エピローグ 光よりも眩しい

 天を貫いたその光は、ファム大農場からも、ヴェオ・ル水門からも、リバーベル街道からも、海上を行くトリスタンの船からもよく見えた。
 大陸の最南端であるティパの村に到達したのは、ほとんど最後だっただろう。
 ラケタは土いじりの合間に、ふと顔を上げた。
「あれは——もしかして!?」
 北西の空に走る一条の光。そこから同心円状に波動が広がっていく。天空にぽっかりあいた穴からは、ビックリするほど鮮やかな青色が現れた。
 ラケタはしばらく見とれていたが、はっとして身を翻す。
「クラリス!」
 彼女は寝間着姿のまま、よろよろと玄関に出てきていた。バランスを崩して倒れる体を夫が抱き留める。
 クラリスは静かに唇をほころばせた。
「ハルトが、やったんだな」
 その顔を見て、ラケタは何も言えなくなってしまった。彼女は氷だって溶かせそうな、とびきりの笑顔を浮かべていた。自分がその要因でないのが悔しいくらいだ。
「ああ、そうだよ。……体の方は平気なのか」
「なんだか軽くなったんだ。あの光が瘴気と一緒に、病魔も追い出してくれたのかな」
 とは言っても、まだまだ万全とは言えない体調だ。ラケタはクラリスの体をひょいと横抱きにした。
「あ、ちょっ」
「病人はぐっすり寝るんだな。ハルトが帰ってきたとき、立ち上がれなかったら恥ずかしいだろ?」
 耳まで真っ赤にしながら、クラリスはこくんと頷いた。そして、
「夢を見たんだ。ハルトが私に話しかけてくれる夢。何て言ってたのかは分からないけど……すごく、嬉しそうだった」
「今に現実になるさ」
 クラリスは破顔した。弟を待ち続ける日々も、もうすぐ終わるのだ。



 アルフィタリアの町は混乱に包まれていた。突如として空を貫いた謎の光を、多くの人が目撃していた。「空が割れた」と言う者、根も葉もない噂を流す者。クリスタル広場はあらゆる種族が集って大騒ぎだ。
 ざわめく群衆の中を、ひとつの声が通った。
「みなさん、どうか落ち着いてください」
 進み出たのは伝道師ハーディだ。当たりは水を打ったように静まりかえる。
「あの光によって瘴気が払われたのです。大陸の端にある小さな村のキャラバンが、瘴気を生み出す魔物を討伐したのです」
 言葉はすらすら出てくる。ハーディは世界に何が起こったのか、よく分かっていた。自分が成し遂げられなかったことを、ティパの四人が果たしたのだ。
 彼は穏やかに目を細める。
「みなさんはおとぎ話を覚えていますか。記憶を喰らう魔の話を。——私はかつて、黒騎士という人物とともに、その魔を伐つため旅に出ました」
 蕩々と語られる昔話に、耳を澄ませる人々。その心にもう弟はいないけれど、何よりも彼の行動が「ガーディ」の存在を示唆していた。
 伝道師を取り巻く人々の中には、エズラ親子の姿もあった。いつか二人にも自分の口から真実を伝えよう、とハーディは思う。
 群衆を落ち着かせるため出動したクノックフィエルナ侍従長は、後ろに立つ主君に話しかける。
「伝道師が場を収めてくれたようですぞ、姫様」
「ええ……私の出番はなさそうです」
 フィオナは微笑み、胸に手を当てた。タバサたちは、無事にクリスタルキャラバンの使命を全うした。王女である自分の仕事はこれから山ほど増えるだろう。もちろん、喜んで身を投じるつもりだった。
 ふと、王女は広場の中心に据えられたクリスタルを見やる。
「瘴気が晴れても、クリスタルは輝き続けるのですね」
 あの結晶は聖域をつくるためにあるのだと思っていた。けれど……本来の役割は、人々の心を安定させることではないだろうか。現に、不安になった民衆はクリスタルのそばに集まった。王女もあの澄んだ水色を視界に入れるだけで、心が落ち着いた。
 伝道師の話を聞くにつれて、人々の表情はだんだん明るくなっていく。それは地上に落ちた星が、きらきらと輝いているようだった。



 最後の峠を越えて故郷が見えたとき、馬車で上がった歓声をペネ・ロペは一生忘れないだろう。
 パパオはティパ村へ向かう小道をしずしずと抜けていく。緑の街道は早朝で薄霧に包まれ、神秘的だった。いつもはうるさいくらいさえずる小鳥たちも、声をひそめている。何度も何度も通った道なのに、まるで初めて見る景色のようだった。
 御者台にいたペネ・ロペは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、荷台を振り返った。
「ハルトくん! そろそろ村に着くよ」
 しかし、返事がない。幌の中でユリシーズは肩をすくめていた。
「……どうしたの?」
「寝てるんだよ、こいつ」
 漆黒の瞳は閉じられ、大地色の髪が無造作に床に広がっている。寝顔は実に幸せそうだった。その手には、ヴェレンジェ山からの帰り道でページを増やしたクロニクルが握られていた。
 先輩たちは呆れ返る。全く、日記に夢中になって睡眠時間を削るからだ。
「仕方ない奴ねえ」
 タバサはため息をつき、ハルトに毛布を掛けてあげた。
 潮風が吹いて、少年の前髪をかすかに揺らした。海が近いのだ。
 朝の蒼い木陰を、馬車はのんびり進んでいく。



