第一章 私たちの生きる世界



 ペネ・ロペは回ってきたクロニクルに書きこむ内容を考えていた。夜の野営地にて、焚き火で暖を取りながら。
 今日のように移動だけで終わった日は、書くべき出来事がなくて困ってしまう。キャラバン五年目ともなると、ダンジョンに行っても代わり映えのしない日記を書くことがあった。これが新人なら、いくらでも書くことがあるのだろうが……。
 彼女は、馬車の中で毛布にくるまり、すやすやと寝息を立てるハルトの顔を思い出した。無防備そのものだった。
(そういえば、ハルトくんが事故に遭った日……あたしは何をしてたんだっけ)
 ペンを手の中でもてあそぶ。もう十年近く前、彼にとっては人生の転機となったその日、自分は確か。
 気が付けば、彼女は日記そっちのけで、夢中になって「その日」のことを思い出していた。



 その日、ペネ・ロペは幼なじみのクラリスとユリシーズとともに、誰が一番木を高く上れるか競っていた。
 といってもティパの村にある木の数は限られているので、目下の所村長の家に植わっている大木をどう攻略するか、と言うことに幼い知恵の全てが割かれる。その木は時期になるとしましまりんごをたわわに実らせる。子供たちも毎年お裾分けを楽しみにしていた。
「今日は弟と妹の面倒は見なくていいの、ペネ・ロペ」
 集まったメンバーを見て、クラリスはクラヴァットらしくない切れ長の目を細める。この頃から彼女は長く髪を伸ばしていた。
 ペネ・ロペは頬を膨らませる。
「いーのいーの、お母さんがやってるから。クラリスこそ、家の手伝いは?」
「んー……終わったよ」
 目を泳がせる。つまり、仕事はほっぽり出してきたのだろう。彼女の家は母一人子供二人なのに、長女がこうでは余計に大変だ。
 でも、ペネ・ロペはそれ以上詮索しなかった。せっかく三人揃って遊べる機会を逃したくない。
「風が強いなあ。今日はやめにしない?」
 と、ユリシーズは弱音を吐いた。ユークらしく運動に自信が無いようで、こういう遊びでは活発な女の子たちに道を譲っている。
「ええーっ」
「一緒に登ろうよ!」たちまち大ブーイングだ。
「……いいけど、僕は危ないのやだよ」
「じゃあ肩車してよ。ユリス背ぇ高いから」
 図々しくクラリスが提案すると、ペネ・ロペも顔を輝かせる。
「いいわねっ。あたしもユリスの肩に乗りたーい」
「え、え」
 戸惑うユリシーズに対し、クラリスはこっそり目配せした。
(ほらほら、ペネ・ロペに近づけるチャンスだぞ?)
「……こっちの気も知らないで」
 とにかく彼は幼なじみのために肩車をしてあげた。ドキドキしているユリシーズに気づきもせず、ペネ・ロペは無邪気に眺望を楽しんでいた。
「わーい、高ーい。いっつもユリスはこんな景色を見てるの?」
「いいからペネ・ロペ、早く移ってよお」
「はあい」
 彼女はしなやかに木の枝に飛び移ると、村の様子をぐるっと見回した。
「あ、海だ。岬もよく見える。あれは……クラリスの弟じゃない?」
「何だって。ユリス、そこどきなさい!」
 相変わらず、弟のことになると前後の区別がつかなくなるクラリスだった。必死にジャンプして枝を掴もうとする。
「うんうん、友達と魔石転がしやってるみたいよ〜」
「私にも見せてっ」
 幼なじみを踏み台にし、狭い足場に無理矢理クラリスが乗ろうとしたので、「ちょ、危なっ」ペネ・ロペは一瞬岬から視線を外した。
「ん?」
 次に見たとき、さっきまで動いていた茶色い頭が消えているような気がした。
 強い潮風が吹いた。



