終章 剣と牙のハーモニー



「みんな、大丈夫?」
 リンクがそう言って仲間たちを振り返ると、
「お前が一番疲れてるだろ」
 とテバに鋭く指摘されてしまった。彼は苦笑するしかない。
 皆、満身創痍である。だがついに、リンクたちはハイラル城本丸のすぐ前にまでやってきたのだ。
 付近のガーディアンは全て潰した。ひとまず安全を確認して、その場に座り込む。
 五種族のつくった輪の中心で、リンクは紙の地図を広げた。
「この先にあるハイラル城本丸に、ゼルダ姫とガノンがいるはずだ」
「いよいよ突入するゴロね」ユン坊が腕に力を込める。彼の護りの力は強力だった。おかげで幾度窮地を救われたか分からない。突入した仲間たちが全員五体満足を保てているのは、彼の功績が大きいだろう。
 リンクは額に流れる汗を拭いて、告げる。
「うん。……って言いたいところだけど、みんなは先に城を出てほしい」
「何故だ!?」
 シド王子が間髪入れずに抗議した。他の皆もむすっとした顔をしており、王子に心底同意しているらしい。
 リンクはかぶりを振る。
「この先は、本当に何があるか分からないんだ。僕にはシーカーストーンがあるけど、これだと一人しか離脱できない。だから今のうちに、みんなは安全な場所に退避してほしい」
 最後に待つのは当然、厄災ガノンとの決戦だ。もうリンクは完全に仲間たちの安全を保証できなくなった。だからこうして、失礼を承知で頼み込んでいる。
「本当にいいのか」ビューラが険しい顔で言った。どこかリンクを心配しているようにも見える。
「大丈夫、危なくなったらすぐ逃げます」
 リンクはしっかりと首肯した。そして、へにゃりと表情を崩す。
「でも……ウルフくんが見てるから、ギリギリまではがんばらないと」
 仲間たちの間で力のこもらない笑いが弾けた。だがそれだけで、ハイラル城を覆う赤い霧が少し晴れたかのようだった。
 残った物資を全員からかき集め、リンクは本丸の入口をにらみつけた。
「それじゃ、行ってきます!」
 仲間たちの激励を振り切るように、彼は本丸に駆け込んだ。
 そこは円形の広間であった。床にはハイラルの技術の粋を尽くした意匠が凝らされ、かつて王族がここにいたことを教えてくれる。もしかすると、王や姫の前で、この床に過去の自分がひざまずいたのかもしれなかった。
「……っ!」
 禍々しい気配の出所は天井であった。本来シャンデリアがぶら下がっていたであろう場所に、不気味にうごめく繭のような物体があった。
(あ、あれがガノン……?)
 思わず後ずさりそうになる。厄災といえば、神獣やハイラル平原に怨念の沼と呼ばれるドロドロしたものを残していた。あれの親玉ならば、この目を背けたくなる見た目も道理であった。
 不意に、その物体の中から金色の光が漏れ出す。
「ゼルダ姫!」
 すぐに分かった。ゼルダ姫があの中で戦っているのだ! 
『リンク、ごめんなさい。私の力ではもう、ガノンを――』
 突如として物体から光線が発射された。ガーディアンの放つものと似ているが、出力が桁違いだ。リンクは慌ててその場に伏せる。光線は本丸を内側から縦横無尽に切り刻んだ。床が、壁が、崩れていく。
「うわああっ」
 ガノンの繭がぱっくり開いた。そこから落ちてきたものと一緒に、リンクは床が抜けた先――ハイラル城の地下へと落とされた。
 リンクは急いでパラセールを開いた。腕に軽い衝撃が走り、落下が滑空に切り替わる。
 そして、繭から姿を現した、厄災の姿が明らかになった。
(――!)
