リンクの出身地なのだ。おまけに精霊の泉が近くに二つもある。この先「神の地だ云々」と有り難がって巡礼に来るおばあちゃんが増えることは目に見えていた。
 って、話がずれてるわよ。そうじゃあなくて、ね。
 急いで記憶のタンスからもとの話題を引っ張り出してくる。
 なんでよりによってうちに泊まるのよー!
 ここまで散々理由を挙げ連ねたが、そんな理屈抜き出彼女はいますぐにでも宿が欲しかった。
 ぽつぽつとしたたる雨粒よりも早く駆け、村外れにぽつねんとある、ほとんど森と同化しかけたひとつの家に飛び込む。
 中は薄暗い。自然光を目一杯採り入れる設計なので、曇りの日では光源がないのだ。空気もじとじとしていて、淀んだ沼を泳いでいるようだ。
 ずかずかと入っていき、記憶通りの棚の中からカンテラを探り当てる。油は十分に入っている。手際よく灯し、きちんと整理された書見台の定位置に置く。そこに肘をつき、椅子に掛け……彼女はおもむろに突っ伏した。
 心臓が早鐘のように鳴っている。怒りと悔しさでぐちゃぐちゃになった心。胸の中にどす黒いインクが染みこんでいるようだ。なんでもないことまでも悪い方向へ考えてしまうような、とにかく嫌な気分。それが分かっているのに、どうすることもできなかった。
 とうとう本格的に降り始めた雨の音が家の外から聞こえる。いつもは鬱陶しい雑音だと思うが、今は耳に心地よい。
 彼女は顔を上げ、ゆっくりと息を吐いた。ひとつひとつ回想し、整理しようと努める。
 イリアは逃げ出してきた。無論、あの旅人——宿がなくてイリアの家に泊まり込んでいる男から。
 はっきりと彼の口から聞いたわけではない。だが、分かるのだ。こちらを見つめる目から、ちょっとした仕草から、イリアへのあからさまな好意が。年頃の乙女特有の潔癖性は、真っ先に「嫌だ」と感じた。旅の話を聞いても「こんな田舎はキミの活躍できる場所じゃないよ」と言っているように、勝手に頭で変換してしまう。
 しかし実際、彼は都会的で格好いいのだ。うちのお父さんより格好いい人はいない、と内心誇りに思っているような彼女ですら、そう思う。それが余計に悔しい。さらに、嫌悪感を顔に出してはっきり意見できない自分にも腹が立つ。
 はあ……。
 こんな日は幼なじみのリンクの家に行きたくなる。村長の娘として粛々と振る舞っておきながら、裏では他人を嫌悪する——そういう自分を大嫌いになる日は。
 ただひたすら、リンクに帰ってきて欲しかった。彼ならなんて声をかけてくれるだろう? たが、いもしない人にすがる自分も嫌だった。
 だめだ。考えれば考えるほどいっそう頭の中はこんがらがり、いっそう胸の苦しさは増す。
 ああ、もう嫌っ!
 服をぬらすこの熱い液体は涙なんかじゃない、と自分に言い聞かせ、どんどんと力任せに机に思いの丈をぶつける。
 考えすぎて頭がくらくらしてきた。雨の音が、不意に聞こえなくなった。



 遠慮気味のノックの音がした。立て続けに二度、ととん、と。
 眠りの淵に漂っていたイリアは急激に浮上した。
 帰ってきたんだわ!
 溢れる想いが眠気を吹き飛ばし、イリアは扉に飛びついた。
「おかえり、リンク! どれだけ待たされたと思って——」
 舌が凍り付いた。視線を下げると、そこにいたのは全くの別人だった。
「イリアねえちゃん」
 困ったように微笑む、リンクと似た空色の瞳。
 浮かれていた彼女はやっとのことで我に帰った。
「あ……ごめんなさい、コリン。一体どうしたの?」
 コリンは大人びた動作で軽くお辞儀をする。ウーリの長男だ。少し前まで旅に出ていたが、今は母親を安心させるためにも家に帰っている。
 本当に、半年ほどで大きくなったものだ。何よりも心がひとつ飛び抜けて強くなった。 前はあんなに泣き虫だったのにね。弟ができたのと、リンクに影響されたのが要因かな。
「イリアねえちゃんがなかなか帰ってこないから、村長さん心配してたよ」
「あら、私はそんなに長い間家を空けてないわよ」
「もう夜なのに?」
 イリアは目をしばたいた。じりじり燃える油の匂い。むき出しの腕には鳥肌が立っている。
「まあ、そうだったの。寝てたから気づかなかったわ。雨もやんだのね?」
 コリンに向かって話しているはずなのに、自分に言い聞かせているようだった。頬が熱くなる。
 彼は何故か悲しそうな目をして頷いた。
「それで、なんでコリンが来たの。お父さんったらあなたをこき使ったの?」
「村長さんはお客さんが来て忙しいんだよ。迎えに行ってくれないかって頼まれた」
 お客さん。あの男か。くいっとイリアの目がつり上がる。
「帰らない」
 コリンの肩がびくっと揺れた。
「今日はここで過ごすわ。たまには誰かがいなくちゃ。人がいない家はすーぐに蜘蛛の巣張っちゃうのよ。ね?」
 語尾でかろうじて怒気を和らげる。彼はひるまず切り返した。
「村長さんにはなんて言うの?」
「うーん……一人にして欲しいって言っておいてくれる?」
 言葉自体は穏やかだが、目は笑っていない。困った表情のコリンがおそるおそる頷く。
 イリアはよしよし、と彼の頭に手を伸ばしかけて、やめた。
「いい子ね。じゃあね、コリン。おやすみ」
「うん……おやすみなさい」
 扉はぱたんと閉まった。いつの間にか、いくらか気分は収まっていた。
 きびすを返しかけて、イリアは気づいた。足もとに小さな秋が落ちている。
 コリンがくっつけてきたのだろうか、それは真っ赤に染まったトアルの木の葉だった。
 そうだ。これをリンクに送りましょう。手紙に添えて。トアルの森は、あなたの故郷はもう秋ですよ、って。
 とてもいい考えだと思った。軽い足取りで、イリアはまっすぐに書見台を目指した。

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