知に平和を



 窓から差し込む日を受けて、濡れ羽色の髪が鮮やかな光彩をまとう。
 それはただひとつの高みから降り注ぐ、碩学王のもたらす光——学問を追究する者たちが求めてやまない太陽の恵みだ。
「キミたちも知っての通り、式年奉火の運び手はフレイムグレースから中つ海を西回りに進む。さて、次の儀式はいつ開かれるだろう」
 その人の唇は流れるように言葉を紡いだ。
「メアリー殿下。答えをお願いします」
 呼びかけられたメアリーは我知らず背筋を伸ばした。
 後ろの席に座っていた彼女に、教室中から視線が集まる。今まで何度も浴びてきた好奇の目だ。王立学院に出入りする物好きな王女、何が気に食わないのか教師をとっかえひっかえしている——そんな噂が立っていることは百も承知である。だからこうして他の生徒にばれないよう、息をひそめて授業を聞いていた。
 壇上に立つ彼が、ひたりと青いまなざしを向ける。それはメアリーの胸に水のようにすんなりと染み込んだ。
 彼女は立ち上がった。
「式年奉火は二十年に一度開かれます。ですから次回は二年後です」
 声にかすかに緊張がにじんだ。教師はほほえみ、「よろしい。では次の問題を——」と新たな話題に移っていった。
 彼は当たり前のようにメアリーを生徒として扱った。ウォルド国王オスレッド二世唯一の子どもであり、現在王位継承の第一位にある王女のことを。
 思わず口元がほころぶ。間違いない、と確信した。
 サイラス・オルブライト。彼こそが、自分を知の高みへと導く先生だ。



「そうなんだよ。ホルンブルグの古代宗教については、ほとんど記録が失われてしまってね……」
 本日の授業を終え、メアリーから質問を受けたサイラスはなめらかに話し続ける。
 ホルンブルグという名の亡国を心に刻みつけるべく、メアリーは耳を澄ませた。過去から学び、よりよき未来へ民を導くため——ウォルド王国がホルンブルグのような滅びを迎えぬために、王族として歴史を学ぶことは何よりも重要である、と彼女は考えていた。
 ここはフラットランド地方を治める王都アトラスダムの王城だ。二人が歩く廊下の壁には、赤い地に獅子の紋章が白く染め抜かれた装飾旗がいくつも垂れ下がっている。
 二年前に王立学院で見つけたメアリーの教師は今、隣にいた。
「メアリー殿下?」
 相槌も打たずに話を聞いていると、サイラスが不思議そうに語尾を上げた。メアリーはほおをゆるめる。
「いえ、お時間を取らせてしまってすみません、サイラス先生」
「そんなことはないさ。生徒の疑問に答えるのが私の仕事だからね」
「ですが、先生は王立図書館へ行かなければならないでしょう?」
 彼は大きくうなずいた。
「おっとそうだった。殿下がくださった機会なのだから、急がないと」
「是非楽しんできてください」
 サイラスは歩調を速め、慣れた足取りで廊下の角を曲がる。メアリーは途中まで彼を見送ることにした。王城の中心にある階段を一緒に降りる。
「それでは失礼します」と短い挨拶を残し、黒いローブが門の向こうに消えた。
 メアリーは衛兵が門を閉じるまでその場に立っていた。——と、視界の端に銀色の髪が映る。
「テレーズさん? こんな場所でどうしたの」
 階段の影にいた少女はびくりと肩を揺らした。
「メアリー殿下……」
 テレーズがおずおずと前に出る。肌は抜けるように白く、髪は室内でも淡く光っている。貴族の間で「平原の月」と噂されるのも納得の美貌だ。
 性格は少し控えめで、先ほどの授業ではサイラスの質問にしどろもどろになっていた。教本を読む手も震えており、メアリーは気にかかっていた。
 彼女はメアリーにとって、母方の祖父の弟の孫にあたる。つまりは遠い親戚だ。たまたま同い年で、昔から姉妹のように育ってきた。正確には王族の枠から外れるため、王城には住んでいないが、いつもメアリーの勉強や息抜きに付き合ってくれた。
 テレーズは何故か動揺した様子で、大きな瞳を虚空にさまよわせている。