 厄災ガノンはまるで蜘蛛のようにたくさんの足を持っていた。前足の二本は腕のように地面から持ち上げられ、その先が巨大な刃になっている。もしかすると、ガーディアンのような遺物を取り込んでいるのかもしれない。ガーディアン嫌いのリンクにとっては吐き気を催す外見だった。
 リンクはゆっくりと床に降り立つ。ガノンと目が合う。厄災の頭部では赤いたてがみが燃え盛り、かろうじて生物らしさを保っていた。あの体の中には、一向に姿を見せないゼルダ姫が囚われているようだった。
(どうやって戦えば……)
 リンクは震えて崩れそうになる足を必死でおさえる。
 胸のあたりがひどく熱かった。緊張で心臓が破裂しそうだからではない。四神獣攻略によって授かった英傑の加護が、彼らの魂が、騒いでいる――! 
 彼の頭の中に、頼もしい声が聞こえてきた。
『言っとくけど君のためじゃないよ? 僕はガノンに借りを返したいだけだからね!』
 リーバルの少し尖った声が。
『これが私の最後の力……負けないで!』
 ミファーの優しくも強い意志を感じさせる声が、
『行くぜ相棒! さあこいつを喰らいなガノン!』
 ダルケルの頼りがいのあるたくましい声が、
『派手に行くとしようかね! 御ひい様、もうちょっとの辛抱だよ!』
 ウルボザのゼルダを気づかう濃やかな声が、聞こえた。
 それは英傑たちの魂が各地の神獣に乗り込み、そこで叫んだ台詞と一致していたらしい。皆は「リンクがガノンに挑む時、必ず援護する」と約束してくれた。それが、今この瞬間なのだ。
 四方の神獣から発せられた光は、本丸の開け放たれた天井から降り注ぎ、ガノンに命中した。みるみる厄災の力を削り取っていく。
「み、みんな……!」
 英傑たちは、リンクが一切彼らのことを思い出せなくても、勇者を信じて助けてくれた。
 ――今度はリンクがその期待に応える番だった。
 背中の剣が震えた。鞘が熱くなっている。リンクは反射的に手を伸ばす。剣の柄に右手で触れると、マスターソードは冗談のようにするりと抜けた。
「きみも、協力してくれるんだね」
 刀身は青く輝いている。厄災の赤を跳ね返す清浄な光、ハイラルの空を思わせる明るい青だ。
 リンクは退魔の剣を構えた。
「行くぞ、ガノン!」
 神獣の攻撃から立ち直りつつあった厄災に、彼はまっすぐ剣を振り下ろした。
 ガノンは苦悶の声を上げる。神獣の攻撃だけでなく、退魔の剣の一撃も確かに効いていた。いかな厄災といえど、攻撃すれば怯み、力を弱めるのだ。
 すぐにガノンの大剣と化した腕がリンクを薙ぎ払おうとする。彼はバックステップでかわした。
 相手の方がはるかに強大で体力もあったが、リンクはひとつひとつの攻撃を、落ち着いて対処していった。ハイラルで遭遇した様々な魔物や神獣、カースガノンとの戦いで培った技術を活かし、あるいは英傑の加護を最大限に活用して。壁を登ってガノンが逃げた際は、リーバルの猛りで追いかけてオオワシの弓から放つ矢で撃ち落とし、床でもがくガノンにはウルボザの怒りと言う名の雷を食らわせる。
 すると突然、ガノンの全身が炎に包まれたように赤く光り出した。
「なんだ……?」
 警戒してリンクは距離を取る。矢を射かけても、まるで効いている気配がない。あちらにも身を守るすべがあるということか。
 攻撃が通じなくなると、一気に劣勢に立たされた。頼みの綱のダルケルの護りも今は沈黙している。第一、英傑たちは最後の力を振り絞って神獣から攻撃を放ってくれたのだ。これ以上加護には期待できなかった。
 リンクはガノンの投げた槍を避けきれず、まともに盾で受けてしまった。
「しまった……!」
 城で見つけた近衛の盾が、ばらばらになって足元に落ちる。
 壁に上ったガノンが左手の砲台を持ち上げる。砲身はリンクの頭を狙っていた。
 かつて、自分はガーディアンの光線に殺された。それが無意識にトラウマとなって、この間はハイラル平原での二度目の敗北を喫し、ウルフを失った。
 だが、今のリンクはその時とは違う。
 彼は一人で戦っているわけではない。ここに来るまで、多くの人の助けを借りた。それは、リンクが弱かったからこそ選べた道なのだ。だから最後も頼もしい味方に頼ると決めた。
 一か八か。彼は水平にマスターソードを構える。
(マスターソード、頼む――!)
