知に平和を



 ゼフへ
 お元気ですか? 私は前の手紙にも書いたとおり、アトラスダムの図書館で司書をしています。
 たくさんの本に囲まれて楽しくやっています——と書きたかったけれど、今、私のいる図書館は大変なことになっています。
 私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。でも……一体どうしたら良かったのかしら。
 ああ、なんだか無性にあなたに会いたいです。



「メルセデス君、少しいいかな」
 出す予定のない手紙の文面を脳内で練っていた司書メルセデスは、その涼やかな声で我に返った。
「はい、なんでしょう」
 反射的に返事をする。どうやら自分は、職場のあまりの混乱具合に現実逃避していたらしい。
 メルセデスに声をかけたのは、恐ろしく整った顔立ちをした学者サイラスだ。かなりの頻度で図書館に通ってくるため、すっかり顔なじみになっている。彼は、メルセデスがいる貸出カウンターの向こう側に立ち、身を乗り出した。
「蔵書点検の結果について話したいことがある。館長と一緒に会議室に来てもらえないか」
 臨時で図書館を閉鎖し職員全員で行った蔵書点検は、つい先ほど終了した。その結果、なんと新たな問題が浮上していた。職員たちは閲覧ホールのあちこちで魂が抜けたようになっている。逃避に走るのも仕方ない、とメルセデス自身が思えるような展開だった。
 館長を加えた三人が会議室に顔をそろえる。メルセデスら職員がどんより沈み込む中、サイラスだけが平然としていた。
「まさか、別の盗難事件まで発覚するとは……」
 館長はもはや頭を抱えていた。朱書きで訂正された目録を片手に、サイラスが問う。
「本がなくなっていたのは開架の書棚だけですね?」
「そうです。もうひとりの司書がいないので、くわしいことは確かめられませんが……」
 メルセデスは唇を噛む。まだ年若い彼女は、膨大な手間のかかる目録の整理をもうひとりの司書に頼ってばかりだった。古株の彼は今日に限って体調不良で欠勤だ。自分がしっかり仕事を覚えていればこうはならなかった。
 サイラスは難しい顔で目録を眺めた。
「もしかして、図書館の本はずいぶん前から何者かに狙われていたのではないですか」
 館長が小さく首肯する。
「……盗難と思われる事件はちらほらありました。国王陛下にも報告しています」
 特別書庫に入るような貴重書ではなかったが、こちらも問題になっていた。しかし、警備を増やすにも費用の限界がある。だからといって本の貸出を禁じるわけにもいかない。つまるところ管理に気をつけるという対処しかとれていなかった。歯抜けになった本棚を見る度に、メルセデスは同僚の司書とともに悔しい思いを味わっていた。
 それなりの頻度で書棚を確認しているにもかかわらず、今回の蔵書点検では多くの書物の紛失が発覚した。どれだけ気をつけていても、本は職員たちをあざ笑うかのようになくなってしまう。まさか足が生えているわけでもないのに!
