思い出の向こう側

 夕暮れ時のハイラル平原に、馬車一つと単騎の馬が一頭、並んでいる。その団体は、怪物たちがはびこる平原をなんとか越えようと画策していた。
 馬車の御者台に乗った貫禄のある女は、目前にある大きな橋を見下ろす。
「東ルート側の橋が使えないっていうなら、西側から橋を渡って行くしかないねえ……」
 騎手たるリンクには見覚えがあった。ハイリア大橋に陣取る大きな影は——反対側の平原で戦った、キングブルブリンだ。
「アイツ……生きてたのか」
 オルディン大橋から叩き落としたはずが、なんとも生命力の強い奴だ。リンクは渋い顔をして眉根を寄せた。
「知ってるのかい?」「まあな」「じゃあ、あいつのことは任せたよ!」
 この一団をまとめるリーダーでもあるテルマが、強い調子で言った。任されなくても、この中でまともに戦えるのはリンクしかいないのだ。覚悟は決めていた。
 橋の手前まで、馬車が先に行くことになる。荷台がエポナに近づいてきた。窓から顔を出したのは、薄い麦穂色の髪を持つ少女だ。
「あ、ありがとうございます。あの……よろしければ、お名前を?」
 彼女は、「たまたま拾ったゾーラの子供を救いたい」という一心で、平原を二つも越えてカカリコ村まで赴く。なんとも気概のある女性だった。
 焦りの中にも彼女は微笑みを忘れず、護衛役のリンクに気を配る。彼はふっと肩の力を抜いて、自らの名前を名乗った。
「リンク、だけど」
「……リンク!?」
 少女の顔が、驚愕に彩られる。リンクはごくりと唾を飲んだが、
「リンクさん。このご恩は、一生忘れません」
 少女は再びやわらかな笑みを浮かべた。一方、テルマが余裕たっぷりに笑った。
「お嬢ちゃん、そういうことは無事にカカリコ村についてから、言うもんだよ!」
 そうだった、これからが本番なのだ。彼は橋上の魔物に鋭い目線を飛ばす。その横顔を眺めながら、テルマが片頬を持ち上げた。
「アンタ、いい目をしてるね……誇り高き獣の目だ。もし、無事にカカリコ村に着いたらお礼をしてあげるからね」
 リンクは軽く頷いた。いつもならお礼につられて浮き足立っているところだが、今回はそうもいかない。
 キングブルブリンとの対決を前に緊張しているということもあるが、彼の心を占めているのは、別のことだった。
 カーテンを閉めた馬車の中で、ゾーラの手当てに夢中になっているであろう、彼女——記憶を失った幼なじみイリアのことだ。