 リンクはまぶたを閉じる。ガノンから光線が発射され、カッと体が熱くなった瞬間、剣を左から右に振り抜いた。
 吹き飛ばされかねない衝撃を感じた。全身の骨が軋んだが、リンクはなんとか踏ん張る。そう、彼は光線の直撃を受けたわけではなかった。
 ――マスターソードが、ガノンの光線を跳ね返したのだ。
「やった……!?」
 まともに自分の攻撃を食らったガノンが、壁から落ちてぐずぐずと溶けていく。まるで、怨念そのものとなっていくかのように。それでも厄災はリンクに向かって足を動かそうとしていた。
「い、いい加減にしてくれよ……!」
 真っ青になったリンクが壁際に逃げる。するとガノンはいきなり爆発し、塵となってあたりに漂った。
「まだ終わったわけではない」とリンクは直感した。ガノンの塵は、天井の穴に向かって吸い込まれていった。
「追いかけなくちゃ」
 その途端、リンクの体が金色に光る。空間転移――だがシーカーストーンは使っていない。これはゼルダ姫の力だろうか。
 気がつくと、彼はハイラル平原に立っていた。城はかなり遠くに見える。世界は黄昏色の雲に包まれていた。
 リンクの目の前で、厄災の塵がどんどん集まり、ある姿を形成していく。
『ガノン……はるか古代に生まれ、幾度滅ぼされようとも復活を繰り返す、憎悪と怨念の権化』
 どこにいるかも分からないゼルダ姫の声が聞こえた。その声色は、どこかガノンを哀れんでいるようだった。
 渦巻く怨念から、四つの足が生えた。頭部には角がうねり、全てを飲み込む大きな口がぱっくり開く。それは巨大な魔獣だった。全身が赤黒く輝き、この世の全てを圧倒している。
『復活を諦めない妄念から暴走した姿……世に放てば、百年前を越える悲劇となる……でしょう……』
 ゼルダ姫の声が、突然切れ切れになる。
「姫!?」
『ごめんなさい、力が……もう……。あとは、あなたと彼に託します……』
 彼――リンクの心臓が跳ねた。何故か、名前も聞いていないのに、ゼルダの示す人物に思い当たったのだ。
『目覚めてからあなたの歩んできた旅路は、どれもあなただけのものです。私はあなたを……あなたの勇気を信じています。何故なら、勇気だけは思い出す必要なんてない――決して忘れないものだから!』
 ふっとあたたかな気配が消える。残されたのは魔獣ガノンだけだ。
(さて、どうしようかな)
 背中を冷や汗が流れる。リンクの武器はもはや、マスターソード一本だけである。いかな退魔剣といえど、あの巨大な化物に通用するのだろうか。そもそも、まともに魔獣に近づけるかどうかすら怪しかった。
 怨念の光をたてがみのようになびかせたガノンは、リンクを一瞥すると、急に方向を変えてどこかへ猛進しはじめた。
「しまった……!」
 魔獣が目指すのは東。カカリコ村やハテノ村がある方角だ! 
 慌ててリンクが追いかけても、ガノンとの距離は開くばかりだった。魔獣は口から炎を吐いて草木を焼く。厄災の足跡には怨念の沼が残された。まるで、ハイラルの生命を枯らし尽くそうとしているかのようだった。
 早く止めなければ。だがシーカーストーンのワープを使おうとしても、エネルギーが足りないのかうまく起動できなかった。
(どうしよう。肝心な時、僕はいつも……!)
