第一章 私たちの生きる世界



 四種族の暮らす大陸にはあまねく街道が走り、その間はいくつかの分厚い瘴気の壁によって隔てられている。
 クリスタルキャラバンの使命は、故郷を離れ各地を巡ってミルラの雫を集めること。今年はあと二箇所回らなければならず、そのためには長い長い移動も辞さない。途中で「瘴気ストリーム」と呼ばれる場所にさしかかるのは必然であった。
「ハルトくん、そろそろ瘴気ストリームよ」
 御者台に座っていたペネ・ロペは、馬車へと声をかけた。リバーベル街道で雫を入手してからというもの、ハルトは日がな一日、飽きもせずにクリスタルケージの揺れる水面を眺めている。
「あ、スティルツキンさんだ」
 幌から顔を出し、タバサが呟いた。渦巻く瘴気ストリームの入り口に、大きなリュックを背負ったモーグリが立っていた。ペネ・ロペは馬——瘴気に耐性を持つ動物パパオパマスの足を止める。
「よおティパキャラバン。ケージ属性は大丈夫か?」
 彼は旅好きのモーグリとして有名だった。下手なキャラバンよりも知識があるので、ペネ・ロペたちは彼に戦い方を指南してもらったこともある。
「ばっちり水属性に変えてきましたっ!」
「そりゃあいい」
 ペネ・ロペが胸を張ると、スティルツキンは満足げに頷いた。
「そういえば、ハルト。スティルツキンさんとは知り合いなのか?」
 とユリシーズが尋ねた。もちろん後輩のモーグリ好きを念頭に置いた上で。しかしハルトは首を横に振った。
 スティルツキンは馬車のそばまでやってきて、興味深そうにクラヴァットの少年の顔をのぞき込んだ。
「お前がハルトか。モグから名前を聞いたよ」
「スティルツキンさんは、自分のルーツを探してるのよね」ペネ・ロペが話を促す。
「ああ。俺たちモーグリはどうして瘴気が平気なのか、お前たちと一体何が違うのか。それを知りたくてな」
 興味津々といった体で、ハルトは耳を澄ませている。
「もっとお話ししたいわ。スティルツキンさんも、しばらく一緒に行きましょうよ」
 タバサが誘った。こうしてティパキャラバンの馬車に、小さな仲間が増えた。ただでさえ狭苦しい内部がさらに窮屈になったわけだが、ハルトは嬉しそうだ。お近づきの印にと、しましまりんごを渡す。赤と黄色の縞模様の皮が特徴的なりんごだ。
「おっ。ありがとうよ」
 スティルツキンはお腹と小さな口を使って、器用にりんごをくわえ込んだ。ものを咀嚼するモーグリはとても可愛らしく、四人は大変癒された。
 おかげでハルトはろくに外を見ることなく、初めての瘴気ストリームを通り過ぎてしまった。
 ペネ・ロペが頭を掻く。
「あちゃー……まあ、これからいくらでも見られるよ」
 慌てて来た道を振り返っても、黒ずんだ森があるばかり。ハルトはしょんぼりとこうべを垂れる。タバサはこみ上げてくる笑いを隠しきれなかった。



 噂だけはよく聞いていた。
 黒騎士。本人が名乗ったのか、目撃者が名付けたのか。どちらとも知れないが、瘴気の壁に阻まれてもなお、大陸中にその名は轟いていた。真っ黒な鎧と揃いの兜を身につけた、リルティの狂戦士だ。
 ペネ・ロペは三年ほど前、他の村のキャラバンが黒騎士に負けて、街道で倒れていたところを目撃している。
 最近は噂も一時期ほどではなく、収束の兆しを見せていた。だが、スティルツキンと別れ、彼女がのんびりと馬車を走らせているときに限って、出会ってしまうものだ。
 直接顔を合わせたのは、これが初めてだった。パパオパマス——通称パパオに止まるよう指示し、ペネ・ロペは息を整えた。
「ねえ、ちょっと」
 幌の中に向かって、小声で話しかける。「あれ、例の黒騎士だと思う」
 ペネ・ロペの囁きを聞きつけて、目立たぬように三人の仲間が顔を出した。
 遠くからこっそり様子をうかがう。黒騎士は何かを喚きながら、戦斧を振り回していた。寄らば斬られかねない、とげとげしい雰囲気だ。
「記憶を……追いかけているのか?」
 そう呟いたユリシーズに、仲間の目線が集中する。
「最後に見たのは光、とか言っているな」
「な、なんで分かるのよ?」タバサが怪訝そうな顔をした。黒騎士とは随分距離があるし、兜を通した言葉はくぐもっていて聞き取りづらい。
 ユリシーズはふふ、と笑った。
「読唇術だ」
「あっちはフルフェイスの兜つけてるのに? 心を読む方の間違いでしょ」
「さあ。どうかな」
 いくらタバサが追及しても、ユリシーズは「種族の秘密」と言って取り合わない。
 ——まだ、空っぽじゃない。オレは必ず、自分の記憶をあの光から取り返す!