 薪が弾け、火が揺れる。ペネ・ロペは落ちていた頭を持ち上げた。
 ……眠っていたらしい。
「ペネ・ロペさんって、ホントのんきよね」
 起き出してきたタバサは呆れていた。深夜でも彼女はばっちり臨戦態勢を保ち、赤いマスクをつけている。
「あ、はは……」ペネ・ロペは顔を真っ赤にしながら、口の端を拭った。
 交代でする夜警の最中に、夢の世界に旅立っていたのだ。言い逃れは出来ない。
「ごめんごめん」
 膝の上で広げっぱなしだった年代記には、この小さな失敗を記すことにしよう。
 ランプの下で書き物をするため、ペネ・ロペは馬車に向かった。その途中で、くるりと後輩を振り返る。
「ねえ、タバサはあの日、何してたの」
「あの日って?」
「その——ハルトくんが、崖から落ちた日のこと」
 彼女は顔をしかめた。
「正直、あんまり覚えてないわ。大騒ぎになってたのは思い出せるんだけど」
「そうよね。あたしも、クラリスが取り乱して大変だったことの方が、印象に残ってるもの」
 ペネ・ロペはため息をつく。何か思い出してハルトの助けになれば、と思ったのだが。
 タバサは青い目を細め、夜の向こうを見つめる。
「……そういえば、あの時。私たちもいつか死ぬんだ、って思った気がする。しかも、それは遠い未来じゃなくて、今日とか明日かもしれないんだって」
 子供心に恐ろしい発見だった。自分といくらも年が変わらない人が、永遠に時を止めてしまう。幸いハルトは一命は取り留めたが、代わりに大切なものを失った。
「タバサ……」
「ごめん、変なこと言ったわ。おやすみなさい、ペネ・ロペさん」
「うん。おやすみ」
 タバサは愛用の槍を抱え、揺らぐ焚き火を見ながら何かを考え始める。



 その日、タバサは父親に頼まれ、お使いに出ていた。
「お姉ちゃんの使う糸がなくなったんだ。お店に買いに行っておいで」
「どうして私がお姉ちゃんの代わりに……」という真っ当な不満が口から漏れることはなかった。クック家では全ての優先権が姉に存在する。いつも前を行く姉を彼女は誇りに思っているが、ちょっぴり憎たらしい時もある。
 とにかく彼女は命令に従い、買い出しに行った。
 タバサの裁縫屋は岬のすぐそばだ。海に張り出した崖っぷちの近くではいつも誰かが遊んでいて、クリスタル広場と同じく賑やかな印象がある。
 その日も、三人ほどが魔石転がしに興じていた。一人は目視で判別できた。鍛冶屋の息子カム・ラだ。普段一緒に遊ぶメンバーには入っていないが、同年代ということもあって、それなりに面識はある。
 彼らの様子をちらりと確認してから、村の反対側にあるお店に向かった。
「あ、いらっしゃいタバサちゃん。今日は何のご用?」
 ユークの奥さんが愛想良く声をかけてくれた。遠くシェラの里では学術的な研究に精を出している智の民だが、ここティパの村では一番の商才に恵まれていることで有名だ。
「お姉ちゃんの糸を買いに来たの。色は青で」
「まあ、いつも偉いわねえ」
 商人の奥さんは「タバサちゃんにだけよ」と言って、こっそりおまけをくれる。これを目当てにお使いを引き受けたと言っても過言ではない。今回のおまけは、雲のように真っ白なお菓子だ。
「アルフィタリアから入ってきたのよ。みんなには内緒にしてね」
「ありがとうっ!」
 お菓子ですぐに機嫌が直ってしまうあたり、まだまだ彼女も子供だった。
 店先でのやりとりに気づいたのか、奥からユークの女の子が出てくる。
「タバサじゃないですか。こんにちは」
