知に平和を



「テレーズさん、明日時間をちょうだい。是非紹介したい方が——会ってほしい方がいるの」
 二年前、テレーズは遠戚であるメアリー王女からこんなお願いを受けた。
(誰のことだろう?)
 まさか好きになった人……とか? そう考えた自分に驚いた。
 明日の約束をして、王城から退出する。続いて向かった先は王城前広場の西だ。近頃テレーズは王立図書館に通うのが日課になっていた。
 勉強のため、ではない。彼女は何よりも物語を好んでいた。ページを開き、ストーリーを紐解けば、別の世界に飛び込んだような心地になる。
 とりわけ恋愛物語に興味があった。普段あまり接することのない異性の描写があるからだ。友人たるメアリーにもなかなか聞けないようなことを、テレーズは物語から教わっていた。
 入り口に立つ守衛に挨拶し、図書館に入る。たくさんの人がいるのに中はしんと静まり返っていた。ゆっくり息を吸い、貸出カウンターを目指した。
 この図書館では本の貸出を行っている。どうやらこれは画期的なことらしい。普通、図書館といえば本の持ち帰りはできず、その場で閲覧できるだけなのだ、とメアリーに教えられた時はびっくりした。テレーズにとっては貸出できることが当たり前だった。
 王立図書館のはじまりは十七年前だ。それまで王城に保管されていた多くの書物を一般に開放すべく、現在の王オスレッド二世の命によりつくられた。城下町からこの区画に入ってくるには衛兵が守る門を通る必要があるが、基本的に誰でも立ち入ることができる。書類に記入さえすれば、貸出は自由だ。
 テレーズは持ってきた本を司書に返却した。すっかり顔なじみになった男性の司書はほほえんで受け取った。
(今日は何を借りようかしら)
 目当てはもちろん物語である。びっしり本が陳列された書棚の間をうろうろし、背表紙を眺める。こうして悩んでいる時間も好きだった。
 やがて気になるタイトルを見つけた。手を伸ばせばぎりぎり届く位置にある。ならば、とかかとを浮かせて本の背に指をかけた。
「きゃっ!」
 不意に体のバランスが崩れ、指が外れる。棚から抜け出した本が、頭めがけて落ちてくる——! テレーズは思わず目を覆った。
 予想した衝撃はなかった。恐る恐るまぶたを開けた。
「大丈夫かい?」
 ごく近い位置から落ち着いた声が降ってくる。
 白い手が見事に本をキャッチしていた。テレーズは徐々に視線を上げていく。知性の宿る青い瞳がこちらを見ていた。夜のような黒い髪を後ろで一つに束ね、金の装飾きらめくローブをまとったその人は。
「あっ……」
 どくんと心臓が跳ねた。
 彼のことはよく知っていた。齢三十に満たずして「アトラスダムにその人あり」と知られる、新進気鋭の学者だ。
「怪我がなくて良かったよ」
 彼はかすかに笑みを浮かべた。否応なしにほおが燃え上がり、テレーズは渡された本をぎゅうと胸に抱く。
「サイラスさん、ですよね」
「おや、キミとは初対面だと思ったが……どこかで会ったかな」
「いつも図書館にいらっしゃるので、司書さんからお名前を聞きました」
 急に自分の身だしなみが気になり、せわしなく前髪を払いのける。一方的に顔と名前を知っているなんて気味悪がられないだろうか。
 サイラスは首をかしげ、形の良いおとがいを指でつまんだ。
「やはり、資料を広げて机を占領するのはまずかったかな」
「そ、そんなことはありません! サイラスさん……の研究がうまくいくよう願っています」
「ありがとう。キミにも良い出会いがあるといいね」
 サイラスはにこりと笑って本を指差す。本を読み解くことを「出会い」と呼ぶのか。意外にもしっくりくるたとえだった。
 ぼんやりする彼女を置いて、サイラスはローブの裾をなびかせ颯爽と去っていった。
 まだ胸のどきどきがおさまらない。そのまま閲覧席に座ってもページの上で目が滑ってしまい、貸出の手続きをする間もテレーズは呆けていた。
 ——その翌日。約束どおり登城してメアリーを訪ねた。
「待っていたわ」
 王女は背筋を伸ばし、廊下をどんどん奥に入っていく。少なくとも恋人を紹介されるわけではなさそうだ、とさすがのテレーズも思い当たった。
 たどり着いた先は行き止まりにある扉の前だ。
「ここは……確か倉庫でしたよね?」
 メアリーは自慢げに胸を張った。
「少し片付けてもらったの。これから私たちの勉強部屋になるのよ」
「え?」
 そういえば王女は長い間、師に渡された真っ白な本に頭を悩ませていたのだった。
「もしかして、パウル先生の言っていた……」
「そう。やっと見つかったのよ、私たちの先生が!」
