涙を遠い草原に



 舞台の中央に一輪の薔薇が立つ。つぼみがほころぶようにひっそりとはじまった踊りはやがて満開に咲き誇り、見る者を圧倒した。プリムロゼは花の一生を全身で描き出す。
 芸人一座のテントはノーブルコートからやってきた客で満員だった。ハンイットはその中に混ざり、客席から仲間の踊りをじっくりと見物した。
 ハンイット自身は踊りなどまるで不向きなことを自覚しているため、「踊りで生計を立てている」というだけで尊敬できる。プリムロゼが来てから毎度の公演がいつにも増して大盛況だ、という話にもうなずけた。
 だが、どうしてだろう。あの踊りを見ると胸がざわめく。
(プリムロゼがさみしそうな顔をしているから……か?)
 テントの中は人いきれで苦しいほどなのに、舞台の彼女はまるでひとりきりで踊っているようだ。そんな印象を抱いた自分自身に、ハンイットは驚いた。
 一幕終わった後、舞台袖に引っ込んだ踊子に会いに行った。
 ノーブルコートに滞在するうちに顔見知りになったクリスに教えてもらい、プリムロゼが控えているという小さなテントに入る。真っ先に甘い香りが鼻腔をくすぐった。観客から届けられた花が部屋の隅に生けられている。土産でも持ってくるべきだったかと反省したが、もう遅い。
 一仕事終えて髪をほどいたプリムロゼは椅子に座り、ほおを上気させてハンイットを迎えた。
「来てくれたのね、ハンイット。舞台から見つけたわ」
「分かったのか?」
「熱心に見ていてくれたもの」
 プリムロゼは艶然とほほえんだ。ハンイットは少し照れてしまい、小さく息を吐く。
「先ほどの踊りだが……その、良かった」
 なんて拙い感想なのだろう。「嬉しいわ。ありがとう」と慣れた様子で返す彼女は、きっと同じ言葉を山ほど言われてきたに違いない。
「それにしても、今日はどうして来てくれたのかしら? みんな結構冷たくて、全然見物しに来ないのに」
 テリオン以外の年少の三人は一度やってきたけれど、とプリムロゼは肩をすくめる。
「それは——」
 オルリックとやらの屋敷に突入するメンバーから外れたため、ハンイットは思わぬ自由時間を得た。そんな時、ふと芸人一座の存在を思い出し、誘われるように一人でふらりとここに来た。
 その根っこにある理由といえば、
「プリムロゼが元気にしているか確認しに来たんだ」
「うふふ。あなたは本当に素直よね」
 プリムロゼは何故か感心している。このくらいのことでいちいち言葉を飾る必要もないと思うのだが。
 一度会話が途切れた。ハンイットは前から気になっていたことを尋ねてみた。
「どうしてプリムロゼは踊子をしているんだ?」
 麗しい顔にそっと翳りが差した。
「……生きるためよ」
 生業なのだから当然の答えだ。しかし、プリムロゼの見せたわずかな変化が気にかかった。それは果たして本心からの発言だろうか。
「私はどこに行ってもこの足で踊り続けるわ」
 宝石のような深い色の双眸は、ここではないどこか遠くを見つめていた。



 プリムロゼの旅の目的が、復讐だった。
 スティルスノウの村でいきなり突きつけられた真実は、ハンイットの胸に黒い染みを広げた。
 アリアナと名乗った女性はベッドの上で熱に浮かされながら、切れ切れに話す。
「プリムロゼ様は私の仕事を肩代わりして、一人で黒曜館に乗り込んで行きました。お父様の——当主様の仇を取るために」
「やはり、この村の近くにあるんですね」
 聖火騎士マイルズの顔色が変わった。アリアナはそこで力尽きたのか、すうと眠りに入る。
「困ったことになったね」
 ぽつりとこぼすサイラスの表情から、いつもの余裕が消えている。
 ハンイットは「復讐」という後ろ暗い目的を知らされ、動揺が隠しきれなかった。一方でオルベリクは表面上の復帰が早かった。ある程度プリムロゼの真意を察していたのかもしれない。
 サイラスは軽く頭を振り、聖火騎士に視線を送った。
「マイルズ君は何か知っているようだね。良ければ聞かせてくれないかな」
