知に平和を



「私、サイラス先生と出会えて本当に良かったと思っています」
 ある日の授業後、いつものようにひとしきり質問した後、メアリーは心に浮かんだ言葉をそのまま告げた。
「メアリー殿下のような方にそうおっしゃっていただけるとは、光栄です」
 サイラスのやわらかいまなざしが燦々と降り注ぐ。
 これまでメアリーは、自分が「平原の太陽」などと呼ばれることを面映ゆく思っていた。小娘に贈られる呼び名にしては大層だ。母親譲りの金の髪が由来の単なるお世辞だろうし、太陽に例えられるほど輝かしい功績を残したわけでもない。
 でも今は、その名を聞く度に誇らしくなる。太陽とはすなわち碩学王アレファンの象徴だ。知識を得るのにふさわしい人物だ、と言われているような心地がした。
 勉強部屋から見下ろす庭は、明るい日差しで満たされている。こんな陽光が学院の教室を照らす日に、サイラスと出会ったのだった。
 メアリーは窓の外を眺めた。
「学者のみなさんは、あの太陽に近づくために知識を深めているのですよね。サイラス先生ほどの学者なら、必ずその高みにたどり着けます」
 学者の誰もが行きたいと願う場所、その知識の最高峰へ、彼ならば。
 サイラスも同じように窓を見る。彼はメアリーが見る景色よりもはるか遠くの「どこか」を視野に入れているようだった。
 透明な二つの青に、まつげの影が落ちる。
「……私たちの目指すべき高みとは、ひとつだけなのでしょうか」
「えっ?」
「いえ、何でもありません」
 言葉を濁し、彼はメアリーに改まった表情で言った。
「殿下はきっと、私よりも先に進めます。私はそう信じています」
 いきなり告げられた言葉に、ぼうっとほおが熱を持つ。
 サイラスを追い越すなんて考えたこともなかった。でもそれが他ならぬ彼の望みなのだ。生徒として、応えないわけにはいかない。
「はいっ。それならもっと多くのことを学ばなければいけませんね」
 望む知識をいくらでも理想の教師から授かることができる。なんとも幸福な時間だった。メアリーは、たとえあの白紙の本が全部埋まっても、サイラスがずっと自分の先生でいてくれると疑わなかった。
 二人は昼の光ばかり見つめて過ごしていた。だから彼女もサイラスも、夜空に輝く月の存在をいつしか見落としていたのかもしれなかった。



 その晩、メアリーは一睡もできなかった。
 図書館に戻るサイラスたちを見送り、一人きりで王城に戻った。幸い城にはまだ不祥事の情報は入っておらず、彼女は胸に秘密を抱えたまま、一日の終わりを孤独に過ごした。
 夜になって、城に図書館長と守衛がやってきた。メアリー経由で守衛の身柄を衛兵に引き渡すためだ。もちろん衛兵にはかたく口止めしてある。尋問は必要ないと言ったので、そうひどい扱いは受けないはずだ。
 あとはサイラスが犯人から聖火教会史を取り戻すだけだった。それなのに、待てど暮らせど彼は戻ってこなかった。メアリーはベッドの中で今日の出来事を反芻しながら、眠れぬ夜を過ごした。
 やがて朝が来た。王城の門に衛兵が集まる。メアリーは化粧で目の下の隈をごまかし、服装を整え、門に向かった。
「……おかえりなさいませ、国王陛下」
 ドレスの裾を持ち上げてお辞儀する。王がフレイムグレースから戻ってきたのだ。
 オスレッド二世は長身痩躯で、王というより学問の徒という印象の方が強い。長く穏やかな治世を行う父王は、アトラスダムを学問都市に発展させた立役者だった。
 王は留守を預かっていた衛兵たちをねぎらった後、よく響く声で娘に言った。
「メアリー、この後で話がある。お前が勉強に使っている部屋があっただろう。あそこで待っていてくれないか」
「は、はい」
 話とはなんだろう。まさか聖火教会史のことだろうか? 衛兵の口止めはしたはずなのに——背中を冷や汗が流れ落ちた。
 今日はまだテレーズの顔を見ていない。こんな時こそ友人に会いたかった。メアリーは一人で国王と対面することになる。重い体を引きずり、勉強部屋の扉を開けた。
 少しでも気を紛らわせようと机に教本を置いたが、読む気になれなかった。無闇に開いて閉じてを繰り返していると、平服に着替えた国王がやってきた。
