終章 剣と牙のハーモニー



「リンク、しばらくの間シーカーストーンを貸していただけませんか」
 ガノンが封印されてから初めて、各地の代表が集合して協議を行うこととなった。今後ハイラルをどのようにして復興させるか、王国全体でどういった協力体制を敷くべきか、話し合うために。
 会場はカカリコ村のインパの屋敷である。当然、厄災を百年抑え続け、この度無事に生還した王女ゼルダが、協議の指揮を執ることになる。
 ゼルダは会議に向かう前、リンクにそうお願いした。
 英傑の服を着たリンクは腰の石版を外して、へらりと笑う。
「あ……そうでした、これはもともとゼルダ姫のものでしたね。どうぞ」
「いえ、少しの間借りるだけのつもりですが……」
 と言いつつ受け取り、ゼルダは慣れた様子で端末を操作する。その様子をリンクはぼんやり眺めていたが、
「あ、ま、待ってくださいっ! まだ消してなかったんだった」
 突然取り乱して石版を奪い返そうとする。
「消す? 何をです」
 ゼルダはさらりとリンクの手をかわし、石版を操作していく。
「もしかしてアルバムに何か……?」
「ゼルダ姫、ちょっとっ」
 リンクの手があたって、シーカーストーンが草の上に落ちる。
「あっ」「ご、ごめんなさい」
 ゼルダはちょうど石版に表示されていた写し絵を見つめ、拾い上げる。そこには画面いっぱいに大写しになった――黒灰色のオオカミの姿があった。
 ゼルダはどきりとする。黄昏を反射する青い瞳が、彼の意志の強さを感じさせていた。
「ウルフさんの写し絵……もしかして、他にも?」
 アルバムの中には各地の風景や料理の写し絵がちらほらあったが、その他はほとんどがウルフの姿で占められていた。
 雪景色で寒いのか、むすっとしたような顔。エポナと一緒に草原を並走する姿。焚き火の明かりで眠りにつく穏やかな背中。
「全部、消してください」
 リンクの声は震えていた。その目はまともに写し絵を見ていない。
「何故ですか? これは彼とあなたの大切な思い出でしょう。ちゃんと保存したまま、お返しします」
 ゼルダが怒ったように返事をすると、「……分かりました」と彼は渋々承諾した。
「それよりも、リンク。本当に会合に出席しなくて良いのですか……?」
 今日屋敷に集まったメンバーは、ほとんど皆が厄災ガノンとの決戦を手伝ってくれた仲間たちだった。リンクこそが彼らをつないだのだ。勇者の働きがなければ、カカリコ村という不便な土地に招集をかけて、これほどあっさり全員が集まることなどなかっただろう。
 だが、リンクは首を振る。
「いいんです。厄災とずっと戦ってきて、ハイラルの平和を保っていたのはゼルダ姫です。それに、僕には剣を振ることはできても、破壊されたものを復興させるのは荷が重いですから」
 そうだろうか。イチカラ村を集落として見事につくり上げ、アッカレ地方に流通と交流の拠点を築いた、と聞いていたのに。
 リンクに足りないのは能力ではなく、自信だ。かつてのゼルダには両方欠けていたものだ――と彼女は自嘲する。
「そうですか。ならば、私一人で行ってきます」
 ゼルダがつんと顔をそらすと、ボリュームのある金髪が揺れた。彼女は懐かしい青い上着に、動きやすいズボン姿である。王女らしくない格好だと昔はさんざん言われたものだが、今ではこちらの方がずっと落ち着く。さすがに百年着ていた巫女装束には、二度と袖を通したくなかった。
 リンクは一礼してから歩き去った。近頃はあまり出歩かず、ハテノ村に買った家に住んでいるらしい。あそこはかつてリンク自身の実家であったことを、ゼルダは未だに伝えられないでいる。
(リンク……やはり、ウルフさんのことが……)
 胸がずきりと傷んだ。
 ゼルダは彼にあんな顔をさせるために、百年前「リンク」の命をつないだわけではなかった。別れの辛さをその身に刻ませるために、ウルフとの出会いをもたらしたわけではなかった。