 メルセデスはテーブルの上でぎゅっと手を握り込んだ。王立図書館の司書は名誉ある職だ。いつか幼なじみに手紙を届ける時、胸を張って知らせようと思っていたが、今のままでは夢のまた夢だ。
 再び沈黙が流れる。サイラスは細く息を吐いた。
「この事件は特別車庫の盗難と直接関係があるのだろうか。まだ分からないな……。まずは聖火教会史の謎を解かないと」
「サイラス先生は、犯人はどういう人物だとお考えですか」
 館長が尋ねる。メルセデスも是非聞きたかった。学者は柳眉をひそめる。
「そうですね……少なくとも、聖火教会史の価値を理解している者でしょう。私のような学者ではないでしょうか」
 怜悧な声に苦さがあらわれていた。その気持ちはメルセデスにも分かる。王立図書館はいつだって学者を支援してきたのに、こうして裏切られるなんて考えたくもなかった。
 サイラスはメルセデスに視線を飛ばす。
「聖火教会史がなくなった時の状況を教えてほしい。正確には、箱だけがその場に残っていたんだね?」
「はい」
 寄贈された聖火教会史は立派な箱に入っており、扱う際には手袋が必須だった。書棚におさめる時は手のひらに汗がにじむほど緊張したことを思い出す。
「少し見ただけでは箱の中身があるかどうか分からない、と」
「そうですね……サイラスさんの閲覧申請がなければ、しばらく気づかなかったと思います」
 想像するだに恐ろしい状況だ。王女のおかげですばやく許可がおりて本当に助かった。
「特別書庫への入り口は、貸出カウンターの奥にある。開館時間中、扉の前から人が消えることはありえない。つまり、犯行時刻は昨日から今日にかけての夜である可能性が高いね」
 順当な推理だ。しかしメルセデスは首を横に振った。
「図書館は閉館した後、裏口も含めて戸締まりしています。窓が破られた形跡もありませんでした」
「その戸締まりは誰が行っているのかな」
「表にいる守衛です。彼が鍵を管理しています」
「ならば、戸締まりの時に異変がなかったか、話を聞いてこよう」
 サイラスはぱっと立ち上がり、会議室を出ていく。頭が切れる上に行動の早い人だ。
 館長と二人きりになって、メルセデスは大きなため息をつく。館長も同時に息を吐いた。思わず互いに苦笑を漏らす。
 肩の力が抜けた拍子に、あることを思いついた。
「館長……もしかして、開架から盗まれた本は、賭けに使われたのではないでしょうか」
「賭け? ああ、あの噂のことか」
 ここ数年、アトラスダムでまことしやかに囁かれている噂だ。町の地下で本を掛け金代わりした賭博が行われているという。学者も多く参加するようだが、詳細は巧妙に隠されていた。
 サイラスのような優秀な者は別として、研究費不足に悩んでいる学者は多い。一風変わった地下の賭博は、そんな彼らの受け皿になっているらしい。
 メルセデスの想像が真実だとすると、図書館の最も重要な顧客である学者が本を盗み、あろうことか賭けに使っていたことになる。サイラスの想定した聖火教会史窃盗の犯人像とも合致するが、関連性はまだ不明だ。
 とにかくメルセデスは悔しかった。この事態を招いた責任は少なからず自分にある。なんとしてでも犯人を見つけたかった。
 彼女は決意を固めた。
「私、昨日図書館に来た学者さんをできるだけリストアップしてみます。サイラスさんの捜査の手助けになるかもしれません」
 顧客を疑うことは避けたかったが、そう言ってもいられない。館長は渋い顔で了承した。
 聖火教会史を盗むにあたり、犯人は下見に来たはずだ。本が書庫に入ったばかりの昨日の昼間あたりが怪しいだろう。
 会議室を出て、司書の定位置である貸出カウンターに向かった。内側の引き出しに、貸出を行った相手のリストが保管してある。昨日の分を抜き出して別の用紙に写し、さらに閲覧だけで帰った人々の顔をできる限り思い出して、書き加えた。
 他の職員は皆、手持ち無沙汰に普段の業務を行なっている。こうしてメルセデスがある程度立ち直れたのは、間違いなくサイラスのおかげだった。
 その時、正面玄関が開いた。