 イリアは、リンクにとって初めて出来た友だちだった。だから彼の場合、「幼なじみ」という言葉は、辞書の定義以上に重要な意味合いを持つ。
 ——幼いリンクは気がつくと、ラトアーヌの泉の前に立っていた。それ以前の記憶は一切なかった。まわりに親も知り合いもいなかったのに、彼は泣いて取り乱したりはせず、ただぼんやりと佇んでいた。ほどなくして、近くのトアル村の住人に発見されることになる。
 捨て子と判断された彼は、当時子供のなかったモイ夫妻に引き取られた。
 リンクは、どこか魂が抜けたような少年時代を過ごした。親がいないからだろうか、怒ることも泣くこともないかわりに、モイ夫妻の持ち出すどんな話題にも反応が薄かった。
 そんな状態にもの申したのは、年が近いイリアだ。彼女は得意の「おはなし」をしたり、森へ木の実を拾いに行こうと誘ったり、なんとかリンクの気を惹こうと努力した。
「リンクは知ってる? フィローネの森の奥にはね、ものすごく大きな木があるのよ。お空を突き抜けるくらい。きっと何百年も前から生えてるんだわ。モイは、昔あの木が喋るのを聞いたことがあるんだって!」
「……うん」
 どんな話題にも曖昧にしか答えないリンクとも、イリアは根気よく付き合い続けた。大人たちの誰もがお手上げ状態の中、彼女だけが幼なじみとして奮闘していたのだ。あの頃のリンクはろくに感謝すらしなかったけれど、今ではイリアの行動こそが自分をまともな人間にしてくれたのだ……と確信している。
 似たようなやりとりが何度も繰り返された末の、ある日。村長宅の夕食の席で、こんなことがあったらしい。
「わかったわ!」
 黙々と食事をしていたイリアが、突如として立ち上がった。その唐突な行動に、村長・ボウはトアル山羊のミルク粥をのどに詰まらせてしまう。
「な、なにが分かったんだ、イリア」
「リンクにはね、面白いと思えるものがないのよ! 一つでもいいから、何かに興味を持ってもらえれば……そうよ、きっとそうだわ」
 それから先の言葉は、徐々に冷めていくお粥の中に消えた。
 翌日。選りすぐりの絵本たちを抱えて、イリアはお向かいのモイの家に参上した。大人たちは留守だったので、リンクが一人で出迎えた。
 イリアは勇んで尋ねる。
「ねえ、リンクはトアル山羊のミルクやチーズは好き? トアルカボチャは?」
「……うん、好き。昨日の夕飯にも出た」
 まともな返事だった。イリアはしめしめとほくそ笑む。後ろ手に、とっておきの絵本を隠しながら。
「どんな料理だったの」
「カボチャスープ」
 すかさずイリアは絵本を取り出し、あるページを開いた。そこには、湯気を立てるスープをはじめとして、ありとあらゆる食べ物がカラフルに描かれていた。
 リンクの目が、だんだん大きく見開かれていく。
「これは何?」
「ぜーんぶお料理よ。しかも、うちの村でとれた食材が使ってあるの!」
 それは雑貨屋のセーラが趣味で書いた本だった。製本の稚拙さはともかく、絵筆のタッチは素朴で、描かれた料理は子供心にもおいしそうに見えた。
 リンクは次々と絵を指さしていく。
「この、白くて丸いのも?」
「それはケーキ。甘くてやわらかいおやつね」
「おばけみたいなカボチャも?」
「中をくりぬいて、ランタンにするの。身はこっちのプディングになってるわ」
「へえ……」と感心するリンクの瞳の中には、今までに見たこともないような、きれいな星が輝いていた。イリアは覗きこんで、思わず見とれてしまう。
「イリア」
 その時彼は、初めて幼なじみの名前を呼んだ。
「もっと見せて」
 リンクはイリアに向かって手を差し出した。絵本を受け取ると、競うようにページをめくっていく。彼が今までに見せたことのない積極性だった。
 ひとしきり絵本を堪能したリンクは、食い入る様に見つめていた紙面から顔を上げ、隣のイリアに質問した。
「ねえ。森の向こうには、もっといろんな料理があるの?」
 イリアは大きく頷いた。
「もちろん。数え切れないくらいの食べ物があるわ」
 彼女だって、森の外に出たことはない。でも、父親から話は聞いていた。フィローネの森を抜けた先には平原があって、さらにその向こうには、きらびやかなお城や大勢の人であふれかえる町があるのだと。
「……そうなんだ!」
 リンクは屈託のない笑顔を浮かべた。
 こうして、彼の中には外の世界への憧憬と、トアル村への郷土愛が同時に目覚めた——と、リンクは回想する。
 それは、リンクの胸の奥で灯火のようにぽうっと光る、大切な思い出だった。
 ……だが。イリアはリンクの不注意によって魔物にさらわれ、やっとのことで再会できたと思えば、今度は記憶喪失になっていた。つまりこの思い出も、彼女はすっかり忘れてしまったのだろうか。
 リンクの胸は嵐のようにざわめいていた。



