序章 剣持たぬ勇者



「勇者リンク、覚悟!」
 その名を耳にした瞬間、「彼」の意識は覚醒した。
 勇者と呼ばれたのは久方ぶりであった。平和な時を過ごすうちにすっかり忘れていた、戦いの感覚がよみがえってくる。
 真正面にいるのは、緋色の装束に身を包み仮面をかぶった男だ。歪曲した片刃の剣をこちらに突きつけている。
 何故自分が狙われているのか、考える暇はなかった。彼は相手に対抗するため、背中の剣を――
(あれっ)
 抜けなかった。それどころか、背中に手を回せない。手も足も地について、彼の胴を支えていた。
(俺、ケモノの姿になってる……!)
 一体いつ以来だろうか。だが懐かしがっている場合ではなかった。とにかく、戦わなければ。
 すかさず振り下ろされた斬撃を避け、敵の腰のあたりに食らいつく。人間相手に歯を食い込ませるのはさすがにためらった。
 それでも相手の抵抗力をそごうと、体重をかけて地面に倒す。ついでに腕から武器を弾き飛ばした。
「くそっ……覚えてろよ!」
 無手になった相手は妙な札を散らして消え失せた。どうやら空間転移の術を使ったらしい。どういうわけか、刺客が消えた後にはバナナが一房残されていた。
 やれやれ、と彼は息を吐く。
(で、なんで俺はここにいるんだ?)
 人心地ついてから、あたりを確認しようと首を回すと、
「あっ」
 すぐそばにいた、草の上で尻もちをついている少年と目が合った。
 風に流れる金の髪は首の後ろでひとつにまとめられ、空を映す色の瞳が大きく見開かれている。丈の合わないシャツに裾のほつれたズボンといういい加減な服装だが、荷物がやたらと多い。どうやら旅人のようだった。
「きみ、もしかして……」
 少年は腰から小さな板を外して手に持ち、じわじわとケモノ姿の彼に近づいてくる。その背中には剣と盾、おまけに弓矢まで備えていた。
(まずい!)
 彼の頭によぎるのは、かつてハイラル城下町にオオカミ状態で突入し、大勢の人を怯えさせ、兵士に剣を向けられた苦い記憶だった。
 とっさに彼は身を翻した。バナナを飛び越え、全速力でその場から走り去る。
「ま、待って!」
 という声が背中を叩き、風にちぎれて消えていった。
(~、なんなんだよ、もう!)
 オオカミなのに「勇者リンク」と呼ばれ、武器を振り下ろされる。見知らぬ旅人には追いかけられる。
 そもそも、ここは一体どこなのだろう。ハイラルのめぼしい場所はほとんど行き尽くしたはずだが、ちっとも見覚えのある風景に出会わない。オルディン地方あたりにこんな場所があったような気もするが、植生からして少し違うように思えた。
 彼が駆け抜けるのは、切り立った崖に囲まれた峠だった。一本道のため、どこかに隠れて先ほどの旅人をやり過ごすのも厳しい。
 猛スピードで坂を走っていた彼は、目の前に現れたものを見てたたらをふんだ。
(最悪だ……)
 前方には何かの入口と思われる木製のゲートがあった。梁の中心部に目玉模様があしらわれている。襲撃者のつけていた仮面のマークも、似たようなものだった気がする。
 そして門の足元には看板があった。書かれた文字は読めなかったが、この先に集落があることは容易に想像できた。
(読めない文字……ここは外国なのか?)
 後ろから足音が近づいてくる。先ほどの旅人のものらしい。ケモノになって鋭くなった聴覚が伝えてくる。考えている暇はない――ええいままよ、と彼は半ばやけくそになって門の中に飛び込んだ。
 上り坂は終わりを告げ、一気にゆるやかな下りに変化した。開けた視界の中に、人間の姿はない。ひとまず安心した。
 道の両側には木造の家々が立ち並ぶ。枯れた植物で葺かれた屋根はかなり軒が深く、彼が見たことのない建築様式だった。
(本当にどこなんだよ、ここ……!?)
