終章 剣と牙のハーモニー



「……いい加減上からどけよ」
 不機嫌そうな声が下から聞こえて、リンクははっと身を起こす。
 ウルフ――緑の衣を着た青年を、見事に下敷きにしていたらしい。リンクは慌てて立ち上がった。ウルフはため息をついている。
「ご、ごめん。そうだ、ガノンは!?」
「あそこだよ」
 二人の目の前で、魔獣となった厄災はもがき苦しんでいた。体の中からこぼれだす神聖な光に耐えきれない、というように。
 そしてついに、金色に染まった人影がガノンの鼻先から飛び出した。
「ゼルダ姫……?」
 百年を封印に費やした彼女は、かつての少女の姿のまま、宙に浮かんでいる。そして倒れ込んだガノンの眼前に立ち、両手を組んで光を強めた。
 実体を失い、怨念と化したガノンが彼女に襲いかかった。二人は急いで前に出ようとする。
「大丈夫ですよ、二人とも」
 ゼルダは振り返らないままそう言い、右手を掲げた。ただそれだけで、膨れ上がる光は怨念を焼き尽くした。
 その跡には何も残らない。雨を降らせていた雲さえ吹き飛ばしてしまう。ずいぶんと傾いた黄昏の光が、ゼルダの巫女装束を照らし上げた。
 ――封印が完了したのだ。
「やっぱり強すぎだよこっちの姫様……」
 ウルフが地面にへたりこんでいる。
 ゼルダはリンクたちに向き直る。その衣には、ウルフが夢で見たのとそっくり同じ汚れがあった。それなのに、彼女は神々しく綺麗だった。
「私は……ずっと見守ってきました。あなたたち二人の運命も苦難も……戦いも」
「俺の目を通して、見てたんだよな?」
 ウルフが尋ねると、ゼルダはうなずく。
「そうです。ウルフさん、私はあなたを通してリンクに声を届け、外の世界を見ていました」
「そ、そうだったんですか……!?」
 リンクは目を丸くしている。ゼルダがぺこりと頭を下げた。
「黙っていてごめんなさい。ガノンを封印しながらあなたに声を届けるには、そうするのが一番だったのです。ウルフさんが召喚される前は、無理に直接届けようとしていたものですから、効率が悪くて……」
「ってことは、俺のせいで封印の力が弱まったんじゃ?」
「いえ。百年経った時点で、ずいぶんと力は衰えていましたから」
 リンクは何がなんだか分からずに、二人の顔を交互に見比べるだけだ。
 夕日に金髪を輝かせたゼルダは、あらためて勇者に穏やかなまなざしを注ぐ。
「リンク。私……信じていました。あなたが必ず、厄災ガノンを討ち倒してくれると」
(だって、俺の後輩だからな)
 とウルフはこっそり胸を張る。
「ありがとう、リンク――ハイラルの勇者。私を……覚えていますか?」
 ゼルダはきっと、万感の思いを込めてその台詞を言ったに違いない。
 だが、リンクは小刻みに肩を震わせた。わずかに後ずさる。
「ごめんなさい……ゼルダ姫。僕の記憶は、結局戻らなかった。ここにいるのは、あなたがずっと待っていた近衛騎士ではないんです……!」
 それは涙の伴わない慟哭だった。
「ずっと見ていたなら、知っているでしょう。インパさんの前で、あなたを知らない人だって言ってしまったことも。あれは、今でも同じなんです。写し絵で取り戻したのは、結局自分自身の記憶じゃなかった。あなたは知らない人で――これから知っていくべき人、なんだと思っています。だから……」
 謝ろうとしたリンクの正面に進み出て、ゼルダは静かにその手をとる。
「謝るのはこちらの方です。混乱させるようなことを言ってしまってごめんなさい。リンクが何も覚えていないのは当然のこと……回生の祠での眠りは、記憶を失う代わりに死の淵からよみがえらせるものだったのですから」
「え……?」
 ウルフはその真実の一端を、カカリコ村で見た夢によって知っていた。
「つまり記憶の消去は、失敗とか不完全な稼働だったからじゃなくて、そもそもの副作用ってことですか」
「ええ。私はこの封印の力を得てから、初めて気がつきました」
 ゼルダはぎゅっとリンクの手をにぎる。どちらの手もぼろぼろで、百年の戦いのすさまじさを感じさせた。
「今なら、分かります。遺物の研究は私にとって必要なものでした。私は古代エネルギーの研究により、力のコントロールの仕方を学んでいたのです。きっとあの研究がなければ、私は封印の力を扱いきれなかった。だからきっと、女神ハイリアも力を与える時期を遅くしたのでしょう……。
 ああ、話が少しそれてしまいましたね。そう、回生の祠は古代エネルギーを集めて、癒やしの力に変換する機能を持っています。古代エネルギーはそもそもが癒やしの属性を持つもの。それは分かりますね」
