涙を遠い草原に



「良い試合だった。感謝する」
 オルベリクは役目を終えた愛剣を軽く振り、鞘におさめる。試合相手のアーフェンはにかりと笑って握手を求めた。
「こっちこそ! 旦那はやっぱり強ぇな、頼りになるぜ」
 つられて頬をゆるめたくなるような、気持ちの良い笑顔だった。
「試合をしてほしい」と言い出したのはアーフェンの方だった。山間の村コブルストンを出てハイランド地方を北上し、そろそろ海が見えてきた頃だ。傾いた太陽に追われるように本日の野営地を決めた後、オルベリクはアーフェンに請われて剣と斧を交えた。
 コブルストンで自警団に稽古をつけていたのはつい最近のはずなのに、試合という行為はどこか懐かしさを伴った。久しぶりに旅の時間に身を置いているからだろう。
 アーフェンはかいた汗を拭ってから、近くで観戦していた青年に絡みに行った。
「テリオンも旦那に稽古つけてもらえよ。あんたならきっといい線いくぜ」
「誰が、そんなこと」
 白銀の髪の青年は眉をひそめる。その態度と言葉に反し、彼は試合中オルベリクの視界の端から興味深そうにこちらを眺めていた。おそらく見て盗むタイプなのだろう。オルベリクとしては、テリオンが普段鞘におさめたままの長剣をどう扱うのか、一度じっくり観察してみたかった。
 談笑のさざめきが落ち着いてきた時、仲間の中でただ一人の女性がすうと前に出てくる。
「なら、次は私のお相手をしてくださらない?」
 まるで踊りに誘うように手のひらを差し出したのは、プリムロゼだった。
「え」とアーフェンが絶句する。さすがのオルベリクも、冗談かどうかはかりかねて固まってしまった。
「さっさすがにそれは……なあ旦那」
 アーフェンが困惑したようにオルベリクを見上げる。胡桃色の目が「断ってくれ」と告げていた。
「……俺から教えられることはないぞ」
 オルベリクはきっぱりと首を振った。少々厳しい物言いになってしまったかもしれない。
 プリムロゼの短剣の扱いは、我流で鍛えたらしいテリオンのそれとは大きく異なる。彼女は正式に剣術を修めているはずだ。踊子の華麗なステップの中に、武道として身につけた短剣さばきが混ざる不思議な戦い方をしていた。
 砂漠の町の踊子が、何故そのような技術を持っているのか。それは本人が語らない限り、決して明かされることのない謎だ。
 断られたプリムロゼはあっさり引き下がった。代わりにこう言う。
「……そう。なら、心構えだけでも聞きたいわね」
「心構え? 何のだよ」とはアーフェンの質問だ。
「剣を振るう時の」
 エメラルドのような双眸が真正面からオルベリクを見据える。今の彼が剣に迷いを抱えていることを看破しての発言か、それとも。
「あなたが何を考えて人を——しているのか、ね」
 その低いつぶやきは、オルベリクの耳に入る前に地に落ちた。



 堅牢な城壁に守られたノーブルコートはフラットランドの中でも特に規模が大きい町だ。門をくぐり、長い石畳の道を越え、奥の広場に向かう。そこで仲間の一人である学者と、見知らぬ男が楽しげに会話していた。
 オルベリクの姿が視界に入ったのだろう、サイラスは話を切り上げる。
「おや、時間のようだ。テラキア君が元気そうで良かったよ」
「サイラスさんこそ、お気をつけて」
 学者のローブを翻し、サイラスはどこか弾んだ足取りでオルベリクの元にやってきた。
「待たせたね。では行こうか」
「今のは知り合いか?」
「ああ、学院のね。テラキア君だ。以前から『旅に出て貧しい子どもに学問を広めたい』と言っていたんだよ」
 サイラスは別れたばかりの友人に、どこか眩しそうな目を向ける。なるほど、テラキアのまわりには子どもたちが集まり、持ち寄った本を広げて何か質問していた。
