涙を遠い草原に



 父親が目の前で殺された。それはプリムロゼの世界を構成するすべてが崩れ去った瞬間であった。
 犯人は体のどこかにカラスの入れ墨をした男たちだ。彼らは机の陰に隠れていたプリムロゼに気づかず、「あんたは知るべきでないことに手を出した」と言って父親を殺し、去っていった。
 プリムロゼはあまりのショックにそのまま気絶して、生き残った使用人たちに助け出された。短い眠りから目覚めると、改めて父の死という事実を突きつけられた。
 それからの日々は、風にさらわれる木の葉のようにどこかへ飛んでいってしまった。プリムロゼは長い月日をただただ呆然と過ごした。当主を失ったエゼルアート家と、領主をなくしたノーブルコートの町は当然のように荒れた。レブロー男爵をはじめとする自警団が治安の維持に尽力しても、事態は悪くなる一方だった。
 そんな状況を頭の隅では理解していたのに、プリムロゼは何もしなかった。
(お父様が、死んだ……)
 覆せない事実が全身に重くのしかかる。心は凍てつき、枯れた花は再び芽吹くことはなかった。
 エゼルアート家に仕えていた多くの使用人たちもほとんどが離散した。その中で、ただの庭師であったシメオンはずっと屋敷に残ってくれた。彼だけがプリムロゼの心のよりどころだった。
 庭師一人では管理しきれず、広大な庭はほとんど荒れ果ててしまったが、シメオンは一区画だけ赤い薔薇を育てた。そこにあるベンチに座って花の香りに包まれながら、幾度も二人はささやかな逢瀬を持った。
 趣味で詩を嗜む彼は、つややかな銀灰色の髪を揺らしながらプリムロゼにたくさんの自作を語り聞かせた。彼の紡ぐ言葉は耳障りがよく、荒んだ心を落ち着かせてくれた。
 だが、その日の詩はいつもと雰囲気が違った。普段の数倍の長さを持つ物語詩で、主役のお姫様が父王を殺され、犯人を捜す旅に出るという筋書きだ。おどろおどろしく暗い話だったにも関わらず、プリムロゼはのめり込むように耳を傾けた。
 長い長い詩を語り終えると、シメオンは自作を記した本を閉じ、優しく目を細める。
「プリムロゼ、何故僕がこの詩を聞かせたか、分かるかい」
「い……いいえ」
 プリムロゼは濡れた瞳で彼を見上げた。
「復讐だけは考えてはいけない——そう言いたかったんだ」
「ふくしゅう……?」
 その陰鬱な言葉は、プリムロゼの閉ざされた扉の間にするりと入り込んだ。
 シメオンの言う通り、理に反した概念だと頭では理解できる。なのに、プリムロゼははっきりとその行為に惹かれていた。確かにこの瞬間、彼女は長く苦しい道を抜けて立ち直るためのきっかけを手に入れたのだった。
「仇を取ろうだなんて考えてはいけない。きっと当主様は望んでいないよ」
 穏やかに諭すシメオンの思惑とは裏腹に、プリムロゼは歓喜に胸を躍らせていた。唇を噛んで表情を誤魔化さなければならなかったほどだ。
 父親の仇は三人。首筋、右腕、左腕にそれぞれカラスの入れ墨を施した男たちだ。彼らを見つけ出して死という名の報いを与える。それこそが、目の前に伸びる真っ暗な道に差した一筋の光だった。
 その晩、プリムロゼは誰にも告げず、家訓の刻まれた短剣だけを握りしめてノーブルコートの屋敷を飛び出した。
 いつも目元を濡らしていた涙はすっかり乾いていた。張りついた無表情すら崩れ、かすかに口の端が持ち上がるのを感じる。
 草原を照らす月は、暗い炎に身を焦がす彼女を静かに見守っていた。



 黒曜館の冷たい廊下を、音を立てないようにすり足で歩く。
 従業員専用の通路だ。脇にいくつもの小部屋が並んでいる。扉の向こうからは何の音もしない。黒曜館はその性質上、顧客と従業員が折に触れて機密情報を交わす可能性がある。なので分厚い壁をつくり、万が一でも話がもれないようにしているのだろう。その一方で、部屋そのものに対して、行為の最中にこぼれた情報を吸い上げるような仕組みが備わっている可能性もあった。