 彼女にはやれることがある。与えられた封印の力ではなく、自分の持てる力を使って。
「ゼルダ姫様」
 屋敷の外階段のたもとでは、インパの孫娘として紹介のあったパーヤが出迎えてくれた。どうやらゼルダのことを待ってくれていたらしい。
「皆様、お集まりです」
「ありがとう、パーヤ」
 パーヤはゼルダへじいっと熱っぽい視線を向けていた。
「あの……私に何か?」
「ひゃ、ひゃいっ! その、いえ……リンク様は……?」
「ハテノ村に帰ったのだと思いますが」
「落ち込んでおられましたか……?」
 上目づかいにゼルダを見つめる彼女からは、リンクを一心に慕う気持ちがありありと表れていた。
 ゼルダは階段を上る足を止めて、
「そうですね……かなり落ち込んでいました。今のリンクのためにできることが、私にはひとつあります。あなたは、私とは別の方法でリンクを支えてくれませんか」
「わ、私がリンク様を……!?」
 ウルフの目を通してリンクの冒険を眺めていたゼルダは、この照れ屋の少女がどれほど献身的に勇者を支えていたのか知っている。
「そうです。あなたならきっとできますよ。それとパーヤ、よければ私と……友だちになってくれませんか?」
 ゼルダはおずおずと片手を差し出す。同年代とはとても言い難いけれど、それは心からの気持ちだった。
 パーヤは耳まで顔を真っ赤にして、
「~っ!」
 何故か無言で走り去ってしまった。
(嫌われたのかしら……)
 ゼルダはかなりショックを受けた。やはり、百十数歳の自分とは友達になりたくないのだろうか。
(いいえ、今は会合に集中しないと)
 気を取り直して、閉め切った屋敷の扉の前に立つ。
(私は……この国の人々の、助けになりたい)
 それは百年前の自分に欠けていた、何よりも大切にすべき思いだった。
 一向に目覚めぬ封印の力を追い求めるあまり、かつてのゼルダは手段が目的へとすり替わってしまっていた。力を得て厄災を封印し、父親や城の皆に認められたい――当時のゼルダの気持ちは、王族にあるまじきとても狭い範囲で完結していたのだ。本来その力も思いも、ハイラルの民へと還元されるべきもの。だからこそ、力は目覚めなかった。
 そんなゼルダを近衛騎士たるリンクは何も言わず、しかし心配そうにいつも見守ってくれていた。
 ハテノ砦でガーディアンと戦い瀕死になりながらも、彼がかすかに笑みを浮かべていたことを、ゼルダは覚えている。
「力、使えました、ね。おめでとう、ございます……」
 無口で表情の変わらなかったはずのリンクは、ほとんど初めて見せた笑顔によって、封印の力を手に入れたゼルダを祝福してくれたのだった。
 倒れたリンクの気持ちを引き継ぎ、ゼルダは単身でガノンの封印に向かった。そして厄災の中心で百年戦いながら、少しだけ力を割いて、ずっと世界を見守っていた。
 この百年間で、ハイラルの人々は、凶暴化した魔物や厄災の呪いを受けた遺物に住む土地を追われた。アッカレ砦で迎えたリンクの父の最期も、ゼルダははっきりと見つめていた。海や砂漠、山を越えて、たくさんの人が別の地へと逃げていった。
 ――それでもハイラルはそこにあり続けた。国という形態を保てなくなっても、完全に滅びてしまうことはなかった。
 目覚めたリンクが証明してくれた人々の強さを、ゼルダは信じたい。自分の能力では彼らを導くことはできないかもしれないけれど、せめて皆の助けになって、ハイラルを盛り上げていきたい。
(英傑たちも、リンクも、お父様も、私のせいで命を散らせてしまったのだから。今生きている私は必ず、ハイラルを素晴らしい場所にしなくてはならない――)
 二度と民が今回のような経験をすることがないように、彼女は自分の持てる力全てを出し切るつもりだった。
(でもまずは、いつだって私を助けてくれた彼に……お返しをしたい)
