知に平和を



「聖火教会史は私が必ず見つけるよ。キミの先生を信じてくれないか」
 サイラスはそう請け負ってくれた。メアリーは生徒として、また父王が留守の間アトラスダムを預かる王女として、弱気を振り払わねばならない。
 今後について軽く打ち合わせた後、サイラスと別れて会議室に戻る。部屋の中ではテレーズが何故か机に突っ伏していた。
「ど、どうしたのテレーズさん」
 慌てて声をかける。彼女はおもむろに顔を上げた。
「あ……いえ、なんでもありません」
 返事とは裏腹に顔色が悪かった。やはり聖火教会史の件で気を揉んでいるのだろう。テレーズは芯は強いが繊細な部分があった。友人として元気づけよう、とメアリーは背筋を伸ばす。
「私たちのやるべきことが決まったわ。王立学院の学長先生にお話をうかがいにいくの。テレーズさん、協力していただけるかしら」
「は、はい。もちろん」
 テレーズはぎこちなくうなずいた。
 特別書庫の鍵を持っているのは図書館長と王立学院の学長だけだ。図書館の方はサイラスが調べるので、メアリーたちは学長に探りを入れに行くことになった。道中、テレーズに具体的な段取りを説明する。
 王立学院は図書館からメインストリートを挟んで向こう側だ。外に出た二人は広場を横切り、学院前の階段をのぼった。
 広場を見下ろす高台に学舎が堂々とそびえ立つ。入り口の上部には、図書館と対になる王のレリーフが飾られていた。この王立学院は、父王が学問都市アトラスダムの要としてつくった場所だった。
 正面の大扉を開けると、たちまち四方から声がかかる。
「メアリー殿下、ごきげんよう」「学院に何かご用ですか?」
 顔見知りの生徒たちに囲まれ、メアリーは「学長先生にお話があるの。どちらにいらっしゃるかしら」と如才なく退けた。
「今の時間ならお部屋にいます」
 ありがとうとだけ返して、テレーズとともに二階の学長室を目指す。
 たどりついた扉の前では、ひときわ立派な有翼の獅子像が二人を出迎えた。メアリーはそっと深呼吸した。
「行くわよ、テレーズさん」
「……はい」
 作戦開始の合図の代わりにノックをした。「入りたまえ」と扉越しにくぐもった声がした。
「突然の訪問失礼します。メアリーです」
 扉を開けると真っ先に書棚が目に入った。これ見よがしに分厚い本が並んでいる。少し威圧感があるのは気のせいだろうか。
 机で仕事をしていたイヴォン学長は悠々と立ち上がり、こちらにやってきた。学長は父王より少し年上だ。そのせいか、父王はどうもイヴォンに対して強く出られない部分があるらしい。
 サイラスとは正反対の赤い瞳がメアリーを刺した。
「これはメアリー殿下。何のご用ですか」
 すばやく学長の顔色をうかがう。図書館の異変にはまだ気づいていないはずだ。この人にだけは隠し通さなければ、と意気込む。
「イヴォン学長、少しだけお時間をいただけますか?」
「……分かりました」
 メアリーとテレーズは応接スペースのソファに腰掛けた。真向かいにイヴォンが座り、その後ろに音もなく秘書の女性が立った。墨色の長い髪を背中に垂らした秘書は、とにかく目立たない人だった。いつも必要最低限の会話しかしないので、メアリーにとっては名前すら曖昧な存在である。
 疑問に満ちたまなざしを受け、メアリーは単刀直入に切り出した。
「実は今、王立図書館の特別書庫の鍵を取り替える計画をしています」
 イヴォンの眉が微妙な角度に持ち上がった。
「ほう? それはまた、一体どうして」
「先日、図書館に聖火教会史が寄贈されたでしょう。万が一にも紛失するわけにはいきませんから、警備を強化するのです」
 この論法を考えたのはサイラスだった。実際に紛失しておいて「どの口が言う」という話だが、一応筋は通っている。他でもない王女が話せば真実味はいっそう増すだろう。
「確かにそうした方がよろしいでしょうね。それで、私に用とは?」
「直近で特別書庫を訪れた日を教えてください」
「それが鍵の取り替えと関係あるのですか?」
 当然の指摘だった。
「ええと……鍵を取り替える時期を見計らうために、利用頻度を調べているんです」