 とはいえそのような事象にプリムロゼは何ら関心がない。彼女の興味を惹くのはこの廊下の先にある、支配人の部屋だけだ。
 ——ノーブルコートに入る前に旅芸人のテントを見つけられたのは幸いだった。八人で旅をすることが決まった直後、「テリオンの目的のためにあの町に行く」という話になったときはどうしようかと悩んだものだ。同行者たる彼らに含むところは何もないが、とにかくノーブルコートには行けない。今はまだ、プリムロゼが戻る時ではない。
 芸人一座を見つけた彼女はこれ幸いと雇ってもらい、生業の踊りに専念した。久々に思いきり体動かすのは気分が良く、おまけに気色の悪い支配人もいないので天界のような職場であった。
 やがてテリオンの目的が果たされ、ボルダーフォールに向かう年少の四人がテントまで挨拶しに来た時、潮時を悟った。砂漠の町サンシェイドで手に入れた地図によれば、目的地であるスティルスノウはフラットランドのすぐ隣だ。プリムロゼはテントに防具屋を呼び寄せ、防寒具を揃えて書き置きを残し、ほとんど衝動的に旅立った。
 正直、同行者たちが後を追ってくる可能性は高いと考えていた。人の良い彼らは失踪したプリムロゼを心配し、探し回るだろう。
 それでも彼らに「協力してくれ」などと頼むつもりはまったくなかった。
(だって、あの人たちは関係ないもの)
 かじかむ体を無理やり動かしてなんとか雪の村にたどりつくと、情報を集めるため酒場に繰り出し、舞台で踊って人目を引いた。その判断は功を奏し、偶然にもエゼルアート家の元使用人であるアリアナと再会することができた。彼女は黒曜館という秘密の娼館で働いており、そこの支配人こそが、砂漠の町でヘルゲニシュと取引きしていた入れ墨の男だという。プリムロゼはこんな時ばかり神に感謝した。
 そこから彼女は手練手管を使い、従業員を黒曜館に送迎するための馬車に潜り込んだ。具合悪そうにしていたアリアナの代理という扱いで。黒曜館に到着してからは監督者の目を盗み、こうして廊下に抜け出してきた。
 大きな屋敷の構造というものはどこも大して変わらない。この奥に必ず支配人がいる。プリムロゼは冷たい炎を胸に燃やし、逸る気持ちを抑えて一歩一歩進んでいく。
 ——と、急にあたりが騒がしくなった。どこからか怒声が聞こえ、ばたんばたんとドアが開いて、一人の男性従業員が慌ただしくこちらに駆けてくる。
(まさか、私の正体がばれたのかしら)
 苦労して表情を整え、プリムロゼはフードの男を迎えた。
「そこのお前!」
「はい。なんでしょう」心臓がどきりと高鳴る。
「仕事は一旦中止しろ。全員控室に集まれとの命令だ」
「……分かりました」
 どうやら騒動の中心はプリムロゼではないらしい。一体何があったのだろう。復讐に向けて精神を統一していたところに水をさされてしまったが、つとめて平静を保ち、ゆっくりときびすを返す。
 あと少しで支配人の部屋だったのに。悔しさに唇を噛もうとして、「紅がとれてしまう」と躊躇した。こんな時でも見栄えを気にするのは踊子の性か。
 控室は、馬車を降りて最初に案内された大部屋だ。プリムロゼが戻るとすでに多くの女たちがひしめいていた。知り合いがいない彼女は壁際で待機する。
 女たちは大きすぎる声で噂話に興じていた。
「ねえ、何かあったの?」
「なんでも聖火騎士がいきなりやってきて、聞きたいことがあるから支配人に会わせろって言ったそうよ!」
「えっ、どうしてこの場所が知られてるの? 教会にはたっぷりお金を渡してるって話じゃない」
「それがね、式年奉火の神官様まで連れてきたんだって」
 プリムロゼはぎょっとして目を見開いた。
(まさかオフィーリアが……!?)
