涙を遠い草原に



 旅芸人一座は舞台を設けた大きなテントの他に、座員たちの生活空間となる小さなテントを複数張っていた。その小さな方の一つに、五人もの男女が集まっている。オルベリクたち三人と、クリスとその相方だ。
 中央に据えられた机の上には、プリムロゼの残した書き置きと、このあたりの地図が載せられていた。
 まず最初の議題は「プリムロゼは何を目的としているのか」。自然と進行役を引き受けたサイラスは集った者たちを見回した。
「人を捜している、と聞いたことがあります」
 最初に口を開いたのはクリスだった。彼自身、失踪した父親を捜す旅をしている。同じ一座で働くことになってからそう話すと、プリムロゼがぽろりと漏らしたらしい。
 オルベリクにとってはそれすら初耳だった。全く、これまで彼女と何を話してきたのだろう。今さら反省してしまう。
「ならば、その尋ね人が見つかったのか。だからこの一座を離れた……?」
 ハンイットが難しい顔で腕組みする。
 芸人一座で踊るうちに、尋ね人本人もしくはその手がかりを発見し、矢も盾もたまらず飛び出した。ありそうな話だが、確証を抱くには至らない。この議題はひとまず置いておこう、とサイラスが言う。
 次に、「プリムロゼはどこへ向かったのか」。こちらが本題だった。
「ハンイット君、ハーゲンの方はどうだった?」
「やはり匂いをたどるのは厳しい。香水をそこら中にまいて撹乱されていた。明らかにハーゲンを警戒しているようだ。
 匂いがだめなら足跡でも残っていないかとリンデとともに探してみたが、このあたりは草が多い上に地面が乾いているから、プリムロゼの痕跡は判別できなかった」
「そうか……」
「あ、それなんだけど、プリムロゼさんが西に向かうのを見たって人がいたんだよ!」
 クリスの相方が弾んだ声を出す。皆は期待とともにそちらを見やった。
「うちの一座に歌手の女の人がいるんだけど、今朝早く起きて外で歌を練習してた時、テントからプリムロゼさんが出てきたんだってさ。『どうしたの』って声をかけたら、『踊りの練習。誰にも見られたくないから目立たない場所に行ってくる』って返されたんだと」
 そのまま西に向かう背を見送ったというわけだ。歌手の彼女もプリムロゼがいなくなったと聞いて青い顔をしたらしい。あの踊子は、短い期間でずいぶん座員たちと仲良くなったようだ。
 オルベリクは指で地図をたどった。
「西……フロストランドか?」
 もしくは雪原の先、ウッドランドを目指しているのかもしれない。
 有力な情報だが、まだ居場所を特定することはできない。サイラスは地図から顔を上げ、
「そうだオルベリク、あなたは何か思い出したことはあったかい?」
「参考になるかは分からない。プリムロゼの持っていた短剣に、小さな文字と紋章のようなものが刻まれているのだが」
 彼女は宝剣とすら呼べる逸品を所持していた。普段は鞘におさめたままで、戦闘に使用することはない。それなのに、しばしば取り出しては丁寧に手入れしており、気になったオルベリクはそれとなく観察していた。プリムロゼはこちらの視線に気づいていたようだが、何も言わなかった。
「文字と紋章か。ここに書いてみてくれるかな」
「文字の方は読み取れなかったが——」差し出されたサイラスの手帳に、思い出せる限りの形を拙く記す。
「これは」
 手帳を見た学者が珍しく絶句した。
「何か知っているのか?」ハンイットが怪訝そうにすると、
「いや、今は関係のないことだから」
 オルベリクはハンイットと素早く視線を交え、やり場のない思いを無言で消化する。
(この男、知っていて言わなかったな)
 サイラスは情報を秘匿する傾向がある。いなくなったプリムロゼはおろかこの学者も隠しごとばかりで、一方のオルベリクにはそれを推し量る手段がない。こんな調子だからエアハルトの内心も見通すことができなかったのか、と暗澹たる気分になった。
 一方のサイラスはしれっとした顔で話を流した。
「それにしても、私たちはプリムロゼ君について、あまりにも多くのことを知らなかったようだ」
 仲間の無理解によって今の事態が引き起こされたことに違いはない。三人は重く口を閉ざし、クリスたちも不安げに目をさまよわせる。
 ハンイットは形の良い眉をひそめて、
