序章 剣持たぬ勇者



 山の向こうに太陽が消えると、リンクは腰に下げたカンテラに火を入れた。その際火打ち石を使ったのだが、火種を確保するまでやたらと手間取っていた。本来の姿の「彼」なら半分以下の時間でつけられるだろう。その辺で買えそうな剣を背負ってボロいシャツを着ているあたり、リンクは勇者どころか旅人としても駆け出しなのかもしれない。
 彼は自分が元いた世界で、フィローネの森を出て初めてハイラル平原に足を踏み入れた時のことを思い出した。
(勇者としては俺の方がだいぶ先輩みたいだな)
 何せ、すでに一度魔王を倒した勇者様なのだ。彼はちょっとだけ鼻を高くして街道を歩いた。
 小さな川にかかる石造りの橋を渡り(何故かぼろぼろだった)、しばらく行くと、馬の頭を模した飾りをつけた大きなテントが見えてきた。
「ふー、やっと着いた」
 どうやらそこは街道の中継地点らしい。闇の中煌々と明かりが焚かれており、いかにも旅人や商人をやっています、という風情の人々が集まっていた。テントの裏には柵で囲われた牧場まである。
 ずんずんテントに向かっていくリンクに続いて、彼もおっかなびっくり旅人たちに近寄ったが、誰一人としてオオカミの存在に気づく者はいなかった。
(このリンクは、案外『センス』を持ってるってことなのかな)
 センスとは、普通の人の目には見えないものを知覚する能力だ。特に動物はそれが研ぎ澄まされていることが多い。このリンクが本当に勇者だというのなら、センスくらいは備えていてもおかしくなかった。
 リンクは円形テントの入口脇にあるカウンターに近づいた。
「いらっしゃい、旅人さん。泊まっていくんだろ?」
 宿の主人らしき男が気さくに声をかけてくる。カカリコ村の衣装ともまた違う系統の服装をしていた。円形の帽子が特徴的である。
 リンクはちらりと足元のケモノを見下ろした。
(いや、別に俺の分は部屋とらなくていいからな?)
 どうやらリンクは正しく彼の意図を汲んでくれたらしく、
「普通のベッドで一晩お願いします」と一本指を立てた。
「はいよ」
 主人に差し出された宿帳にリンクが名前を書きつける。これで宿の確保が完了したわけだ。こういうシステムは彼の知るものと同じだった。
 丸いテントの中には、ベッドがいくつか並んでいた。個室はないらしい。リンクはひとつのベッドの脇に荷物を置く。こんな場所に放置して盗難の危険はないのかと訝るが、狭いテントなので管理人の視線が行き届いているのだろう。
 ベッドには何の変哲もない寝具が備えてある。先ほど「普通のベッド」と言っていたものがこれだ。ということは、
(普通以外のベッドもあるってことか……)少しだけ気になってしまう。
 きょろきょろしている彼に気づいたのだろう、リンクはしゃがみこみ、声を小さくして、
「ここは双子馬宿。近くにある双子山が名前の由来だと思うんだけど……馬宿協会の人たちも何故か双子だらけなんだよね」
 丁寧に説明してくれた。傍から見たら虚空に向かってつぶやく怪しい人物になるだろうが、リンクは一向に気にしない。ほらここ、とシーカーストーンに地図を表示して(!)みせた。
(え、なにこれ。紙の地図じゃないのか。すげえ便利だな)
 これなら雨の日でも気にせず広げられる。だが、印を書き込みたい時はどうするのだろう。リンクは石版の表面を指で触り、地図を拡大したり縮小したりしていた。
「街道には、こういう馬宿がいくつもあるんだって。僕はここ以外には行ったことないんだけどね」
 予想通り、リンクは冒険をはじめたばかりのようだった。
「きみと出会ったのはカカリコ村の近くだから、この辺だったかな。あの、シーカー族ばっかりの村だよ」
 シーカー族――また聞き覚えのない単語が出てきた。カカリコ村の住人は、老いも若きも銀髪ばかりでハイリア人とは少し違う顔立ちをしていたので、おそらく彼らのことだろう。
 その時唐突に、ぐるる、とリンクの腹の虫が鳴った。
「そーだ、ご飯食べないと!」
 荷物の中から袋を取り出し、それを持って外に出ていく。
 馬宿は素泊まりが基本で、その代わり火にくべられた鍋が使い放題だそうだ。ちょうど今は誰も使っていなかったので、リンクは鍋の前に陣取った。
 リンクが袋の中身を広げると、溜め込んできた食料が現れた。オオカミは興味津々で観察する。食べることは好きな方だ。おかしな場所に来てしまったと言えど、その旺盛な食欲は衰えていない。
 食材は悪くない鮮度のものがそろっている。ニンジン、カボチャ、何故かトカゲも。自然豊かな土地だとは思っていたが、手に入る食材もなかなかバラエティに富んでいた。
「えーと……これとこれかな」
 それなのに、リンクは何故か、トカゲとカボチャという最悪の組み合わせを選んだ。
(どうしてそうなる!?)