「もしかして、あなたもサイラス先生にご用事が?」
「いえ……何でもありません」
 整った眉がどこか不安げに寄っている。授業でぼんやりしてしまったことを気にしているのだろうか。
 メアリーはふと考えを巡らせる。今日は夕方まで勉強する予定だったが、サイラスが王立図書館に向かったため、ぽっかりスケジュールが空いていた。
「テレーズさん、これからお時間はある?」
「え? あ、はい」
「なら、少しだけ付き合っていただけるかしら。いいものを手に入れたのよ」
 メアリーはいたずらっぽく笑い、友人を自室に誘った。



 王女の部屋は二階にある。日当たりが良く、窓から城の中庭が一望できる好立地だった。
 机の引き出しからあるものを探り当て、テーブルの上に置いた。教本ほどの大きさの箱である。表に書かれた文字を読んでテレーズが「まあ」と声を上げた。
「これ、確かカードを使った遊びですよね」
「あら知っているの?」
「今学院で流行っているんですよ」
 なあんだ、とメアリーはわざとらしく肩をすくめた。
「テレーズさんを驚かせようと思ったのに……」
「いえ、わたしも遊んだことはありませんから!」
 慌てて弁解するテレーズ。思ったとおりの反応を得て、メアリーはすぐに破顔する。
「それなら良かったわ。さあ、遊びましょう!」
 こういう時のために自室に立派なテーブルを用意していた。箱の中にはいくつかの駒とカードが入っている。メアリーはカードをよく混ぜて二人分の手札に分け、残りは山札にした。
 これはプレイヤーが交互に手札を並べてテーブルの上に地図を作るゲームだ。それぞれのカードには実際にオルステラに存在する町の絵と名前が書かれており、その上を駒が移動して、旅をする。
「式年奉火のはじまりの地、フレイムグレースはここね」
 身を乗り出した王女は自分の選んだ駒をカードの上に置いた。カードは手にすっぽり入る大きさで、その絵柄は雪の積もった白い町だ。
 このゲームは式年奉火の儀式を下敷きにしていた。プレイヤーは聖火の運び手となって試練を乗り越えながら、大陸各地を回っていく。駒が複数あるので運び手が何人もいるおかしな状態になっているが、それはご愛嬌である。
 メアリーはこのカードを旅の商人経由で手に入れた。学院でも流行っているということは、その商人がよほどうまく売り込んだのか。式年奉火という題材も成功の理由だろう。近頃のアトラスダムはその話題で持ちきりだった。
「テレーズさんからどうぞ」
「はい」
 彼女はテーブルの上に一枚のカードを置く。スタート地点となるフレイムグレースに、手札から出したカードをつなげてどんどん地図を広げていく仕組みだ。テレーズが置いたのは、ウッドランド地方のとある集落のカードだった。メアリーは声を弾ませる。
「まあ、シ・ワルキね! 黒き森の一族という魔物使いたちがいるそうよ。以前、本で読んだことがあるわ」
 テレーズはひとつ駒を進めて、
「本当にお勉強が大好きなんですね、メアリー殿下」
 カードを選びながらメアリーはにやりとした。
「意地悪ね。あなたなら分かるでしょう? 私が本当に好きなのは——」
 軽く息を吸って、二人は声をそろえる。
「冒険!」
 メアリーはびしりとシ・ワルキのカードを指差した。テレーズはくすくす笑った。
「もう十年も前でしたか。驚きましたよ、お庭で木の枝を剣にして遊んでいた殿下が、急に机に向かってお勉強するだなんて言うんですもの」
「だってあんなに分厚い本を埋めなければならなくなったのよ。それはもう必死だったわ」
 メアリーは書棚に視線を送った。いつでも手に取れるよう、一番目立つ場所に「その本」が入っている。表紙にも背表紙にも文字はなく、はじめは中身も真っ白だった。
 十年前、メアリーは冒険ごっこと称して城の庭を駆け回るようなおてんばだった。そんな彼女を変えたのは、当時教育係として城に仕えていたパウルという学者だった。