 彼は椅子にどっかり腰掛けメアリーと向かい合う。あたりは妙に静かだった。あらかじめ人払いしているらしい。つまり、これから秘密の話をするのだ。
 緊張する娘の前で、王が口火を切る。
「実は、王立学院の学長からある噂を聞いてな」
 メアリーは目を瞬く。少なくとも聖火教会史の件ではなさそうだ。
「なんでしょう?」
「お前とサイラスが男女の仲になっている、という噂だ」
「え……!?」
 息を呑んだ。頭が真っ白になる。
「学院の中でそういう噂が立っているらしい。どういうことか、説明してもらえるか」
 国王は落ち着き払っていた。かっとメアリーの顔が熱くなる。
「あ、ありえません! お父様はそのような噂を信じるのですか?」
 昨日学院を訪れた時は聞かなかった話だ。いくらなんでも噂の中心に張本人が飛び込めば、容赦なく好奇と嫌悪の視線を浴びたはずだ。ならば、この噂は昨日の学院訪問よりも後に出たのだろう。
 一時の驚きが消えて怒りがこみ上げてきた。まなじりを吊り上げるメアリーに、国王はゆるゆると首を振った。
「学長の耳に直接入った話らしい。学院の中で野放図に噂が広がっているわけではないようだ。
 無論信じてはいないよ。ただ、そんな噂が流れたこと——誰かが流したことには、何か理由があるはずだ」
 メアリーは胸をなでおろす。だんだん頭が冷えてきた。
 この噂で得をするのは誰だろう。ある憶測を導き出した彼女は口内に苦みを感じた。
「もしかして、イヴォン学長が……サイラス先生を貶めるために……」
 それは被害妄想とも呼べるものだった。でも可能性は大いにある、と思ってしまった。学長は明らかにサイラスを危険視している。学長のとる方策とサイラスの理念は真っ向から対立している上、今やサイラスは王家に太いつながりを持っていた。名実ともにイヴォンの立場を脅かす存在になったと思われても仕方ない。本人にその気はなくても。
 二者の対立がますます深刻になる一方なのは、メアリーが今の状態をつくったことが原因だ。だからこんな醜聞を立てられたのではないか、と勘ぐってしまう。
 サイラスはただ、学者として知の高みを目指したいだけなのに。彼の足を引っ張るものがあまりにも多すぎる!
 黙って百面相するメアリーに対し、国王は分かりやすい渋面をつくった。
「その件に関しては何とも言えない。彼は相当同僚の恨みも買っているようだからな。噂の出所を特定するのは難しいだろう」
「では、サイラス先生はどうなるのですか。もしかして、噂のせいで学院を追放されるのですか。それは嫌です。私の先生は……サイラス先生だけです!」
 メアリーはらしくもなく声を荒げた。何度も瞬きし、こみ上げてくるものを喉奥に押し込める。今や彼女は、王女ではなく王の娘になっていた。
 サイラスに向けるこの思いは、決して男女の情ではない。メアリーは未だ恋というものをろくに知らないけれど、これだけははっきりと分かる。何故なら、彼に対して切に願っていることは、己を教え導いてほしいということだけだった。
 国王にじいっと正視され、メアリーはたじろいだ。まるで心の奥まで見透かすような視線だった。こういう時、彼はやはり王なのだと思う。
 不意に廊下から足音がした。間髪入れず、がちゃりと無遠慮にドアが開く。
「その噂については私からも否定させてください、陛下」
 涼しい声が鼓膜を叩いた。メアリーは歓喜とともに振り返る。
「サイラス先生……!」
 浮かべた笑みはすぐに凍りついた。サイラスのまとったローブは何故かボロボロだった。
「メアリー殿下。ずいぶん遅れてしまって申し訳ありません」
 幸い服装が乱れているだけで怪我はないようだ。彼は汚れた顔にほほえみを浮かべ、国王に向き直る。
「陛下、その噂は根も葉もないでたらめです」
「ほう。娘をたぶらかした事実はないと?」
「ええ」
 サイラスは真剣そのものだ。しばし視線をぶつけ合い、国王は嘆息した。
「……あなたの言うことだ、それは信じよう。だが、イヴォン学長はあなたを学院から追放する気のようだぞ」
 やはり、不名誉な噂にかこつけてサイラスを陥れようとしていたのだ。メアリーはドレスがしわになるのも構わず、胸元をぎゅっと握った。