 おまけに、今さら気がついたのだが、彼には襲撃者と出会う直前の記憶がなかった。
 彼は一度、ハイラルという国を救った勇者であった。だがその事実は思い出せるのに、峠道に来るまでの過程がすっぽりと抜けている。彼の心には焦りがあった。
 道に人気がなかったので油断していた。彼は家の角を曲がった途端、反対側から坂を上ってきた男と鉢合わせしたのだ。
(げっ)
 しかも髭面の男は腰に剣を帯びている。
(やばい……)
 思わず身を硬くした。だが、男の視線は彼の上を素通りした。のんびりと、来た時と同じ速度ですれ違っていく。
(もしかして、俺のことが見えてないのか?)
 これ幸いと、じっくり観察した。男は白髪だが年寄りではなく、きびきびした動きからするとどうも壮年らしい。身につけた上着は前が開いており、胸のあたりで重ね合わせて腰の帯でとめる、という不思議な構造だった。頭には、植物で編んだ笠のようなものをかぶっている。
 男は全く彼に気づかないまま、坂を上っていった。
(た、助かった……)
 彼は気を取り直して村の散策をはじめた。思いきって人前にも出てみたが、店の呼び込みらしき女性や、畑仕事の最中の住民にも全く気づかれなかった。ひとまず村中の人間に追いかけ回される事態は避けられそうだった。
 だが、最初に出会った襲撃者と少年は、明らかに彼を視認していた。これは一体どういうことなのだろう。
 坂を下り切ると広場があり、大きな滝を背にして立派な屋敷がそびえていた。おそらく村長の家だろう。
(こういうところにいる人が、都合よく俺のことが見えて、話を聞いてくれる……とかないかな)
 彼はあまりに真剣に屋敷を見つめていたので、広場の端にある石像の前にひざまずいていた人物に気づくのが遅れた。
 月の光を集めたような銀髪を腰まで垂らした少女である。彼女は立ち上がって石像から視線を外し――見知らぬケモノの姿に気づいて息を呑む。
 オオカミと少女の目が合った。
(こ……こんにちは?)「きゃあああ、誰か!」
 当然のごとく悲鳴が上がった。彼はショックを受けていた。何よりも、こういう女性の声が一番良心に響くのだ。
(終わった……)
 ばらばらと村人が集まってくる。かと思えば、やってきたのは坂道ですれ違った男と、最初に出会った金髪の旅人だった。
「パーヤ様、どうなされました!」
 髭男がすっ飛んでいくのと同時に、旅人はケモノを見て「あっ」という顔をした。
(なんだ、この感じは)
 彼はおかしな心地になった。金髪の少年に、見覚えがあるような気がしたのだ。胸がざわめく。
 パーヤと呼ばれた少女は地面にへたり込み、髭男に助け起こされている。
「村の中に、お、オオカミが……」
「オオカミ? どこにいるのです」
「そこに……」
 パーヤは彼を指さす。しかし、この場では旅人とパーヤ以外には、彼の姿は見えないのだ。
「オオカミなどおりませんよ。逃げたのではありませんか」
「そ、そんな、だって……!」
「パーヤさん、ちょっと」
 何かを決心した様子の旅人はパーヤに近づくと、彼女の耳元にささやいた。パーヤは「ひゃう!?」と過剰な反応を示していたが、やがてほおを赤らめてうなずいた。
「ごめんなさいドゥラン。私の勘違いでした」
「いえ。パーヤ様に何事もなくて幸いです」
 髭男が立ち去るのを、彼はじっと待っていた。おそらく助け舟を出したであろう旅人と、「会話」をするために。
 旅人はまるで彼を怖がる様子がなかった。オオカミと目線を合わせるようにしゃがみこむ。
「いきなり追いかけたりしてごめん。実は、きみを呼び出したのは僕なんだ」
(なんだって?)
「このシーカーストーンを使ったらきみが来た。さっきは助けてくれて、ありがとう」
 旅人はぺこりとお辞儀した。思わず彼も、頭を縦に動かしてしまった。
 それにしても、旅人の話は聞き捨てならなかった。
(どういうことだ。あんな板切れで、俺を呼んだって? そんな……本当なのか?)