 きらきら光るメアリーの瞳に誘われるように、テレーズはその部屋に入った。
 中は残った荷物で雑然としていた。かろうじて空いたスペースには机と椅子が人数分並べられている。必要最小限の設備だ。
 部屋の隅で、埃まみれの黒いローブが動き回っていた。荷物を片付けているらしい。メアリーが声を弾ませ駆け寄った。
「もういらしたんですね、サイラス先生!」
 テレーズは息を吸うのを忘れそうになった。耳の奥を流れる血潮の音がどくどくと頭に響く。
 サイラスは穏やかかつ洗練された動作で、胸元に手をあてた。
「メアリー殿下。この度はご推薦ありがとうございます」
「かしこまったことは抜きにしてください。これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそ。——おや、キミは」
 端正な顔がテレーズへ向けられる。それだけで卒倒しそうになった。もしや、今後この人とメアリーと三人で勉強するというのか? 自分の心臓は果たして耐えられるのだろうか。
 半死半生で口をぱくぱくさせる彼女を、メアリーが紹介した。
「テレーズさんです。私の遠い親戚で、いつも一緒にいてくれるんです」
「なるほど、彼女が『ともに学ぶ友人』なんだね」彼もパウル先生の話を知っているようだ。
 テレーズはぎくしゃくとスカートの裾をつまんで一礼した。
「き、昨日はありがとうございました」
 それだけ言うので精一杯だった。サイラスは微笑とともに手を差し出す。
「キミのような生徒を持つことができて、とても嬉しいよ。改めて、私はサイラス・オルブライトだ。よろしくテレーズ君」
 彼の唇に乗った美しい響きは、まるで自分の名前ではないようだった。テレーズは口から心臓が飛び出そうなほど緊張しながら、手のひらを重ねた。
 ほのかなあたたかさを感じた瞬間、すぐにその手が離れていく。横合いからメアリーが声をかけたからだ。
「ああ良かった。これでパウル先生が帰ってくるまでに本が埋まります!」
「殿下はもうご自分でほとんどのページを埋められたではありませんか」
「行き詰まりかけていたんです。それに、サイラス先生がいなければ私の知識は質を伴ったものになりません」
「はは、私も殿下の期待に応えられるよう励まなければね」
「はい!」
 はしゃぐ王女の声がどこか遠くに聞こえる。窓から差す陽を浴びて輪郭に光をまとう二人を、テレーズは上の空で眺めた。
 ——サイラスを見つけたのは、自分だけではなかった。彼を家庭教師に任命したのはメアリーだった。
 彼から勉強を教わるなんて、これ以上嬉しいことはないはずなのに。その事実はテレーズの胸に黒い染みを広げた。



「聖火教会史が、なくなった……?」
 メアリーが呆然とつぶやく。みるみるその顔が蒼白になった。テレーズも同様に血の気が引いている。
「現在、蔵書点検の名目で図書館を封鎖して行方を探しているが……おそらく出てこないだろうね」
 なるほど、図書館の職員たちが焦った顔をしているわけだ。この混迷の中で、ありがたいことにサイラスだけは動じていなかった。彼は眉をひそめて説明を続ける。
「知っての通り、あの本はフレイムグレースのヨーセフ大司教様から寄贈されたものだ。この度の式年奉火にウォルド王国が協力する見返りとしてね。これは諸王会議で決まったことだから、紛失の事実が表沙汰になるのは……非常にまずい」
「は、はい」メアリーはがくがくとうなずく。
「明日、国王陛下がアトラスダムに戻ってくる。そうなれば隠し通すのは無理だろう。だから、本を見つけるならば期限は今日中だ」
 式年奉火の段取りを相談するため、国王は現在フレイムグレースに赴いている。危ないところだった。発覚が一日でもずれていれば、とんでもない事態になっていた。
 サイラスは片手を胸に置いて、メアリーに向き直る。
「メアリー殿下、私に時間をください。明日までに聖火教会史を見つけます」
 サイラスの両目に強い意思があらわれていた。テレーズは思わず引き込まれてしまう。
 王女は小さく、だがはっきりと首肯した。
「……はい。この件に関しては、私が箝口令を敷きます。どうぞよろしくお願いします」
 国王がいない今、実質的にメアリーが王妃に次ぐ権力を得る。彼女がいれば一日くらいは隠し通せるはずだ。
「それで、どうして本がなくなったのでしょうか……?」
 テレーズは恐る恐る口を挟む。特別書庫から本が消えるなんて、どう考えてもおかしかった。
「うむ、まずはくわしい状況から説明しようか。メルセデス君」
「あ……はい」