「そうですか。では——」
 サイラスは大して堪えた様子もなく、ローブの中からあるものを取り出す。
「その醜聞については、この本を取り戻したことで相殺していただけませんか」
 縁に金の装飾が施された立派な本だった。表紙の文字からして間違いない、聖火教会史だ。
「見つかったのですね……!」
 メアリーの胸にどっと安堵が込み上げる。顔を明るくした彼女に、サイラスがうなずく。
「ああ。予想どおり私の知り合いが持っていたよ」
「どういうことか説明してくれないか」
 国王はサイラスに椅子を示した。じっくり話を聞く気になったらしい。
「はい陛下。一昨日の夜、この本が王立図書館から盗まれたのです」
 サイラスは椅子に腰掛け、淡々と語り出す。聖火教会史が特別書庫から盗まれ、彼が取り戻すまでの顛末を。
 メアリーも話に耳を傾けた。賭博場への突入以降は当然初耳で、聞いているだけでハラハラした。それでも彼は危険を乗り越え、こうしてメアリーのもとに戻ってきてくれた。それは飛び上がりたくなるほど嬉しいことだった。
「では、あなたは聖火教会史を取り戻して、国家の不祥事を未然に防いだと言いたいのだな。その代わりに自分の醜聞を取り消してくれ、と」
 国王は机の上で腕を組む。サイラスは国のトップと対面してもいつもの落ち着きを保っていた。
「いいえ、それだけではありません。賭けを開催し、図書館から盗んだ本を売買する、大規模な地下組織についての情報をつかみました」
「えっ」
 メアリーは反射的につばを飲む。今度は予想だにしない話が飛び出した。
「本を盗んだ実行犯はラッセルという学者です。彼は図書館の司書の一人と結託し、この二年間、開架の書棚から本を盗み出していました」
(司書ですって!)
 仰天しながらもすばやく思考を走らせる。
(メルセデスさんのはずはないわ。ということは、昨日体調不良でお休みしていたもう一人の司書が……?)
「組織は王立図書館にも勢力を伸ばし、司書を送り込んでいました。私はラッセルから話を聞いて、司書の行方を追いましたが、すでに国外へ逃げてしまったようです」
 昨日、図書館の裏口でサイラスと交わした会話を思い出す。彼はあの時点で内部犯を疑っていた。それはまさしく事実だったわけだ。
 メアリーの中でやっとすべてがつながった。その地下組織が、ラッセルという者や図書館に潜り込ませた司書を使って本を集め、どこかに売りさばいていたのだ。
 サイラスは静かな熱を声に含ませ、話を続ける。
「ラッセルは反省しています。彼の証言がなければ、この事実がつまびらかになることはありませんでした。窃盗の罪を裁く際、どうかその点は汲んでいただきたいのです」
「……なるほど、分かった。そちらについては善処しよう」
 国王は組んだ腕に力を込めた。
「以前から問題視していたのだ。図書館からたびたび本が盗まれている、という報告は聞いていたからな。何よりも、十五年前のあの本のことがある」
「十五年前?」
 メアリーは首をかしげた。その時の彼女はわずか二歳だ。さすがにピンとこない。
「ああ。王立図書館から『辺獄の書』という書物が盗まれた」
「辺獄の書……」
 サイラスがぽつりと繰り返す。辺獄、とはまた耳慣れない単語だ。確か死後の世界をあらわす概念のはずだ。
「特別書庫に保管されていた中でも最も古く、貴重な本の一つだった。古代の儀式や魔法に関する本で、あの稀代の学者、ザロモンが記したとされる」
 サイラスの両目に好奇心の火が灯る。メアリーはそれを見逃さなかった。彼が本にまつわる謎に興味を示さないはずがない。
 国王は居住まいを正した。
「サイラス殿、あなたの取引きに乗ろう。あの醜聞はメアリーの名誉のためにも必ず取り消す。代わりに、あなたに調査の依頼をしたい」
 メアリーははっとして両者を見比べた。二人の間に、入り込めないものを感じた。
「実は今回の聖火教会史だけでなく、王立図書館の特別書庫からは何冊も本が盗まれている。それが分かっていても、今までは思うように行方が追えなかった。あなたの言葉が真実だとすると、おそらくその逃げ出した司書によって、目録ごと差し替えられてしまったのだろう。