 旅人がシーカーストーンと言って掲げたのは、両手に軽く収まるサイズの石版である。例の目玉模様が裏面に描かれている。この小さなものが彼を呼び出したというのか。
 それに、この旅人を助けたつもりはなかった。彼は自分を襲ってきた敵を退けただけだ。
 パーヤは少し元気を取り戻したらしい。相変わらずオオカミには怯えたまなざしを向けつつ、
「リンク様、このオオカミに助けられた……とは?」
「リンク」と呼ばれた旅人は困ったように笑い、頭を掻いた。
「さっきそこでいきなりイーガ団が襲ってきてさ。彼がいなかったら危なかった」
 怪我はないのですか、大丈夫だよ、というやりとりをするパーヤたちを尻目に、彼は衝撃に打ちのめされていた。
(リンク、だって……!?)
 道理で見覚えがあるはずだ。リンクと名乗った旅人は、どこか彼の本来の姿と似ていたのだ。金の髪、青い瞳。顔の造作はずいぶん違うけれど、雰囲気が似ていると言えなくもない。
(ちょっと待て、じゃあさっきの赤いやつは――)
 刺客は「勇者リンク覚悟」と言っていた。何のことはない、あれはオオカミではなく、目の前のハイリア人のことを指していた。だからリンクは「助けてもらった」と話したのだ。
 勇者で、しかも「リンク」が自分の他にもう一人いるだなんて。一体全体、どうなっているのか。彼はとんでもない場所に迷い込んでしまったようだった。
 会話するリンクとパーヤは、混乱してうつむく彼の事情を汲んでくれるはずもなく。パーヤはひとつの提案をした。
「リンク様。イーガ団のことやオオカミのことを、おばあさまに報告なされてはいかがでしょう」
「そっか。インパさんなら、何か知ってるかもしれないね」
 リンクは彼の頭に向かって何気なく手を伸ばした。彼はとっさに飛びすさる。
「ご、ごめん、触ったら気持ちよさそうだったから、つい……。あのさ、きみのことを紹介したい人がいるんだ。ちょっと僕たちについてきてくれないかな」
 混乱の極みにあった彼は、ひとまずリンクに従うことにした。
 インパとやらがいるのは広場に面した屋敷だった。外階段を上がって木製の扉を開け放ち、中に入る。
(忘れられた里のインパルさんと、名前が似てるな)ぼんやり彼がそう考えていると、果たして目の前に現れた小さな老婆は、どことなくインパルと似通った雰囲気を持っているのであった。
 重ねたクッションの上で、インパは身じろぎする。
「悲鳴が聞こえてきたが、外で何かあったのか、パーヤ。よもやこのカカリコ村に、賊が忍び込んだのでは――」
(え、カカリコ村?)
 彼の知る同名の村とは、まるで違った風景だった。彼にとって馴染み深いカカリコ村は渇いた土地にあり、温泉が名物だった。ゴロン族やデスマウンテンはどこに行ったのだ。
「賊ではございません。おばあさま、このオオカミに見覚えはありませんか」
 パーヤに促され、インパはしわの中の目を見開いて、彼をじっと注視する。彼女にもケモノの姿が見えているようだった。しばらくしてインパは首を振る。
「……いいや。ただのケモノではないようじゃが」
 黒灰色の体毛に青い目、片足にはめられた枷の残骸、さらに耳にはピアスまでつけているオオカミなんて、そうそういないだろう。
 リンクは進み出る。
「このシーカーストーンを使ったら、いきなり出てきたんです。もしかして、百年前にもこんなことがあったんじゃないかなーって思うんですけど……」
 どうやらリンクは、百年も前の話をインパから聞き出そうとしているらしい。
(つまりこのばあさん……下手したら百年も生きてるってことか)
 その割にはかくしゃくとしていた。シーカーストーンと呼ばれる石版も、百年前からあったということかもしれない。
 インパは鋭く目を細め、オオカミに視線を突き刺した。
「それを知りたいのならリンク、そなたが自ら思い出すべきなのではないか」
「え、あ、それは……」
 リンクは何故かうろたえる。
「シーカーストーンの写し絵に残された、思い出の地は訪ねたのか」ぽつねんと床に座るオオカミを置いて、話はどんどん進んでいく。「百年前、シーカーストーンを持っていたのはゼルダ様じゃ。ゼルダ様とそなたの持つ思い出に、オオカミのヒントがあるやもしれん」
(ゼルダ姫!)