 テレーズが答えた。道中で打ち合わせたとおりだ。
「ふむ、図書館にも記録は残っていると思いますが……確か、ひと月は前ですね。ルシア君、手帳を」
「はい学長」
 イヴォンは秘書に渡された手帳をめくった。メアリーはその一挙手一投足に注目する。
 ——サイラスは他人に探りを入れることが大の得意だ。ほんの少し話しただけで、相手が心の奥に隠したあらゆる物事をぴたりと当ててしまう。授業の最中、メアリーが疑問を抱いて教本とにらめっこしていたら、先回りしてその説明をされることまであった。
 そんな彼が、メアリーたちに学長の相手を任せた。すなわち自分では聞き出しづらいと判断したわけだ。それに二人の観察眼を信頼しているのだろう。その期待に見合った成果を持って帰りたかった。
 視線が泳がないか。言葉を選んではいないか。手帳の正しいページをすぐに探り当てたか。あらゆる角度からイヴォンを観察し、結論を出す。
(嘘はついていないようね)
 メアリーは自分の直感を信じることにした。隣のテレーズも小さく首肯した。
「ありがとうございます。その鍵はどちらに保管していますか」
「私が持っています」
 秘書ルシアが答えた。初めてまともに声を聞いた気がする。改めて注目すると、彼女はイヴォンよりもはるかに表情が読みにくかった。
(この人が犯人だという可能性はあるかしら?)
「殿下とはあまりお会いしたことがありませんでしたね。私はしばらく調査に出ておりまして、今朝戻ってきたばかりです。その間は学長が鍵を持っていました」
 何かを察したルシアがそう付け加えた。
「……それさえ分かれば十分です」
 すなわちルシアは限りなく犯人から遠い存在だ。これ以上探りを入れるのは無理と判断し、メアリーはそそくさと立ち上がった。「そうですか」と言うイヴォンの赤い双眸が、一瞬だけ光ったような気がした。
「そういえば、先ほどサイラス先生がこちらにいらっしゃったのですよね? 何のお話をされたのですか」
 目的を果たして気が緩み、ついそんな質問をこぼした。イヴォンはわざとらしく秘書と目を合わせながら、こともなげに答えた。
「彼の提出した論文に不備があったので指摘しただけですよ」
 なんだか嫌な雰囲気だった。もしや難癖をつけたのでは? という推量が浮かぶ。
 ——二年前、サイラスを家庭教師に招くため、メアリーはこの学長に直談判したことがある。
「学院の授業や研究には支障が出ないよう計らいます。彼にとっても学院にとっても、利のある話のはずです」
 父王に頼めばこんな交渉など不要だろうが、今回ばかりは自分できちんと話を取り決めたかった。己の三倍以上も歳を重ねた学長を相手に、メアリーは一歩も引かない構えだった。
 学長室でゆったりとソファに腰かけたイヴォンは、尊大な態度で問いかける。
「メアリー殿下は何故そうまでして学びたいのですか?」
 つかの間、言葉が出なかった。
「それは……民をよりよき未来に導くためです」
 パウルへの罪悪感から仕方なしにはじめた勉強だった。しかし今は違う。父王やテレーズ、数多の教師たちにより、メアリーは学ぶこと自体の大切さを知った。それに、様々な知識を得ることは単純に楽しく、心に豊かな世界をつくる。王女の身分では諦めるしかなかった「冒険」の代償行為としての側面もあった。
 そんな当たり前のことをどうして尋ねるのだ、という気分で目線を返す。イヴォンはかぶりを振った。
「……サイラス君は我が学院の大事な教師です。あまり外に出したくありません」
「だからこそ、学院の外にも彼の持つ知識を広げるべきではないのですか」
 王女が生徒になれば、サイラスから得た知見を政治に組み込むことだってできる。アトラスダムの未来の展望としては悪くない話なのに、イヴォンは一体何を渋るのか。
「……分かりました、ただし教える分野は歴史に限らせていただきます。彼はそれ以外はまだ未熟で、殿下に教えるレベルではありません」
 そんなはずはない。サイラス本人と会話した時は、どの分野の質問にもすらすら答えていた。
(そうか。この人は多分、知識を自分だけのものにしたいんだ)