「はい。オフィーリア様の付き添いであるサイラスさんと、お仲間の方々にはお話ししようと思います。ですが他言は無用でお願いします」
 マイルズは慎重に言葉を選び、語りはじめる。
 彼ら聖火騎士は数日前にフレイムグレースから派遣され、この地の任務についた。表向きはスティルスノウの警備と付近の魔物退治のためである。しかし、彼らには裏の目的があった。
「この村の近くに、存在の秘匿された娼館があります。その名前が黒曜館です。おそらく彼女も従業員なのでしょう」
 マイルズは眠るアリアナに目をやった。サイラスはいっそ冷淡なほどに落ち着き払って、
「秘匿されているということは、表沙汰にしたくない顧客でもいるのかな。例えば、教会関係者とか」
 息を呑むマイルズ。その反応が何よりも真実を語っていた。
「黒曜館は娼婦を売買し、各地の権力者とつながっているという話があります。つい最近までそれは噂の段階でしたが、事情が変わりました」
 黒曜館の顧客の一人に、ある司祭がいた。彼は何らかの交換条件とともに黒曜館に娼婦の斡旋を頼まれ、あろうことか信者を売り飛ばそうとしたのだ。おまけに教皇の膝下フレイムグレースで悪事を働いたものだから、発覚した途端に大問題となった。
「司祭は黒曜館に脅されていたようです。式年奉火の準備などで警備が厳しい時期に犯行に及ぶとは、よほど追い詰められていたのでしょうね」
 教会も一枚岩ではない。黒曜館から金銭を受け取り積極的なつながりを持つ勢力もあれば、反対にその存在自体を容認できないと考える勢力もある。今回、マイルズは後者によって派遣されたというわけだ。
「おそらく教会の上層部は前々から黒曜館に目をつけていたのだろう。こうして聖火騎士の調査が入ったのは、黒曜館側が本来あるべきバランスを崩したから、だろうね」
 聞いているだけで気分の悪くなるような話だったが、サイラスの表情は一切波立たない。
「ええ、司祭に従業員の斡旋を頼む時点で、相手は慎重さをなくしています。何か事情があって焦っているのかもしれません。娼婦の提供元が何者かによって潰されたらしい、という話も入っています」
 マイルズたちの会話はいつまでも続きそうだった。ハンイットは多少強引に話題を戻す。
「その館にプリムロゼが行ったというのか」
「父親の仇をとるために、な」
 オルベリクが言葉を引き継ぐ。
 家族が殺されたから、その犯人を殺しに行くのか。
 もしも師匠に何かあったら、わたしはどうするのだろう——
 ぞっとするような想像を振り払い、胸元に提げた指輪に触れる。両親の形見はいつもと同じ温度を肌に伝えた。
 気落ちする彼女をよそに、サイラスは平静を保ったまま続けた。
「このままプリムロゼ君を放っておけば、私たちがこの村に来た意味は失われる。これから彼女を黒曜館まで追いかけるということでいいね」
 青い視線がハンイットとオルベリクに注がれる。二人は首肯した。
「僕もお手伝いします。あの館の調査が今回の仕事ですから」
 マイルズがぴしりと背筋を伸ばした。どこか初々しさの残る仕草だ。
「ありがとう。ところでマイルズ君、黒曜館の場所の調べはついているのかな」
「いいえ……娼婦を乗せる馬車が毎日館まで往復しているのですが、まだ追跡に成功していません。もう一方の顧客を乗せる馬車は、より警備が厳しいので同様です。魔物退治と並行しているため、割ける人員も少なくて……」
「ふむ」
 一瞬考え込んだサイラスはすぐに顔を上げた。
「館の場所は、私がなんとかして特定しよう」
 この学者が「なんとかする」と断言したのだから、もう信じるしかない。サイラスはそのまま視線を横に流し、「ハンイット君、キミは移動手段を確保してくれないか」
「移動手段?」
 相手に対抗して馬車でも用意しろということか。
「従業員や顧客たちが馬車を使っているのは、館の位置を誤魔化しながら、移動時間を短縮するためだろう。となると徒歩で追うのは厳しい。こちらは付近の魔物を捕獲して、そりでも引かせるのはどうだろうか」