 黒騎士はそう言い残すと、キャラバンに見向きもせず、明後日の方向へ走り去った。
「あー、びっくりしたあ」
 ペネ・ロペはほっとして胸を撫で下ろす。遠くから眺めているだけでも、肌がひりひりするような緊張感があった。
「あれに襲われたら、ひとたまりもないな」
 クラリスがこの場にいたら喜んで戦いを挑んだだろうが、とユリシーズは付け加える。
「ハルト、どうしたのよ」
 最年少のクラヴァットは、何やら考え込んでいるようだった。
 空っぽ、そして記憶。二つのキーワードが頭の中をぐるぐる回っていた。



 日差しは空気をぽかぽかとあたため、頬をなでる微風は眠気を誘うようだ。ハルトはパパオのずんぐりした背中を眺めながら、御者台で馬車を走らせていた。
 キャラバンに入れば、てっきり戦闘が中心になると思っていたが、それは違った。旅のほとんどはこうして街道をゆく時間だ。実家の手伝いとは異なる、新たな日常が彼を待っていた。
 ケージが作り出す聖域の外は瘴気で満たされているのに、緑の絨毯はどこまでも連続していて、世界はほのぼのとした顔を見せている。ひとつの集落で一生を終える者には、決して想像できない光景だろう。
 緩やかな丘を越えると、一気に視界が開ける。
「!」ハルトはびっくりした。遠くの方に、こちらを目指して走ってくる人影が見えたのだ。今まではこんなこと、一度たりともなかった。
 彼は幌の中を振り返った。頼れる仲間は三人とも気持ちよさそうにお昼寝中だ。
「……」
 報告すべきだろうか、束の間迷う。もしかしたら、危ない人かも知れない。
 ハルトが狼狽えているうちに、人影はみるみる近づいてきた。
「ごっくろーさんッ!」
 緊張でかちかちになった彼に明るく声をかけたのは、セルキーの男女だ。顔のペインティングや毛皮を用いた軽装から察するに、海を越えたライナリー島にあるルダの村のキャラバンだろう。
「この馬車、ティパのキャラバンだろ。お前新入り?」
「去年までいたクラヴァットは、クラリスだったよねー」
 二人が矢継ぎ早に繰り出す質問に、ハルトは目をぱちくりさせていた。
 新人がすっかり困り果ててしまった時、運良くタバサが目覚めた。賑やかな外の様子に気づいたようだ。
「んー? あ、ルダの人たち」
「タバサじゃん。何だ、寝てたのかよ」
 彼女は眠い目をこすりながら、仲介人を買って出た。
「男の人がダ・イース、女の人がハナ・コールよ。で、こっちがハルト。クラリスの弟なの。今年からキャラバンに入ったってわけ」
 ダ・イースもハナ・コールも典型的なセルキーらしく、目鼻立ちがくっきりとした美男美女だ。そんな彼らにじろじろ見られ、ハルトの頬は熱くなってくる。
「ちょっとクラリスに似てるわね!」
「強烈な性格してたよなーあいつ。出会い頭に勝負挑んでくるんだもんな」
 頭にバンダナを巻いたダ・イースは懐かしそうに言った。目を瞠るハルトを確認し、タバサがにやりとする。
「その時のこと、ハルトに話してあげたら?」
 頷いたダ・イースは、空っぽのクリスタルケージを置いて話し始める。
「もう三年は前になるかな。あの頃クラリスは、出会ったキャラバン全員に模擬試合を申し込んでたらしい。俺も挑戦されて、ラケット持って戦ったよ」
「結構いい勝負だったよねー。アンタ、負けてたけど」
「うるせえ」
 くすくす笑うハナ・コールに、むっとする相棒。ハルトは姉の所業に呆れかえっているようだ。
 タバサは少し引いた視点から、ルダキャラバンを見る。
 クリスタルキャラバンといえば、彼らのように一つの種族で構成されるのが普通だ。だが種族の偏りが少ないティパ村では、四種族から一人ずつ選出されて旅立つのがルールだった。今さら、タバサはそのことを不思議に思った。