 彼女の名はヒルデガルド。幼いながらに商いへの関心が高く、将来は兄や姉にも負けない商人になると周囲から目されていた。彼女自身もその評価を自覚しているのか、接客をするように誰に対しても丁寧な物言いだ。
「こんにちは、ヒルダ」
 タバサは彼女を愛称で呼んだ。熱心に実家を手伝う一方で、ヒルダは女の子らしい趣味も嗜む。二人はよく気が合った。
 ヒルダは案の定、魅力的な提案をした。
「綺麗なリボンが手に入ったんですよ。見ますか?」
「見る見るー!」
 あれよあれよという間に、タバサは糸を持ったままヒルダの家へ上がり込んでしまった。もはやお使いなどすっかり忘れている。
 二人が部屋に広がる色とりどりのリボンに目を奪われていると、母がやってきた。
「ごめんなさいタバサちゃん。ちょっと、今大変なことになっているの。おうちに帰った方がいいわ」
「どういうことですかお母さん」ヒルダは母親に対しても敬語を使う。
 母は答えにくそうに、仮面を背けた。
「子供が海に落ちたらしいの」
「えっ」
 タバサは息を呑む。この平和な村で起こりうる、最大級の事故だった。まさか、カム・ラが? 海に一番近い場所といえば、あの岬だ。
 一方ヒルダはあくまで冷静だった。
「誰が落ちたんですか?」
 ティパ村の子供は、すべからく彼女たちの友人である。当然自分はそれを知る権利がある、とヒルダは暗に言っていた。
 娘の追及をかわすことは不可能だった。母はついにその名を口にする。
「農家の……ハルトくんよ」



 過去の幻は、炎の中に消えていく。
 ぶるっとタバサは体を震わせた。……心に寒さを感じたのだ。
 数日後、村から少し離れたティパの港で、ハルトは浜に流れ着いたところを発見された。到底助からないと思われていたのに、奇跡のような生還だった。
 しかし、次に目を覚ました時には——声を失っていた。
(もう、眠れなくなるじゃない)
 こんな夜中に重い話題を出してきたペネ・ロペと、当事者のハルトを呪いたい気分だ。
 もやもや考え込んだ末に、彼女はふと疑問を抱いた。
 どうしてハルトは声をなくしたんだろう。喉が潰れたわけではなかったはずだ。精神に致命的なダメージを受けたからこそ、喋れなくなった。そこまで彼が思い詰める理由とは——
 思考の深みにはまり、ますます睡魔から遠ざかっていくタバサであった。



 ティダの村。太陽から見放された薄暗い土地には、瘴気と粘菌と、そして魔物がはびこる。
「キャラバンに入ったなら、一度は訪れるべき場所だよ」とペネ・ロペは言った。
 新人のハルトと、去年入ったばかりのタバサは初めて訪れるダンジョンだ。噂だけは他のキャラバンから聞いていた。かつて、もっとも太陽に愛された村。期限までにキャラバンが雫を持って帰れず、滅びてしまった悲劇の村だと。
 入り口から少し覗いただけでも、ここで何が起こったのかは明白だった。朽ち果てた看板、埃にまみれたクラヴァット族の住居。大勢の人々が暮らしていた形跡がうかがえる分、余計におぞましい光景だった。ティダの村が破滅の日を迎えたのは五十年ほど前らしい。
「……さっさと終わらせたいわ」
 心底嫌そうにタバサが呟いた。あたりを漂う重苦しい空気に、長時間耐えられそうにない。
「あたしなんて、最初来た時吐いちゃったからね、その気持ちは分かるよ。でも、なかなか一筋縄ではいかないんだなーこれが」
「ここの敵は厄介だぞ、気を引き締めて行くべきだ」
 ユリシーズがペネ・ロペに同調した。ごくりとタバサは唾を飲み込む。
 一方のハルトは、薄闇の底に沈んだ村を眺めていた。表情の読めない黒の瞳で。
 それぞれ緊張を滲ませる二人を見て、ペネ・ロペは決意を固める。