 問答無用でぽいぽいと鍋に放り入れる。鍋の中には目を背けたくなるような光景が広がっていた。それでもリンクはご機嫌で、「ふっふーん」と下手くそな鼻唄まで歌いはじめる。
 鍋の中身はドロドロと煮えて、もはや原型をとどめていない。明らかに火の入れすぎだ。
(ああ、昔雪山の廃墟で飲んだスープは極上の味だったな……)
 彼は遠い目になった。同じごった煮でも、とんでもない違いだ。こちらは料理と呼ぶのもおこがましい――どんなにがんばっても「微妙な料理」としか形容できない物体だった。
 リンクは持っていた皿にそれをよそい、彼の前に置く。
「はい、ご飯だよー」
 めまいがした。めまぐるしい現実に翻弄され続けた彼の脳は、もはやこれ以上の認識を拒否しているようだった。
 自分がいつぞやのようにケモノの姿になってしまっているという事実。ここが彼の知っているハイラルではないという事実。そして目の前の男は、どうやら自分と同じ「勇者リンク」であるという事実――それらが一気に脳に襲いかかり、爆発した。
「うぎゃっ」
 リンクは悲鳴を上げ、馬宿の人々が「ん?」と注目する。
 オオカミがリンクの手に噛みついたのだった。
「ご、ごめんってば! カボチャ嫌いだった?」
(ふざけんな、カボチャはむしろ大好きだよ!)
 トアルカボチャをとろとろに煮込んだ黄金に光るスープ――その思い出を汚したリンクを、彼は許せなかった。
 リンクは赤くなった手の甲にふうふう息を吹きかけ、気を取り直して食べはじめる。
「いただきます……ん? うん……?」
 と、自分でも首をかしげていた。
(もうこいつの料理なんて絶対食べねえぞ)
 彼は心の中でそう誓いを立てたのだった。
 だが、空きっ腹を抱えているのは事実だ。彼はリンクの荷物をあさる。見つけたのはリンゴだった。リンクに取り上げられる前にと、すぐさまかぶりつく。野性味が強かったが、甘い果汁が吹き出して舌を刺激した。うまい。
(向こうの城下町で売ってたリンゴ、うまそうだったなあ。結局買わなかったけど)
 ほろりとする。思い浮かぶのは、彼が本来いるべきハイラルのことばかりだった。
(なんとか自分のハイラルに帰らないと……)
 そうだ、彼にはやるべきことがあった。そのために、魔王を倒した彼は再び旅に出て――
(あれ。俺、何をしたくてトアル村を出たんだっけ?)
 思い出せなかった。大切なことだったはずなのだが。
 何もかも、リンクがいきなりこちらに呼び出したせいだ、とにらみつける。リンクは申し訳なさそうに、
「リンゴなら食べられるのかあ。ごめんね、オオカミにはあんまりくわしくなくて」
 彼はぷいとそっぽを向いた。
 どうも会話が成立しない。リンクは好意的に接してくれているのだが、いかんせんこれでは――と考えて、彼ははっとした。
(言葉が通じる相手……いるじゃないか!)
 裏手の牧場の方へと走る。動物たちとなら会話ができるのではないか、と考えたのだ。
 彼が柵を飛び越えると、白い山羊たち――トアル山羊よりもずいぶんおとなしそうだ――は怯えて逃げていく。
(あ、ちょっと、待てってば!)