「そういうことなら、僕がそりを村で借りてきます」とマイルズが請け負う。
「なるほど、分かった」
 気を抜くと余計な方向に気が逸れそうになる今のハンイットに、その明快な指示はありがたかった。
「オルベリクもハンイット君の手伝いに入ってくれないか。魔物の捕獲は危険を伴うからね」
「了解した」
 サイラスは最後に若き聖火騎士を指名する。
「別途、マイルズ君には準備してもらいたいものがあるのだが」
「構いませんけど……」
 サイラスは急に小声になる。思わず耳を寄せたマイルズは「えっ」と驚いて学者を見つめた。
「頼めるかな?」
「は、はい。ええと、それが何の役に立つかは——」
「あとで話すよ」
 いつものように自分勝手に話を終わらせて、サイラスは今の状況にふさわしくないほど朗らかな顔で笑った。
 まずは外に出てリンデたちを呼び寄せようと考えながら、ハンイットは早々と扉に手をかける。その背をマイルズの声が追いかけた。
「あの、ハンイットさん。今ちょうど僕の仲間たちが村の外で魔物退治をしているんです。もし会うことがあれば、よろしくお願いします」
「そうか。善処する」
 ハンイットはこのあたりに生息する魔物をざっと脳裏に思い浮かべる。「移動手段」と聞いた時点で、だいたいの当たりはつけていた。
 この近くであれば、あの種がいるはずだ。



 フロストランド地方は日が傾くのが早く、あたりは刻一刻と暗さを増していく。それでも真っ白な雪が地面を覆っているおかげで視界はほの明るかった。
 リンデとハーゲンは前を固め、オルベリクが隣を歩いている。ハンイットはブーツで雪を踏みしめながら、ぽつりとつぶやいた。
「復讐……か」
 サイラスの矢継ぎ早の状況整理のおかげで最初の衝撃は薄れていたが、やはりその単語は重すぎる響きを伴った。
「プリムロゼの目的が気になるのか、ハンイット」
 防寒着の前を合わせながらオルベリクが問う。
「それは……そうだろう。オルベリク、あなたは違うのか」
「気にならんわけではない。が、少し納得のいくことでもあった」
 プリムロゼのまとう殺伐とした雰囲気の理由に、この剣士は思い当たるふしがあったのだ。
 ハンイットは復讐にまつわる事情をほとんど知らない。だから、その良し悪しを断じることは決してできない。
 それよりも後悔の方が大きかった。彼女がそこまで追い詰められていたことに、まるで気づけなかった。
(……今更のことだな)
 これは建設的な思考ではない。ハンイットはかぶりを振った。
「プリムロゼが馬車に乗ったのが数刻前か。黒曜館とやらでことを起こすまで、もう幾ばくも猶予はないだろう」
 感情を抑えたオルベリクの声も「今やるべきことに集中しろ」と言っているようだ。
 ハンイットは気を取り直して雪原を見回した。生き物の姿はどこにもない。
「ところで、どういった魔物を探しているのだ?」
 オルベリクの質問に身振り手振りを交えて説明する。
「ズヤックという名の、こう……ずんぐりむっくりした魔物だ。突進攻撃が得意で、見た目の割に足が早い。そうだな、二匹も捕獲すればそりを引くには十分だろう」
 ハンイットは捕獲用に粘着糸で編んだ網を持ち歩いている。以前、これを見たトレサに「投網みたいね」と言われ、少し笑ってしまったことがあった。
 ほのぼのした記憶のおかげで緊張が緩む。とにかく魔物を見つけよう。
 ズヤックの巣となりうるのは、風よけのある場所だ。このあたりなら林が適しているだろう。目についた針葉樹のかたまりに向かう。
「先客がいるようだな」
 林に入ると雪や風の影響が少なくなる。おかげで地面にはたくさんの靴跡が残っていた。間違いなく、近くに人間がいる。
 風の音に混じって剣戟が聞こえてきた。マイルズの仲間の聖火騎士だろうと察する。ここで魔物退治に励んでいたのか。何気なくそちらに向かおうとした時、木立の間から見えた影にオルベリクが息を呑む。
「ハンイット」
 彼女もそれを視界に捉えていた。雪の上に躍る白いマントと交戦している魔物は——