 リンクはマスターソードの柄を右手で強く握る。退魔の剣は輝きを失っていなかったが、今はむなしいだけだ。
 彼のほつれた金髪を微風が揺らした。ハイラルの夕焼け空は、こんな時でも素晴らしく美しい。
 後方から、聞き覚えのある馬のいななきが響いた。
「エポナ……?」
 リンクは振り返った。馬は小気味よいリズムでこちらへと駆けてくる。逆光になってよく見えないけれど、くらには誰かがまたがっていた。
 騎馬は棒立ちになったリンクの横をすり抜ける。その刹那、くらの上から伸びてきた手が彼の肩のベルトをつかむ。
「え、うわっ!?」
 リンクはひょいと持ち上られて、騎手の後ろに座らされた。
 慌ててくらの上でバランスをとる。思わず、前に乗る人物の腰に手を回した。
「……情けない声出すなよ、勇者だろ?」
 リンクは顔を上げた。肩越しに、騎手の横顔がちらりと見える。初めて会ったはずなのに、リンクはその人を知っていた。
 彼は緑の帽子に、そろいの衣をまとっていた。その格好はかなり古くさいのに、これ以上ないほど似合っている。そして、青い切れ長の瞳は――ずっと親しんだ、誰よりも頼もしく感じてきたあのケモノの目だった。
「ウルフくん……!?」
 呼びかけられた青年はにやりと笑った。
「本当は別の名前があるんだけどな。ここじゃそう呼ばれてやるよ」
 リンクはパニックになる。厄災を追っている最中であるということすら、頭から一瞬吹っ飛んだ。
「え、嘘、なんで!? 本当にウルフくんだよね!? 森の馬宿で待ってたんじゃないのっ」
「実はハイリア人だったんだよ。待つのも飽きたから追いかけてきた。とにかく、細かいことは後だ。今はガノンをやるのが先だろっ」
 ウルフはエポナに拍車をかけ、どんどんスピードを上げていった。そもそも巨大な魔獣ガノンは、一歩一歩が大きすぎる。今は平原にいるからいいが、そのうち起伏や障害物が出てきたら、魔獣に追いつくのは困難になるだろう。
「そ、そうだね。厄災と戦わないと」
 リンクは木をなぎ倒しながら進むガノンに、無理やり意識を向ける。
「でもどうしよう、あんなのに攻撃できる武器なんて、もう……。弓もほとんど壊れちゃったし」
「こっちのゼルダ姫から預かってるものがある。俺の背中の弓を使え」
「こ、これ?」
 ウルフが背負っていた弓を、リンクは手に持った。弦までもが金色に輝き、優美な意匠が施されている。そこにはゼルダ姫の持つものと同質の、聖なる力があふれていた。
「光の弓矢。ガノンに効くはずだぞ」
 リンクは瞳を輝かせる。
「すごい……ウルフくんはなんでも知ってるんだ」
「まあな。もっと褒めろ」
「……意外とお調子者だったんだね?」
「お前に言われたくねぇよ」
 リンクはくすりと笑った。ウルフは憮然としながらエポナを走らせる。熟練した、見事な馬術だった。
 リンクは軽くエポナの背をなでる。
「そっか、エポナの持ち主はきみだったんだね。それで、本当に……ウルフくんは勇者だったんだ……」
「自慢じゃないが、ガノンと戦った経験もあるんだぞ」
 と言いつつウルフは鼻高々だった。リンクは何よりもその存在を心強く思う。
「お前やぶさめ苦手だったろ。俺が馬を操るから、お前は矢に集中するんだ」
「分かった。ガノンに近づけて!」
 騎馬は逃げるケモノを追うことに慣れていた。ウルフはかつて、エポナに乗って山羊追いをするのが日課だったのだ。牧童の腕の見せどころだった。
 騎馬は岩を飛び越え、坂を駆け下りた。無理な指示にもエポナはよく応え、だんだんガノンに近づいてきた。ウルフが叫ぶ。
「ガノンの体に、金色の光が見えないか!? それがゼルダ姫がつくった弱点の目印だ、そこを狙え!」
「よしっ」