 もう二度と、リバーベル街道の時みたいな目には遭わせない。
 今回彼女は二本のラケットを持ってきていた。状況に合わせて使い分けるつもりだ。先発で使うバタフライヘッドを握り、プリズムシュートは控えとして背負った。
「準備はいい? 行くよ」
 少し村に入っただけで、あっという間に魔物に取り囲まれた。毒の鱗粉をまき散らす巨大な芋虫キャリオンワーム、様々な武器を手にした骸骨戦士スケルトン、ものすごい勢いでタネを飛ばしてくるヘルプラント、などなど。
「ワームアンテナが欲しいな」
「軽口叩いてないで、ファイアよろしくっ」
 素材の気配に反応したユリシーズを叱咤し、ペネ・ロペは走る。ここでは火の魔法がてきめんに効果を発揮するのだ。
 彼女はラケットを持ってふところに飛び込み、スケルトンたちに回し蹴りを浴びせた。バタフライヘッド固有の必殺技、ラケットキックだ。
 カバーできなかった分はタバサが槍で薙ぐ。そうして魔物の動きを止めたところに、ファイアが投げ込まれた。相変わらず、ユリシーズの魔法はタイミングがいい。
 魔物を蹴散らして手に入れたケアルの魔石を、ハルトに渡した。癒しの魔法を唱えるさまは、二度目にして慣れたものだ。道のりは順調と思われた。——最悪の新手に出くわすまでは。
 道を塞ぐ粘菌を魔法で焼いて回るうちに、一行は開けた場所に出た。そこで突如姿を現したのは、背中の羽で宙に浮かぶ、カマキリに似た虫の魔物だった。大きさはユリシーズの三倍ほどもある。
「何あれ……見たことないわ、どんな攻撃がくるか分かんない!」
 空を飛ぶ魔物に有効な重力魔法グラビデを使うには、マジックパイルを発動させる必要がある。真っ先に魔石を構えたユリシーズに続いて、ペネ・ロペはブリザドの詠唱を始めた。
「こっちは任せて」
 リーダーと入れ替わりにタバサが前に出た。二人の詠唱完了を待たずして、身の丈ほどもあるカマが、その命を刈り取ろうと振りかぶられる。彼女は装備した小手で攻撃を受け流そうとした。
 その瞬間、ペネ・ロペの脳裏に、ジャイアントクラブ戦で倒れた後輩の姿がフラッシュバックする。
「——くっ!」
 発動寸前だったマジックパイルを中断し、ペネ・ロペはラケットを持ち替えた。
「ペネ・ロペ!?」
 ユリシーズの叫びを無視して、彼女はプリズムシュートから二発の気合弾を放った。それは狙い過たず魔物に命中し、タバサを切り裂く寸前でカマが止まる。
「ごめんタバサ、やっぱり交代。あの虫は、あたしがやる!」
 彼女らしくない行動だった。言われた通りに下がりながら、タバサは疑問を抱く。何がペネ・ロペを焦らせているのだろう?
 戦闘の気配を察知して、スケルトンが、キャリオンワームがわらわら集まってきた。タバサはそちらへ走って行く。
「無茶だ、せめてグラビデ当ててからでも……」というユリシーズの助言も聞かず、
「やるって言ったらやるのよ!」
 ペネ・ロペは大きく踏み込んだ。
(もう二人は傷つけさせないわっ)
 ユリシーズはその後ろ姿を食い入るように見つめた。このまま突っ込ませたら、彼女はいつか倒れてしまう。
 彼は、回復魔法を必死に操る後輩の肩に手を置いた。
「ハルト、ケアルはいい。代わりにこれを」
 手渡したのは、燃えさかる炎をそのまま閉じ込めたような魔石、ファイアだ。ユリシーズは自分のサンダーリングを構え、
「マジックパイル、グラビデ——俺とペネ・ロペが発動させたのは、何度か見てるよな。タイミングは俺が合わせる。やるぞ」
 ハルトは息を飲む。いきなり実戦で合体攻撃を?