 きょとんとしているリンクへ、ウルフが助け舟を出してやった。
「ほら、ご飯食べたら体力が回復したり、傷の治りが早くなったりしたろ。それだよ」
 飲み込みの早い生徒を得た教師のように、ゼルダは微笑んだ。
「ええ。古代エネルギーはハイラルの大地に宿るもの。ですから大地の養分により育った食物は、癒やしの力を得るのです。
 そして――古代エネルギーには同時に、ある情報が含まれているのです」
「情報?」
「もしかして、思い出……ですか」
 今度はリンクが質問した。
「その通りです。この土地の持った記憶――積み重ねてきた命の歴史そのものが、古代エネルギーの源。回生の祠に集うエネルギーにも、ハイラルの地の記憶が多く含まれています」
「もしかして、それがリンクに一気に流れ込んだから記憶が飛んだとか……?」
 ありそうな話だとウルフは推測したが、ゼルダはかぶりを振った。
「そうではありません。むしろ、あらゆる土地の記憶を取り込めば、人格すら保てなくなってしまう。それを避けるために、あえて古代シーカー族は、回生の祠に記憶を漂白する機能を設けたのです」
「よ、よくそんなことが分かりましたね……」
 リンクはそれしか感想が言えない。自分の身に起こったことといえど、実感がわかなかったのだ。
「万能の力は叡智を伴うものでしたから。それに……考える時間はいくらでもありましたし」
 厄災を封印したゼルダは非常に落ち着いていた。もはや「老成している」とすら形容できるレベルだ。百年の時間が、彼女を変えたに違いない。
「ですからリンク、あなたの記憶がないことも、何も思い出せないことも、全てあなたには責任のないことなのです」
 リンクはゆるゆると息を吐く。ほおに乾いた笑みが貼り付いていた。
「そっか。最初から、記憶なんてどこにもなかったんだ。昔の僕は、もうどこにもいないんだ……」
 ゼルダは手をゆっくりと離して、今ここにいるリンクを見つめる。
「いいえ……あなたはきっと、昔のリンクが望んだ姿なのだと思います。こうありたかった自分の姿――自分を超えていくべき自分の姿として近衛騎士だったリンクが求めたのが、あなたなのではないでしょうか。彼は、勇者は一人で戦わなければいけないという思いにとらわれていました。だからこそハテノ砦でああいうことになってしまった。でも、きっと心の底では仲間とともにあることを望んでいたのだと思います。
 そしてあなたは、ごく自然に誰かと協力することを選べたのです」
「ああ、それが『勇者を救える勇者』なんだな」
 ウルフは納得する。「勇者を救えるのは勇者だけ」――近衛騎士リンクが残した言葉に隠された意味は、これだったのだ。百年前の彼はウルフの登場を予期していたわけではない。だが、輪廻する勇者の魂がいつか自分を救うことを希望していたのかもしれない。
「僕が、勇者を救える……?」
 リンクは目を見開いて胸のあたりをおさえる。そこに宿るもののあたたかさを確かめるように。
「昔の自分を救える自分になれたんだよ、お前は。まあ、俺だってお前にはいろいろ助けられたしな。俺もエポナも、こっちに来てなかったらそのまま死んでたわけだし。ですよね、ゼルダ姫?」
「えええ!?」
 リンクはぎょっとしてウルフを凝視する。ゼルダは少し気まずそうに、目を伏せた。
「はい……おそらくは。私は回生の祠にリンクを眠らせる直前に、覚醒した力を使ってシーカーストーンに細工を施しました。もともと備わっていたショウカン機能に、願いをかけて力を注いだのです。いつか目覚めたリンクの助けになるような……勇者を救える勇者がやってくるように、と」
 ウルフは照れてそっぽを向き、リンクはみるみる笑顔になる。
「全然知らなかった。ゼルダ姫が僕とウルフくんと出会わせてくれたんですね……!」
「ええ。あなたから全てを奪ってしまった私にできることは、そのくらいでした」
 悔恨の思いにかられるゼルダと違い、リンクはにこにこしている。
「そのくらいだなんて……謙遜しすぎですよ! 本当にありがとうございます」
「そ、そうですか? ええと、それで、ウルフさんが呼び出されたわけですが、プルア博士が言っていたように異世界との生物の行き来は難しいもの。ですので、死に瀕した勇者が選ばれたというわけです」
 死に瀕したという言葉を聞き、リンクは不安そうにウルフを見上げる。
「ウルフくん、大丈夫……?」
 ウルフはわしわしとその頭をなでた。ケモノの時にさんざんやられたお返しだった。
「回生の祠と同じだよ。こっちの世界で古代エネルギーをもらって、徐々に回復していったみたいなんだ」
 ゼルダが引き継ぐ。