「間違いない。ズヤックだ!」
 二人は雪を蹴って駆け出した。
 四人の聖火騎士が、倍以上の数の魔物に包囲されていた。ズヤックは毛足が長い四足の動物で、普段はごくおとなしいが興奮すると手に負えなくなる。よりにもよって魔物たちは全員気が昂ぶっている状態にあるようだった。
「助太刀する!」
 一声かけて、ハンイットは弓を引き絞った。会心の手応えとともに放たれた一本の矢が、魔物の脳天に突き刺さる。
 オルベリクは矢と並走するように前線に割って入り、盾を構えた。続いてリンデが、ハーゲンが魔物の群れに飛びかかる。突然の加勢に聖火騎士たちは驚いたようだったが、すぐに陣形を整える。騎士としての訓練を受けたからこそなせる業だ。
 ハンイットは魔物の突進を警戒して斧を準備しつつ、慎重に距離を詰める。対峙するズヤックは血走った目でこちらをにらんでいた。
(これは捕獲どころではないな)
 ハンイットは相手の心を読み取ろうと試みたが、爆発するような感情が伝わってきただけだった。こういう時は、言葉の通じる方を頼るに限る。
「一体何があった?」新たな矢をつがえながら聖火騎士の一人に駆け寄った。
「すまない、旅の人。近頃こいつらが妙に凶暴になって、村人が困っているという連絡を受けたんだ。それで退治していたんだが……どんどん新手が巣から出てきてさ、この有様だよ」
 ズヤックたちは本能のままに暴れているようだった。そこに宿る感情の中で唯一判別できたのは、途方もない怒りだけだ。
(ただ住処に踏み込まれたから暴れている、というわけではなさそうだな)
 ここまで興奮するということは、魔物なりの事情があるはずだ。狩人の勘に何かが引っかかる。その上、このまま退治してしまっては捕獲という目的を果たせない。
「ズヤックの巣の位置は分かるか? あなたがたはそこに向かっていたんだろう」
「あ、ああ。あそこの丘の下だ」
 聖火騎士が指さした場所は林の途切れた先だった。洞窟か何かがあるらしい。
「オルベリク!」「任されたっ」
 短い呼びかけに正しい理解が返ってくる快さを感じ、ハンイットはリンデのみを引き連れて、オルベリクがなぎ払いでつくった隙に魔物たちの間を走り抜けた。
 丘の懐にそれらしき洞窟を見つけ、すぐさま駆け込む。
「これは……」
 目の前に広がった光景に思わず絶句し、ハンイットは腕を引き上げ口元を塞いだ。あたりにはむせ返るような血の匂いが満ちていた。ぼろきれのように転がるいくつもの屍体は、殺されたズヤックだろうか。リンデは身を低くして唸り声を上げる。
「何故、こんなことに」
 呆然とつぶやく彼女の脳裏に、雷鳴のようにひらめくものがあった。
 このズヤックたちは刀傷により屠られている。ならば人間の仕業だ。先ほどの話からすると聖火騎士ではないだろう。一体誰が、何故このようなことを?
 麻痺しそうな頭を必死に働かせ、推測を続けた。
 犯人は、スティルスノウに聖火騎士が来ることを知っていた。魔物の巣を荒らしたのは、こちらに聖火騎士を釘付けにするための方策だ。村には探られたくない事情が——黒曜館がある。つまり、黒曜館側が聖火騎士を牽制するために魔物を利用したのだ。そう考えれば納得がいく。
 ハンイットは詰めていた息をゆるゆると吐いた。
(ズヤックは、仲間の復讐のために聖火騎士を攻撃したんだな)
 同胞を大切に思い、守りたいと願う気持ちは魔物も人間も変わらない。黒曜館は、そういった誰もが持つ精神を弄んだのだ。
 そうか。プリムロゼのことを考えるとどうしようもなく不安になるのは、復讐にひた走る彼女があまりにも危ういからだ。怒りに支配されては、大事な目的を果たせなくなる可能性だって高い。このズヤックたちのように。
 ハンイットはほんの短い期間だが、プリムロゼと一緒に旅をした。仲間が傷ついてほしくないと願うのは、自然な心の流れだった。
(それにしても、こんな裏側の事情を考える羽目になるとはな。サイラスの癖が移ったか?)