 息を大きく吸い込んで、一気に扉を開け放つ。百年前とほとんど変わらないつくりの広間には、ゾーラ、ゴロン、リト、ゲルドなど、各地方の首長たちが集まっていた。
 ゼルダは決然と唇を引き結び、その場に膝をつく。
「みなさんにお願いがあります。……どうか私に、お金を貸してください」



 始まりの台地――ハイラル王国創始の地とされ、かつて王国の様々な祭事を行ったという時の神殿の廃墟が残る土地だ。ここはハイラルの中心にありながらも、平原とは隔絶された高台である。
 薫風が吹き抜け、リンクの金髪を軽く揺らした。彼はゼルダに誘われ、自分が目覚めた地を訪れていた。
「うわー、久々に来たなあ」
 リンクは背伸びをした。思わずあくびが出そうな陽気だ。
「あ、姫しずか!」
 リンクが走っていく先には、白い花弁を持つ花の群生地があった。ゼルダは早足で追いかける。
「本当にあっちこっちで咲いてますねー」彼は指先で可憐な花をつつく。
「ええ。これほど多いと、なんだか少し……」
 ゼルダは言いにくそうにしていたが、「ありがたみが薄れますよね」とリンクにずばり指摘され、苦笑いする。
「城のお花畑は片付けるの大変そうでしたね。姫の部屋とかすごかったですよね」
「まさかこうなるとは、思いもしませんでした……」
 姫しずかは百年前、絶滅危惧種として指定されていた。ゼルダも研究の対象としてなんとか数を増やそうとしたが、なかなか育てるのが難しく、このような花畑など夢のまた夢だった。
 誰にも必要とされなくなり、やがて絶滅する種――巫女姫として絶滅寸前であったゼルダは、いつしか自分自身と姫しずかを重ねて見ることで、愛情を注いでいたのだが。
「おそらくこの花は、古代エネルギーの影響を受けやすいのでしょう。今は百年前よりもはるかにエネルギーに満ちています。ガノンの怨念の跡によく生えているのは、厄災の浄化をする役割もあるのかもしれませんね」
 ゼルダの推測は、かつて愛用した自分の平服を探しに行くため、魔物のいなくなったハイラル城を訪れたことで補強されていた。
 とにかく、復活した城はそこらじゅう姫しずかまみれだった。ガノンを封印したあの日、大量に降ってくる白い花びらをウルフは「無限にあふれる愛情だ」と説明していたが、実際には本物も相当数混じっていたのではないかと思われる。
 リンクはしゃがみこみ、姫しずかの花びらを触っている。こうしていると、落ち込んでいる様子など全くないのだが。
「あ、そろそろ行きますか?」
「ええ……付き合ってもらってすみません。どうしてもシーカーストーンの新しい機能を試したかったのです」
「僕で良ければいくらでも使ってください。これといって、することもありませんし」
 彼が英傑の服を着ているのは、インパに厳命されたからだった。その衣はハイラル王国復興の象徴となるのだから、と。誰もが見るだけで元気づけられるような、復活のシンボルにしたいらしい。リンクは露骨に嫌がっていたけれど、遠出の時は仕方なしに空色の衣を身につけている。役目を果たしたマスターソードも、服と同じ理由で背中におさまっていた。
「ひとまず回生の祠に向かいましょう」
 ゼルダはシーカーストーンのマップを眺めながらリンクを誘導した。
 回生の祠は洞窟の中にある。負傷兵を癒やす機能を持っているため、このような場所に隠していたのだろう。内部の段差を下りて、リンクはあたりを見回す。
「懐かしいな。そうそう、この勇導石からシーカーストーンが出てきたんですよね」
 指さした先にゼルダが歩いていって、台座に石版を押し当てた。
 彼女はさっと何かの操作をする。リンクは不思議そうに眺めていた。
「ここで、リンクは目覚めたのですね」彼の思考を遮るようにゼルダが振り返る。
「はい。ゼルダ姫の声を聞いて目が覚めました。……もしかして、百年間ずっと僕に呼びかけていたんですか?」
「いえ……回生の祠の治療が完了したことは、城からも分かりましたから。リンクが目覚めてくれたのだろうと思い、声を飛ばしたのです」