 しかし、あの書庫の中でも特に価値のある本は、元は王家が所有していた。城に残っている過去の目録と照らし合わせれば、紛失した本はある程度特定できる。
 サイラス殿、あなたの腕を見込んで頼みがある。図書館から盗まれて各地に散逸した本を、どうか見つけ出してほしい。情報はできる限り提供する。そして——あの辺獄の書をアトラスダムに持ち帰ってもらえないか」
 理路整然とした話ぶりには、明らかな熱意がこもっていた。王はこの案をずっと胸の中であたためていたのだ、とメアリーは気づいた。
 サイラスはわずかに目を細める。
「陛下は、辺獄の書が未だどこかに存在するとお考えなのですね」
「そうだ。あの本を盗んだ者は、必ずそこに記された知識を悪用するはずだ」
 悪用、と王は言った。十五年経っても回収を諦められないほど、危険な本なのだろうか。
 この突然の提案をじっくり咀嚼したメアリーは、慌てて口を挟んだ。
「待ってください。サイラス先生は調査のためにアトラスダムを出ることになるのですか……?」
 心細さが声ににじみ出てしまう。サイラスは軽く目を見開く。
「もう、私には何も教えていただけないのですか」
 じわりと目尻に涙が浮かぶ。相手を困らせるだけと分かっていても、うまく感情が制御できなかった。メアリーは急に聞き分けの悪い子どもになってしまったようだった。
「メアリー殿下はきっと、テレーズ君と一緒にあの本をすべて埋めることができます」
 否定してほしかったのに、サイラスはそう言い放った。
「はい」と答えることがどうしてもできない。またパウル先生の時のように置いていかれてしまうのか。胸にえぐられるような痛みが走る。
 学者の彼は、王族のメアリーと違ってどこへでも自由に行ける。地平まで広がる草原や、式年奉火のはじまる雪国、滅んだホルンブルグの跡地へだって足を運ぶことができる——
 うつむくメアリーに、サイラスが穏やかに声をかけた。
「殿下が勉学にかける思いを、私はいつもまぶしく感じていました。殿下が学者になってくださらないことが残念なほどです」
「ええ、私は……女王になりますから」
 メアリーは無理やり笑みをつくって、顔をそらす。噛んだ唇が震えた。
 生徒と教師のやりとりを眺めていた国王が口を挟んだ。
「何もかもあなたに押し付ける形になってしまったが……調査の旅は不満かな」
 サイラスははっきりと答えた。
「いえ、不満はありません。むしろ良い機会だと思いまして」
(良い機会?)
 驚いて視線を戻したメアリーは、サイラスの晴れやかな表情を見て絶句した。
「いつか外に出て学ぼうと思っていました。今回のお話、ありがたく受けさせていただきます」
 彼は一点の曇りもない笑顔を披露した。
 その瞬間、メアリーが受けたショックは言いあらわしようがなかった。
 サイラスは今後もずっと王立学院で学び続けるのではなかったのか。知識を深めるならこれ以上恵まれた環境はない。彼の好奇心を満たすものは何だってここにあるし、王家が手を借せば簡単にそろえることができる。
 でも、それはメアリーの勝手な思い込みだった。彼を手放したくなかったのはむしろ自分の方だった、と今になって思い知った。
 サイラスは王女が決して越えられない壁を軽々と飛び越え、見果てぬ平原に繰り出していく。その胸に喜びを抱えて。
 あまりのことに思考停止してしまった娘を見て、父親が軽く肩をすくめた。
「本の目録についてはこちらで準備しよう。サイラス殿に調査を任せることができて、私としても都合が良かった」
「どういうことですか?」
「今回のフレイムグレースへの訪問で、式年奉火の旅に付き添う記録係をアトラスダムから選出することが決まってな。あなたをその役目に推薦しようと思う。ちょうど表向きの旅の理由になるだろう。なので、まずはフレイムグレースに向かってほしい」
「……ありがとうございます!」
 サイラスは優美な所作で頭を下げた。以前から式年奉火に関心を持っていた彼にとって、まさしく僥倖と呼べる展開だろう。
 彼は文句のつけようがない理由を得て冒険の旅に出ていく。メアリーはカード遊びで想像するしかないというのに!