「お疲れさん」
 と誰かに声をかけられて、ハルトは意識を取り戻した。
 何故か、どうしも目を開けることが出来なかった。まぶたの裏を染めるのはマリンブルーだ。
 彼の体は重力のない空間に浮かんでいた。それでも耳は聞こえるし、息も吸える。身じろぎすると、わずかな抵抗を感じた。まるで海の中にいるようだった。
 声の主——男性は少し笑ったらしい。
「はじめまして、かな? お前がハルトだよな」
「ええと、あなたは……?」
 声の主は傷ついたようだ。
「『あなた』って、そんな他人行儀な。オレ、一応お前の父さんなんだけど」
「!」
 心臓が止まりそうになった。
 エンジュ。彼とクラリスの父親であり、ミントの夫であった人が、そこにいた。気配を感じる。手を伸ばせば届きそうなほど、近くに——
 あり得ない。これは夢だ。
「夢じゃないよ。オレたちがいるのは『思い出の海』なんだから。それに、前にも一度会っただろ?」
 思考を読まれてぎくりとする。そういえばアリシアに刺された後、似たような海の中で彼の声を聞いた気がする。今にも立ち止まりそうだったハルトを、穏やかに励ましてくれた。
「本当に、父さんなんだ……」
 信じられない気持ちでいっぱいだった。驚きの波が引くと、急に胸がどきどきしてきた。
 父は「言っておくけど、幽霊じゃないからな」と笑う。
 まぶたを開けたい。エンジュの姿をこの目に焼き付けたい。どんな人なのだろう。クラリスや自分に似ているのだろうか。
 願いは聞き届けられず、体のどんな部位にも力が入らない。仕方なく質問を重ねる。
「思い出の海って?」
「忘れ去られた思い出が最後にたどり着く場所。死んだ人たちの思い出も、まとめてここに来ることになってるらしい」
「ここはクリスタルワールドなの……?」
「当たり。ミオやラモエがいた場所より、ずっと下層にあるみたいだけど。そうそう、思い出の管理人は、この海の水をミルラの雫として還元していたんだよ」
「そう、だったんだ」
 いわば思い出の墓場だ。けれども、おどろおどろしい雰囲気はない。きっと、この世ならぬ綺麗な場所なのだろう。ガーディや黒騎士もどこかにいるかもしれない。
 ハルトはもう一度力を振り絞り、重いまぶたを持ち上げようとした。
 エンジュは焦った。
「だめだよ。お前はまだ死んでないだろ。自分を見失ったら、あっちに戻れなくなるぞ」
 なら、ハルトはどうしてここにいるのだろう。前回来た時はアリシアに刺されて、正真正銘死にかけていたけれど。
「まあまあ、細かいこと気にするなよ。がんばったご褒美でいいじゃないか。
 ……もちろんオレだって嬉しい。まさか、お前に会えるなんて思わなかったよ」
 なぜならここにやって来た思い出は、普通なら海に溶けてしまうのだとエンジュは言った。
 しかし彼は違う。こんなにもはっきり声が聞こえる。彼は誇らしげに、
「それはね。母さんやオレの友だちが、オレのことをはっきり覚えてくれてるからだよ。クリスタルワールドでは思い出の強さが重要だったろ。だからオレは他の人と違って、ここでも自分を保っていられる。
 ……ミントさん、よっぽどキャラバン時代の印象が強かったんだろうな、ずいぶん若い頃の見た目になってるけど」
 彼は苦笑した。
「さ、そろそろ帰りなよ。いくらお前がたくさん思い出を持ってるからって、あんまり長くいていい場所じゃない」
 ぽん、とハルトの頭に大きな手のひらがのった。髪の毛がなでられる。
 見えなくても分かる。すぐそこに父がいた。エンジュは、寂しい夜に灯るたったひとつの明かりのような、にわか雨の日に見つけた大樹の陰のような、途方もない安心感を与える人だった。
「おんぶも抱っこも、してあげたかったんだけどな」
「……」
 声が詰まった。喉は腫れ上がったように上手く動かない。こみ上げてきたものを無理矢理飲み下す。男として、情けない顔は見せられなかった。
 エンジュは優しく告げる。
「ミントさんに伝えてくれないか。ここでずっと待ってるって」
「うん」
 なんとか返事をしたハルトは、目を閉じたままエンジュを見上げた。
「最後に、一つだけ教えてほしいんだけど」
「なに?」
「うちの農場の看板——なんで後ろ向きなの」
 物心ついた時から、ずっと気になっていた。あの看板は父が設置したと、昔ミントが言っていたのだ。
 案の定、エンジュはにやりとしたようだ。
「あーあれな。看板の前を通りかかった人は、文字を読みたくて裏側に回る。そうなればもう、うちの敷地だ。どうだ、なかなかスマートな歓迎だろ!」
「なんだよそれ……」
 ハルトは笑った。
 ずっと目標にしていた。ずっとその背中を追いかけてきた。けれど同時に、父の存在は重荷だった。母やクラリスはエンジュが忘れられず、無意識のうちにハルトと重ねて見ていた。そんな視線を何度も感じたことがある。
 それでも、不思議と恨み言は出なかった。会えて良かったと素直に思えた。
「さあ、家に帰ろう! オレはいつでもここにいるよ」
 泡がハルトを包んだ。思い出の海が遠ざかる。
 いや、目に見えなくなるだけだ。何よりも身近に、その海はある。



