時の勇者論

 ハイラルに伝わる王家の伝説。そこに、一人の少年が登場する。
 巨悪と戦いハイラルを救ったのち、彼は、伝説から姿を消した……。
 時をこえた戦いを終え、彼は人知れず旅に出た。
 冒険の終わりで別れた、かけがえのない友を探す旅に……。



 その昔、神々の力が眠るといわれた王国がありました。
 その国は、緑豊かな美しいところでしたが、悪しき者に目をつけられ神々の力を奪われてしまいました。
 悪しき力により王国は闇につつまれ、命運ここに尽きたかと思われたその時。
 緑衣を身にまとった若者が何処からともなく現れました。
 若者は退魔の剣をふるい、悪しき者を封じ王国に光を取り戻したといいます。
 時を越えてあらわれた若者を民は「時の勇者」と呼び、称えました。
 若者の話は、言の葉で語り継がれ、やがて伝説となった頃……。



 寒風吹きすさぶ、初雪の日。被我の温度差で解けたひとひらが、ブーツを冷たく濡らす。しんしんと降りかかる白い粒を外套で避けながら、リンクとイリアは目的地に急いでいた。
「滑るから気をつけろよ」
「ええ」
 なるほど、敷き詰められた石畳は靴裏につるりと浮遊感を与える。言葉少なに交わすやりとりは信頼の証だった。
 城下町の南通り。昼間は市場で活気あふれるこの場所も、夕暮れ時には店じまいが始まり、人波に隙間が目立つ。行列が尽きないと評判の、ゴロンの温泉水売りが、本日はこれっきりと大音声を張り上げていた。
 逢魔が時の訪れとともに、街灯に火がともる。ちらちら粉雪が風に舞った。
「きれい……」
 翡翠色の双眸に雪明かりを揺らめかせ、イリアはほう、と嘆息する。中央広場のショップで買い求めたマフラーに、小さな顔がうずまった。その横顔が一瞬、知らない人のように見えて、リンクはドキッとした。
 一度記憶を失った彼女は、以前と異なる雰囲気をまとうようになった、と勇者は思う。片や彼自身も、ラトアーヌ・フィローネ以外の地方を長く放浪してきた。イリアをはじめとするトアルの皆からすると、別人のようになってしまったのかもしれない。哀愁が胸を通り過ぎる。
 リンクは白い息を吐きながら、
「城下町で一番きれいなのは、展望台から見るあかつきかな。日差しが朝霧を押し退けていくんだ」
「トアルの朝より素敵なの?」
「あ、それはどうだろ」
 首をひねる。どこまでも故郷を愛する勇者だった。
 角を曲がり、薄暗い路地に入る。目指すはテルマの酒場だ。ドアにかかった「本日休業」の札は「団体様貸し切り」の裏腹である。
「こんばんはー」
「お久しぶりです、テルマさん」
 出迎えたのは、暖かなオレンジの明かりと、
「よく来てくれたね、待っていたよ。さ、あがっておくれ」
 安らぎをもたらす声音だった。
 案内された奥のテーブルの周りに、いつものメンバー四人が着座していた。常ならばハイラル全土の地図が広がっている天板には、人数分の食器が並んでいる。
 イリアの快気祝いとして企画されたパーティに、二人そろって招待されたのであった。
 真っ先に学者風の優男が立ち上がり、イリアに片手を差し出した。
「ボクはあまり役に立てなかったけど、キミの記憶が戻ってよかったよ」
「シャッドさん。そんなことないですよ」
 他の面々とも、次々と挨拶を交わす。騎士団の父を持つうら若きナイト・アッシュ、ゼルダ姫の教育係であった老人ラフレル——そして。
「ええと、あなたは……?」
 いぶかしげな少女の目線の先で。いま一人は、わざとらしくかぶっていた兜を脱いだ。
「久しぶりだな。まさか記憶喪失になっていたとは思わなかった」
「モイさん!」
 目を白黒させたイリアが、説明を求めてリンクを見やる。勇者は苦笑していた。
「村長にはこのこと言ってくれるなよー、モイ。イリアは心配かけたくないらしいから」
「わかってるさ」
 軽口の後、解説が入った。
 リンクを除けばトアル村で唯一の、剣の使い手であるモイ。彼はしかし、ブルブリンの襲撃から子供たちを守れることができなかった。悔やむ間もなく情報集めに奔走するうちに、ラトアーヌのみならず王国全体の歯車が狂っていたことを知る。以降、彼は古い縁を頼り、思いを同じくする仲間たちと共に真相を探っていた——。
「ま、俺のことはもういいだろう。今日はイリアが主役なんだから」
 モイは気恥ずかしそうに取りなす。いいタイミングで、テルマが厨房から湯気の立つ鍋を持ってきた。
「はいお待ち遠様。この日限りの特別メニュー、チーズフォンデュっていう異国のレシピを再現してみたんだよ」
 ふんわりと漂う香り。滑らかなクリーム色の、どろりとした液体が鍋いっぱいに溜まっている。
 ごくり、と誰かの喉がなった。
「異国のレシピなんて、どうやって手に入れたんだ?」
 首を傾げるリンクに対し、ラフレルが明朗に答える。
「老輩の姪が、翻訳の仕事をやっているのですよ。この前『牛乳』を試飲したでしょう。使われているのは、あれからつくられたチーズですな」
「なんだー、トアル山羊のチーズじゃないのか」
 勇者は残念だったようだ。