 話の内容は意味不明だったが、その単語だけははっきりと認識できた。オオカミの耳がピンと立つ。リンクの次は、ゼルダの登場だ。
(もしかして俺は、別のハイラルに迷い込んだのか……?)
 突飛な考えかもしれない。だが、一度思いつくと、もうその考えを覆すことは難しかった。影の脅威から国を救った彼ではなく、この頼りなさそうな少年が勇者をやっている、位相のずれたハイラルにやってきてしまったのだ。
 旗色が悪いリンクはしどろもどろに、
「あの、それって本当に必要なことなんでしょうか」
「……どういうことじゃ」
「なんで僕が、知らない人のために命をかけなくちゃいけないんですか」
 それは部屋の温度を下げる発言だった。全くの部外者の彼にすら分かる、決して口にしてはいけないたぐいの台詞であった。
 そして冷え切った空気は急に沸騰する。インパが発する烈火のような怒気によって。
「この、愚か者がっ!」
 怒りを全身にみなぎらせたインパは、かたわらに置いてあった湯呑みをつかみ、その口をリンクの方へと勢いよく向けた。中からこぼれた水がぴしゃりとリンクの顔にかけられた。濡れそぼったリンクは、唇を引き結ぶ。
「お前は……ゼルダ様の覚悟を、何も知らず……!」
「おばあさまっ」
 血相を変えたパーヤが祖母に駆け寄る。同時にリンクは立ち上がり、
「……失礼します」と逃げるように戸をくぐった。
(え。どうするんだよこの空気)
 取り残された彼はおろおろし、祖母と孫の間に入ることも当然できず、仕方なくリンクの後を追いかけた。
 リンクはすでに外階段を降りて、屋敷から大股で遠ざかっていた。オオカミが足元に駆け寄ると、少し表情をゆるめて立ち止まる。
「あ……ついてきたんだ。ごめんね、置き去りにして」
 彼は一声吠える。
(それより、百年前がどうとか、なんでゼルダ姫を『知らない人だ』って言ったんだとか、そもそもここはどこなんだとか、どうして俺がここにいるのかとか、全部一から説明してくれよ。お前が俺を呼んだんだろ!)
 心からわいた疑問をぶつけたが、当然ただの吠え声となり、リンクには届かない。
「えっと……ここから東に行ったところにある研究所に、シーカーストーンにくわしい人がいるんだ。きみのことをその人に教えてあげたい。そこまで、一緒に行ってくれる?」
(……仕方ねえな)
 どうも、それ以外に選択肢はないようだった。この村に留まるよりは情報も得られるし、もしかすると元のハイラルに戻るためのヒントがつかめるかもしれなかった。
 その時、ぱたぱたと坂道を駆け上がる足音がした。
「リンク様っ」
 追いかけてきたのはパーヤだった。よほど急いでいたのか、リンクの前で足を止めると肩で息をしている。
 リンクは硬い表情で頭を下げた。
「……さっきは、ごめんなさい。僕が考えなしでした。今度カカリコ村に来たら、インパさんにはちゃんと謝ります」
「いえ……あれはリンク様の本心でないことは分かりますから」
 何故かリンクは顔を曇らせる。パーヤは心臓のあたりをおさえて、
「おばあさまには私からも話しておきます。リンク様はまた旅立たれるのですよね。イーガ団や魔物には、くれぐれもお気をつけて」
「僕には彼がいるから、大丈夫です」
 と、リンクは突然いい笑顔になってオオカミを指し示した。
(俺が戦うこと前提なのか?)
 当人は不満たらたらだったが。
 パーヤと別れた二人は村の門をくぐり、湧き水が岩の隙間から染み出す峠道を戻っていく。
 すでに、日が暮れかけていた。彼の知るハイラルのものとは違う、黄昏の光が目に差し込む。
 イーガ団と呼ばれる刺客と戦った場所を通る時、それまで黙っていたリンクは耐えかねたように口を開く。
「あーあ、なんで勇者なんかになっちゃったのかなあ、百年前の僕は」

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