 教える対象は違えど、サイラスもアトラスダムではあのように教師としてふるまっていたのだ。もしや感傷を覚えたのか、と勘ぐるオルベリクの視線を感じ取ったらしく、彼はすぐに表情を整えた。
「さあ、プリムロゼ君を迎えに行こう」
 あえて話題をそらしたのかもしれないと思いつつ、オルベリクは無言で従った。
 このサイラスという男だが、以前王宮に勤めていた時、よりにもよってオルベリクの母国であるホルンブルグの歴史について講義していたらしい。
「オルベリク? もしや、姓はアイゼンバーグというのではないかな」
「……そうだが」
 初めて出会った時、名前しか告げなかったオルベリクに対し、サイラスはそう尋ねてきた。もはや隠しても無駄だと悟り、素直に答えてしまった。
 サイラスは明らかにオルベリクの正体——すなわち彼が亡国で剛剣の騎士と呼ばれたその人であることに、気づいている。面倒な予感がした。あの赤い果実の村における一件により、この学者の詮索好きはもはや周知の事実となっていたからだ。「どうして剛剣の騎士たるあなたが旅を?」「ホルンブルグについて是非聞かせてほしい」など、サイラスが目を輝かせて次々と質問を浴びせるさまは、簡単に思い描くことができた。
 しかし予想に反し、その後サイラスはほとんど何も尋ねてこなかった。彼のことだから間接的に探りを入れているのかもしれないが、それらしい様子はおくびにも出さない。放置するしかなかった。
「プリムロゼ君の顔を見るのも、なんだか久しぶりのように思えるね」
 のんきなサイラスの声で我に返る。そう、彼らは仲間の一人である踊子プリムロゼと、しばしわかれて動いていた。
「私、この一座で踊るわ。だから少しの間だけ別行動ってことでよろしくね」
 旅の仲間となった八人は、まずテリオンの目的を果たすためノーブルコートに進路をとった。
 そろそろ町につくという頃、旅芸人のテントを見つけた。残念ながらその日の公演は終わっていたが、座員の話によれば、しばらくここで興行を続ける予定だという。年下の仲間たちは「芸人一座なんてめったに見られない」「今度ゆっくり観劇しに来よう」と楽しげに語らっていた。
 プリムロゼはその輪に入らなかった。が、いざ再び町へ向かおうとした時、唐突に「仲間を外れる」と言い出した。
「え、どうして!?」
 トレサが目を丸くして尋ねる。
「もう長い間舞台で踊っていないもの、体がなまっちゃうわ。それに、私はそこの盗賊さんの目的にそこまで役立てないだろうし」
 名指しされたテリオンは肩をすくめて彼女の離脱を認めた。トレサも「なら仕方ないわね……」と残念そうにうなずいた。
 プリムロゼはやわらかな物腰に反して、意見を譲る気はさらさらないようだった。七人はあえて理由を聞き出すことなく素直に別れた。
 その後、プリムロゼは一座と交渉して臨時の踊子の座を見事に射止め、一人でテントに残った。
 彼女は明らかにノーブルコートを忌避していた。あの町に何らかの因縁があるに違いないと、誰もが確信していた。未だに旅の目的を明かしていないことを含めて、彼女には謎が多かった。
 今オルベリクの隣を歩くサイラスは、プリムロゼの決断をいっそ淡泊と言っていいほどさらりと受け入れていたものだ。ノーブルコートの東地区を横切りながら、彼はおとがいに指をあてる。
「オルベリク、あなたは舞台で踊る彼女を見たかい? 私はテリオン君の手伝いに専念していて、つい見逃してしまってね」
「いや……俺もだ。あまり暇がなかった」
 舞台芸だけでなく、戦闘中もろくに鑑賞できたためしがない。戦いにおいて前線に出ることが多いオルベリクは、後方から飛んでくる加護の力を受け取るのみだ。たまにプリムロゼが町中で誰かを誘惑しようとステップを踏む時は、短くターンして踊りを終わらせてしまう。あれは本気の動きではないだろう。