 リンクは低く息を吸い込んだ。集中モードに入った証だ。
 光の弓を構える。その弓につがえることで、ただの木の矢が聖なる光の矢となった。まっすぐに飛んだ矢は、ガノンの脇腹の弱点を撃ち抜いた。
「やった!」「よし、その調子だ!」
 二人は歓声を上げた。エポナもいっそう力強く地面を踏みしめる。
 ガノンが咆哮した。すると空に暗雲が立ち込め、雨が降ってきた。視野も足元もひどく悪化する。霞んだ視界の向こうに、赤い光点が複数見えた。
「あれは……」
「まさか、ガーディアンか」
 ハイラル平原には、歩行型ガーディアンが無数にいた。ガノンが怨念の力を使って集めたのだろうか。
 ウルフは後ろを振り返らないまま、気づかわしげな声を出す。
「……大丈夫か?」
「なんとかね。今は、みんなやきみがいてくれるから」
 リンクは弱々しく微笑んだ。近づいてきたガーディアンの目に光の矢を当てる。古代兵装・矢と同じく、遺物はその一撃で沈んでいった。
 だが追っ手の数が多すぎた。いちいちガーディアンの対処をしながらガノンを目指すのは、困難を極めた。
「どうしよう、ウルフくん。こういう時はいつもどうしてた?」
「い、今考えてるところだよ」
 馬を操りながらでは、なかなかいいアイディアも思い浮かばなかった。
 少しでもガーディアンの進行を食い止めようと、エポナは森に突入する。
 出し抜けに、木々の間から白い翼が飛び立った。リト族の戦士が弓を構え、濡れそぼったガーディアンの目に、電気の矢を命中させる。
「テバさん!?」リンクは目を丸くした。
「いいから、お前はガノンを目指せ」
 テバは空を飛び、光線を避けて次々とガーディアンを撃ち抜く。
 森には他の仲間たちも潜伏していた。
「できるだけこちらで引きつけるゾ!」
 シド王子はいつの間にかゾーラ族の応援を呼んでいたらしい。ゾーラたちは槍を持ち、壁をつくってガーディアンを押しとどめる。その先頭にはユン坊が立って護りの力を展開させていた。
 雨はますますひどくなり、雷が鳴った。ゾーラは震え上がる。
「まずい、ゾーラたちに落ちたら――」
 稲光によって世界が白と黒に染め上げられた。だが雷は誰にも直撃しなかった。
 ゾーラの後ろで、ゲルド族が輿を担ぎ上げている。その上には、雷鳴の兜をかぶったルージュがいた。
「ルージュさんまで……!」
「念のため様子を見に来て正解だった。リンク、早く厄災を!」
 皆が勇者を応援していた。
「頼もしい仲間だな」
 ウルフがぽつりと言うと、「……うん」と小さな返事が聞こえてきた。リンクはどうやら感極まっているようだった。
 二人と一頭は森を抜け、ガノンの追走を再開する。魔獣の前方には山が見えてきた。
「あれに登られるとまずい……!」
 ウルフは襲歩でエポナを走らせる。だがガノンは、一度ぐっと身をかがめると、飛び上がった。
「ジャンプした!?」
 あっという間に山頂である。ものすごい質量のものが落ちてきて、山が悲鳴を上げた。ガノンはそこに陣取ると、くるりとこちらを――リンクたちを振り返る。
 ガノンは口を開けた。そこに、怨念の炎が溜まっているのが見える。
「まずいっ」
 ウルフはとっさにエポナを急停止させ、方向転換しようとした。
 しかし炎の勢いの方が早かった。
「ぐっ……!」「うああぁっ!?」
 二人はエポナの背から放り出される。ウルフは雨に濡れた草原に背中から叩きつけられた。そして運の悪いことに、リンクが落ちた先はガノンのつくり出した怨念の沼だった。
 リンクはくぐもった悲鳴を上げ、ずぶずぶと沼に沈んでいく。
「お、おい無事か!?」
 ウルフは躊躇なく沼に足を踏み入れた。自らも腰まで浸かり、リンクを引き上げる。当然、怨念に触れた皮膚には焼け付くような痛みが走るが、リンクはほとんど首まで入っていたのだ。