 彼の戸惑いを歯牙にもかけず、ユリシーズは詠唱を始める。
 追いかけるようにハルトが魔力を解放した瞬間、炎と電撃は混ざり合い、重力場を生み出した。
「!?」見えない腕に引かれたように、強敵は地面に縫い止められた。ペネ・ロペは驚く。善戦しながらも、彼女は徐々に傷を増やしていた。
「今だ、やれっ」
 恋人の声に後押しされ、彼女はラケットを思いっきり振り下ろした。魔物は嫌な断末魔を上げて倒れた。
「ペネ・ロペ! 大丈夫か」
 ユリシーズが駆け寄る。その場に屈んだ彼女は、魔物の死骸を漁っていた。
「はいユリス、ざっくりガマ」
 とへし折ったカマを素材として渡す。その手は傷だらけだった。ニコニコ笑うペネ・ロペに、ユリシーズは声もない。
「お前、なあ……」
「こいつの名前、やっと思い出した。アバドンよ。前にマール峠キャラバンから聞いたことがあるわ」
 リルティ三人で構成されたマールキャラバンは、合成素材に関して一家言持っている。そういう情報よりも、魔物への対処法を教えて欲しかった……と思うペネ・ロペであった。
 スケルトンたちを叩き伏せたタバサが、息を弾ませながら駆け戻ってきた。
「ペネ・ロペさん、さっきのすごかったわね。クラリスさんが乗り移ったのかと思った」
「えっクラリスが? それは……ちょっとやだなあ」
 ペネ・ロペは顔をしかめ、ユリシーズは少し笑う。ハルトは姉の扱いに困惑気味だ。
「ハルトくんがあのグラビデをやってくれたのよね? ありがとう」
 少年はふるふる首を振り、彼女の傷ついた体を癒すことに専念する。
「マジックパイル、初めてにしては上出来だったじゃない」タバサはにやりとして後輩を小突く。
 ユリシーズは恋人にそっと身を寄せた。
「ペネ・ロペ」
「なあに?」
「……いや、なんでもない」
 かぶりを振って歩いて行く彼を、ペネ・ロペはきょとんとして見つめていた。



 全てが灰色に塗り込められたようなティダの村で、唯一青々とした葉を茂らせる木があった。四人は近くに腰を下ろし、休息を取ることにした。
「どんな植物にもミルラの木のような作用があるかもしれない……って昔ファム大農場キャラバンが言っていたな。この木が生きているのも、そのおかげなのかな」
 ユリシーズが独りごちた。ファム大農場とは、ジェゴン川を越えた先にあるクラヴァットたちの集落である。
 死の空気が立ちこめる村で、ただひとつ生を主張する鮮烈な緑は、四人の疲れた心を癒してくれた。
 ミルラの木までの道のりを考えると、ここでちょうど半分くらいだ。休憩の終わりを宣言しようとしたペネ・ロペは、ケージを持つべきハルトがしゃがんでいることに気づく。
「? どうしたの、ハルトくん」
 木の根元を調べているようだ。かさりと乾いた音がして、彼はボロボロの手紙を掴み出していた。ペネ・ロペは目を見開く。
「それは……」
 小さな紙切れは誰にも見つからず、何十年もここに残っていた。しっかり封をされた手紙の中には、まるで過去がそのまま閉じ込められているようだ。
 しんみりする彼女の目の前で、ハルトは躊躇なく封を破った。
「えっ」
 悪いと思いつつ、ペネ・ロペも一緒になって中身を確かめる。
『あなたはもう帰ってこないの? きっと帰ってくるわよね。だから、この手紙を木陰に託します。私の愛と共に』
 おそらくこの村の誰かが、ティダキャラバンの一人へ宛てて書いたのだろう。帰らなかった最後のキャラバンへ……。
「この気持ちも、何十年も前のものなのね」
 寂しさがこみ上げてきた。ハルトは好奇心に駆られて手紙を開けたはいいものの、後の処理に困っているようだった。
「良ければ、あたしが持って行っていい? ここで朽ち果てていくだけなんて……あんまりだもの」
 黒の瞳が瞬いた。ボロボロの恋文は、ペネ・ロペの手に渡る。