 メアリーは直感した。同時に、王立学院全体に漂う居心地の悪さの正体に気づいた。
 ——あれから二年が経過して、余計にイヴォンの意識は凝り固まってしまったのだろうか。サイラスにかかった突然の呼び出しは、特別書庫の閲覧許可が降りたことを知っての嫌がらせだったのではないか、とまで勘ぐってしまう。
 学長はそれ以上何も言わなかった。メアリーは一刻も早く退出したかった。
 その時、テレーズが耳打ちしてきた。
「あの、わたし……学長先生にご用事があるんです」
 メアリーは何度か瞬きした。
「課題でも渡すの? それなら、外のお庭で待っているわね」
「はい」
 別れ際のテレーズの顔は、何故か暗く沈んで見えた。
 学長室から出た途端、「はあ……」と王女らしくないため息が出てしまう。ピリピリした時間だった。テレーズはあんな場所に居残って大丈夫だろうか。
 授業がはじまる時間帯になったのか、学院の中は静まり返っていた。メアリーはテレーズに伝えた通り、学院の庭に向かった。
 庭といっても凝った植木はなく、芝生の上にベンチが並ぶ程度だ。主に生徒の休憩スペースとして使われている。今も授業のない生徒たちが木陰に座り、おしゃべりに興じていた。
 手近なベンチに腰掛けると、メアリーと同じくらいの年頃の少女がぱたぱた駆け寄ってきた。
「メアリー殿下!」
「あら、あなたは……」
 サイラスと出会う前、理想の教師を求めて学院に通いつめていた頃に、何度も話をした。学者の家系に生まれた生粋の勉強家であった。
「お久しぶりですね」
 メアリーがほおをほころばせると、相手は隣に座って唇を尖らせた。
「殿下があまり来てくださらないからですよ」
「ふふ。すみません」
 サイラスを王城に招いて以降、すっかり学院からは足が遠のいていた。あの学長の影響があるせいか、王城とは違った意味で窮屈に感じられたためだ。
 旧友は教本を抱え、意味ありげに笑った。
「殿下、久しぶりにいらっしゃったということは、例の噂もお聞きになっていないのでは?」
「例の噂……?」
 ぽかんとするメアリーに対し、旧友はあたりを見回して声をひそめる。
「学院に秘密の地下室があるという噂ですよ」
「地下室ですか?」
「はいっ」
 旧友はなんだか楽しそうだった。こういう噂話はいつだって人気がある。生徒たちは真面目に勉強する一方で、息抜きのおしゃべりに花を咲かせる。今や懐かしい空気だった。
 相手は上機嫌で話を続けた。
「ほら、この学院はまわりより少し高い場所に建っているでしょう? フラットランドはその名の通り平原なのに、おかしいと思いませんか」
「言われてみればそうですね」
 階段の先にある学院を見上げ、メアリーは相槌を打った。旧友は「我が意を得たり」とほほえんだ。
「学院の土台の部分に秘密の部屋があるという噂なんです。しかも、そこから夜な夜なうめき声が聞こえるとか……」
 ついに怪談になった。メアリーはくすりと笑う。
「ということは、どこかに地下への入り口があるのですね」
「ええ、私もそう考えてお友達と一緒に探してみましたが、まだ見つけられていません」
 メアリーが白い本を埋めようと王城で勉学に励んでいる間に、学院の生徒たちは豊かな時間を過ごしていたらしい。サイラスを学院から呼び寄せたことは後悔していないけれど、「大勢の仲間とともに学ぶ道もあったのだ」とぼんやり考えた。
「噂は他にもたくさんあるんですよ。みんな殿下とお話ししたがっています。そうだ、カード遊びはいかがですか? あれで遊びながらお話しするというのは……」
 旧友の提案に、メアリーは目を丸くする。
「カードって、もしかして式年奉火の?」
「ええ。今学院で人気なんです。一部の生徒はお金も賭けているようですよ」
 なるほどテレーズの言ったとおりだ。まさか賭けをしているとは思わなかった。王女に対してなかなか大胆な発言をするものだ。
 友人たちと旧交を温めたい気持ちは山々だったが、メアリーはかぶりを振る。
(早くサイラス先生に情報を持って帰らないと)
 テレーズはまだ学院から出てこない。用事が長引いているのだろうか?