 行き場の失った感情を腹の中で煮え立たす彼女の前で、サイラスは改めて王に一礼した。
「では、私は聖火教会史を図書館に返してきます。その後また登城します」
「まずはそのローブをどうにかすることだな」
「はい!」
 そのまま去ろうとする黒い背中に、メアリーはかろうじて声をかけた。
「サイラス先生……いつか、旅先で学んだことを私に教えてください」
「ああ、もちろんだとも!」
 サイラスは爽やかな笑顔で答えた。
 ドアの向こうに消えるローブを、国王は苦笑とともに見送る。
「お前の先生は面白い人だな」
「ええ」
 メアリーはほおをふくらませる。すると国王は、
「そうすねるな。彼にとっては最後の機会なのだから」
「……どういうことですか?」
 その質問には直接答えず、国王は唐突にこう切り出した。
「メアリー。王家の紋章が翼持たぬ獅子であることに、違和感を持ったことはないか?」
 王女はきょとんとした。わざわざ「翼持たぬ獅子」と言ったということは、アレファンの使いが有翼の獅子であることに言及したいようだ。
「いえ、特に……」
 すると、国王はいつかサイラスがそうしたように、窓ガラスのはるか向こうを見つめた。
「学者の求める高みと、私たちの求める高みは違うだろう」
 ——私たちの目指すべき高みとは、ひとつだけなのでしょうか。
 そう言ったサイラスの横顔をまざまざと思い出す。あの時彼が浮かべた感情の色を、メアリーは汲み取れなかった。
「我々は、翼持つ獅子を見送ることしかできない。だが彼はこの国に果報を運んでくるはずだ」
 謎掛けのような台詞だったが、メアリーはこの英明な父王が言わんとすることを正しく理解した。
 国王はメアリー以上に知識があって、その代わりに自由がない。だからこそ、娘と同じ思いをより強く抱いているのだろう。
 ならば、メアリーだけがわがままを言うことはできなかった。
「ええ……そうですね。そうなればいいと思います」
 サイラスの旅は式年奉火の付き添いに加えて、本を盗み売買する地下組織を追うものになるという。道中は危険が伴うだろう。それでも無事に戻ってきてくれる——そうでなければならないと、メアリーは信じ込むことにした。
 何故なら彼はメアリーとテレーズの先生なのだから。



 あれからの数日間で、盗難事件の後始末はほとんど済んだ。聖火教会史が無事だったおかげで図書館長は処分を免れ、幸いにも同じ職に据え置かれた。メルセデスは図書館に対する信用を取り戻そうと、いなくなった司書の分も仕事に励んでいる。
 ラッセルを手引きしたあの守衛は解雇され、今は新たな守衛が二人体制で図書館を守っていた。一方で実行犯のラッセルは自ら出頭し、今も拘禁されている。そのうち釈放される予定だが、もう学院に居場所はないだろう。それでもサイラスの擁護により、命まで取られることはなかった。
 賭けの参加者たちも割り出され、取り調べが行われたが、彼らの多くは地下組織とつながりを持たない者だった。残念ながら、地下組織の構成員らはいち早く町から逃げ出したようだ。
 例の醜聞はあれ以上広がることはなかった。イヴォン学長と父王の間で何らかの取り決めをしたらしい。あの醜聞を流したのが学長だったとして、サイラスはもう町を出ていくのだから、不満はないはずだ。
 城下町の門の前で、メアリーは旅立つサイラスを護衛とともに見送った。開いた門の外側には、東アトラスダム平原の緑が一面に広がっている。
「では、行ってくるよ」
「お気をつけて……」
 月並みな挨拶になってしまった。メアリーは、去りゆく彼の中にほんの少しでもこの町への未練を見つけたかったが、サイラスは心底晴れ晴れとした様子で身を翻す。
 風になびくローブが門の向こうに消えるまで、その場で見送った。これからサイラスは、あの盤上遊戯のカードに描かれた町々を巡るのだ。メアリーは彼の背に翼を幻視した。
 ふわふわとおぼつかない足取りで城下町を抜け、王城前の広場に戻ってくる。護衛はそこで解散させた。
 左手に王立図書館、右手に王立学院という見慣れた風景が、色をなくしてメアリーの前に立ちはだかる。サイラスが踏みしめる平原の鮮やかさと比べれば、なおさら色褪せて見えた。
 家庭教師の座はしばらく空席にするつもりだった。もう特定の先生がいなくとも、ページを埋められるような気がしていた。