「なるほど。それで、シーカーストーンの新しい機能っていうのは……?」
 ゼルダは先ほどまでの落ち着いた様子とは打って変わって、突然きらりと瞳を輝かせた。
「よくぞ聞いてくれました。その名も、足跡機能です!」
 彼女はにこにこしながら両手で石版を掲げる。
「は、はあ……」
「プルア博士と一緒に開発したのですが、この機能は面白いですよ。リンク、あなたは回生の祠で目覚めてから、真っ先に何をしましたか」
「えっと……さっき上ってきた坂を、道なりに歩いていきましたね」
 ゼルダはシーカーストーンにマップを表示させ、指でなぞる。
「このように?」
 地図上にぺたぺたと黄緑色の足跡が表示された。歩いたり、立ち止まったりしている。リンクの目が大きく見開かれる。
「そうです……間違いない。だって僕、ここで崖から落ちそうになったから」
 回生の祠から出たリンクは、走ってその場所を目指した。木々の間、はるか下の方に地面が見えている。
「もしかして、足跡機能っていうのは――」
「そうです。リンクの旅の軌跡が全てここに記録されているのですよ」
 得意げなゼルダとは反対に、リンクは何故か顔を紅潮させた。
「えーっ! 全部見たんですか?」
「いえ、早送りはできますが、全ての足跡を辿るとなると膨大な時間がかかりますよ。とてもじゃありませんが全部なんて追いきれません」
 リンクはほっと胸をなでおろしていた。ゼルダは指を一本ぴんと立てて提案した。
「この機能を試しながら、始まりの台地をぐるっと回ってみませんか」
「いいですね!」
 二人は順番に旅の足跡を辿っていく。回生の祠から少し坂を下りた場所に、わずかに焚き火の跡が残っていた。
「ここで、フードをかぶったおじいさんが焚き火をしていました。その人には斧を貸してもらったり、焼きリンゴを食べさせてもらったり……生きるために必要なことを教わりました」
 おじいさん。その正体を、ゼルダは知っている。
「ハイラル王……私のお父様ですね」
 ゼルダは目を伏せる。リンクは気づかわしげに、
「ゼルダ姫は、ハイラル王の魂がこの台地にいることは知っていたんですか?」
「いえ……知りませんでした。ハイラル城で厄災が目覚めた時、そのまま亡くなったと聞いていましたから。それにウルフさんが来る前は、あなたの旅の様子は切れ切れにしか見ていません」
 王女の表情に影が落ちている。リンクははっとした。
「それなら、足跡を追うのは中断して、いったんこっちに来てください」
 リンクはいきなりゼルダの腕をつかむと、早足になった。ゼルダは突然のことで目をぱちくりさせる。
「り、リンク?」
「見せたいものがあるんですっ」
 彼は使命感に突き動かされているようだった。一直線にどこかを目指していく。
 時の神殿の横をぐるりと回って、二人はまばらに針葉樹が立ち並ぶ地帯にやってくる。林の途切れた広場に、建物らしきものが見えた。
「小屋……?」
 丸太で梁をつくり粗末な布で屋根をかけただけであったが、確かに小屋と呼べる代物だった。この台地に人が住んでいたという話は、ゼルダは聞いたことがなかった。
「ここで、おじいさんが暮らしていたんです」
 ゼルダは息を呑む。リンクはずかずか中に入っていって、机の上にあった本を手に取った。
「読んで下さい」
 表紙はぼろぼろだった。だが、滲んだインクはそこまで古くない。
「おじいさんの遺した日記です」
「お、お父様の……?」
 ゼルダは驚愕しながら、それでも興味が勝り、ぺらぺらとページをめくった。
 あの父のことだからさぞ真面目なことが書いてあるのだろうと予想していた。ハイラル王国を失った苦しみが切に描かれているのだと。だが、どのページを読んでも「始まりの台地では唯一の楽しみが料理である」「ついに究極の料理が完成した」などという内容であった。