 ある時、いたずら心を働かせたメアリーは、パウルが大切にしていた本を盗んで城の煙突に隠した。小さな騒ぎを起こし、満足したら取りに戻るつもりだった。しかし、その日にちょうど煙突掃除が行われ、払われたすすで本は真っ黒になってしまった。読めなくなった本を手に、さすがの彼女も青くなってパウルに謝りに行った。
 パウルはひとしきり穏やかな声で叱ると、涙目のメアリーにこう言った。
「あなたが反省しているのなら、私がこれ以上叱るのはやめましょう。ですが、二つ約束してください。一つは二度とこんな真似をしないこと。もう一つは——この本をあなたが埋めてください」
 彼は分厚い本を差し出した。メアリーが恐る恐る開くと、中はすべて白紙だった。
「埋める、というのは……?」
「あなたが今日から学ぶすべてを書き記し、ページを埋めていくんです。
 いつか本が埋まったら、私にください。今日からあなたが何を学んでいくか、それを読める日を楽しみにしています」
 そう言われても、勉強から逃げ回っていた彼女は途方に暮れるしかなかった。
「あ、あの、パウル先生。ここに書くべきことは先生が教えてくださるのですか」
「いいえ。私はこれから異国へ政治を学びに行きます」
「えっ」
 父王に頼まれたのだ、とパウルは語った。もう旅立つ日取りも決まっていた。
「先生がいなければ、どうやって本を埋めたらいいのですか」
 メアリーが必死にすがりつくと、
「そうですね……肩を並べてともに学ぶ友と、あなたに知識を与える先生を見つけなさい。その方々が導いてくれるはずです」
 パウルはこんな助言を残して異国へと旅立っていった。
(友と、先生……)
 友はすぐに見つかった。テレーズだ。一緒に学ぶなら幼なじみの彼女しかいない。でも先生はどうやって見つければよいのだろう?
 困ったメアリーは学問に秀でた父王に相談した。心得た彼は様々な教師を王城に呼び寄せた。しかし、なかなか「この人こそ」と思うような人物は見つからなかった。
 このままでは埒が明かない。メアリーは王立学院に通いつめて自ら先生を見定めることにした。そして二年前、ついにサイラス・オルブライトを見つけた。
 サイラスは彼女を殿下と呼んだが、それ以外の点においては他の生徒と同じように接した。ひたむきに知識を求め教えを広めるその姿勢は、メアリーの目に好ましく映った。
 王女は彼を家庭教師として城に招いた。以降二年間、本のページは順調に埋まり続けている。
「殿下くらい熱心にお勉強なさっていたら、あの本もそろそろ埋まるでしょう?」
 テレーズが駒を進めながら尋ねる。
「ええ。パウル先生が帰ってくるまでには、必ず完成させるわ」
 メアリーは新たなカードをテーブルに置き、駒を動かした。
「フレイムグレースを旅立った式年奉火の運び手は、次にリバーランドのセントブリッジへ……」
 盤上遊戯は儀式の順番どおりに進んでいく。雪深いフロストランドから穏やかな川辺の町へ。テーブル上の地図はでたらめな地理を示しているが、本来セントブリッジはアトラスダムから内海を挟んで反対側にある。メアリーは川のほとりにそびえる大聖堂に思いを馳せた。
 二人は机上の旅を楽しみながら次々と駒を進めていく。
「セントブリッジから、コーストランド地方のゴールドショアに向かい、最後は再びフレイムグレースに戻ってくる……」
 式年奉火の順番通りにカードを巡っていき、いち早く自分の駒を出発地点に導いた方の勝ちだ。カードを置く位置と順序をよく考え、退路を確保しながら進むのがコツである。
 今回は僅差でメアリーが先にフレイムグレースに戻ってきた。
「ああ、負けてしまいましたね」
 テレーズは満足そうにほほえんだ。手軽に旅の気分にひたることができる、いいゲームだ。
「そうそう、テレーズさんは知っているかしら。王立図書館にフレイムグレースから聖火教会史という本が寄贈されたの。ちょうど昨日、特別書庫に入ったはずよ」
「もしかして、先ほどサイラス先生が図書館に行かれたのは……」テレーズが顔を上げた。