 そんなはずはない。ノーブルコートに残った三人が西に行った彼女に手紙を出したとしても、こんな短期間でスティルスノウにたどり着けるはずがない。ましてや黒曜館の場所まで探り当てるのは、もはや神通力の領域だ。
 それでは何故、こんな噂が立っているのだろう?
「支配人様は部下に聖火騎士の対応をさせて時間を稼いでいるうちに、抜け道を使って顧客を逃しているんだって」
「じゃあ今日はもう仕事にならないわねえ」
 混乱する頭を突き抜けて聞こえた話に、プリムロゼははっとした。黒曜館には抜け道がある。「入り口は不明ですが、何かあったらそこが使えるはずです」とアリアナが言っていた。
「ねえ……その抜け道ってどこにあるの?」
 おしゃべりに夢中になっていた女二人は、いきなり話しかけてきたプリムロゼに驚く。
「し、知らないわよ。あたしたちが使えるようなものじゃないし」
「あーあ、ここが聖火騎士に摘発されちゃったら、私たちどうなるんだろ」
「知らない場所に売り飛ばされるよりはマシでしょ」
 女たちはさっさとプリムロゼから視線を外し、卑近な話題に流れていく。これ以上は何を聞いても無駄だろう。
「私、大切なものをお客様の部屋に置いてきちゃったみたい。ちょっと出てくるわ」
 そうつぶやくプリムロゼに誰も注意を払わなかった。黒曜館の男たちは相当慌てているらしく、今は監視の目もない。簡単に控室から出られた。
(きっと、支配人の部屋が抜け道につながっているんだわ)
 後ろ暗いところのある建物なら、万一のためにそのような設計になっていてもおかしくない。可能性は高いだろう。
 廊下は異様に静かだった。プリムロゼは誰にも構わず走り抜け、突き当たりにあった支配人の部屋の扉を開け放つ。やはり、もぬけの殻だった。
 趣味の悪い銅像や絵画の裏など、怪しいものは一通り調べてみたが、そう簡単に抜け道は見つからなかった。
(もし、ここにテリオンがいたらどうするのかしら)
 ふとそんなことを考えて、プリムロゼは一人でびっくりしてしまった。いつの間にか思わぬ影響を受けていたらしい。
 旅の途中、何度か彼とともに洞窟や遺跡を訪れることがあった。そういう時のテリオンは珍しく率先して動き、壁を叩いたり床を押したりしては隠し部屋を見つけ、貴重な宝物を手に入れていた。あの手腕には感心したものだ。今思えば、あれは同行者の前でろくに盗賊行為がはたらけなかったため、代償として盗掘に精を出していたのだろう。
 プリムロゼはあの時のテリオンを真似することにした。短剣を取り出し、部屋の壁を柄でこつこつ叩く。すると、途中で音が変わった。
(軽い音になった。裏側に空間があるのね)
 ちょうど壁紙の継ぎ目を見つける。思いきってそこに切っ先を差し込んだ。
 かちりと音が鳴り、手首に振動が伝わってくる。正解を確信したプリムロゼは、そのまま短剣を横に滑らせる。
 壁が動いた。一部が引き戸になっていたのだ。暗闇に包まれた道がぽっかりと口を開けた。
(大当たりだわ)
 思わず唇が弧を描く。プリムロゼは部屋に飾られた燭台を拝借し、即席の松明をつくって躊躇なくその道に踏み込んだ。
 しばらくは館の一部と思しき平らな床が続いた。やがて洞窟にでも接続したらしく、ごつごつした感触が靴の裏から伝わってくる。黒曜館は崖の懐に建っているため、そちら側に出たのか。外部が近づき、みるみる空気が冷たくなっていく。
 冷え切った真っ暗な道。父親が殺されてから、ずっとこんな場所を通り抜けてきた気がする。差し込む光といえば、復讐という名の希望と、「己を信じ、貫け」という家訓だけだった。
 ——いや、いつもは見ないふりをしているけれど、本当はもう一つあった。その眩しすぎる光、いつか背を向けたはずの光は、濃い影を作りながらも確かにプリムロゼの足元を照らしてきた。踊り続ける彼女を後押しするように。
(……忘れたはずだったのにね)
 プリムロゼがしばし過去に浸っていると、道の先から物音が聞こえた。