「学者が言葉により魔法を操るのと同じように、彼女は特定の体の動きに対応したまじないの効果を発現させる。つまりは特殊な魔法の一種だ。シルティージ神の力のたまものだね。あの精度で再現できるのは、やはり才能だな」
 何よりもプリムロゼ君の踊りは華麗で美しい、とサイラスはしきりにうなずく。素直すぎるほど他人を褒めちぎるのは、オルベリクとはまるで違う性質だった。
 理屈は分からずとも、プリムロゼの踊りには特別な力がある。オルベリクはそれに幾度も助けられてきた。鑑賞者を楽しませるだけでなく、魔力を伴った踊りを発揮できる彼女は、きっと相当な努力を重ねてきたに違いない。
 プリムロゼの踊りには、冷たく整った短剣さばきとは真逆の、熱くたぎるような情熱が秘められていた。
「彼女から本業を奪うようで申し訳ないが、そろそろ旅を再開しなくてはね」
「そうだな」
 テリオン、アーフェン、オフィーリア、トレサの四人は手に入れた竜石を持ち主に返すべく、はるか西のボルダーフォールへと旅立った。オルベリク、サイラス、ハンイット、プリムロゼは次の目的地との中間地点で彼らと合流する手はずになっていた。
 二人はぽつりぽつりと会話しながら町を出る。平原のすぐそこに、鮮やかな青と白の縞模様のテントが張られている。本日の公演は一段落したようで、あたりは閑散としていた。
「あ、みなさん!」
 さらさらした金髪を首の後ろでくくった青年が、テントのそばで荷物整理をしていた。オルベリクたちに気づいて顔を明るくする。
「プリムロゼさんの仲間の方でしたよね。うちの一座に何かご用でしょうか」
 この線の細い好青年クリスは、元をたどればテリオンの知り合いらしい。さらにオフィーリアは、この町で一人旅に行き詰まりを感じていた彼と、もう一人の芸人志望の男を引き合わせ、旅芸人一座に導いた。クリスは、その過程で少し顔を合わせただけのオルベリクたちのことも覚えていたらしい。
 サイラスは平原を渡る風に目を細めて、
「クリス君は、その後の調子はどうかな」
「はい。相方のおかげもあって、なんとかやっています」
 クリスは照れくさそうに頭をかく。芸はあまり得意でないらしく、一座には雑用係として採られていたが、やる気は十分のようだった。
「もしかして、プリムロゼさんに会いに来たんですか?」
「そうなんだよ。テントの中にいるのかな」
 クリスは首をひねった。
「そういえば朝から姿を見てないな。とりあえず、座長を呼んできますね」
 青い旅装束がテントの奥に引っ込む。すぐに立派なひげをたくわえた男性が出てきた。
「どうかされましたか」とはサイラスの言である。思わず彼がそう尋ねるほど、座長は青い顔をしていた。
「みなさん……これを読んでいただけますか」
 彼が震える手で差し出したのは小さな紙きれだった。サイラスが受け取り、オルベリクにも見えるように広げる。
 そこには流麗な文字でこう書かれていた。
 短い期間でしたが、大変お世話になりました。私は本日限りで失礼します。給金は迎えに来た仲間に渡してください。——プリムロゼ
「書き置きです。彼女の荷物がなくなり、代わりにこれがありました」
 座長の全身から疲れがにじんでいた。一緒に話を聞いていたクリスは「初めて知った」と言わんばかりに困惑している。
「それではプリムロゼ君は」「失踪した、ということか」
 サイラスの声をオルベリクが引き継ぐ。座長は力なく肩を落とした。
「やはり、みなさんにも言っていなかったのですね」
 オルベリクの喉元に苦いものがこみあげる。なんとか表面は落ち着きを保ったが、胸中は自分でも予想しなかったほど揺れていた。
(プリムロゼがいなくなった……何故だ?)