「そういえば、雫たまった?」ハナ・コールが問う。
「リバーベル街道で、一回分。もう散々だったのよ」
 とタバサは愚痴った。
「あらま、がんばってるねえ」
「そろそろウチらもはじめる〜?」
 ダ・イースが空のケージを持ち上げる。
「んーそうね、明日からね〜」
 のんびりとハナ・コールが応じた。ちょうどいいタイミングで、向こうの方からパパオと馬車がやってきた。二人はそれに乗り込む。
「それじゃ、また!」
 セルキーの男女はどこまでも陽気に去って行った。
「あの二人は、ああして馬車を置いてけぼりにして、街道を走ってるのよ。元気よねえ」
 防犯上は多々問題がある気がしたが、生粋の盗賊とも呼ばれる我の民なりに、何らかの措置を施しているのだろう。
「これから、もっともっとたくさんのキャラバンに出会うわよ。あの二人に会うと、そう肩肘張って旅をしなくてもいいのかも、って思えるわ」
 ハルトも、タバサの言葉に同感だった。笑いあって旅をするダ・イースたちが印象的だったのだ。
 ……そして、まだ雫をひとつも集めていない彼らがいることで、キャラバン一年目の新人も、変な方向に安心することが出来た。



 ハルトが初めて訪れる、ティパ村以外の集落だった。
 かつて製鉄で賑わった、マール峠と呼ばれる村だ。リルティの民は東のカトゥリゲス鉱山から鉄を運び、この地で鍛えたという。鉱脈が掘り尽くされたため、現在は使われていない設備も多い。特産物といえば昔と変わらず、よく冷えた鉱泉ミネだ。
 この峠はメタルマイン丘陵(鉱石が眠る地、という意味)の真ん中に位置し、交通の要衝としても知られていた。ただし、今年は西にあるジェゴン川が干上がっているので、その分往来は少ないらしい。
 最盛期より数は減ったものの鍛冶屋は健在であり、いつもカーンカーンとどこからともなくハンマーの音が響いてくる。
「……」
 風が吹き抜け、ハルトは無造作に揺れる髪を押さえた。故郷とは、景色も空気も人々も——何もかもが違っていた。
「これで驚いてちゃだめよ。アルフィタリアはもっとすごいんだから」
 一年先輩のタバサは鼻息荒くそう言った。アルフィタリアはここよりさらに北にある大きな町で、リルティの王が住まうお城があるらしい。お城というものは、天まで届くような石の建築だと聞いていた。一番背の高い建物といえば粉ひきの家の風車、という認識だったハルトには、それがどんなものなのかさっぱり予想がつかない。
 久々に狭いケージの聖域を出たペネ・ロペは、思いっきり深呼吸して新鮮な空気を味わった。
「よっし、それじゃ宿に行くわよ」
 馬車とパパオはそこで預かってもらえる。物珍しそうにあたりを見回すハルトの首根っこを捕まえ、一行は村の入り口から移動した。
「ティパキャラバンの人たちだね。毎度どうも」
 宿の主人、リルティのヒュー=ミッドは愛想が良かった。もう何度も世話になっているのだろう、ペネ・ロペたちは勝手知ったるものだ。
「部屋は二つお願いします」
 あっという間に手続きを済ませ、受付から離れようとする。
「ああ、そうだ。キャラバンのみなさんに、折り入ってお願いがあるんだけど……」
 ユリシーズは面倒事の予感を察知し、とっさにリーダーの腕を引いたのだが。
「なんですか?」
 お人好しのペネ・ロペはにっこり笑ってそう訊ねた。
 その結果、ティパキャラバンの中でなかなかの難題が持ち上がることになる。



「忘れ物、かあ……」
 夜、宿の一室にて。ペネ・ロペはベッドに腰掛け、手の中で何かを転がしていた。それは鈍くランプの光を反射する。
