終章 剣と牙のハーモニー



「リンク!」
「彼」は叫び、上半身を起こした。体からはらりと布団が落ちる。
「あ、あれ?」
 オオカミでは骨格的に不可能なことを彼はやってのけた。そして、喉から声が出る。自分の言葉が聞こえる。
 手のひらを見た。鋭い爪の生えた前足でなく、ちゃんと五本の指がある! 
(俺……元の姿に戻れたんだ!)
 こぶしを握り、彼は幸せを噛み締めた。しかも、迷いの森で見た悪夢とは違って、自分は間違いなく生きている。
 ふと気配を感じて顔を上げると、幼馴染がそこにいた。
「ど、どうしたの? やっと起きたと思ったら、いきなり自分の名前を叫んで……」
 コップに入った水を持ち、イリアが心配そうに彼を見つめていた。
 そこは涙がでるほど懐かしい、彼の自宅であった。「リンク」の買った立派な家とは違うけれど、一人で住まうには十分の、細やかなつくりが自慢だった。
「俺……寝てたの?」
 間抜けな発言だったのだろう、イリアはため息をついて水を渡す。
「正確には、気を失ってたの。フィローネの森に向かう途中の吊橋から落ちて……ね」
「えっ」
 そうだ、あの悪夢。エポナと自分が谷底にいて、血まみれで横たわっていた。彼は水を吹き出しかける。
「エポナは!?」
「無事よ。あの吊橋、足場が少し傷んでるところがあったみたいで……見事にエポナが踏み抜いて、落ちちゃったみたい。でも奇跡的に二人ともかすり傷ひとつないなんてね。さすがはリンクだなって、父さんと話してたのよ」
 彼は「あ、ちょっと!」と止めるイリアを無視してベッドから飛び出した。はしごを降りて、外に出る。
 家の脇にあるささやかな馬屋には、栗毛の愛馬がおさまっていた。
「エポナ……!」
 思わず首に抱きつく。エポナはぶるるといなないた。こういう行為も、オオカミの時にはできなかったことだ。
 彼はエポナの耳元に話しかける。
「なあエポナ、俺たちいつの間にこっちに帰ってきたんだ。お前だって、あのハイラルのことは覚えてるだろ」
 エポナは不思議そうな目をしている。
「エポナ……?」
 彼はにわかに不安に襲われた。
 まさか、あのハイラルこそが彼の見た夢だったのだろうか。そんなはずはない。夢にしてはリアルすぎて、長すぎた。リンクの無邪気な笑顔が目に焼き付いて離れない。
(あいつ……ハイラル城から帰ってきた時俺がいなかったら、絶対にわめくだろうな)
 そうだ、自分はこんなことをしている場合ではない。
 病み上がりのくせに元気な彼を追いかけて、イリアが家から出てきた。
「リンク、そういえばゼルダ姫様から手紙が届いてるわよ」
「へっ?」
 一瞬、向こうのハイラルでガノンを抑えているゼルダからの手紙かと思い、うろたえた。
「呼び出しじゃないの? お城の仕官、断ったんでしょ」
 その事情を思い出すのに、かなりの時間がかかった。彼は魔王を倒した後、こちらのゼルダに「城に来て働いてほしい」と頼まれたのだが、断ったのだ。そして瓦礫の山となったハイラル城から逃げるように飛び出した。ミドナを探すために――
「ああ……そうだったような」
「とにかく、読んでみたら」
 ほら、と手渡される。署名もスタンプも便せんも、確かにハイラル王家の正式なものだった。
 彼は慣れ親しんだ文字に目を通す。「文字を読む」という単純な行為ができる嬉しさといったらない。
「あなたに見せたいものがあります。城まで来ていただけませんか」
 ゼルダはそう書き記していた。姫君と対面すれば、仕官を断ったことについて何か言われるかもしれない。だが、これはいいタイミングであった。
(俺も、あの人に話したいことがある)
 きっとゼルダ姫なら、自分の話に興味を持ってもらえるはずだ。
 彼は家から旅の荷物を取ってくると、愛馬にまたがる。
「エポナ、行くぞ!」
 愛馬は張り切って前足を持ち上げた。やはりエポナの主は自分でなくては、と彼は思ってしまった。
 イリアはその背に向かって叫ぶ。
「橋は応急処置してあるけど、また落ちたりしないでよ!?」
「大丈夫だって~!」
 彼はトアル村の反対方向にある森へと繰り出した。
 精霊ラトアーヌの泉の横を抜けると、例の吊橋がある。彼は思わずエポナから降りて、こわごわと渡った。