「メアリー殿下、お使いのようなことをさせてしまって申し訳ありません」
 戻ってきたサイラスは、輝くような金の髪をした王女を隣に連れている。
 父親から受け継いだ利発さと、母親似の美貌を併せ持つ王女メアリーだ。彼女を見ていると、アトラスダムの未来も安泰だなと思える。王女はこの難局にも敢然として立ち向かい、メルセデスたち職員の士気を保っていた。
「いいえ。このくらい何でもありません」
 メアリーはうっすら笑みを浮かべていた。
「おや、テレーズ君は?」サイラスがはたと気づく。
「先に帰りました。気分が悪くなったそうです」
 それは心配だな、とサイラスが眉をひそめた。一方でメアリーは図書館を見回す。
「やはり聖火教会史は見つからなかったのですね」
「ええ。残念ながら」
「そうですか……」
 一瞬視線を下げたメアリーは、落ち込んでいる暇はないというように姿勢を正す。
「イヴォン学長からお話をうかがってきました。学長はここひと月、特別書庫には来ていません」
 彼女は自信に満ちた顔で報告した。サイラスの頼みごとはこれだったらしい。
「なるほど、記録にあった通りだね。ならそちらの線は外していいな」
 サイラスはひとつうなずき、メルセデスに目配せした。
「すまないが、また先ほどの部屋を貸してもらうよ。殿下と話がしたいんだ」
「私もご一緒してよろしいですか? それと、昨日図書館にやってきた学者のリストをつくりました」
「ありがとう、助かるよ」
 サイラスはその場でリストを確認した。ある一点で目が止まる。彼はふむ、とつぶやき紙を懐にしまった。何かヒントが見つかったのだろうか。
 移動先の会議室では館長が迎えた。ずっとこの部屋で思い悩んでいたらしい。無理もないだろう、もし明日になっても聖火教会史が見つからなかった場合、すべての責任は彼にのしかかる。王立図書館の館長という職を追われる可能性だって大いにある。メルセデスは穏やかな人柄の彼に好感を抱いていたので、それだけは避けたかった。
 四人で顔を突き合わせる。メアリーが改めて情報を整理した。
「学長は特別書庫の鍵を使っていません。もちろん鍵が盗まれた様子もありませんでした」
「ということは、誰かが館長の持つ鍵を使ったと考えるべきだろう」
 サイラスの発言に、館長はぎくりと肩を揺らした。
「……館長。本当に、鍵は肌身離さず身につけていたのですよね?」
 メアリーが低い声で念を押す。まだ二十歳にもならない少女が、王族らしい貫禄を見せた。
 館長はテーブルに額をこすりつける勢いで平伏した。
「申し訳ありません。私の鍵は館長室の引き出しに保管していました……!」
「えっ」
 メルセデスは瞬きした。「どういうことですか」と重ねて王女に問われ、館長は気まずそうに弁解する。
 以前は常に持ち歩いていた。しかし近頃の彼は物忘れをするようになり、しばしば鍵を家に置いてくることがあった。そうなると、特別書庫の利用者がいた場合、鍵のために家と図書館を往復する必要が出る。無駄に利用者を待たせるのも問題だと考え、いつでも使えるように鍵を館長室の机に入れたという。
「引き出しに鍵はついていますか?」
「いいえ……」
 メアリーは顔をしかめ、裁定を委ねるようにサイラスを見やった。彼は顔色一つ変えず、
「その机を見せてもらえますか」と言った。
 四人は館長室に移動した。メルセデスもほとんど入ったことのない部屋だ。両脇には本棚が、奥には立派な机があった。
「この、右上の引き出しに特別書庫の鍵をしまっていました」
 館長の台詞には抑揚がない。自分のしでかしたことに責任を感じているのか、紙のように白い顔をしている。
「つまり、鍵のありかを知っている人なら誰でも特別書庫を開けられた、ということですね……」
 メアリーが肩を落とした。これで前提がひっくり返ってしまったわけだ。館長の不手際が招いた事態だが、これほど消沈されるとあまり責める気にもなれなかった。
「メルセデス君は鍵の場所を知っていたかい?」