 この手紙が、いくつかの物語を紡ぐ事になった。



 その後、一行はアバドンと望まぬ再会を果たした。
 しかもその状況が良くなかった。荒廃した畑でヘルプラントたちと戦っていたところに、いきなり乱入してきたのだ。アバドンが放った呪いの魔法カーズラが、隊列のど真ん中を直撃した。呪いはまともに受けると体に力が入らなくなり、とんでもない被害をもたらす。
 ハルトの浄化魔法クリアが行き届くよりも先に、アバドンは行動に出た。その羽ばたきによって突風が巻き起こり、標的になったユリシーズが昏倒してしまう。連鎖して仲間がばたばたと倒れかねない危険な局面だった。結局ペネ・ロペが一人でアバドンを相手取り、なんとかこれを撃退することに成功した。
 そうしてたどり着いた先には、かつて修練場として使われていた大きな広場があった。中央には家——否、アームストロングと呼ばれる魔物が棲み着いている。
 元々は、ティダ村の家名のひとつだったらしい。主を失った家は粘菌にとりつかれ、魔物と化した。キャラバンの帰りを待ち焦がれた人々の心が嫌な形で残ってしまい、やっと現れたキャラバンを自分の体内(すなわち家の中)に迎え入れようとしている——という怪談めいた噂もあった。
 濃密な胞子が立ち込める空間で、四人は魔物と向かい合う。
「さっき決めた作戦通り、行くよ!」
 取り巻きのスケルトンをタバサが蹴散らしつつ、ペネ・ロペとユリシーズがファイア剣で戦う方針だ。また、アームストロングは動きが素早いので、ハルトは出来るだけケージ聖域の調整に集中してもらう。
 ペネ・ロペは武器をバタフライヘッドに持ち替えて戦場を駆けた。しかし、アームストロングが飛ばす無数の針を避けつつ狙いを正確に定めるのは、困難を極めた。
「せーの! ……ああっ」
 せっかく完成した合体攻撃も外してしまった。家なのに足が速いなんて反則だ。
 ユリシーズは、このままではジリ貧になると悟った。
「ペネ・ロペ、作戦を変えた方がいい。ここはファイガを打つべきだ」
「いいえ、まだやれるわ」
 彼女はかたくなだった。自分がマジックパイルに集中するには、タバサに前線を張ってもらう必要があった。流れる汗を振り払い、再び彼女はラケットを振るったが、必殺技は魔力をまとわなかった。
 代わりに目の前で熱気がふくれあがり、一気に爆発した。特大の炎が魔物たちを舐める。
「ファイガ!?」目の前にいたスケルトンが一瞬にして塵と化し、タバサは目を丸くした。
「〜、ユリスっ」
 ペネ・ロペは自分への当てつけかと思い、恋人を睨んだ。しかし、いつも泰然自若としているユークの彼が、惚けたように立ち尽くしていた。
 聖域の中心で、苦悶の声を上げて燃え続けるアームストロングを眺める人物がいた。その手にはファイアの魔石が握られていた。
「ハルト、お前が合わせたのか」
 極大魔法のマジックパイルはタイミングが難しく、二人目はある程度発動の瞬間をずらさなければならない。熟練キャラバンでもたまに失敗する技を、新人が完璧に実行してみせた。
「……」
 漆黒の目がちらりと先輩たちを見た。自らの功績を誇るような色はなく、全ての感情はただ黒に溶けている。
「チャンスじゃないの、やっちゃいましょうペネ・ロペさん!」
 タバサに叱咤されるまで、リーダーは呼吸を忘れていた。気づいた時には眼前にアームストロングが迫っていた。
「きゃあっ」
 吐き出された毒霧をもろに浴びてしまい、ペネ・ロペはむせた。瘴気よりも毒性は弱いものの、確実に体力を奪っていく。クリアとケアルが立て続けに飛んできた。
 ペネ・ロペは口元を拭い、改めてファイアの魔石を取り出す。
「ユリス、ファイガお願い」
 彼女の抜けた穴はタバサが埋めた。槍を振り回して相手を牽制する。
 ペネ・ロペが解放した魔力に、ユリシーズのものが上乗せされた。そうして生まれた炎はしかし、先ほどのものより小さかった。