「これにパンやソーセージなんかを浸して、食べるらしいよ」
 シャッドが細長いフォークで、てんこ盛りの具をつついた。サイコロ状に切り分けられたバゲット、一口大のジャガイモにブロッコリー、人参。ころころした食材たちは、リンクたちの胃に入る時を今か今かと待っているようだ。
 テルマを除く六名が卓についた。もちろん正客であるイリアが上座だ。
「あの……今日はみなさん、こんなにすばらしいお祝いをありがとうございます」
 恐縮の体で頭を下げる。傍らで、彼女の幼なじみが笑った。
「気にするなよ、こいつらお祝いにかこつけて飲み会したいだけなんだから」
「おっ。鋭いこと言うようになったな、リンク」
 ずれた方向への成長に、モイがにやりとした。
 かつては師弟関係という距離に囚われていたのに、今やリンクとのやりとりは兄弟のようだ。モイの顔がほころんでいるのは、対等な男として会話が交わせることが嬉しいからかもしれない、とイリアは推測する。
 リンクがぐるりと首をめぐらせて、グラスを手に取った。ちなみに中身は冷水である。
「じゃ、乾杯の音頭は俺がとらせてもらうな。
 ……ごほん。では。イリアの記憶が無事戻って、俺が不本意なニックネームで呼ばれなくなったことに——あ、そこ笑うなよ——乾杯!」
「乾杯!」
 ガラスがぶつかり、澄んだ音が跳ねた。口内に細い滝を流し込み、のどを潤した後は、いよいよメインディッシュである。
「イリア。先に食べてみろよ」
 リンクがバゲットをお膳立てし、促す。
「ありがとう。……いただきます」
 ほかほかのチーズを滴らせるパンを頬張った。じわりと広がる味わいに、思わず歓声が漏れる。
「おいしいわ!」
 そのにっこり笑いにつられて、他のメンバーも具に手を伸ばした。なごやかな会食が始まった、と思いきや。
「食べ方が汚い。同郷だというのに、イリアとはずいぶん違うのだな」
 アッシュの手厳しい指摘が飛んだ。相手は憮然とした表情のリンクだ。
「……野宿じゃ注意してくれる人なんて、いないんだよ」
 アッシュは黒曜石のような瞳を鋭く光らせ、
「ならば。具を鍋に落としてしまったら、罰ゲームだな」
「そんなこと聞いてないぞっ」
「よし、受けてたつわ!」
「なんでイリアが乗ってるんだよ!」
 談笑のうちに、宴はたけなわを迎える。お腹がふくれて食事の手が鈍ってきたイリアは、幼なじみを見てぎょっとする。いつしか勇者は顔を赤らめていた。
「だ、大丈夫? 酔ってるみたいよリンク」
「……おかしい、酒は入れてないはずなのに」
 空のビンを片づけながらテルマが、
「言わなかったかい、チーズフォンデュには白ワインが入っているんだよ」
 頭を抱え、恨めしげに女将を見やるリンク。そんな時、会話と会話の切れ目を縫って、シャッドの言葉が耳に入った。
「初めてリンクを見たときは、芝居の役者が舞台を抜け出してきたのかと思ったよ。あんな古くさい服を堂々と着ているものだからさ。
 ……そういえば。伝説の勇者の聖誕祭が近いね」
 酒場は水を打ったように静まりかえった。至るべくして至った話題。好奇心に満ちた視線が行き交う。
 ハイラルには、相反する二つの「勇者伝説」が伝わっていた。冬のある日に行われる聖誕祭とその前夜は、国史研究家から庶民に至るまで——皆「真実を巡る」という建前の元、侃々諤々の議論を戦わせるのだ。幼い頃から絵本で親しみ、心の中で暖め続けてきた持論を展開するために。
 この論争では、もっぱら勇者が「少年」であったのか、「若者」であったのか、が焦点である。シャッド・モイは少年説、ラフレル・アッシュは若者説を信奉しているらしい。説への姿勢が真摯か否かでも、意見は入り乱れる。
 アッシュの吐息にはアルコール成分が入り交じり、どことなく色っぽい。落ちかかる前髪を無造作に掻き上げる。
「かの勇者は、リンクの持っている弓を扱っていたのだろう? あれほどの逸品は子供では扱いきれない。腕が弦の力に負けてしまう」
「でも文献では、圧倒的に彼が子供であったという記述が多いんだよ」
 シャッドが学者らしく反駁した。懐疑的な視点に立つのはラフレルだ。
「時をこえる、という記述には不明な点が多いですな」
「いやいや。真相が分からないからこそ面白いんだよ、この話は」
 と、無責任にモイが唱える。イリアはなかなか話題についていけなかった。
「たぶん、あの人は早く成長しすぎたんだよ……」
 不意と意表を突かれる。つぶやきの主は、目を閉じ頭を垂れたリンクだった。
 遙かな過去の人物を「あの人」と呼んだことにも——常にない低い声に対しても、イリアは息をのんだ。
「早く成長しすぎた、というのは?」
 アッシュが興味を示した。無言のシャッドも、眼鏡の奥の瞳が輝いている。
「あの人は子供だった。でも子供であることを許されなかったんだ」
「どういう……ことでしょうか」
 つばを飲み込みながらラフレルが訊ねる。返事はない。
「リンク?」
 イリアが肩を揺すれども、卓に突っ伏したままだ。
「……寝てるわ」
 テルマが毛布を用意し始めた。