 いきなりサイラスに話を振られ、鼓動が早まる。この目に見つめられて嘘をつける人などいるのだろうか。
「いえ、今までまったく気づきませんでした」
「鍵の場所は誰にも話していません」館長も青ざめながら首を振る。
「ふむ」
 引き出しに視線を落として考えを巡らせていたサイラスは、不意に顔を上げた。
「その鍵を私に貸してください。いえ、それでは私が悪用する可能性があるので、メアリー殿下に渡していただけますか」
「サイラス先生はそんなことはしないでしょう。あなたに託します。どうぞ、よろしくお願いします……」
 館長は赤い紐のついた鍵を渡した。目的は分からずとも頼みを聞く気になるのは、サイラスが積み上げてきた信用がなせるわざだ。
 ありがとうございますと鍵を受け取り、続いて彼はこんなことを提案した。
「ひとまず図書館はもう閉めて、職員たちを帰してはどうでしょう」
「ええ、閉めるんですか?」
 まさか、こんな中途半端な状態で家に帰されてしまうのか? メルセデスは困惑して館長に視線を注いだ。館長が慎重に問いかける。
「……サイラス先生には何か考えがあるのですよね?」
「はい」
 メルセデスはその言葉を信じることにした。
「分かりました。図書館を閉めましょう」
 四人は閲覧ホールに戻った。館長が職員たちを集め、退出の準備をするよう指示した。もちろん紛失事件の件は絶対に口外するなと言いおいて。
 メルセデスはいつもどおり片付けをはじめた。散らかったままの目録を戻し、筆記具の位置をそろえる。
 その間、メアリーとサイラスはホールの隅にある閲覧席に座っていた。職員たちを遠目に観察しているようだ。特にサイラスは忙しく目を動かしていた。
 気になって、その視線を追いかけてみる。ちょうど守衛が特別書庫の戸締まりを確認しているところだった。
「メルセデス君、これは何かな」
 いきなり横合いから声をかけられた。いつの間にかサイラスがすぐそばに来ていた。
 彼がカウンターの上に差し出したのは本と同じくらいの大きさの箱だ。表書きを読めば、今流行っている盤上遊戯だと分かる。
「ああ、閲覧席に残っていたんですね。誰かの忘れ物でしょう」
 箱を預かった。が、サイラスは別のことを知りたかったらしい。
「これはどうやって遊ぶものなんだい」
「ええと……」
 何故このタイミングでそれを聞くのか。メルセデスは混乱してきた。サイラスの変わり者ぶりには慣れているつもりだったが、だからといって次の行動が読めるわけではない。
「ほら、中に説明書が入っているんですよ」箱を開いて紙を渡してやると、サイラスはその場で熱心に読みはじめてしまった。
(こんなことしてる場合なのかなあ……)
 片付けを進めながら、ふと気づく。サイラスは誰かとこういう遊びをする機会がないのかもしれない。メルセデスの知る限り、彼は一人で本を読んでばかりだった。メルセデスも読書を嗜むが、それとは別に友人との会話を楽しみ、カードゲームで遊ぶこともある。とりわけ、クリアブルックの幼なじみと遊び語らった日々はいい思い出だった——
 メルセデスはかぶりを振った。今は回想に浸るべき場面ではない。
「サイラスさん、そろそろ図書館が閉まりますよ」
「ああ、すまないね」
 説明書を返してもらう。カードの入った箱は忘れ物置き場に保管した。
 閉館時間まで図書館に入り浸るサイラスに退出を促すなんて、まるでいつもどおりの光景である。メルセデスはくすりと笑った。こんな時でも普段のままでいてくれる彼に、今日はずいぶん助けられている。それは王女や館長も同じだろう。
 やがて片付けが終わり、全員が外に出た。最後に守衛が正面玄関の鍵をかける。
 いつの間にか夕刻になっていた。暮れなずむ空を見ながら、もう自分にできることは何もないのかな、と考える。その時、ぽんと肩を叩かれた。
「メルセデス君、まだ少しだけ頼みたいことがある。館長と一緒に裏口で待っていてもらえるかな。長居させてしまって申し訳ないのだが——」
「いえ、むしろほっとしました」
「え?」
「このまま帰ってしまう方がずっと寝覚めが悪いですよ」