 旧友は熱心に王女の袖を引く。
「サイラス先生がお城でどんな授業をしているのか教えてください。殿下の家庭教師をなさっているのでしょう?」
「ええ、そうね……」
 適当に相槌を打っていると、待ちに待った銀色の髪が学院の大扉から現れた。これ幸いとメアリーは起立し、階段の下に赴く。
「おかえりなさいテレーズさん。どうだった?」
 テレーズは足元ばかり見ていて、こちらに気づくまで間があった。
「え? えっと、用事は終わりました」
 どことなく気落ちした様子で答える。「どうしたのかしら」と内心訝りつつ、旧友を振り返った。
「ごめんなさい、これからテレーズさんと一緒に行く場所があるの。失礼します」
「それは残念です……お話はまたの機会に」
 旧友は寂しそうに眉を下げた。
「行きましょう、テレーズさん」
 二人は連れ立って庭を出る。
 ちらりと肩越しに学院を振り向いた。建物の土台は石材に覆われていて、中はうかがい知れない。確かにこれだけ段差があるのだから、地下に部屋があってもおかしくないだろう。
 気を取り直し、メアリーは唇を開く。
「さあ、鍵のことをサイラス先生に報告しましょう」
「はい……」
 彼女は心ここにあらずといった様子だった。メアリーはにわかに不安に駆られた。
「テレーズさんたらどうしたの。休んだ方がいいのでは——」
「メアリー殿下はサイラス先生に初めて会った時、どう思いましたか?」
 唐突な質問だった。冗談として流すにはあまりにもテレーズの表情が切実だったので、メアリーは一度口をつぐむ。よく考えて答えた。
「この人なら、私を知の高みに連れて行ってくれると思ったわ」
 フラットランドで信仰される碩学王アレファンは、太陽神としても知られる。天から惜しみなく降り注ぐ光は、アレファンのもたらす知恵を示した。そのただひとつの高みに近づくために邁進するのが学者という存在だ。
 王女のメアリーはどうやっても学者にはなれないけれど、得た知識を彼ら以上に活かすことができる。父王を見ていれば素直にそう信じられる。いつか自分が女王になった時、サイラスのような学者に——もしくはサイラス自身に支えてもらえたらいいな、とうっすら願っていた。
「やっぱり、殿下はそんなにサイラス先生のことを……」
 テレーズの顔が泣きそうに歪んだ。メアリーはぎょっとして幼なじみを見返す。
 二人の間に、恐ろしいほどの沈黙があった。次の言葉を待つ時間が永遠に感じられた。
「すみません。気分が悪いので、もう帰ります。サイラス先生にもそう伝えてもらえますか?」
 表情を取り繕ったテレーズは、妙にきっぱりと言った。メアリーは何故か「助かった」という気分になる。
「分かったわ。お大事にね」
 彼女はろくに返事をせず、石畳の道を去っていく。
 今感じたものは何だったのだろう。自分はテレーズについて、何か大事なことを見落としていないか。メアリーはしばらくの間、遠ざかる銀髪をぼうっと眺めていた。

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