 山羊たちは怖がっているような声を出すが、どうしても言葉として聞き取れなかった。
(なんでだよ、人間の言葉は分かるのに……)
 リンクがカンテラを持って追いかけてきた。
「もしかしてケモノ肉も食べたかったの? でも、馬宿の動物を襲うのはだめだよ」
(そうじゃねえっつーの……)
 結局、彼は動物と話すのは諦めてテントに帰った。
 鍋の片付けを終えたリンクは、先ほど食べたばかりだと言うのに、もう床についた。「それじゃおやすみ」と言うや否や、寝息を立てている。とんでもない快眠体質らしい。
(なんか、疲れたな……)
 移動距離は大したことないのに、ひどく頭が重い。彼は長かった一日の出来事をひとつひとつ回想しながら、床に丸まって目を閉じた。
 リンクをとやかく言えないほど、眠りはすぐに訪れた。



 ――夢を見た。
 きっと平時は美しい草原地帯なのだろう。だが今、どす黒い雲からは絶え間なく雨が降り注ぎ、下生えはくすぶる炎と煙にまみれて見る影もなかった。
 そこは戦場だった。彼が見たことのない魔物が無数にうごめいていた。てらてら光る黒っぽい胴体は、椀をひっくり返したような形だ。そこに、妙に白くて長い足――スタルチュラの足と少し似ているが、もっと可動性が高い――がついていて、胴体を地上から浮かせている。胴の中心には赤いひとつ目が爛々と光っていた。それは彼の背が寒くなるような光景だった。
 魔物たちの中心に、たった一人で戦う者がいる。その手に持つのは、泥まみれでも決して輝きを失わない剣。
(もしかして、マスターソードか)
 だが剣の主は彼自身ではなかった。頭の後ろで明るい色の髪を縛り、空色の服を着ている。
(まさかリンク……?)
 視界が悪くて判別しづらい。リンクと思しき人物は、血と泥だらけになって戦っている。剣一本で。
 不意にカッと目の前が白熱した。魔物の目から光線が発射され、リンクはくずおれた。「あっ」と彼は思い、ぐっと視点が近寄る。
 リンク以外の誰かが悲鳴を上げる。すると、突然あたりに金色の光があふれた。
 視界が回復する。雨雲はどこかに吹き飛んで、日の光がリンクのぼろぼろの姿を晒していた。もう助からないだろう、と彼は直感する。リンクはまさしく死にかけていた。悲鳴の主が駆け寄って抱き上げようとするが、ずり落ちる。リンクの体には力が入っていなかった。
 それでも唇を開き、瀕死のリンクは何か喋った。声が小さくてよく分からない。だが、最期の言葉だけは、はっきりと聞き取れた。
「勇者を救えるのは……勇者だけだから」
 ぱたりとリンクの手が地に落ちて、まぶたが閉じられた。



 ――思わず飛び起きた。彼は馬宿のテントの中にいた。とうに皆寝静まり、寝ずの番をする主人がカウンターでランプの明かりを調整している。
(な、なんだったんだよ、今の……)
 思わずベッドの上を確認するが、リンクは太平楽に爆睡していた。寝相は案外良いようだった。もちろん死にかけてなどいない。
(あの夢、未来の出来事だったりしないよな)
 彼のハイラルにいるゼルダ姫は、昔から予知夢を見ることがあったと聞いたことがある。なんだか分からないが、彼も突然そんな能力に目覚めたとしたら。
(くそ、妙な負担かけやがって! 今ここにいること自体、全部夢だったら良かったのに……)
 その後は、まぶたを閉じるとあの光景が浮かんでくるので、ろくに眠れなかった。
「おっはよー! 今日もいい朝だね」
 翌朝。リンクは憎たらしいほど清々しい笑顔とともに目覚めた。
(馬宿の誰よりも早く寝て、一番遅く起きたらそうだろうよ)
 今度は無理矢理にでも起こしてやろう、と彼は決意する。
 リンクは朝ご飯と言いながら、またしても下手な料理をつくりはじめる。彼はおとなしくリンゴを食べた。リンクの荷物に肉類はなかった。これは、狩りをするしかないかもしれない。
 またぐずぐずになった料理をほおばるリンクを横目で見やる。
(なんでも煮込むのをやめたらいいのになあ)
 他の旅人に遅れること数刻、リンクは昼前に馬宿を旅立った。
 今度は東へ伸びる街道を往く。ほどなくして、朽ち果てた遺物を見かけた。穏やかな草原に同じ型のものがいくつも転がっている。
(夢で見たやつだ……)
 光線を撒き散らし、リンクと思しき人物を追い詰めていた魔物とそっくりだった。
 もしかして、夢の光景はここで? 彼が不気味そうにしていることに気づいたのか、リンクは口を開く。
「あれはガーディアン。大昔は味方だったらしいんだけど、今は厄災に乗っ取られて、こっちにビーム打ってくる危険なやつ。ほとんどは機能停止してるけど、たまーに動くやつもいるんだ」
(厄災ってなんだ?)