 エポナが踏み抜いたあたりには新しい板が渡してあった。それを慎重に避け、手すりの隙間から谷底を見下ろす。ここから落ちて死ぬだなんて、そんな間抜けな死因があるものか。
 だが、あの時感じた圧倒的な死の感触が、偽物だったとも思いがたい。
(それでも今は生きてる……だからこそやれることがある。そうだよな、リンク)
 百年を眠りの中で過ごし、死の淵からよみがえったリンクのように。過去を覚えていなくても、怖がりな自分を乗り越えて、勇者の道を選んだリンクのように。
 彼は馴染みあるハイラル平原を抜けて、城下町にたどり着いた。
 もちろん廃墟になどなっていない。人々とすれ違うのも困難なほどの大にぎわいだった。兵士が行進するそろった足音、呼び込みの華やかな声――活気あふれる音の洪水が鼓膜を叩く。その当たり前の光景は、しかし恵まれている証であった。そして、自分がそれを守ったことの喜びが、今さらのようにわいてくる。
 彼はエポナを降りてゆっくり街を歩き、その光景を胸に刻みつけた。
 ハイラル城正門にたどり着く。門番に挨拶をすると、すぐに通してくれた。魔王との決戦の際に城の天守閣は崩れたはずだが、あれから真っ先に修復されたらしい。入口でエポナを預けると、兵士に案内され、彼はゼルダ姫が待つという玉座の間へとやってきた。
 大扉を開ける。すぐそこにゼルダ姫が立っていた。彼がやってくるのを予期していたようだった。
「お久しぶりです」
 何度会っても、月の光のように美しい王女であった。彼はかすかに緊張しながら、歩み寄る。
「俺に用があるとうかがったのですが」
「はい。こちらに来ていただけますか」
 ゼルダはきびすを返した。後に従う。
 二人の間に、会話はない。生まれも育ちも何もかもが違いすぎる――けれどもガノンドロフとの決戦を、そしてミドナとの別れを共有した。二人にはそれだけで十分なのだ。
 ゼルダは玉座の上に視線を向ける。ガノンに壊されたはずの、神話に登場する三女神の石像が、見事に復元されていた。彼女たちが掲げるのは、三つの三角が連なったハイラルのシンボルマークだ。
「あの中心を見てください」
 ゼルダがそう言って指さすと、聖三角の像がきらりと輝いた。みるみる黄金色の光が満ちていく。何度か向こうのハイラルでも見た光だった。実体がないにも関わらず、その明るさには圧倒的な存在感がある。
「あれは……!?」
 ゼルダは静かに唇を動かす。
「トライフォース。あらゆる願いを叶える万能の力です」
 その言葉を咀嚼するのに、彼は数瞬の時を要した。
「な、なんでそんなものがここに!?」
 子どもの頃、おとぎ話で読んだことがある。トライフォースはハイラルを創生した三女神が残したものだと。こんな場所に無造作に置かれていていいものではない。
「あの三角がそれぞれひとつずつ、私とあなた、そしてガノンドロフに宿っていたのです」
 彼ははっとして、左手の甲を見る。物心ついた時には、すでにそこに聖三角の痣があった。なんだか前よりも薄れている気がする。
「トライフォースはガノンドロフが倒れたことで役目を終え、ひとつに戻った……ということだと思います」
「それじゃ、あれに触ったら願いが叶うとか……?」
「試してはいませんが、そうでしょうね。そしてこのことは、あなた以外にはまだ誰にも話していません」
 ゼルダは彼をまっすぐに見つめている。トライフォースをどう扱うべきか、相談したかったのだろう。
「試さなかったんですか」
「ええ。私の願いはどれも、きっと自分の力で成し遂げられるものだからです。あなたには……奇跡の力にすがっても、叶えたい願いがありますか」
 どきりと心臓が跳ねた。
 ――あった。自分はかつて、決して叶わぬ願いを抱いていた。
「俺は……ミドナにまた、会いたかったんです」
 その言葉は過去形であった。
「あいつともう会えなくなるだなんて、思ってもいなくて。ミドナが考えた末に選んだことだって分かってても、どうしても納得できなくて……ただ、もう一度会いたかった」
 ゼルダは沈痛な面持ちでまぶたを閉じた。彼女にも、この気持ちは分かるはずだ。
「――ならば、トライフォースで影の世界への道をつくりますか」
 そのセリフは、どこか彼を試すようであった。
 彼は力なく首を振る。
「いや……ゼルダ姫、長くなりますが、俺の話を聞いていただけますか」