 すぐさま近くの岩陰にしゃがみこむ。慎重に顔を出せば、道の途中にいくつもの明かりが集まっていた。何人か集まってランタンを掲げているらしい。居場所がばれては元も子もないので、こちらの松明は消すことにした。
 手近な岩の間を何度か移動し、相手に近づいていく。やがて会話がはっきりと聞きとれるようになった。
「顧客の避難は済んだか」
「はい、無事に。ルフス様もお早く脱出されますよう」
「すぐに行こう」
 ルフスと呼ばれた男が支配人なのだろう。その上等な黒衣からむき出しになった左腕には、夢にまで見たカラスの入れ墨が刻まれていた。
 あいつがお父様の仇の一人! プリムロゼは全身にかっと血が回るのを感じた。
 今すぐにでも追いかけなければ、このまま逃げられてしまう。短剣を握りしめながら、しかしプリムロゼは尻込みした。相手が多すぎる。ルフスだけならともかく手下が三人もいた。果たして自分の実力で全員と渡り合えるだろうか——
 そうこうしているうちに、物音と光が遠ざかって行く。プリムロゼがなりふりまわず飛び出そうとした、その刹那。
 聞き覚えのある遠吠えが洞窟内を駆け抜けた。
 次いで、バラバラの足音が駆けてくる。突如として現れた「彼ら」は、ルフスたちと対峙し立ち止まった。
(うそ。本当にここまで来たの……!?)
 岩陰に背を預けたまま、彼女は大きく息を吸った。耳の奥で心臓がうるさく鳴り続ける。岩の向こうで何が起こっているか確認したくてたまらないのに、体は針で縫い留められたように動かない。
「お前が支配人とやらか」
 落ち着いた低声がルフスを問いただす。彼はきっと大きな剣を構えているのだろう。
「なんだ、お前たちは」
 不審そうなルフスに、今度は凛とした女性の声が応えた。その足元には心強い魔物たちが付き従っているはずだ。
「館の顧客はすべて聖火騎士が捕らえたぞ」
「なんだと……!?」
 プリムロゼは二人の正体を知っている。全身が震えるのは緊張のせいだけではない。心がとびきりの果報に沸き立っている。
 今しかない! 彼女は短剣を携え、岩陰から躍り出た。
「左腕の男……やっと会えたわね!」
 支配人ルフスが振り返り、眉を急角度に跳ね上げた。その奥にいるのは間違いない、オルベリクとハンイットだ。
 プリムロゼは喉にこみ上げる熱いものをなんとか飲み下し、短剣をルフスに突きつける。
「今度は何者だ——いや、見覚えがあるぞ。砂漠の町で見かけた踊子だな」
「あらそう? プリムロゼ・エゼルアートよ」
 こうして名乗る日をどれだけ待ちわびたことか。種類の違う喜びであふれて混沌とした胸裏に、冷たい殺意が吹き抜ける。
「あなたたちカラスの入れ墨の男三人を葬ること、それが私の生きる意味。覚悟しなさい、左腕の男……!」
 ルフスはそれでも余裕のある態度を崩さなかった。
「エゼルアート家のご令嬢がこんな場所まで来るとはね。ああそうか、君がヘルゲニシュを殺ったのか」
 いきなりサンシェイドの酒場にいた支配人の名を出され、プリムロゼは動揺した。
「ふん、私としたことが功を焦りすぎたらしい。さしずめ、そこの二人や聖火騎士は君の仲間というところかな。聖火騎士に加えて式年奉火の運び手までやって来るとは——どうやら組織にも見放されたか」
 どうやらルフスは聖火騎士の行いまでプリムロゼが指揮したものと勘違いしている。が、ここは否定すべきではない。精神的な優位を確保するため、彼女はたっぷりと笑みを閃かせる。
「そうよ。あなたたちはもう終わりなの。二人とも、ルフスは私にやらせて」
「分かった」敵の反対側に陣取る彼らは異口同音に答えた。
 ルフスは部下をそちらに差し向け、一人でプリムロゼに向き直る。
「私をここまで追い詰めたことは誇っていい。だが最後までうまくいくかな。君も父親と同じ場所に送ってやろう!」
「やれるものならやってみなさい」
 プリムロゼは両目に緑の炎を燃やし、家訓の刻まれた短剣に目いっぱいの力を込めた。
(己を信じ、貫くため——力を貸してください、お父様!)