「きゃあーっ」
 幼なじみの悲鳴でリンクは我に返った。
 賊の放った火矢が馬車に命中したのだろう。荷台の幌から黒い煙が出ていた。すかさず、馬車に向かって疾風のブーメランを投げる。武器に宿る妖精が最大限に威力を発揮してくれたため、火は無事に消し止められた。
 地に落ちたリンクの影から声がする。
『おいっリンク、橋の魔物を首尾よく倒したからって、ぼんやりしてるヒマはないだろ!』
「わかってる」
 彼は簡潔に答えた。ミドナはいつになく真面目なリンクの様子に、少し驚く。先ほど彼があっさりとキングブルブリンを撃退した時は、ミドナも思わず快哉を叫んだものだが——今の彼がまとったこの雰囲気は、あまり良いものではない。
『お前……? もしかして、ラネールの泉のことを引きずっているのか』
 図星をさされたリンクは黙り込んだ。
『精霊が悪夢を見せたんだって? そんなもの気にするなよ。ワタシなら——』
「いや。ミドナにはわからない」
 冷たく言い放たれて、ミドナは口をつぐんだ。
「このままじゃ、日が暮れてしまうよ……!」
 テルマの呟きが風に乗って聞こえてきた。リンクの焦りは加速するばかりだった。
 彼は無性にイライラしていた。腹の底がカッと熱くなって、自分が自分でなくなるような感覚に陥る。
(こんなこと、前にもあったな)と意識に回想が混じる。
 ——ラネールの泉を開放した時、リンクは精霊に幻影を見せられた。影の結晶石にまつわる歴史と、その恐ろしい力について伝えたかったらしい。
 あの「悪夢」と呼んで差し支えのない幻影の中には、何故かイリアが出てきた。リンクの隣で笑っていたはずのイリアはナイフを隠し持っており、彼を刺そうとしてきた。
 もちろん幻影を見た直後はショックだったけれど、時間が経つにつれてだんだん「あれは精霊の嫌がらせだったんじゃないか」と思えてきた。なので、彼はできるだけ気にとめないようにした。あんな趣味の悪い幻影を見せなくたって、森の神殿やゴロン鉱山で、影の結晶石の恐ろしさは身にしみて知っていた。「ハイラルの成り立ちについて語るなら、別に口頭でも良かったのに」と、ミドナに愚痴を言ったこともある。
 しかし、それは強がりだった。本当は結構ダメージを受けていた、と認めざるを得ない。何よりもリンクを嫌な気分にさせたのは、自分が一瞬でも幼なじみを「怖い」と思ってしまったことだ。
 心に黒い染みが出来て、じわじわと広がっていくようだった。もしかして、リンクが嫌悪感を抱いてしまったせいで、イリアは記憶喪失になったのではないか。らしくもなく、そんなことまで考えた。
『前見ろ、前!』
 ミドナが叱咤する。討ち漏らしたカーゴロックが、馬車の目の前にバクダンのようなものを落とした。轟音、悲鳴。たまらずテルマが手綱を操り、馬車の進路を変える。しかしその方向には、待ち構える多数のブルブリンが——
『おいおい、これはまずいぞ』
 ミドナの急かすような声も耳に入らない。リンクは、今まで気づかないふりをしていた自分の心に翻弄されて、思わず立ち尽くしてしまった。
 彼が旅に出たのは、トアル村にさらわれた子供たちとイリアを取り戻すためだ。でも、やっと見つけたイリアは別人になってしまった。それでは自分は、何のために戦っているのだろうか……。
 棒立ちになるエポナの横を、馬車がすり抜ける。不意に荷台の後ろが開いて、そこから「彼女」が顔を出した。
「お願いします! 私には、あなたしか頼れる人がいないんですっ」
 彼女は必死の形相で助けを求めていた。どきりとリンクの心臓が跳ねた。
(……イリアが、俺を呼んでる!)
 細かい言い回しは違っても、同じ状況だったらまさしくイリアが言うはずの台詞だった。
 リンクは弾かれたように、猛然と走りだす。ほとんどブルボーに衝突しかねない勢いで突進し、ぎりぎり進路をそらしてすぐ脇を駆け抜けた。すれ違いざま、剣の腹でブルブリンを叩き落とす。飛んでくる火矢には盾をかざし、隙を見て今度はこちらから矢をお見舞いしてやった。
 包囲網が崩れた。リンクは背中越しに叫ぶ。
「テルマさん、ここは俺に任せて、カカリコ村へ!」
「わかったよっ」
 馬車は本来の道に戻った。追走しようとする魔物たちの前を塞ぐように、エポナを動かす。
 影に潜むミドナが、少し息を吐いたようだ。
『やーっといつもの調子に戻ってきたな』
「まあな!」
 胸を張ったリンクは、輝くような笑顔を取り戻していた。



 問題なく追手を一掃すると、リンクは悠々と平原を突っ切って、カカリコ村にやってきた。
「ありがとうございました」
 ゾーラの子を抱え、イリアが馬車から降りてくる。彼女はちらりとリンクを確認して頭を下げると、すぐに走り去った。
「幼なじみが遠くに行ったようで、寂しいかい?」
 いつの間にか近くにいたテルマが、リンクの心境を言い当てたような発言をした。彼は首を振って、苦笑した。
「いや、イリアは昔からああいう奴だったんです。困ってる人を見たら、放っておけない……」
 たとえ記憶を失っても、イリアはイリアのままだった。彼女は自分を見失いかけたリンクを、立ち直らせてくれた。
 リンクは少しだけ肩が軽くなった気がした。イリアが記憶喪失と分かれば子供たちは驚くだろうが、きっと話せば分かってくれるだろう。
 彼は剣と盾を抱え直し、コリンたちの待つホテルオルデ・インまでゆっくりと歩いて行った。

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