「まだ結論を出すのは早いだろう。サイラスはどういった情報を集めてきたんだ?」
「それを言う前に、オルベリクとハンイット君に質問があるのだが」
 急に学者の声色が変わり、理知的な瞳が青く光った。これは、彼が己のペースに他人を巻き込む時の合図だ。
「私たちは彼女を追いかけるべきだろうか」
「……どういうことだ?」
 オルベリクは嫌な予感がした。サイラスはこんな時なのに唇をほころばせ、こともなげに言い放つ。
「もしプリムロゼ君が望んで行方をくらませたのなら、私たちが追いかけても彼女のためにはならないだろう?」
 その発言には一理ある。が、何故サイラスは今のタイミングで問いかけたのだろう? プリムロゼの失踪には、他人が踏み込むべきでない事情があるとでも見当をつけているのか。
 ややあってハンイットは腕組みを解き、肩をすくめた。
「サイラスは、案外冷淡なんだな」
「だが重要なことだろう?」
 直球の皮肉にもまったく痛痒を覚えた様子がない。その表情は相変わらず涼しげに整っている。
 ハンイットは大きく嘆息した。彼女がこういう態度になるのは珍しい。
「わたしは、追いかけるべきだと思う。プリムロゼを放ってはおけない」
「そうか。オルベリクは?」
 水を向けられた彼はまぶたを閉じてプリムロゼのことを考える。
 己の色香に自信を持ち、他人の誘惑を得意とする踊子。しかしその装いとは真逆に、どこか冷たく透き通ったものを心の芯に宿す。そんなちぐはぐな彼女が気になった。あの底の暗い瞳が、オルベリクの知る誰かと似ている気がして。
「プリムロゼには何度も助けてもらっている。だから、彼女に何かあれば手助けをしたい——仲間としてな」
 考え考え紡いだ不器用な答えを聞いて、サイラスはぱっと相好を崩した。
「そうか、良かった。二人がうなずかなかったら私一人で行くつもりだったから」さすがにそれは厳しかっただろうな、と笑顔で言い添える。
 瞬間、テントの中にはっきりと動揺が走った。
「な、何故それを最初に言わない!?」「俺たちを試したのか……?」
 顔色を変えて詰め寄る二人にも、
「そのようなつもりはなかったのだが」
 とサイラスはきょとんとしている。「これだから……」と脱力するハンイットに、オルベリクは心から同感した。散々探りを入れるくせに、とことん他人の心情を慮らない男だ。未だにサイラスのこういう調子には慣れない。
 ここで、部外者になりかけていたクリスが、何かに思い当たったように口を挟んだ。
「サイラスさん、もしかしてプリムロゼさんの居場所が分かったんですか?」
 ハンイットが軽く目を見開く。一人で行くつもりだった——それは、サイラスがプリムロゼの向かった場所を察したからこそ可能となる行為だ。
 サイラスはあっけらかんとしてうなずいた。
「ああ。おそらくここだろう」
 机に広げた地図の一点を指さす。スティルスノウという村の名が記されていた。
「オルベリクはテラキア君を知っているね。彼は教師をしていて、生徒の中には町で防具屋を営む家の子がいた。その子から、『芸人一座の踊子に頼まれて、父親がテントまで商品を売りに行った』という話を聞いたんだ」
 売れた商品が女性用の防寒具だったらしい。なるほど、町に入らずとも商人がテントに来れば売り買いができる。実際芸人一座ではそういう事態は多く発生するらしく、クリスたちも相槌を打っていた。
「ならば、何故行き先がウッドランドやフレイムグレースではないんだ?」
 ハンイットは注意深く質問を重ねる。
「靴だよ。聞けば、普通に街道を旅するにはふさわしくない重装備だった。北フレイムグレース雪道から街道を無視して、直接スティルスノウへ向かうために底の厚いブーツを用意したのだろう。実際、街道を外れた旅に必要な装備がほしいと店主に言ったそうだ」
 実に鮮やかな推理は、オルベリクの心にしこりを残した。おそらくハンイットも同様だろう。
 サイラスはプリムロゼの行き先を知っていながら、議論が進みオルベリクたちが意思表明をするまで黙っていた。本人に全く悪気がないことは分かっているが、どこまでも食えない男だった。
「ならばスティルスノウへ行くぞ」
 オルベリクは重々しく告げる。色の違う二つの頭が首肯した。