「ええ、特別書庫の閲覧許可を出してもらったわ」
 特別書庫にはアトラスダムの知の真髄が集まると言われる。万一盗まれたら国の大損失になるような貴重書でいっぱいだ。一介の学者が簡単に閲覧できるものではない。そこで王女の権限を使った。サイラスに直接依頼されたわけではなかったが、彼が聖火教会史を読みたがっていることを知り、メアリーはつい力を貸してしまった。
 レースのカーテン越しに外を見ると、碩学王の日差しがいくらか傾いていた。
「今日はずっと城の中にいるわね。テレーズさん、少しお散歩しましょう」
「はい」
 二人はカードを片付け、衛兵に挨拶して王城を出た。
 アトラスダムの町は城壁によっていくつかの区画に分かれている。城下町と、王城前の広場、そして王城だ。町の中央にある広場に面して王立学院と王立図書館が建っている。
 王城から伸びるメインストリートを通って広場に向かうと、「ごきげんよう殿下」と通行人に声をかけられた。テレーズとともに静かに会釈する。王女はどこにいても注目を浴びるのが常だった。
 幅広の道の突き当たりには門があった。その先は城下町だ。しかし、メアリーは護衛なしではあちらに行けない。王城から見下ろせる平原だって、決して自分の足で自由に歩くことはできない。
「メアリー殿下?」
 もの思いにふけっていたら、テレーズが顔を覗き込んできた。「なんでもないわ」と首を振る。
「……あら?」
 その拍子に王立図書館の入り口が目に留まった。何故か人だかりができていた。
 王立図書館は、アトラスダムを代表する建築物だ。その豊かな蔵書数にふさわしい堂々たる威容を誇る。入り口の両脇に飾られた有翼の獅子像——碩学王アレファンの使いとして知られる——と、正面玄関の上に彫られた王女のレリーフが訪問者を歓迎していた。
 あの彫刻を見る度メアリーは「あまり自分に似ていないな」と思う。この図書館はメアリーの生誕を記念してつくられた場所だった。十数年前、当時の彫刻家が生まれたばかりの彼女をモデルに、将来の顔を予想して彫ったものらしい。
 メアリーたちの接近に気づき、人垣が割れた。自然とできた道の真ん中を行く。
「どうかされたのですか?」
 扉の前に立つ守衛に尋ねた。
「これはメアリー殿下……」守衛は一礼し、気まずげに目をそらす。「それが、ええと」
 その時、図書館の扉が開いた。中から出てきたのは——
「サイラス先生!」
 メアリーが驚き、テレーズが固まる。サイラスは二人を順繰りに見た。
「ちょうどよかった、メアリー殿下。それにテレーズ君も、少し中でお時間をいただけますか」
 有無を言わせぬ調子だった。テレーズと顔を見合わせ、図書館に入る。
(サイラス先生は今ごろ聖火教会史を読まれていると思っていたのに。何かあったのかしら?)
 その危惧は当たっていた。王立図書館はただならぬ雰囲気に包まれていた。
 開架の書棚が設けられた閲覧ホールは吹き抜けになっており、高窓からほのかに光が入ってくる。普段は静粛な空気に満たされている空間が、今は騒然としていた。机の上に本が平積みされ、職員たちが忙しそうに棚の間を動き回っている。
「もしかして蔵書点検ですか? こんな時に」
 メアリーは首をかしげてサイラスに尋ねる。予定になかったはずだが。
「ええ、緊急事態ですから」
 不穏な単語にどきりとした。
 サイラスに手招きされて女性の司書がやってきた。薄茶の髪を後頭部で結い上げた彼女は、確かメルセデスという名前だった。整った相貌が台無しになるほど真っ青な顔色をしている。
「申し訳ありません、メアリー殿下」
 彼女は深々と腰を折った。
「一体何があったのですか」
 不安にかられてサイラスを見上げる。思慮深い視線がホールの奥の扉に投げられた。
「特別書庫から聖火教会史が消えていたんだ。おそらく盗まれたのだろうね」

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