 広場に出るといつもはすぐ声をかけられるのに、こんな時に限って人影がない。メインストリートをとぼとぼ歩き、ふと視線を横にずらした時、学院の階段の下にテレーズの姿を見つけた。彼女は膝を抱えて段差に座り、肩を震わせていた。
「テレーズさん……!?」
 ただならぬものを感じて駆け寄った。彼女はどうやら泣いているようだった。
「な、なんでもありません」
 テレーズは必死に頭を振る。美しい銀髪が乱れていた。きっとこの子も先生がいなくなって寂しいのだろう、とメアリーは背中をそっとなでてあげた。
 やがて彼女はぐちゃぐちゃになった顔を上げ、喉から声を絞り出す。
「ごめんなさいメアリー殿下。わたしがあの噂を流したんです」
 一瞬、息が止まった。「どういうこと……?」
 あの噂——まさか、メアリーとサイラスの醜聞だろうか。
 何も言えなくなった王女に対し、テレーズは罪の重さに耐えかねたように自白した。
 聖火教会史がなくなったあの日、メアリーが学長室から去った直後のことだ。テレーズはその場に居残り、イヴォンに「サイラスとメアリーが男女の仲になっている」と嘘をついた。まったくの口から出まかせだったが、学長は興味深そうに聞いていたという。学長室を出た彼女は自らの行動が急に恐ろしくなり、傷ついた心を抱えて家に帰った。
 明くる日、サイラスがアトラスダムから旅立つという噂——否、事実が瞬く間に町に広がった。式年奉火の付き添いに選ばれたという名誉ある理由だったが、テレーズはもしや自分のせいでそうなったのではないかと気が気でなかった。それに、学院に席は残しても、サイラスはこれから何ヶ月も帰ってこられないだろう。今さら自分の愚かな行いを悔やみ、彼女の心は千々に乱れた。
「な、なんでそんなことをしたの」
 メアリーは呆然としていた。はっきり言ってテレーズの行動が理解できなかった。目の前の少女は、本当に自分の幼なじみなのだろうか?
 テレーズは立てた膝に顔をうずめた。
「だって、殿下と先生がとても親しそうに見えて……それでつい……。ご、ごめんなさいっ」
 そのまま泣き崩れる。メアリーはどうすればいいか分からず、ただ質問した。
「……ねえテレーズさん。先生は、噂の出所があなただと気づいていたの? 最後に一度くらいはお話ししたのでしょう」
 メアリーはサイラスの見送りにテレーズを誘ったが、「わたしがいたらお邪魔ですから」と断られていた。きっと先に別れを告げていたのだろう。彼女はうなずいた。
「最後に少しお話しした時、わたしが口を滑らせたので、噂の出所に気づいたそうです。先生はわたしを許してくれました。でも——」
 テレーズは泣き笑いの表情になった。
「ここまでしたのに、わたしの気持ちはちっとも伝わらなかったんです。ふふ、先生って実は鈍い方だったんですね」
 その自嘲を聞いて、ようやく腑に落ちた。どうやらテレーズはサイラスに本気で惚れていたらしい。メアリーはそんな彼女の前で勘違いを招く言動を繰り返し、ここまで精神状態を悪化させてしまった。これではほとんどサイラスと同罪である。
 テレーズはぐすぐすと鼻をすする。
「先生はきっとわたしのせいで町を出ることになったんです。本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。先生、ちゃんと学院に戻ってこられるのかしら……」
 地の底に落ちたような声だった。今、彼女の心は、光明なんてひとつも見えない暗闇に包まれているのだろう。
 くじけるテレーズとは正反対に、メアリーの胸には不思議と軽い風が吹き抜けていた。
「調査についてはお父様が支援してくださるわ。それにサイラス先生、楽しそうに旅に出ていったでしょ? ならきっと大丈夫よ」
 テレーズはその実、メアリーには決してできなかったことをやり遂げたのだ。そういう意図はなかったにしろ、偶然にも「良い機会」をつくり、サイラスが心の底で望んでいた旅の空へと送り出した。国王の言う最後の旅に。
 メアリーは今、やっと彼の門出を祝う気分になっていた。
 私はテレーズさんと一緒に、あなたの後ろにできた道を歩きます。そして——最後には絶対に追い越してあげますからね、先生。

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