「お父様がこんなことを書くなんて」
 それは、ゼルダの知らない父の顔だった。父はいつも厳しく、しかし優しく国を見守っていた。この日記の中では、死後の世界を満喫しているようにすら思える。
「最後の方に、ピリ辛山海焼きのレシピを教えてくれたら、防寒着を譲ってくれるってありますよね」
「ええ……そうですね」
 おそらく、何も知らないリンクに試練を与え、防具を進呈することで社会性を身に着けさせる心づもりだったのだろう。料理の話は案外本気なのかもしれないけれど。
 リンクは照れくさそうに笑った。
「僕、どうしてもその防寒着が欲しくて、やっとの思いでケモノ肉と魚を手に入れて、それっぽい料理をつくったんです。
 でも、次におじいさんに会った時は、時の神殿で……料理の話を出す前に、ハイラル王は消えてしまったんです」
「そうだったのですか……」
 その微妙な間の悪さは、確かに生前の父が持っていた数少ない欠点であった。
「だから、その……リベンジさせてくれませんか?」
 リンクは真剣な面持ちだった。ゼルダはもちろんうなずいた。
 二人は精霊の森と呼ばれる場所へと移動した。リンクは弓でイノシシを狩り、手づかみでハイラルバスを捕まえた。新鮮な食材は、いつも持ち歩いているナイフですぐにさばいていく。思わずゼルダが見惚れるほど、慣れた手つきだった。
 下ごしらえが済んだら、森の中にあった鍋を使って料理する。最初に強火で肉にこんがり焼き色をつけて、次に魚を放り込む。今度は身が崩れてしまわないように慎重に焼いた。
「お上手ですね。昔のあなたは食べることは好きでしたけど、料理をしたことはないと言っていました」
「そうなんですか? だから最初は下手くそだったのかなあ」
 最後にポカポカの実をぱらりと入れて、軽く火を通す。肉と魚が絶妙な塩梅で絡み合う料理のでき上がりだ。
「これがピリ辛山海焼きです」
「おいしそう!」
 ゼルダ姫は両手を合わせた。リンクの持っていた器に食事をよそい、できたてをほおばる。
「とても美味ですね……!」うっとりとほおを押さえながら彼女は言った。
「王宮の料理には劣るでしょう?」
「確かに野性味は強いかもしれませんが、鮮度が違いますよ」
 褒め上手のゼルダは、野外でも王族特有の優雅な所作で食事を平らげる。リンクは薄く微笑んでそれを眺め、自分自身は一向に料理に口をつけなかった。
「ゼルダ姫……厄災から解放されてからずっと、あちこち走り回ってますよね。一度くらい休まれたらいいのに」
 ゼルダはしっかり魚を嚥下してから、首を横に振る。
「私はいいのです。あなたこそ、もう私の騎士ではないのですから、どこにでも行って好きなことをしてもいいのですよ……?」
 リンクは目を閉じる。笑みの残滓が唇の端に貼りついていた。
「行きたい場所も、やりたいことも、たくさんあったんですけど……。それを共有したかった人が、今はいないから」
 ゼルダは胸を打たれ、リンクの横顔を見つめた。
 彼はおもむろに顔を上げる。
「それよりゼルダ姫、自分だけ生き残ってしまったと、考えていませんか」
 ゼルダははっとしてリンクと視線を合わせた。晴れた空のような瞳が真摯な色を帯びている。
「僕も同じです。回生の祠で目覚めてからずっと、そう思っていました。でもやっぱり、今は生きてて良かったと思います。月並みだけど、王様や英傑たちの分まで生き抜いて、ハイラルのために働きたいと思うんです」
「ええ……ええ。そうですね」
 ゼルダは少し雫の滲んだ目元をぬぐった。
「あなたと私が同じ弱さを抱えるなんて、百年前は考えもしませんでした。昔のあなたは完璧な人に見えましたから」
「ああ、写し絵の記憶で見ました。やなやつでしたね、昔の僕」
 あっけらかんとリンクが言い放つと、ゼルダはほおを膨らます。
「そんなことを言わないでください」