「どうするのよ、まんまと厄介事引き受けちゃって」
 同室のタバサは「夜更かしはお肌に悪い」と言い、すぐにでも眠れる体勢を整えていたのだが。リーダーが一向に明かりを消さないので、仕方なく彼女に付き合っていた。
「わざわざヒューさんに見せたってことは、きっと大事なものなんだよ。届けてあげなくちゃ」
「大事かもしれないけど、問題はそこじゃないわ」
「そうなんだよね……」
 ペネ・ロペはほうっとため息を吐く。彼女が頭を悩ませているのは、昼間散々キャラバン内で協議し尽くされた問題のことだ。
 ヒューから受けた依頼は、先日泊まった客の忘れ物を届けて欲しいというものだった。客は旅人であり、瘴気の中を歩く手段を持たないヒューには追いかけることすら出来ない。
「旅の伝道師ハーディって、知ってるかい?」
「名前だけなら。ありがたい話をしてくれるんですよね」
 という認識はかなりいい加減なものだった。伝道師はキャラバンに相乗りしながら、いろいろな街を巡って教えを説いている。クリスタルキャラバンの必要性や、瘴気に満たされた世界を生き抜く意義、などなど。
「まあ、そんなところかな。とにかくその人が忘れ物をしていったんだ」
 ここまで聞いたらもう引けない。ユリシーズは質問を重ねた。
「それでハーディは、どこへ向かったんだ?」
「アルフィタリアへ行くって言ってたな」
 ペネ・ロペは大きく目を見開き、隣のユリシーズに視線を投げた。彼は腕組みして唸る。
「そうですか……分かりました」
 リーダーの号令により、一行は荷物を部屋に置いてから外で再集合した。冷たいミネで喉を潤し、マール峠を守るクリスタルの前にやってくる。山間の狭い土地にもクリスタルはしっかりと根を張り、人々の生活を支えている。
 珍しく難しい顔をしているペネ・ロペを見て、タバサは、
「何、何が問題なの?」
「今年はどうやってもアルフィタリアに行けないはずなのよ」
「まさか——瘴気ストリーム属性?」
 ペネ・ロペは頷いた。そこから先は、ユリシーズが引き継ぐ。主に新人のハルトに聞かせるために。
「俺たちが今いるメタルマイン丘陵で入手できる属性は、水と火の二つ。でも、ここからアルフィタリア盆地へ抜ける瘴気ストリームは今年、風属性なんだよ。アルフィタリア側からなら、ティダの村のホットスポットで抜けられるんだがな」
 すなわち、北への通行は不可能ということだ。
「ハーディさんが帰ってきてないってことは、どこかのキャラバンと相乗りして北に抜けたってことよね。アルフィタリアかシェラキャラバンがここに来たっていう話も聞いてないし。一体、何がどうなってるんだか……」
 初めて直面した事態にペネ・ロペも混乱気味だ。
「そのことは後にしましょう。肝心の、忘れ物って一体何なの?」
 悩んでも埒があかないと思ったタバサが話題を変えると、ペネ・ロペは「それ」を取り出し、手のひらにのせた。
 拳ほどの大きさの結晶だ。色は深い紫だった。ケージの頂点を飾るクリスタルの欠片に、少し似ている。伝道師はこれを「大切なものだ」と言って宿の主人に見せたらしい。
「行くだけ、行ってみないか。もしかすると、瘴気ストリームの前で立ち往生しているかもしれない」
 ユリシーズが励ますように言った。ケージ属性をかえりみないような無謀なキャラバンがいるとも思えないが、わずかな可能性に賭けるしかない。
 そして、夜。紫の欠片を光に透かし、ペネ・ロペはベッドの上であらゆる可能性を検討していた。
「ペネ・ロペさん。そろそろ明かり、消したいんだけど」