 彼は立っているのも落ち着かないので、玉座の前にある段差に座り込んだ。ゼルダもスカートを整え、その隣に腰を下ろした。
 前を向き、彼は独り言のようにつぶやく。
「俺はつい最近まで、こことは違う、別のハイラルに行ってたんです」
 彼は洗いざらいあの冒険のことを話した。勇者リンクと巫女ゼルダの話。シーカー族と呼ばれる叡智を持った種族。様々な人と出会った。その間、自分はずっとケモノの姿となって旅をしていた――
「……夢だと思いますか」
 一気に話し終えた彼は少し息をつくと、思わずゼルダにそう尋ねていた。
 ゼルダは手袋をした細腕に目線を落とす。
「ハイラル王国において、ガノンとの戦いが幾度か繰り返されてきた、という記録は確かにあります。ですが、シーカー族という種族の持つ技術力でガノンを封じ込めたという記録は……少なくとも私は知りません」
 いつしかあたりは薄暗くなっていた。彼の大好きなハイラルの黄昏が、高窓から玉座の間に差し込む。
「そう……ですか」
 彼の視線は、長く伸びる自分の影にぼんやりと投げかけられる。ゼルダは自分の胸にそっと手を当てた。
「リンク、あなたのおかげでハイラルは救われました。今度はきっとあなたが救われる番なのです。トライフォースは触れる者を選ぶという言い伝えがありますが、もともとその一部を宿していたあなたならば、資格は十分のはずです。叶えたい願いがあるのなら、あれをどう使うべきか……一晩よく考えてみてください」
「分かりました。ありがとうございます、ゼルダ姫」
 万能の力によってどんな願いでも叶えられるチャンスが得られた。本来ならば、喜ぶべきだった。だが――どんどん向こうのハイラルが遠くなっていくようで、彼は不安だった。
 ゼルダ姫は少しだけ表情をゆるめる。
「あなたは……あちらのハイラルが好きなのですね」
 彼自身も、とっくの昔に分かっていた。リンクとともに歩む世界が、人々が、自分の心の中でどんどん大きくなっていくことを。
 彼は淋しげに笑った。
「影の国の事情に首を突っ込んだ時と同じです。俺は、別の世界がほいほい好きになるたちでした。たぶん勇者って、そういうバカなやつのことを言うんです」
 遅くなって失礼しました、と彼は退出しようとする。その間際にゼルダ姫が声をかけた。
「ですが、あなたはたとえ好きな世界や場所が増えたとしても、このハイラルのこともずっと同じだけ好きでいられるのではありませんか」
 愛を注ぐべき対象が増えても、気持ちの総量が変わらなければ、分け与える愛情はどんどん減るばかりだ。だが彼はそうではない。愛すべきもの、守るべきものが増える度に愛おしむ気持ちが大きくなっていく――勇者とはそういうものではないか、とゼルダ姫は言っているのだった。
 彼は何と返事をすればいいか分からず、黙っていた。
 ゼルダ姫はそこで、いつもとは違って少し温度のある声色になる。
「それと、言うべきか迷っていたのですが……あなたのそのピアス、とてもよく似合っていますよ」
 彼は「え」と声を漏らして耳に触れる。冷たい感触があって、息を吸い込んだ。
 城中を駆け回った彼が、やっとのことで鏡を見つけ、そこに映る自分を見て快哉を叫ぶのは少し後のことだ。



 明くる日、彼はゼルダに許可を得て、玉座の間までエポナを連れてきた。
 服装はこのハイラルに伝わる勇者の衣だ。リンクの空色とは違い、大地の緑色である。何度も「古臭い」などと言われさんざんバカにされたものだが、彼にとってはここ一番の一張羅だった。
「……決めたのですね」
 ゼルダ姫が尋ねると、彼はうなずいた。晴れやかな顔で。
「はい。でも俺、どちらか一方を諦めるつもりはありませんから」
 ゼルダ姫の唇はゆるやかな弧を描いた。
「しっかり成果を上げて帰ってきてくださいね」
 彼は玉座に近寄った。左手を高く掲げると、聖三角が女神像から徐々に降りてくる。
 伸ばした指先が、それに触れた。感覚はない。やはり物質ではなく、力そのもののようだった。
 彼は願いで胸をいっぱいにしながら、トライフォースに祈る。
 金色の光が空間を満たし、彼の姿が掻き消えた。残されたゼルダ姫は胸をおさえて、しとやかに腰を折る。
「あなたの旅路に、光の導きがありますように……」

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