 疑問を抱けど誰も答えてくれない。一度まとめて説明してくれ、と思ってしまう。
 寒気を覚えながら道を抜けると、草原の終わりに石の壁がそびえていた。壁の上には木のトゲが突き出している。どうも砦の跡のようだった。
 付近には、メモを取りながらしきりに壁を観察している旅人がいた。通りがかったリンクを見つけて顔を明るくする。
「お、こんにちは!」
「……こ、こんにちは」
 何故かリンクは警戒しながら返事をした。
「俺はプリトス。あんたもハテノ砦を見にきたのか」
「いや、違いますけど。ここはハテノ砦って言うんですね」
 プリトスと名乗った男は大袈裟に驚いてみせた。
「知らないで通ろうとしたのかよ!? いい、俺が説明してやる」
「は、はあ……」
 リンクは見事に捕まってしまった。当然オオカミも道連れだ。
 プリトスは両手を広げ、声を張り上げる。
「ここはな、偉大なる剣士様がガーディアンと戦ってハテノ村を守った、歴史的な場所なんだぞ!」
「え、これ全部と?」
 びっくりして草原を振り返るリンク。足元にいる彼は、また別の衝撃を受けていた。
(まさか、リンクがやったのか……?)
 夢の光景と重なる。マスターソードを使う剣士。あれが未来予知ではなく、過去の出来事だったとしたら。
 プリトスは続ける。
「百年前に起こった大厄災――ハイラル城が滅ぼされて、そこらじゅう厄災に乗っ取られたガーディアンでいっぱいになって、大変なことになっただろ」
(ハイラル城が、滅びた!?)
 彼は仰天する。リンクは眉をひそめてうなずいていた。
「でも、ハテノ砦には剣士様がいた! 剣士様は名前も伝わってないけど、ハテノ村が無事なのはそのおかげなんだ」
「へえ……」
「このガーディアンの数すごくないか? 見れば見るほど、大厄災のすさまじさが伝わってくるよな。
 それだけ、ここで戦った剣士様が大厄災にとって脅威だったってことなんだろうな。こんな大群をよくここでせき止められたよなあ。ものすごい実力者だったんだろうな」
 プリトスは目をきらきらさせている。道行く旅人にはすべからく声をかけ、同じような話をしているのだろう。語り口はなめらかで熱意にあふれていた。
 ここでやっと、プリトスはリンクが困った顔をしていることに気づいたらしい。
「あ、悪い、引き止めて。ここを通る時は、百年前に想いを馳せてくれよ」
「分かりました」
 リンクは苦笑いして旅人と別れた。
 砦の門をくぐり、リンクはぽつりとつぶやく。
「確かにその剣士はすごいよ。でもあんなのと一人で戦うなんて……馬鹿野郎だ。そんな状況にまで追い詰められたら、絶対にだめだよね」
 存外に冷たい口調であった。彼は驚く。
(なんでそんなに嫌そうなんだ? もしかして、昔のことを忘れてるのか……?)
 リンクの見せるあからさまな嫌悪感は、一体何なのだろう。インパが「記憶を取り戻せ」と言ったこと、ゼルダを「知らない人」と言い放ったこと。勇者という存在をほとんど憎悪しているらしきこと。それなのに「勇者リンク」と呼ばれて命を狙われていること――
(くそ、気になってしょうがない)
 帰る方法を模索するはずが、彼はとんでもないことに巻き込まれかけていた。

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