「でも、こうなってから、僕はやっとあなたの気持ちが分かりました。昔の僕には、ゼルダ姫の悩みは本当にさっぱり分かってなかったと思いますよ」
 持つ者と持たざる者の間に横たわる溝は、それほどまでに深いのだ。
 リンクは料理に手をつけず、身を反らせて青空を仰ぎ見る。
「……なんで百年前厄災ガノンに負けたのか、ハテノ村に引きこもっている間に僕なりに考えてみたんです。昔の僕が一人で突っ走ったから、ハイラル王の政策が間違っていたから……それと失礼ですが、ゼルダ姫の力が目覚めるのが遅かったから。いろんな可能性を考えました」
 それは、まっさらになった彼だからこそできる分析だろう。「聞かせてください」とゼルダは促す。
「でも今回は無事に勝てた。厄災を封印できた。二つのケースを比べて、僕の出した結論はこうです。
 ――百年前は、シーカー族の古代技術に頼りすぎていたのではないでしょうか。どんなにすごい技術も、運用するのはその時代に生きる人です。一万年前が圧勝すぎたせいで、古代の技術を全てよみがえらせれば絶対に勝てると、みんな勘違いしてしまった。誰もが今、そこにある人々のつながりを軽視してしまった。だから、一万年前の敗北から学んだガノンに、勝てなかったんですよ。
 えっと、それで、僕が言いたいのは……ゼルダ姫のせいだけじゃないってことです」
 あの大敗には、誰か一人に責任があるわけではなかった。ほんの小さな――だが初歩の初歩でミスを犯していたのだ。そして、リンクはゼルダのずっと抱えていた悩みを、はっきりと否定してくれた。
「ありがとうございます……!」
 感極まり、ゼルダは彼のふところに飛び込んだ。
「わ、ひ、姫?」
 リンクはびっくりして硬直している。ゼルダは慌てて身を離した。
「ごめんなさい。つい……嬉しくて」
「いや、それなら良かったです」
 ゼルダは軽く胸に手をあてて落ち着いてから、話し出した。
「今日、私があなたを連れてここに来たことには、もうひとつ別の理由があります。始まりの台地は特に古代エネルギーが多く集う場所……この新しくなったシーカーストーンへ、必要なエネルギーをためることができます」
 ピンとこない顔をしているリンクへ、ゼルダは微笑みかける。
「私はカカリコ村に集まった各地の代表からお金を借りて、プルアと共にシーカーストーンのアイテムを強化しました」
「お、お金を借りた?」リンクの目が丸くなる。
「そうです。今の私は基本的に無一文なのですよ。いずれ王国を復興させるためにもお金は必要ですが――今回はそれとは別の目的で、カンパを募りました」
「そんな……お金だったら、僕だって多少持ってるのに」
「あなたにナイショで開発を進めたかったのです」
 彼女はいたずらっぽく笑い、シーカーストーンを構える。
「今回強化したのは、ずばり空間転移機能です」
「へえ、何ができるようになったんですか」
 リンクは身を乗り出す。ゼルダは優しく目を細めた。その目には、ハイラルの人々へと向けるものと同じ、無限の愛があふれていた。
「私はあなたに寂しい思いをしてもらいたくて、『彼』を呼んだわけではありません。人と人のつながりは新たな命を紡ぐもの……彼の存在はきっと、このハイラルに大きな恵みをもたらすでしょう」
 まるで呪文を唱えるような言葉であった。その意味を理解して、リンクは大きく息を吸う。
「どうか、今再び私たちの前に、姿をお見せください……!」
 ゼルダが発動させた機能はワープではなく、ショウカンであった。
 すっかり冷え切った鍋の向こうに、青い光が集まっていく。
「古代エネルギー……一万年前の当時は、生命の息吹――ブレスオブザワイルドと呼ばれていました」
 左足に絡みついた足枷、黒灰色の毛並み、鋭い青い目。そしてリンクが贈った夜光石のピアス――
 声にならない声を上げて、リンクは「彼」に駆け寄った。真正面から抱きつく。
 ゼルダは嬉しそうにほおをほころばせ、そのケモノへと話しかける。