 その場で話を聞いていた司書は虚ろな返事をした。いつもは聡明で冷静な人だが、この状況では無理もない。
 職員たちが蔵書点検に勤しむ中、サイラス、メアリー、テレーズ、メルセデスは職員以外立入禁止の管理部門に入り、小さな会議室を借りた。
 サイラスはぐるりと王女たちを見渡す。
「聖火教会から寄贈されたあの本は、ちょうど昨日、王立図書館の特別書庫におさめられたばかりだった」
 特別書庫の本を閲覧するには厳しい申請を通る必要がある。閲覧者本人が書庫に立ち入ることは許されず、申請を確認した司書が書庫から本を持ってくる仕組みだ。当然本は禁帯出であり、専用の閲覧室で読むことになる。
「私は今回メアリー殿下のおかげで許可を得たが、そうでなければ聖火教会史など触れることすらできなかっただろうね」
 淡々と告げるサイラス。テレーズはひそかに胸を痛めた。天才学者たる彼でも手の届かぬ本があるのだ、と思うと暗澹たる気分になる。
「まあそれはいいとして」とサイラスはあっさり流し、「今日、私は聖火教会史を特別書庫から取り出してもらうようメルセデス君に依頼した。彼女が本を探すのを待っていると、急に学長に呼び出されたので、一度席を外したんだ」
「呼び出しですか?」メアリーが疑問を挟む。
「大した用ではなかったよ」
 サイラスは何でもないように答えたが、テレーズは少し引っかかった。一体どんな用件だったのだろう。
 自失状態だったメルセデスもだんだん立ち直ってきて、なんとか話をはじめた。
「サイラスさんの申請を受けて、私は特別書庫に入りました。聖火教会史は、昨日もうひとりの司書と一緒によく確認しながら書棚におさめたばかりなので、位置も覚えていました。ですが——」
 どこを探しても聖火教会史が見つからなかった、というわけだ。
 そこで図書館を急遽閉鎖し、その場にいた利用者全員の持ち物検査を行った。しかし誰も本を所持していなかった。よって、一旦利用者を図書館から外に出し、蔵書点検に踏み切った。
 王立学院から戻ってきたサイラスは、図書館閉鎖の理由を察した。守衛に頼んで中に通してもらい、取り乱した様子のメルセデスから経緯を聞いたというわけだ。
「聖火教会史を最後に確認したのは、あなたともうひとりの司書の方ということですか?」
 メアリー王女が鋭く切り込む。平静を取り戻した彼女を見て、テレーズもやっと落ち着いてきた。
「ええ。昨日の朝——開館時間の前でした」
「その司書は今どこに?」これはサイラスの質問だ。
「具合が悪いそうで、今日はお休みです」
「そうか、彼からも事情が聞けたら良かったのだが」
 サイラスは残念そうに言った。メアリーはテーブルの上で指を組む。
「特別書庫の鍵を持っているのは、図書館の館長と王立学院の学長だけでしたよね」
「はい。鍵は館長から借りて、すぐに返しました。それからは誰も特別書庫を開けていません」
「なるほど。それではやはり盗まれた可能性が高いね」
 サイラスが断言した。全員の視線が彼に集中する。
「あ、ありえません! それは不可能です」
 メルセデスが反論した。
「ですが、実際に本はなくなったのでしょう?」
 メアリーがこわばった声で問うと、司書はうなだれた。
 特別書庫から本が盗まれた——本当に? テレーズにはどうしても信じられない。そんな大それたこと、誰が考えたのだろう。それに聖火教会史なんて盗んでどうするのか。手元に保管するにしても売るにしても、なんだか現実味のない話だ。なくなっただけで大騒ぎになるような本を所持するのは、リスクが高すぎる。
 サイラスはまぶたを閉じ、指先であごをつまんだ。そのお決まりのポーズに、テレーズはうっかり見とれてしまう。
「持ち出し不可能の書庫、消えた蔵書——もしもこれが盗まれたのだとしたら立派な事件だし……謎、だな」
 彼はぱっと目を開く。
「謎は、解き明かさなくてはならない」
 その瞳には、何故か嬉しそうな光が宿っている——ように見えた。
 一瞬静まり返った部屋に、ノックの音が響く。サイラスはメアリーに目で尋ね、許可を得てから「どうぞ」と促した。
 入ってきたのは老齢に差しかかった男性である。几帳面な顔が辛そうに歪んでいた。
「館長!」
 王立図書館の館長だ。ホールで蔵書点検の指揮を執っていたはずだが、抜け出してきたのだろう。彼はまず、王女に対して平身低頭した。
「今回の件は、メアリー殿下にどう申し開きをすればよいか……」
「頭を上げてください館長。まだなくなったと決まったわけではありません。明日、国王陛下が戻ってくるまでに片を付けます」
 メアリーは力強く請け負った。姿勢を正した館長は王女の隣にいるサイラスを見やり、