 基本的にマジックパイルの威力は、始動者の魔力に左右される。種族ごとの魔法の適性はユークが一番高く、次いでクラヴァット、セルキー、リルティの順に低くなることが知られていた。つまり、ユリシーズが先に魔力を解き放てば威力が上がるのだ。だがペネ・ロペはいつも、彼にタイミングを合わせてもらっていた。今ほどそれを悔やんだことはない。
 それでも連続して火炎を浴びせると、アームストロングはやがて黒焦げになって崩れ落ちた。
「ふーっ、アバドンの方が苦戦したわね」
 鋭く息を吐き、タバサはくるりと槍を回した。生気が抜けたように立ち尽くすリーダーを、ハルトが心配そうに見上げる。
「な、何でもないわ」ペネ・ロペは顔をそらした。
 焦げ臭い戦場を抜けて、ミルラの木の下にたどり着く。台座に置かれたケージへ雫が落ちる様子を、四人は無言で見守った。年長組は疲労で肩を落とし、年少組はそれぞれ首をひねりながら。
 痛いくらいの沈黙を破り、タバサは当然とも言える質問をした。
「そういえば、なんでここにミルラの木があるの? 村の中にあったら雫取り放題じゃない」
「村が滅びた後に、生えてきたらしい」
 ユリシーズが即答した。「天の誰かが、村人の無念を見届けてくれたのかもな」と言い添えて。ハルトも気になっていたようで、なるほどと頷いていた。
 ミルラの木はどのようにして生えてくるのか、どうしてクリスタルを浄化する雫を落とすのか。キャラバンの旅には常に謎がつきまとう。
「家の裏にミルラの木、とまでは望まないけど、次こそはなんとか楽をしたいわね」
 タバサは嘆息した。
「そうか? 悪いことばかりでもなかっただろ」
「ユリシーズさんはね。いい素材いっぱい拾ってたものねえ」
 彼女は唇をとがらせ、ユリシーズはからりと笑う。ペネ・ロペも硬い表情を少しだけ崩した。
 ハルトはぼんやりと、空を仰ぎ見ていた。
「どうしたのよ」タバサが訊ねる。
「……」
 彼の指が示す先には、わずかな雲の切れ間があった。そこから一条の光が差し込んでくる。神々しさすら感じる光景だ。
「いつか、この村にも太陽が戻ってくるといいわね」
 タバサは顔をほころばせた。
「お手紙クポーっ」
 リバーベル街道で交わした約束通り、モグが手紙を運んできた。ハルトは喜びを隠しきれない様子で駆け寄った。
 家族の便りをもらったペネ・ロペは近くの廃材に腰掛けるのと同時に、ボロボロの手紙をそっと取り出した。
「ペネ・ロペ、それは?」ユリシーズが隣に座った。
「休憩場所の木に隠れてた手紙。ハルトくんが見つけたの。ティダキャラバン宛てだと思う」
 何度も文面を読み返していると、発見時とは違う感慨がわき上がってくる。ティダの村人たちはキャラバンを信じて待ち続け、そして瘴気に呑まれた。
 ユリシーズは静かに問う。
「リーダーとしての責任を、考えていたのか」
 ペネ・ロペはむっとしたように、
「考えないわけ無いでしょ、この村に来て。自分のせいで、ティパの村がこうなってしまったら、って——」
 声はどんどん沈んでいった。
「ティダ村のキャラバンがどうなったかは知らないけど、あたし、自分だけ生き残るなんて嫌よ」
 ユリシーズは彼女の華奢な肩に手を回した。
「その時は俺がそばにいるよ」
「本当に?」
「もしくは一緒に死んでるか、だな」
「……あはは」
 ユリシーズがあまりにもはっきりと物を言うので、思わず笑ってしまった。彼は優しくペネ・ロペの手を取る。
「お前の感じる責任も、分かるけどさ。あんまり思いつめるなよ」
「うん。うん……」
 彼に寄り添っている間だけは、この双肩がたくさんの命を背負っていることを忘れられた。ペネ・ロペは目を閉じて、じわりと滲んでくる涙をこらえていた。

inserted by FC2 system