「テリオン君たちにも、合流は少し遅れそうだと知らせないとね。手紙は私が書こう」
「さっそく出るぞ。時間が惜しい」
 ハンイットの言う通り、そもそもプリムロゼとは出発時間に大きな差がある上、情報集めと整理にここまで暇がかかってしまった。先行する彼女の選ぶ詳細なルートが不明である以上、オルベリクたちが追いつくのは最低でもスティルスノウについてからになるだろうか。
「みなさん、お気をつけて!」「プリムロゼさんのことよろしくな!」
 クリスたちに見送られ、三人は午後の平原に踏み出した。
 大股で歩きながら、オルベリクは頭の隅で考える。プリムロゼの短剣に刻まれた紋章の意味や、試合を挑んだ時の彼女の心境を。これから向かう雪の村で待ち受ける真実がどのようなものであれ、受け止める準備をしなければならなかった。



 その小さな村は、あたたかな明かりを点々と雪の中に灯していた。
 分厚い雲と降りしきる雪に陽光が阻まれ、まだ昼日中だというのにあたりは薄暗い。フロストランド特有の気候だ。何日もかけて雪の大地を踏破すると——おまけに道なき道をゆく旅だ——さすがに気が滅入った。
 久々に人の営みの証を見てほっとする。そんな三人のそばで、唯一はしゃいでいる影があった。
「リンデは元気だな」オルベリクは羨ましい気分でつぶやく。
「ああ、雪豹はこのあたりに生息する種だから」
 ハンイットは伸び伸びと雪を踏む相棒に目を細めた。
 リンデを追いかけ村に入ろうとした彼女はふと立ち止まり、後ろを振り向いた。
「大丈夫か、サイラス」
「あ、ああ……」
 最後尾をゆく黒いローブの肩にはどっさり雪が載っている。普段から荷物が多いのに、余計に体が重くなっていそうだ。足取りは鈍く、フードの下から覗く柳眉もひそめられている。
 ノーブルコートから街道を外れての強行軍、しかも雪道だ。今日も朝から歩きづめで、元から体力で劣るサイラスは相当くたびれているようだった。
「残念だが、ここから先があなたの出番だ」
 ハンイットは容赦なく告げた。そう、スティルスノウについたからには、さっそく聞き込みをはじめなければならない。プリムロゼはもうこの村に来たのか、はたまたどこかでオルベリクたちが追い越したのか。それを確かめ次第、今後の方策を練る必要があった。
 サイラスは肩の雪を払って気合を入れ直したようだった。
「分かっているよ。まずは酒場に行こう」
 さすがに村の中は雪かきされていて歩きやすかった。元気に雪遊びする子どもたちを横目に見つつ、大陸共通の酒場の看板を目指した。
 雪から離れがたい様子のリンデと一旦別れ、暖気に満ちた室内に入る。吐いた息が白くならないことが妙に嬉しく感じられた。
 酒場の中央には小さなステージがあった。この規模の店に舞台を設けるのは珍しい。雪に閉ざされた寒村ではどんな娯楽も見逃せないというわけだ。
 まずはカウンターに行き、男二人は度数の強い酒を、ハンイットは野菜スープを注文して席に着いた。
 オルベリクはつい緩みそうになる気を引き締め、周囲を見回す。昼下がりでも客の入りは悪くない。どうやら旅人が多いようだ。
 酒場に来るとサイラスは大抵喋り通しになるが、今回は黙っていた。相当疲れが溜まっているのか、もしくは聞き耳を立てているのか。
「あれ、昨日の踊子はもういないのかい?」
 不意にそんな声が耳に入った。カウンターに座った客が、マスターに話しかけているらしい。
「すみませんね、臨時雇いだったもので」
 三人は素早く目線を交わし合う。一日限りで雇われた踊子となると、プリムロゼである可能性が高い。早速サイラスが立ち上がり、カウンターに向かった。
「失礼、ご主人。昨日ここに踊子がいたのかね」
「……それが、何か?」マスターの返事にははっきりと警戒があらわれていた。
「私は彼女の知り合いなのだが、しばらく顔を見ていないんだ。どこへ行ったか知らないかな」
 明らかに身構えている相手に、あえて直球で尋ねる。これも作戦のうちなのだろう。そう信じたい。
 マスターは目を伏せ、手元のグラスを拭いた。
「さあ……。本当に一夜限りでいなくなってしまったので、私には何も。評判は良かったので残念です」
 プリムロゼはもういない。ならば、スティルスノウもただの中継地点であり、すでに別の場所に移動したのだろうか?