 ぶすっとした声が背中を叩く。彼女は慌てて結晶をしまいこんだ。
「あっごめん。おやすみタバサ」
「おやすみなさい……」
 寝付きがいいのはタバサの長所だ。布団の中でさっそく寝息を立てた彼女を見ていると、故郷に残してきた妹を思い出す。
 闇の中でこっそり微笑んでから、ペネ・ロペもベッドに潜り込んだ。



「おっ、ティパキャラバンじゃないか。今年はよく会うなあ」
 瘴気ストリームの前にいたのは、期待していた別のキャラバンではなく、モーグリのスティルツキンだった。
 ペネ・ロペたちは若干がっかりしつつ、彼から情報を引き出す。
「スティルツキンさん、あたしたちの前に誰かここを通らなかった?」
「いや、オレも来たばかりだ。どうかしたのか」
「それがね、えーと……」
 口ごもるペネ・ロペの後ろで、ユリシーズがタバサと相談している。
「いっそ、スティルツキンさんに任せたらいいんじゃないか。モーグリならケージ属性も関係ないだろ」
「賛成。届けるの面倒くさいし、その方が確実だしね」
「ハルトもそう思うだろ?」
 馬車の中でぼうっとクリスタルケージを抱えていたハルトは、ゆっくり首を巡らせた。
「ねえ、スティルツキンさんが手伝ってくれるみたいなんだけど……」
 ユリシーズたちと同じ結論に達したペネ・ロペが幌の中に入ってくる。彼女の持った紫の結晶とケージが近づいた時、変化は起こった。
「!?」
 ぱちん、と何かが弾けたような音がした。ハルトは己の持つケージをまじまじと見る。すぐに相違点に気がついた。水の属性を得て青く輝いていたクリスタルが、何故か無色になっていたのだ。
「これは——」
 戸惑いながらペネ・ロペが手の中を確かめると、紫の結晶はわずかに青い光を帯びていた。
「その欠片が属性を打ち消したのか」ユリシーズが身を乗り出した。
「ってことは。もしかして……ここを通れるの?」
 タバサは目を丸くした。
「おいおい、軽はずみな行動は危険だぞ」
 スティルツキンが渋る。旅慣れた彼でも、こんな現象は初めて目にした。
 こういうときは、リーダーが判断を下すものだ。
「行ってみましょう。ダメだったら瘴気に押し返されるだけなんだから」
 ペネ・ロペは御者台に座り、パパオにむち打った。スティルツキンも諦めたように頭を振って、荷物の上に腰を落ち着ける。
「よおし、突撃!」
 馬車は猛然と瘴気の中を突っ切っていった。瘴気ストリームとはその名の通り、高濃度の瘴気が渦巻く場所だ。風立つ瘴気に地面が長年削られ続けた結果、細い一本道の両側は崖のようになっていた。
 ちょうど道の真ん中あたりで一番抵抗が強くなる。吹き荒れる風に耐え、パパオは一歩また一歩と足を踏み出した。手綱を握るペネ・ロペにも力が入る。
「……抜けたっ」
 前進を阻む力が消失した。ついに、瘴気ストリームを越えたのだ。ここから先はアルフィタリア盆地だ。
「こんなことがあるなんてなあ」スティルツキンは呆然としている。
 十分に瘴気ストリームから遠ざかり、ハルトが再び結晶へケージを近づけると、奪われた属性の光は無事に戻った。
「この世の不思議のひとつだな」
 ユリシーズは分かったような分からないような感想を述べ、多大な関心を結晶に向けていた。



 街道の途中でスティルツキンと別れたティパキャラバンは、やがてアルフィタリア城下町にたどり着いた。
 大陸最大級のクリスタルが鎮座するこの都は、リルティが人口の大多数を占める。町を取り囲むように城壁が築かれ、防衛と生活用水を兼ねたお堀が巡り、足下には石畳が敷かれている。かつて起こったリルティとユークの戦争の名残も、ちらほら見られた。