 苦笑まじりに答える。「そういうものだろうか」とサイラスは不思議そうにしていた。彼ほどではないけれど、メルセデスだって「謎」を追求したい気持ちは同じなのだ。
 職員たちに解散の号令が下る。長く伸びた影を引きずるようにして仲間たちが家路につく。メルセデスはすかさず今の伝言を館長に伝え、二人で裏口に回った。
 夕焼け色に染まった裏庭の植栽を眺めて待つ。図書館の裏口は少し入り組んだ場所にあり、秘密の会話にはもってこいだ。サイラスが何を意図してここを指定したのかは不明だが、そろそろ大きく捜査が進展しそうな予感がした。いや、そうでないと困る。
 聖火教会史を盗んだ犯人は、今頃どこかでのうのうとページをめくっているのだろうか。捜査のためにずっと動き回っているサイラスとは大違いだ。
「サイラスさんは学者の中の学者さんですよね」
「いや、彼のような人は珍しいと思うよ」
 館長はこわばっていた肩をぐるりと回した。メルセデスは瞬きする。
「そうでしょうか?」
「知識をある一定の範囲に閉じ込めず、積極的に広めようという考えは、意外と最近出てきたものなのだよ」
 現国王が潮流を変えたのだ、と館長は説明した。そういえば王立学院や図書館をつくったのもメアリーの父親であるオスレッド二世だった。
 メルセデスにとっての当たり前が、当たり前ではなかった時代があった。しかし、一度変わった流れはもう止められない。逆行するよりもずっといいし、図書を貸し出す司書にとってはサイラスのような学者が増える方がずっと嬉しかった。
 そんなことをつらつら考えるうちに、サイラスとメアリーの姿が視界の端に映る。人影はもうひとつあった。
「どうして守衛が……?」メルセデスは目を丸くした。
 長年図書館の入り口に立ってきたベテランの守衛は、サイラスに何か話しかけられ、うつむきながら歩いてくる。
 サイラスは館長の目の前に来て、守衛を手のひらで示した。
「彼が、館長の引き出しから特別書庫の鍵を盗んだ犯人です」
「えっ!?」
 メルセデスは思わず甲高い声を漏らしてしまう。メアリーに「静かにお願いします」と言われて口をつぐんだ。
「では、彼が聖火教会史を……?」館長も混乱した様子だ。が、サイラスは否と言う。
「そうではありません。さあ、最初から説明してもらえるかな」
 守衛はびくびくしながら話しはじめた。
 ——守衛の彼は戸締まりのため、毎日図書館内を隅々まで歩く。ある時、館長が自室の机に鍵を隠している場面を偶然盗み見てしまった。だがその情報を悪用しようと考えたことはなかった。つい昨日までは。
 数日前、図書館に出入りする顔見知りの学者から、「町の地下で行われている秘密の賭けに参加しないか」と持ちかけられた。ちょうど懐をあたためたい気分だった彼は、運試しに賭博場に足を運んだ。結果は見事な惨敗で、「賭け金」を払えなくなった彼は、代わりにとある要求をされた。
「お前は図書館の守衛だろう。だったら夜中にこっそり特別書庫に入れてくれないか。実は読みたい本があるんだが、なかなか許可がおりなくて困っていたんだ。
 安心してくれ、書庫に入っても何もしないさ。ちょっと本を読むだけなんだから」
 こんな言葉を信じた守衛は、館長室にあった鍵を使って、昨晩その人物を書庫に招き入れた。
 その人物が本を読む間、守衛は特別書庫の入り口に立って見張りをしていた。鍵をかける際にもざっと書棚を見て抜けがないことを確認した。しかし、実際は箱の中から聖火教会史が盗まれていたというわけだ。守衛はあまり本にくわしくなく、この深夜の侵入がどれほどまずいことか把握していなかった——
「サイラスさんは、どうやってこの話をたどったんですか……?」
 守衛がそんな大胆な行動をしていたなんて、メルセデスはちっとも気づかなかった。確かに先ほどサイラスは「守衛に戸締まりの件を聞きに行く」と言っていたが、ほんの少し会話しただけでここまで聞き出せるものなのか。