 町の手前で仲間たちと別行動をとったのも、こうして出奔する時のためだったのか。
「彼女の行方について、思い当たることはありませんか」
 混乱し黙ったオルベリクと違い、サイラスはまるでこの事態を予測していたかのように落ち着いていた。いつもの涼やかな表情のまま、諭すように座長に声をかける。
「さあ……すみません。私は何も聞いていなくて」
「そうですか。突然のことで仲間が失礼しました」
 座長はかぶりを振る。
「あなたがたには、クリスたちを連れてきていただいたご恩もあります。そうだ、彼女の給金はどうしましょう」
「預かっていてもらえませんか。本人に取りに来させます」
 その断言にオルベリクははっとした。サイラスはプリムロゼを連れ戻す気なのだ。
 座長との話を終えて振り返ると、いつの間にかクリスのそばに相方がいた。二人とも気遣うようなまなざしをこちらに向ける。
「プリムロゼさんがいなくなったなんて、全然気づきませんでした……。お役に立てなくてすみません」
「俺たちも手がかりを探してみるよ」
 落ち込むクリスを励ますように、相方の青年がその肩を叩いた。サイラスはうなずく。
「ありがとう二人とも。オルベリク、まずはハンイット君と合流しよう。彼女なら何か知っているかもしれない」
「そうだな」
 ハンイットは旅の再開に向けて一行の買い出しを引き受けており、町で待機しているはずだった。女性同士、何らかの交流があるといいのだが。
 クリスが一歩前に出る。
「僕はプリムロゼさんが何かヒントになるようなことを言っていなかったか、思い出してみます。そちらでやることが終わったら、またこのテントに来ていただけませんか」
「重ねがさね助かるよ。では後ほど会おう」
 オルベリクたちは早足でノーブルコートに戻った。探す手間もなく入り口付近でハンイットと再会する。彼女もこちらを探していたようで、膨らんだ荷袋を抱えたまま目を丸くした。
「二人ともどうしたんだ、血相を変えて」
「プリムロゼ君がこれを残していなくなったんだ」
 サイラスが書き置きを渡す。さっと目を通し、ハンイットは息を呑んだ。
「どうしてプリムロゼが——いや、あなたがたにも分からないのだろうな」
「ああ。何か心当たりはないかい」
 ハンイットは足下の雪豹リンデと目を合わせ、かぶりを振る。
「心当たり……か。この町に来てから一度彼女の踊りを見に行ったが、普段と変わりはなかったと思う」
 ハンイットは唇を噛んだ。失踪の前兆に気づかなかったことを悔やんでいるようだった。
「今のところ、手がかりは何もないな」
 オルベリクがつぶやき、三人は黙り込んでしまう。真っ先に立ち直ったのはサイラスだった。
「悩んでいても仕方ないね。足を動かして情報を集めよう。この町の住民なら、ここ数日で一度は旅芸人のテントを訪れているだろうから、私はそちらを探ってみるよ」
 こういう時、詮索好きの性格や探りの技術は役に立つ。聞き込みに夢中になりすぎて相手に怒られないかという心配が頭をよぎったが、オルベリクは口を挟まないことにした。
「ならば、わたしはハーゲンを呼んで匂いをたどれないか試してみる。プリムロゼもハーゲンの嗅覚は知っているから、何か対策しているかもしれないが……やれることはやるべきだ」
「俺は——」
 オルベリクが一瞬言い淀むと、サイラスが素早く唇を開く。
「あなたは先に旅芸人のテントに向かってくれないか。特に、今までのプリムロゼ君の発言や行動、何か気になることを思い出して、整理しておいてほしい」
 三人の中で、一番彼女との付き合いが長いのはオルベリクだった。両者の目線が集中した。
「……分かった」
 数刻後の集合を約束し、散開する。学者も狩人も、己の役割を果たすため迷いなく目的に向かっていった。
(気になること、か)
 真っ先に思い出すのは、プリムロゼが試合を申し込んできた日の記憶だ。何故突然あんなことを言い出したのだろう? いつだって彼女は艶やかな笑みの中に巧妙に本心を隠していた。
 腹の探り合いなどはっきり言って不得意だった。裏のある言葉や取り澄ました表情からオルベリクが受け取れるものは、あまりにも少ない。
 いっそのこと、あの時プリムロゼと剣を交えるべきだったのかもしれない、とやや本気で考えてしまった。
 再びノーブルコートを出る。強い日差しを浴びる平原にはほとんど影がない。光に透かされないものを抱えるプリムロゼの痕跡は、どこにも見当たらなかった。

inserted by FC2 system