「先ほども言ったように、古代エネルギーは食物にも含まれます。こちらで時を過ごすうちに、怪我が治っていったのでしょうね。オオカミの姿になってしまったのは、勇者の魂を持つ者が同時に存在するのを避けるためでしょうか……おそらく、瀕死で世界を渡ったウルフさんは不安定な存在になっていたのだと思います」
「もともとケモノ姿には馴染みがあったし、問題なかったけどな。それで古代エネルギーを摂取するから、変な夢をみていたと。これで全部つながったな」
 リンクは首をかしげる。
「変な夢って?」
「言ってなかったけど、双子馬宿とかカカリコ村で、百年前の出来事を夢に見てたんだ。英傑のこともいくらか知ってるんだぞ」
「へえ! 今度くわしく聞かせてよ」
 興味津々のリンクは、急に考え込む素振りをして、
「ウルフくん、ずっと自分の世界に帰りたがってたよね。本当は、早く帰って何かやることがあったんじゃないの……?」
 ウルフは軽く舌を出す。
「ばれてたか。さっきちらっと言ったけど、俺にも相棒がいたんだ。お前とは正反対のやつだった。でも旅が終わった後、そいつは別の世界に帰っていった。俺、どうしてもそいつにまた会いたくてさ。だから元の世界に戻りたかったんだ」
「そう、なんだ……」
「でもこっちなら、シーカーストーンっていう不思議アイテムがあるだろ? あれなら俺の相棒のいる世界にも行けるかもしれない。だから、手がかりを探しにこっちに帰ってきたんだ」
「それ、手伝うよ! いつもウルフくんには助けてもらったんだもの、今度は僕の番だ」
 リンクは笑顔で身を乗り出す。
 遠くからエポナの足音といななきが聞こえてきた。栗毛の馬はウルフのそばに駆け寄る。足を少し引きずっているが、大事はないようだ。
「よしよし。やっぱり俺がご主人様だよなーエポナ」
「エポナもありがとう。また、ニンジン食べさせてあげるね」
 その時、どこからともなく降ってきた花びらが、三人の視界を埋めた。白いものと黄色のもの、二種類の花弁が空を舞う。
 花弁がウルフの体に触れると、その場所がだんだん透けていく。
「ウルフくん……!?」
 リンクは目を大きく見開いた。
「ありゃ、万能の力って言うから期待してたんだけど。案外時間切れが早いんだな」
 ウルフは自分の手を確認した。指の端から消えていっている。エポナも同じように、たてがみから徐々に薄くなっていた。
「やはり、勇者の魂を持つ者が二人、同時に存在するのは厳しいようですね……」
 ゼルダはまぶたを伏せた。リンクは思い詰めた顔でウルフに駆け寄る。
「そんな……やっとこうやってお話できるようになったのに。僕……」
「情けない顔すんなって。お前は俺以外にも、もういっぱい仲間がいるだろ」
 花びらが後から後から降り注ぐ。リンクはそれをかき分けて、必死にウルフに近づく。
「でもきみが最初だったんだ。一番最初に出会った、一番大切な……相棒なんだよ」
「ありがとうな」
 ウルフは天を振り仰いだ。
「無限に降る花びらは、無限にあふれる愛を示す、か。白いのはゼルダ姫の、黄色いのは……俺のかな?」
 二種類の花びらを浴びて、ウルフはこの上なく嬉しそうにエポナの背をなでている。
 花弁を押しのけるのを諦めたリンクは、うなだれた。
「ウルフくん、僕にできることは、もうないの?」
「そうだな……」
 ウルフはにやりと口の端を吊り上げた。
「お前のメシが食いたい」
 リンクは言葉に詰まった。真剣な雰囲気から一転して、彼は混乱する。
「え、な――だってきみ、一度だって僕の料理を食べてくれなかったじゃないか!?」
「最初のまずそうなメシを見た時に『絶対食べない』って決めた手前、なんか食べたら負けみたいな気分になったんだよ!」
「そんなこと思ってたの!? 近頃の料理はまだマシだったでしょっ」
 二人はにらみ合う。苦笑したゼルダが間に入って「まあまあ」ととりなした。
 リンクは乱暴に地面を踏みしめる。
「別に、料理なんていくらでもつくるよ。だから……!」
「ああ、大丈夫、また会えるさ」
 リンクはウルフに向かって手を伸ばした。ウルフはそれを取ろうとしたが、透明になった腕はすり抜けてしまう。エポナはすでに、姿を消していた。
「あっ――」
「これからもよろしくな、相棒」
 二つのハイラルを救った勇者の笑顔は、黄昏の空と花びらの渦に溶けていった。
 遠くから、シド王子たちが呼ぶ声がする。ゼルダが心配そうなまなざしを向けても、リンクは動けないでいた。

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