 引きずり出したリンクを草の上に横たえる。英傑の服の加護のおかげか、思ったよりもひどい怪我にはなっていない。
 炎に巻かれたエポナは足を引きずっていた。ガノンがこちら目掛けて攻撃してきた以上、馬で追いかける必要はなくなったかもしれないが、今度は攻撃から逃れることが困難になった。
「リンク……リンク!」
 ウルフが必死に呼びかけると、リンクは薄く目を開けた。
「い、生きてるかっ!?」
 小さく唇が動く。
「お腹……すいた」
 ウルフは思わず脱力した。
「これが終わったら、腹いっぱい食べろよ」
「そうする……」
 リンクは寝ぼけたような顔で、なんとか自力で起き上がる。
 ずしんと地響きがした。ガノンの足音だった。どんどん大きくなっている。二人がいるのは窪地で、魔獣の姿は見えなかったが、気配はひしひしと感じていた。
「ガノンがこっちに向かってる。まだ、戦えそうか」
「たぶん、いけるよ」
 リンクは光の弓をしっかりと握っていた。怨念の沼に落ちても離さなかったことは褒めるべきだが、悪い状況に変わりはなかった。
 リンクは雨に濡れた前髪をかきあげて、黒い空を見つめる。
「ねえ、ガノンの弱点ってないのかな」
「弱点か。俺の時は胸の傷跡だったけど、今はどうも違うみたいだな。他によくあるのは目……かな」
「目? それっぽいのは見当たらなかったけど」
 リンクは考え込む。
 たてがみの光が強すぎて、ガノンの目の印象は薄かった。おそらく、あれは弱点ではない。ウルフの長年の勘がそう告げている。
「怨念の中に隠れてるのかもしれない。そういえば、額のあたりにもゼルダ姫のつくった印があったような……でも光が弱くてよく見えなかったんだよな」
 リンクはうなずいた。
「よし、額をマスターソードで切ってみよう。そこに弱点があれば、光の矢を打てばいい」
「……そうだな。どのみちそのくらいしか方法は思いつかないし」
 リンクはマスターソードを鞘から抜こうとして、顔をしかめる。
「おい、どこか痛むのか」
「ごめん、弓はなんとか耐えられそうだけど、剣は厳しいかも……。そうだ、ウルフくんがこの剣を使ってくれないかな」
 リンクは無造作に退魔の剣を鞘ごと背中からとって、ウルフに差し出した。
「お、俺が!?」
 確かにウルフはかつてマスターソードの主であった。だが今は違う。
 その戸惑いを見抜いたのか、リンクは首を振る。
「ただ、剣に手伝ってもらえばいいんだよ。主である必要はない」
「そうだな……マスターソード。もう一度だけ、俺に力を貸してくれないか」
 軽く力を込めれば、あっさり鞘から剣が抜けた。リンクが持った時のように刀身は光っていないけれど、無事にウルフの手に収まった。
「良かった。それじゃあ、次は厄災の額をマスターソードで斬るための方法を考えよう。僕はパラセールがあるからガノンの炎の上昇気流でなんとかなるけど、ウルフくんはそうもいかない。ガノンの頭より高い場所から飛び降りられたらいいんだけど……」
 リンクは人の使い方と段取りがうまい。追い詰められていても、冷静に状況を判断できている。それは、ウルフがそばにいるからかもしれなかった。
「高い場所か」
 ウルフはあたりを見回す。そして、ある場所を見つけた。
「あそこなんてどうだ。リンクが弓で狙うのにもいいスポットだし」
 平原にぽつんと立ち尽くす崩れかけの建物。どうやら物見塔の跡のようだった。ガノンの攻撃を喰らえばひとたまりもないが、一時的な足場にするには十分だ。
「でも、結構遠いよ。登ってる間にガノンに追いつかれないかな」
「一瞬で登れるいい方法がある」
 ウルフは問答無用で腕を伸ばし、リンクの首根っこをつかんだ。