 なんだかめまいがするような影響の受け方だった。だがこの件を報告すれば、彼も同じことに気づくはずだ。
 ハンイットは腰を折り、血のこびりついた魔物の毛皮にそっと手を置く。こういう時のために、オフィーリアから簡単な祈りの言葉を教わっておくべきだった。
「……すまないことをした」
 ズヤックたちは人間の事情に巻き込まれただけだ。彼らに対して自分は何ができるのだろう。考えても答えは出なかった。
 不意にリンデが細く啼いた。積み重なる屍体の奥に、もそもそ動く影があった。
 ハンイットはゆっくりとそれに近寄る。
「怖がらなくていい」
 奥にいたのは二匹のズヤックだった。ここの屍体や外で暴れているものより一回り小さい。まだ子どもなのだろう、それでも十分立派な体躯をしている。彼らは怯えたようにこちらを見上げていた。
 魔物に人間の言葉がそのまま伝わるわけではない。それでも彼らは人が声に乗せた感情を確実に汲み取る。そう確信できるのはハンイットが黒き森の一族であるからだが、異なる種と意思疎通する能力は、誰しもある程度は持ち合わせていると思う。
 ハンイットは無手であることを示すため両手を挙げた。
「わたしはお前たちに危害を加えるつもりはない」
 用心されるのは当然だった。だからどこまでも真摯に、まっすぐ声を届ける。
「お前たちは人間のせいでこうなったのだろう。同じ種であるわたしが言い出すことではない、それは分かっている。だが……どうか、力を貸してほしい」
 これ以上の犠牲を出さないために。その思いを言外に含めて、ハンイットは頭を下げた。
 ズヤックはのそりのそりと近寄ってくる。長い毛に覆われた顔の前に手のひらを差し出すと、ぺろりと舐められた。
 魔物と心がつながる瞬間はいつも、ふわりと胸が浮き立つような感覚になる。
「ハンイット、残念だが魔物は一匹も——」
 オルベリクが負傷した聖火騎士に肩を貸し、ハーゲンに率いられて洞窟に入ってくる。ハンイットはズヤックをなでていた手を離した。
「大丈夫だ。彼らが協力してくれることになった」
 入り口に積まれた屍体と、生き残りのズヤックたちに気づいたのだろう。オルベリクは大きくうなずいた。
「ならばスティルスノウに戻ろう」
「ああ」
 プリムロゼを助けるために。改めてハンイットはその思いを強く抱いた。



「おかえり、ハンイット君、オルベリク。首尾はどうだい」
 暖炉のおかげでずいぶん温まったアリアナの家で、サイラスは穏やかに出迎えた。マイルズは彼を手伝い大きな紙をテーブルに広げている。さらには一眠りして体力を回復させたアリアナが、ベッドに起き上がっていた。
 そういえばサイラスはスティルスノウ到着時点で相当な疲労を抱えていたはずだが、今やそのような様子は微塵も見せない。うまく自分で体力を調整しているのだろうか。
 とはいえ、彼を含めた全員が朝からほとんど休みなく動き回っているのは事実だ。黒曜館へ出発する前に、サンドイッチか何かをつくって食べた方がいいかもしれない。
「移動手段は無事に確保した」
 ズヤックたちは村の外で待っている。マイルズが「そりも手配しましたよ」と続けた。
「それは僥倖。私の方は見てのとおりだよ」
 彼が指し示すのは、スティルスノウ付近の地図だった。
「黒曜館の位置はここだ」と、白い指が造作もなく一点を示す。
「……どうして分かったんだ?」
「そういう情報網がある、とだけ言っておこうか」
 サイラスは澄ました顔で答える。これは「絶対に教えるつもりがない」時の態度だ。
 オルベリクがむう、と眉間にしわを寄せる。いつも泰然自若としている彼も、この学者には調子を崩されるようだった。
「ならその話はいい。もう一つの紙はなんだ」
 ハンイットはさっさと話題を変えた。地図の上に重ねられた大きな紙には、定規で引かれたまっすぐな線がいくつもの方形を連ねている。
「館の見取り図か?」そう尋ねるオルベリクに、サイラスは相槌を打つ。
「アリアナさんから聞き取りをして描いたんだ。それなりの精度になっているはずだよ」
 準備はすべて整ったわけだ。
「さて、ここからが具体的な策なのだが」とサイラスは得意の長話をはじめた。
 ——一通り話を聞いて、ハンイットは思わず嘆息する。その内容には危険な綱渡りと思われる箇所がいくつもあった。
 だがサイラスの立てた作戦は、この場の誰が思いつくよりも確実かつ安全なものだろう。いくつかやりとりして詳細を詰めてから、ハンイットは念を押した。
「それが、プリムロゼを助けるための方法なんだな」
「ああ。場をかき乱せば乱すほど、彼女の生存率は上がるだろうね」
「分かった」
 ハンイットはこくりと首を縦に振った。
「みなさん……どうか、プリムロゼ様をよろしくお願いします」
 アリアナが深々と頭を下げる。その両目が潤んでいるのは、熱のせいだけではないだろう。
 ハンイットは首にかけた二つの指輪を握った。狩りの前に必ず行う験担ぎは、いつでも力を与えてくれる。
「よし。みんな、黒曜館へ行こう!」
 サイラスが、オルベリクが、マイルズがうなずいた。
 復讐などという行為は他人が口出しできるものではなく、また簡単に善だ悪だと片付けられるものではない。
 この場に集まった者たちはそれを分かっていながら、プリムロゼを放っておかないことを選んだ。
 目的や思いを完全に共有できなくても、仲間になることはできる。ハンイットはひとりきりで踊る彼女にそのことを知ってほしかった。

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