 アルフィタリアにおいて特筆すべきは、町の中心に堂々とそびえるお城だ。そしてお城には当然、王族がいる。もちろん尊い血を引くのは代々武の民だったが、先進的な現国王はなんとクラヴァットの妃を迎えた。これは、種族の誇りを大切にするリルティたちの間で物議を醸したらしい。
 妃が亡くなった現在は、国王と一粒種のハーフの姫が王族として数えられる。城下町のあちこちで見かける大勢の衛兵たちは、その二人を守るために存在していると聞く。どうしてあんなにたくさんの兵士が必要なのか、ハルトにはよく分からない。
 クリスタルが大きければ町も大きくなり、人が増えれば物も増える。田舎者目線では、アルフィタリアはどこもかしこも珍しい物であふれていた。
 あちこちに転がっている誘惑に引きずられそうになりながらも、彼らは真っ先に忘れ物を届けに行った。
「やあ、キャラバンのみなさん。わざわざ届けてくださったのですね」
 伝道師ハーディは優しげな風貌のクラヴァットで、物腰も柔らかだった。金色の巻き毛がふわふわ肩の上で揺れている。クリスタルを背にして説法する姿がとても似合っていた。
 彼が瘴気ストリームを抜けた方法は、すぐに判明した。ハーディはもう一つ結晶を持っていたのだ。それを使って他のキャラバンに相乗りしてきたと言う。
「あの、これって大切なものなんですよね?」
「はい……。本当にありがとうございます」
 彼が多くを語らなかったため、ペネ・ロペはそれ以上質問できなかった。
 ハーディと別れてから、
「あんな貴重なもの渡しちゃって、ちょっともったいなかったな。一つくらいくれればいいのに」
 珍しいアイテムが大好きなユリシーズは悔しがった。
「えー。あれで瘴気ストリーム抜けても、私たちがずるしてるみたいじゃない」
 タバサは不満だったようだ。
「そうよユリス、文句言わない。あれはハーディさんのものだからね。
 せっかくこっちまで足を伸ばしたんだから、ティダの村にでも行くわよ。それでいい、みんな」
 ペネ・ロペは振り返ったが、その場には彼女を含めても三人しかいなかった。
「……ハルトくんは?」
「さっきまで私の後ろを歩いてたわよ」
「おのぼりさんが最後尾だったのかー。まあ足も遅いから仕方ないよな」
 ユリシーズは他人事のように笑った。
「のんきなこと言ってる場合じゃないって。あの子、迷子になってるじゃないのー!」
 こうして少年の捜索が始まった。
 当の本人は、橋を渡った先に広がる草原にいた。人混みに阻まれて仲間の背中が見えなくなったと思ったら、次の瞬間にははぐれていた。適当に歩いていたらこんな場所に来た。立派な迷子である。
 途方に暮れていた彼は、槍の素振りをしているリルティの男の子を発見し、とりあえずそちらへ歩いて行く。
 子供は気がつき、練習を止めた。
「お兄ちゃん、何の用?」
 もちろんハルトは答えることが出来ない。
「……まあいいや。見ない顔だし、どこかのキャラバンなんでしょ。だったら黒騎士って人の噂、知ってる?」
 折しも、数週間前に本人を目撃したところだった。
 ハルトが頷くと、子供の表情に影が差す。
「あいつが父ちゃんを殺したんだ。ぼくの家に戻ってきたのは、この槍だけだった」
「……!」
 構えた槍の穂先が血塗られているように見えて、ハルトはぞくりとする。見た目の幼さに釣り合わない、冷めた物言いだった。確かにあの黒騎士なら、誰かを手にかけていてもおかしくない……と思ってしまう。
「お兄ちゃん、黒騎士に会ったら伝えてくれないかな。いつかお前を倒すのはぼく、レオン=エズラだってね」
 心に寒々しい風が吹いた。何故かは分からないが、ハルトは不吉な予感を感じていた。