「ああ、サイラス先生が協力してくださるのですね。ありがとうございます」
 サイラスは長いまつげを伏せた。
「私としても、生徒たちの学ぶ機会が失われることは看過できません」深い憂慮を全身であらわす。「館長。機密事項とは承知していますが、捜査のために特別書庫の鍵の保管方法を教えていただけますか」
「殿下もいらっしゃるのですから喜んでお話ししますよ。鍵はこうして私が持っています」
 館長は服のポケットから小さな鍵を取り出した。持ち手の部分に赤い紐が巻いてある。
「なるほど……」
 サイラスはしばし考え込んだ。テレーズたちが固唾をのんで見守る中、その青目がつと上がった。
「まずは、本がいつ盗まれたかを特定する必要があるね」
 そう言ってテレーズたちに視線をよこす。思わず肩が跳ねそうになった。
「そちらは私が調べよう。メアリー殿下、テレーズ君。恐れながら頼みたいことがあります」
「もちろんです」「わ、わたしでよければ」
 メアリーは身を乗り出して、テレーズはうつむき加減で答えた。
「ありがとうございます。館長とメルセデス君は一度蔵書点検に戻ってください。お願いします」
「分かりました」「頼みましたよ、サイラス先生」
 職員たちが部屋を出ていき、小さな会議室には三人だけが残った。いつものメンバーだが、授業とはまったく違った緊張感がある。
 テレーズはひそかに期待しながら次の言葉を待った。すると、サイラスは王女だけを視界に入れて、
「メアリー殿下、折り入ってお話があります。すまないが、テレーズ君は少しの間待っていてくれるかな」
「はい、先生」
 部屋の外に出る二人の背を、テレーズは呆然と見送った。心の奥底にどろりとした感情が噴出する。
(どうして?)
 メアリーの方が勉強ができるから——いや、サイラスが生徒を単純な優劣で評価するはずがない。そう分かっていても邪推をやめられないのは、テレーズが自分自身に劣等感を抱いているからに他ならなかった。
(ああ、嫌だな……)
 そう考えてしまう自分がもっと嫌になる。あこがれの人に近づけば近づくほど、己の醜さが浮き彫りになる気がした。
 一人で待つのは耐えられなかった。テレーズはなりふり構わず部屋を飛び出した。
 細い廊下の先に、職員用の出入り口が見えた。胸に渦巻く黒い気持ちが、彼女をそちらに走らせた。
 こっそり外に出る。裏口は広場の方向とは反対側にあり、小さな庭がメインストリートからの目隠しになっていた。
 植え込みの向こうで話し声がした。サイラスたちだ。テレーズはとっさに身を低くした。
「——この分だと、一番可能性が高いのは内部犯だろうね」
 いきなり聞こえたサイラスの言葉に、心臓が大きくジャンプする。
「まさか! 図書館の職員が本を盗んだということですか?」
 メアリーは思わず叫んでしまい、慌てて口元をおさえた。一方サイラスは落ち着き払って、
「もう少し状況は複雑かもしれないが、職員の中に犯人がいる可能性は念頭に置くべきだろう」
 聖火教会史を盗んだ犯人について、彼が何を察したのかは分からない。けれど、これでひとつはっきりした。サイラスが王女だけを呼んだのは、その推測が重大な機密に属するためだ。決してえこひいきなどではなかった。テレーズは安堵しながら、サイラスと二人きりで話すメアリーを見て胸をざわめかせた。
 植え込みの隙間から目を凝らす。がくりと肩を落としたメアリーが、消え入りそうな声を発した。
「先生……。本は見つかるのでしょうか」
(殿下もこんなふうに落ち込むことがあるんだ)
 普段なら絶対に聞けない本音だった。メアリーはいつだってテレーズを引っ張ってくれる。先ほどいち早く立ち直ったように見えたのは、実のところ強がりが混ざっていたのかもしれない。
 彼女が弱々しい姿をさらすのは、サイラスの前だけなのだろうか。
「聖火教会史は私が必ず見つけるよ。キミの先生を信じてくれないか」
 平素と同じやわらかい声に万感の思いがのっている。テレーズはそう感じた。
「サイラス先生……っ!」
 メアリーは潤んだ瞳で彼をあおぐ。
 胸が強く締めつけられた。二人はなんてお似合いなんだろう。十以上も歳が離れているのに——それはテレーズも同じなのに。
 知のしるしである陽光を一身に受けるサイラスと、平原の太陽と称されるメアリー。対するテレーズは植え込みの陰に身を潜めている。
 月は二人と同じ空には上れないのだと、否が応でも理解してしまう光景だった。

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