 ティパ村に帰ってきたペネ・ロペは、村人たちの輪を抜け出して、ひとりクリスタル広場にやってきた。ほとんどの住民が入り口に架かる橋の上に行っているので、村の中はひっそりしている。
 淡い水色の結晶の前には、先客がいた。クラリスだ。
「お」「あ」
 互いに間抜けな声を上げ、同時に照れたように頬を掻く。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 ペネ・ロペは大きく頷いて、
「体の方は、もういいの」
「ずいぶん楽になったよ。みんなのおかげだ」
 言葉に嘘はない。髪の艶も元通りになり、ずいぶん血色も良くなった。
 クラリスはなんだか丸くなっていた。見た目も中身も。まだまだ仕草も口調も男のようだけど、温の民として本来持ち合わせた穏やかさを取り戻したようだった。
 ペネ・ロペは親友と一緒にクリスタルの台座に腰を下ろした。
 誰もいない広場を見回し、クラリスは唇をとがらせる。
「で、ハルトはどうしたんだよ。待ってるのに全然来ないんだけど」
「馬車で寝てるわ。引きずってこようか」
「寝て——そうか。まあ、疲れたんだろうな」
 クラリスはそう言って自分を納得させた。ペネ・ロペはじっと彼女に視線を合わせて、
「あなたこそ、こんなところでどうしたのよ」
「ミオと約束したからな。全部終わったら報告に来るって」
「あ……」
 思い出の管理人はもういない。そのことを、クラリスは知るよしもなかった。
 いや、もしかすると既に悟っているかも知れない。だからこそ、クリスタルを見つめる瞳があんなに優しいのだ。
 ペネ・ロペは朝焼けの空に、懐かしい思い出を重ねた。
「四年前のレベナ・テ・ラでさ。クラリス、いきなり旅をやめるって言い出したよね」
「ああ」
 唐突な昔話にも、彼女は落ち着いて相づちを打つ。
「その時、あなたは言ってたわ。自分はキャラバンに向いてないって。……今思えば、確かにそうだった。だってあなたには、瘴気を晴らすっていうたったひとつの目標しか見えてなかったんだから」
 ペネ・ロペは意地悪く目配せした。クラリスは軽やかに笑った。
「ははは。クリスタルキャラバンの大義のために戦ったことは、一度もないかもな」
 だが、その行動が結果としてハルトを導いたのだ。ペネ・ロペは続ける。
「それとね、分かったことはもう一つあるの」
 クラリスは黙ってまばたきした。
 朝日を受けて、ペネ・ロペのブロンドが眩しく光る。
「キャラバンを止めても、あたしの隣を歩いているって言葉の意味よ。そう、あたしたちはずっと、クラリスの思い出と一緒に旅をしていた……」
 そこで、ペネ・ロペは顔を上げた。小さな足音が聞こえた。ゆっくりとこちらに近づく影を確認し、微笑む。
「ああ、やっと来た。それじゃ、お邪魔虫はさっさと退散するわね」
 クラリスの反論を許さない素早さで、道の向こうに消えた。
 風の音がさざめいた。それは扉が開く音……新たな物語がはじまる音だ。
 クラリスは大地色の髪を揺らして、かけがえのない家族のもとへ歩を進める。
 草花が芽吹く気配がする。いつしか、季節は春を迎えようとしていた。
 二人は同時に立ち止まった。心地よい沈黙が流れる。
 ハルトは唇を開き、大きく息を吸い込んだ。
「——」
 水よりも優しく、光よりも眩しいその言葉を、クラリスは心待ちにしていた。
 ミルラの旅を終えたクリスタルキャラバンが、自分だけの楽園に帰ってきた。

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