「いたいたー、ハルトくん!」
 遠くから仲間たちの声が聞こえても、彼はその場を動くことが出来なかった。



 城下町からティダの村に向かう道中で、アルフィタリアキャラバンに出会った。少しリルティ偏重主義のきらいはあるが、おおむね面倒見が良くて礼儀正しい人々だ。
 そもそも今キャラバンが当たり前のように通行する街道は、彼ら武の民が敷いたものだった。いつだか、ペネ・ロペたちにリーダーのソール=ラクトが誇らしげに語ってくれた。かつて戦争が終結したとき、リルティは街道の安全を約束し、ユークはヴェオ・ル水門を築いて肥沃な大地を作ったのだと。
 今日も、アルフィタリアの五人はそろいの鎧に身を包み、ぴしっと背筋を伸ばしていた。
「おつとめご苦労である!」
「ご苦労様です」
 ペネ・ロペは軽く会釈した。リルティは大人でも背が低いので、セルキーの彼女からは軽く見下ろす形になる。
「あ、そうだ。この前、あたしたち黒騎士を見ました」
 兜で表情は分からないが、ソールは驚いたらしい。ペネ・ロペが初めて黒騎士の話を聞いたのは、彼からだった。
「そうか。私なりに、あれから黒騎士について調べてみたんだ」
「是非聞かせて下さい」
 ティパの四人とアルフィタリアの五人は揃って草原に腰を下ろした。
「私が聞いた中で最も古い噂は、七年前にさかのぼる」
 つまり、ペネ・ロペとユリシーズがキャラバンに入る三年前のことだ。
「その頃から武勇の噂が立ち始めていた彼を、ハーディという伝道師が旅のガードとして雇ったらしい」
「えっ!」
 思わずタバサが声を上げる。
「黒騎士と……ハーディさんが」
「ああ。二人が湿原の奥でキャンプを張っているのを見た者がいてな。さらに奥地へ向かっていったそうだが、それからしばらく二人とも見かけられていなかった」
「……」
「先日、そのことをハーディ本人に聞いてみたが、まるで覚えがないと言われたよ。黒騎士のような者と関わりがあったと思われたくないのかもしれん」
 ハルトは、「父の仇を討つ」と言って身の丈に合わない槍を持っていた少年を思い出した。そして、何かを求めて戦斧を振り回していた黒騎士のことも。
「私が集められた情報はここまでだ。結局、素性はほとんど分からなかったよ」
 リルティの戦士であることは確かなのだが……とソールは結んだ。
「ところで、キミたちはこれからどこへ?」
「ティダの村へ行こうと思います」
「あそこか……大変だろうが、武の民がいれば大丈夫だろう」
 ソールは親しげにタバサの肩を叩いた。暗に「セルキーがリーダーでは不安だ」と言われたようで、ペネ・ロペは苦笑した。
「それでは、またいずれ」アルフィタリアキャラバンは、再び隊列を組んで街道を行進していく。
 彼らと別れてから、ティパの四人は噂話に花が咲いた。
「意外ねー、あの伝道師さまが黒騎士とつながりがあったなんて……」
「あっタバサ、伝道師さまだって。ハーディさんのこと気に入ったの?」
「別にそうじゃないわよっ! ご立派な人って言いたかっただけ」
 むきになるタバサに、くすくす笑うペネ・ロペ。
「旅を続けたら、正体が分かる日が来るのかな?」
「黒騎士とまともに話ができたら楽なんだけどなあ……」
 ユリシーズがぼやく。首に巻いた緑のスカーフが風に揺れた。正直なところ、黒騎士の正体は知りたい気持ちと知りたくない気持ちが半々だった。
 心の中でざわざわと何かが警告していたが、ハルトにはどうすることもできなかった。

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