 テーブルに戻ったサイラスは小さく首を振る。「マスターが相手だと探りを入れるのもなかなか厳しいね」とのことだった。
 小さなグラスに入った酒を一杯だけ飲み干して、席を立つ。
「酒場以外にも情報源はある。もう少し調べよう」
 サイラスは幾分か元気を取り戻したようで、率先して外に出た。オルベリクたちも従う。
 人心地ついてから改めて見回すと、村の様子がよく分かった。家々の屋根がすべからく急な角度をしているのは雪国独特の光景だ。道のところどころには子どもがつくったであろう雪人形が立っていて、のどかな雰囲気を漂わせる。景色はずいぶん違うけれど、どこかコブルストンを思い出させた。
 気づけばサイラスは立ち止まり、村の高台を注視している。そちらには大きな屋敷がそびえていた。
「どうかしたのか?」
「うん、少しね」
 オルベリクの問いかけにも、心ここにあらずといった様子で答える。何を気にしているのだろう。
 その時だった。「や、やめてください」女性のか細い悲鳴が聞こえた。オルベリクは反射的に声の方向に視線を飛ばす。
「すみません、話を聞きたいだけなんです。あまり騒がないで……」
 純白のマントをまとった青年——あれは聖火騎士だろう——が、道端で女性に声をかけていた。豊かな黒髪を後頭部で結った彼女は、困ったように身を引いている。聖火騎士が村民に無体を働くとも思えないが、オルベリクは注意しつつ歩み寄った。同じくハンイットも後ろからついてくる。
「そこのお前」
「え」
 鋭く声をかければ、振り返った聖火騎士は表情を凍りつかせた。物々しい様子の二人におののいたらしい。
 まさに一触即発という空気になった瞬間、
「オ、オルベリク! 待ってくれ、彼はオフィーリア君の知り合いだよ」
 追いついたサイラスが慌てて止めに入った。聖火騎士がほっとしたように胸を撫で下ろす。
「サイラスさん、お久しぶりです」
 二人のやりとりから、オルベリクは勘違いを悟った。すぐに「すまなかった」と頭を下げる。
「いえ、僕の方こそ誤解を招く行動をしましたから。そうだ、オフィーリア様はどうされましたか?」
「今は別行動をしていてね。紹介しよう、彼は聖火騎士のマイルズ君だ。こちらは私の仲間のオルベリクと、ハンイット君」サイラスに促され、初対面の三人は互いに軽く目礼する。「それで、マイルズ君はそちらの彼女と何を話そうとしていたのかな」
「あっ」
 マイルズは本題を思い出し、体の向きを戻した。女性は怯えたような顔でオルベリクたちを順繰りに見つめている。
「ええと、少しお聞きしたいことがあって……」
「話すことなど何もありません」
 女性はかぶせるように答えた。いかにも強硬な態度だ。
 ハンイットが意味ありげにサイラスを見つめた。彼は自分の役割を十分に承知して、前に出る。
「突然話に入ってしまい、失礼したね。しかしあなたは顔色が悪いようだ。素敵な顔立ちをしているのにもったいないよ。もしや体調が優れないのではないかな? 良ければ、家まで送らせてほしいのだが」
 ……役割は分かっていても、自分の言葉や容貌が他人にどういう影響を与えるのか、サイラスはまるで理解していないのだった。女性はぽうと顔を赤らめ、「でしたら家はあちらです」とうつむき加減に答える。ある意味で劇的な効果だった。
 女性の横に並び案内を受けるサイラス。その後ろにオルベリクたちとマイルズが従った。
「すごいですね、サイラスさんは」
 青年は素直に感心している。彼は聖火騎士になったばかりのようで、まだ装備が新しかった。
「あの人はいつもああいう調子だからな」
 ハンイットは眉を微妙な角度に歪めた。彼女も苦労してきたのだろう。
 オルベリクは話を戻して、
「それにしても、貴殿は彼女から何を聞き出そうとしていたのだ?」
「ああ、それは——」
 マイルズが語り出そうとした刹那、「アリアナさん!?」とサイラスが叫ぶ。少し目を離した隙に、女性はがくりとくずおれており、サイラスが両腕でその体を支えていた。
「どうした!」三人が駆け寄る。
「やはり発熱しているようだ。家に運び込もう」
「鍵は?」
「こ、これを……」
 アリアナというらしい女性はかろうじて意識を保っており、懐から鍵を取り出した。
 家はすぐそこだった。鍵を使って玄関を開け、目についたベッドにアリアナを寝かせると、サイラスが魔法で暖炉に火を入れた。やがて薪が弾けるパチパチという音が聞こえてくる。
 その家は妙な間取りをしていた。部屋が無闇に広く、ベッドが多い。複数人で生活しているようだが、今は誰もいなかった。
 布団をかぶせられ、アリアナは熱に浮かされたまま小さく呟いた。
「プリムロゼ様……」
 聞き捨てならない名前だった。三人は息を呑み、ゆっくりとベッドに近づく。
「あなたはプリムロゼの知り合いなのか? 彼女の居場所を、知っているのか」
 ハンイットが静かに尋ねた。しかし意識が混濁しているようで、アリアナはそれに答えず、
「お願いします。どうか復讐などおやめください、プリムロゼ様……!」
 突如として放り込まれたその単語は、重く苦しい響きを持って場を支配した。
(まさか、プリムロゼの旅の目的は復讐だというのか)
 オルベリクはあの日——旅の途上でプリムロゼが試合を申し込んできた時、聞き取れなかった言葉の意味をやっと理解した。
「あなたが何を考えて人を殺しているのか」。それを知りたい、と彼女は言ったのだ。

inserted by FC2 system