 夜風に当たる、と言ってモイたちは酒場を出ていった。テルマも皿洗いと称して厨房に引っ込む。気を使ってくれたのだろう。イリアは眠り続けるリンクと二人きりになった。
 赤らんだ寝顔に、こっそり語りかける。
「私、リンクがやってること、なんとなく分かってるつもりよ。それは、トアル村のためだけじゃないんでしょう? 酒場のみんなや、ハイラルの人たち全員を救うためよね」
 彼にはもう、小さな村のことだけを考えて生きることは、できない。待っていればイリアの元に帰ってきてくれる、そんな幸福な時代は終わってしまった。
 遠い昔——まだ幼かった頃から、いつもそばにいてくれた幼なじみ。だが遠からぬ未来、リンクはトアル村から離れてしまうのだろう。その時イリアにできることは、笑顔で見送ることだけだ。
 今宵の雪のように、寂寥の感情が胸に降り積ってゆく。
 控えめな音を立てて、扉が開いた。バサバサとまとわりつく白雪を払い、
「リンクはハイラル全土を回ってるからね。イリアさんが寂しくなってしまうのは仕方ないよ」
 彼女の面もちから察したのだろう。シャッドのかけた言の葉は、どこまでも優しい。
 とんとん、少女の肩をたたく学者のたなごころの上に、新たな重みが加わった。
「どうしてイリアに触ってるんだ」
 いつの間にやら覚醒したリンクが、怖い面構えになっている。誤解もいいところだ。
「ちょ、ちょっとリンク。酔ってる上に寝ぼけてるわ」
「ん……分かんないけど、なんかむかつくんだよ」
 ふてくされた勇者——否、青年が目をそらす。その仕草は、記憶の中にある幼少の頃と、まるで変わっていなかった。外界を知らない素朴な牧童のままだった。
 イリアの胸にふと、笑い出したい衝動がこみ上げてくる。
「ふふっ」
 途端、本格的に笑い始めてしまった。勇者は呆気にとられる。
「なんでいきなり笑われてるんだ、俺」
「さあな」
 アッシュはからりと笑った。シャッドも、ラフレルも、モイも——皆似たりよったりで、相好を崩していた。リンクの脳内には、ますます疑問符が重なっていく。
 イリアはおかしくて仕方なかった。何があろうとも変わらない、変えられないことがあると知ったから。そして、ごくごく単純なことを忘れていたから。
 たとえうずたかく白い壁ができようとも、春の訪れとともに雪は溶けるものだ。

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