「えっ」
 仰天した彼を無視して、「エポナ、しばらく隠れててくれ」と愛馬に指示してから、ウルフは自分のハイラルから持ち込んだアイテムを取り出す。
 左手に装着したのはクローショットだ。ウルフは同じものをもうひとつ持っているが、今は片手だけで十分だろう。
「それっ!」
 ウルフの手から鉤爪付きの鎖が勢いよく発射され、物見塔の壁に垂れていた蔦をつかむ。鎖は素早く巻き戻り、二人を一気に塔の上へと引き上げた。
「何これ、便利すぎ!」
 リンクは目を白黒させている。ウルフは得意満面だ。
「お前ならどんな壁でも自力で登れるからいらないだろ?」
「え、普通に欲しいって。後で使わせて」
「そんなこと言ってる暇ないぞ、ガノンが気づいた!」
 魔獣がこちらをにらんでいた。炎は届かないと判断したのか、ゆっくりと二人の方へ前進してくる。
「やるぞ。ゼルダ姫が待ってるからな」
「うん。でも姫が待ってるのはたぶん、僕じゃなくて……百年前の近衛騎士だよね」
 ウルフは黙る。リンクは雨雲の向こうを見つめているようだった。
「なんで僕が勇者なのか……百年前の騎士じゃなくて今の僕がやるしかないのかって、ずっと考えてたよ。
 でもハイラルに住んでいる多くの人たちにとっては、ガノンを倒すのが誰かなんて関係ないんだ。英傑たちだってシーカー族だって、ゼルダ姫を助けられればそれでいい。勇者が誰だっていいんだよ。
 僕はたまたま、厄災を倒したいと思ってる。みんながいれば、それができるって信じてる。だから今、ここで戦ってるんだ」
 迫りくる厄災ガノンに目線を注いだまま、リンクは静かに語った。
 いい加減、ウルフは我慢ならなかった。やや乱暴に隣の勇者の肩を押す。
「このハイラルの勇者が誰でもいいだなんて思ってるやつ、お前だけだよ」
 リンクは弾かれたようにウルフに向き直る。気高きケモノを思わせる、真剣な顔がそこにあった。
「少なくとも俺は、お前以外の誰かの相棒になりたいなんて思わないからな」
 ウルフが左手で握ったマスターソードの柄に、リンクの右手が重なる。
「……うん」
 ガノンはもうすぐそこまで来ていた。ウルフは退魔の剣を握り直し、肩をすくめる。
「ま、俺の相棒はもう一人いるんだけど」
「えっ。嘘」
 リンクの驚愕した顔は見ものだった。ウルフはいたずらっぽく笑う。
「ガノンを倒したら教えてやるよ。それじゃ、行ってくる!」
 ウルフはうろたえるリンクを置いて、物見塔から飛び降りた。目の前に厄災の頭がある。
(厄災ガノン、か……)
 ウルフが戦った時は、人の姿をしていた。魔王ガノンドロフと名乗る男であった。分かり合えるはずなどなかったが、一応会話だってできたのに。何が起こってこんな化物の姿となったのか、もしくはこの状態からいずれ人に戻るのか、それは分からない。けれど、ガノンという名の厄災はウルフの大好きな人や場所を破壊してしまう。彼はどうしてもそれを許すことはできなかった。
 ウルフは飛び降りた勢いのままマスターソードをガノンへ突き刺した。傷口から金色の光があふれる。大当たりだ。
「リンク、今だ!」
 ウルフはガノンの額からバックステップで飛び降りる。リンクはすでに空中にいて、集中態勢に入っていた。
 勇者は一心に思いを込めて、光の矢を放った。
 ――さようなら。
 リンクの唇が動く。二人は光に包まれた。



 リンクは影も光もない、ただ真っ白な世界にいた。彼は、誰かが目の前にいることに気づく。
 自分と全く同じ背格好で、ぼろぼろの英傑の服を来たその人は、
「ありがとう」
 とぎこちない笑顔でそう言った。

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