「今、厄災を封印したハイラルには、生命の息吹が満ちあふれています。おかげであなたを完全な状態で召喚できました。今ならどんな人の目にも見えるはずですよ。ただ、あなたが勇者の魂を持つせいで、またその姿になってしまいましたが――これからはシーカーストーンさえあれば、自由に元の世界に帰ることもできるでしょう」
 再びこのハイラルに顕現したウルフは、頭をゆっくり縦に振った。
『いや、このままでいいよ。ありがとうゼルダ姫』
 リンクはびっくりして両耳をおさえた。
「ウルフくんの声が聴こえる……!?」
 いつもの吠え声ではなく、頭の中に直接響くような声だった。それもゼルダが開発したアイテムの能力らしい。
 ウルフはふうと嘆息する。
『あの後自分のハイラルに戻ったら、うちの姫様に怒られてさあ。成果を出さずに帰ってくるとは何事だ、って……。それで向こうにあった万能の力をもう一度だけ使わせてもらったんだ。
 俺はこっちで世界を渡る方法を探したい。もう一人の相棒に会うために』
「うんうん。喜んで協力する!」
「それには……たくさんのお金が必要ですね」
 ゼルダはくすくす笑っている。リンクは自信満々に胸を叩いた。
「お金なら僕に任せてよ! ちょっとくらいなら貯えもあるし」
『お前もしかしてさあ、俺用の資金とか貯めてたろ』
 リンクはほおを掻く。
「ばれた? プルア博士に十万ルピーを頼まれた時から、こつこつとね。まあ、まだ半分も貯まってないんだけど……」
 ウルフは苦笑しているようだった。オオカミゆえにハイリア人ほど表情は自由にならないが、気配で分かる。
 そして彼はゼルダ姫を見上げた。
『そうだ、前々から気になってたんだけど……シーカーストーンのハイラル図鑑にあった俺の項目って、もしかして姫様が残したのか?』
 ゼルダは驚いたようだ。
「ええ、そうですよ。よくお気づきでしたね。あなたへのメッセージを、あなたにも分かる文字で書いたつもりでしたが……なかなか読む機会がありませんでしたね」
 彼女はシーカーストーンで該当の画面を表示させる。
 リンクとウルフは二人そろって覗き込んだ。そこにはウルフにだけ読める文字で、
「異世界からやってきた勇者様へ。私はゼルダ、あなたをここに呼んだ者です。どうかこのハイラルの勇者リンクを助けてあげてください。私はあなたを通して旅の様子を見ています」
 と記してあった。最初から、全ての答えがここにあったのだ。ウルフは拍子抜けする思いだった。
「ねえ、なんて書いてあるのこれ」唯一内容を知らないリンクが顔中に疑問符を浮かべているが、
『ナイショだ』「秘密ですね」
「ええー、気になる!」
 ウルフとゼルダは顔を見合わせて笑った。
 そんな二人に何か反論しようとして、リンクは大きく口を開く。
「あ、そうだっ」
 突然彼は鍋に飛びつくと、火を入れ直した。
「これ、ピリ辛山海焼き!」
 皿に彩りよく盛り付けた、肉と魚の焼きものをウルフの鼻先に持っていく。食べてくれ、ということらしい。
 ウルフは困ったようにゼルダに視線を送る。彼女はにこにこ笑って、「おいしいですよ」とジェスチャーをした。
(確かに『お前のメシが食いたい』って言ったけどさあ……)
 彼は内心、盛大に肩を落とした。これではまるで、リンクの手料理のために戻ってきたみたいではないか。
 だが、生命の息吹に満ちた食材を調理して食べ、栄養とすることは、リンクとウルフが幾度となく繰り返してきた「生きる」ということそのものである。
 食材を適切に組み合わせ、でき上がった料理をおいしく味わう。それは、この大地に生かされた自分たちにできる精いっぱいの感謝だった。
 そして、おいしいものを食べる時、大切な相棒が隣にいてくれるのは――これ以上ない幸せなのかもしれなかった。

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