「簡単だよ。館長から借りた鍵を守衛に見せて『これは特別書庫の鍵か』と聞いたんだ。すると彼はうなずいた。いくら戸締まりを担当する守衛とはいえ、見たことも触ったこともないはずの鍵を、どうして判別できるのかな。現に今日図書館から退出する時も、彼は特別書庫の鍵を使わず、ただドアノブを回して扉が閉まっていることを確認していただけだった。
 そう指摘したら、素直に話してくれたよ」
 サイラスは何でもないように答えた。その隣ではメアリーがほとんど感動のまなざしを彼に向けている。メルセデスにもほとんど同じ気持ちだった。
「それで結局、聖火教会史を盗んだ犯人は誰なんですか?」
 改めて館長が尋ねた。一番気になるのはそこだ。守衛がはっとしたようにサイラスを見やる。
「メルセデス君のくれたリストを見て思い当たったよ。守衛の彼に確認したら、やはりそうだった。私の……知り合いだ」
 サイラスは明らかに言葉を濁した。この場では話したくないのだろう。メアリーもどうやら犯人の名を聞いていないらしく、少し寂しそうに眉根を寄せた。
「盗まれた聖火教会史は、アトラスダムの地下で行われる賭けに出品されるはずだ。今夜、ちょうど守衛の彼が参加する予定だったらしい。私は彼に詳細を聞いてから、そこに行ってみようと思う」
「お、お一人でですか?」
 メルセデスは目を白黒させた。今日は終始驚いてばかりだ。
「そうだよ。下手に相手を刺激して、聖火教会史を燃やされたらまずいだろう」サイラスは物騒なことを言った。
「先生、一人では危険です。護衛をつけましょう。私が衛兵を呼びますから——」
 メアリーが熱心に主張した。相手は聖火教会史を盗むような大胆不敵な輩だ。保険はかけておくべきだ、とメルセデスも同意する。
「大丈夫だよ。『彼』は話の分かる人だから」
 サイラスがほほえむと、メアリーはひるんだように口をつぐんだ。
 アトラスダムの王女とそれに仕える学者は、生徒と先生という関係でもある。尊敬する教師に対してなかなか反発できないのだろう。そうなると、メルセデスたちはもう何も言えなかった。
 サイラスはいつだって、交錯する思惑の真っただ中をするすると泳いでいく。彼はいっそ楽しげに言葉を紡いだ。
「メルセデス君、最後にひとつだけ頼みたい。閉めたばかりで申し訳ありませんが、図書館の一室を借りても良いでしょうか」
 言葉の後半は館長に向けられた。
「もちろんです。どうぞ」
 サイラスに促されて守衛が裏口を開ける。その罪を追及するよりも先に、彼には秘密の賭博場について白状してもらわなければいけない。これから中で話をするのだろう。
 図書館に入る直前で、サイラスが足を止めた。一緒についてこようとしたメアリーを静かに見つめる。
「メアリー殿下は城に戻ってください。このままでは衛兵に心配されてしまいます。城に情報が漏れないよう、注意を払っていただけますか」
「……はい」
 素直な返事とは反対に、メアリーは浮かない顔をしている。言葉が足りないと思ったのだろう、サイラスは、
「もしも、明日までに私が戻ってこなかった場合は——」
「いいえ。先生は必ず戻ってきます」
 さらりと放たれた不吉な言葉を、メアリーが力強く遮った。メルセデスは目を見開き、サイラスは破顔した。
「ありがとう。ではまた明日、授業で会おう」
「お気をつけて」
 その場で控えめに手を振る王女は、どこか寂しそうに笑った。
 サイラスに従って図書館の廊下を歩きながら、メルセデスは考える。メアリーは己の立場をもどかしく思っているのかもしれない。
 メルセデスはかつて家の都合で幼なじみと引き離された時、自分ではどうしようもない理不尽を感じた。きっと、王族にはそれとは比べ物にならないほどの不自由があるのだろう。それに、どんなに勉学に励んでも、王族である彼女は学者と同じ高みには至れない。
 メルセデスは知の殿堂たる図書館に飾られた王女のレリーフを思い出す。あの彫刻には、父王からメアリーへ向けた何らかのメッセージが込められているのかもしれなかった。

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