 エゼルアート家は昔、他の有力貴族と覇権を争っていた。その過程では汚い手を使うことも辞さなかったという。初めて父親から一族の過去を聞いた時はショックを受けた。皆に慕われる気のいい領主に血塗られた過去があったなんて話、子どもには重すぎる。しかし父は幼子相手でも真実を偽らなかった。
 エゼルアート家は血で血を洗うような権力争いの中で、武術を磨いた。それは持ち歩きやすく、いざとなれば靴にも仕込める武器——短剣を用いた暗殺術だ。今プリムロゼに受け継がれているのは、相手の懐に飛び込んで急所を刺す技である。
 こんな時こそ初心に返って冷静になるべきだ。プリムロゼは素早く相手を観察した。ルフスは非常に体格が良く、武器を持っていなかった。そこから導き出される答えは一つ。武器を使う必要がないほど肉体を鍛え上げている、ということだ。
 ルフスの入れ墨をした左手がぐんと伸びて、プリムロゼに掴みかからんとする。踊りのステップを駆使して避けた。この攻撃を一度でもまともに受ければ大ダメージは必至だろう。本来ならば距離をとるべき相手だが、彼女の武器はリーチの短い短剣一本だ。補助として闇の魔法を操ろうにも、詠唱している時間があるかどうか。
 左右から次々に襲いかかる腕を、まずは様子見とばかりに避け続けた。
(まさかこんな時に踊りが役に立つなんてね)
 生きるための手段であった踊りによって仇の攻撃を回避する状況に、皮肉な気分になった。それでも公演や旅の間に鍛えた体力は自信の裏打ちとなって、プリムロゼを支えてくれる。
 相手の動きに慣れるに従って、少しずつ疲労がたまっていく。一度バックステップで距離を取り、息をついた。
「本当に君は父親にそっくりだな」
 ルフスはかつて父と交戦している。おそらく、エゼルアート家に伝わる短剣を駆使した戦法も見抜かれているのだろう。
「ふふ、褒めてくれてありがとう」
 しかし、プリムロゼには父とは違って十年分の踊子の経験があった。
 再び地を蹴る。真正面から襲ってくる左腕をかがんでかわしたが、今度は連続攻撃がしたたかに肩に当たる。全身に強い衝撃が走った。
「何っ!?」
 それでもプリムロゼは倒れなかった。うろたえて隙が生じたルフスの懐に向かって、大きく踏み込む。
 彼女は相手に悟られぬよう、回避の動作に特殊な踊りを交ぜていた。それは土竜の舞——体のまわりに見えない障壁を発生させる技だ。だからルフスの攻撃を受け流すことができた。
「これで終わりよ……っ!」
 今度は雄々しい獅子を思わせる舞を宙に描く。己の体に刻んだまじないによって体の奥底から力が湧いてきた。
 踊りを基礎とした予測のできない動きでルフスに迫る。次の瞬間、短剣は深々と相手の心臓に突き立っていた。
 プリムロゼは一瞬息を止めた。反撃を警戒し、すぐに柄から手を離して飛び退く。
「どうかね? 積年の恨みを晴らした気分は……」
 ルフスはだらりと腕を垂らし、膝を折る。再び攻撃に転じる様子はなかった。
「まだ終わっていないわ」
 そう、あと二人。彼らを見つけ出してこの短剣で貫くまで、プリムロゼの復讐は続く。
 虫の息のルフスは不敵に笑いながら告げる。
「その通りだ……まだ終わっていない。君の故郷ノーブルコートの町に、行け……。真実が……ある」
 知る覚悟があるなら、な。
 なんとも不吉な言葉だった。ただの負け惜しみとは思えない。
(まさか、ノーブルコートにもカラスがいるのかしら)
 ルフスは地面に崩れてぴくりとも動かなくなった。プリムロゼはその胸に突き刺さった短剣を引き抜く。思ったよりも血は出ないのだな、と他人事のように考えた。
 ぼんやりと顔を上げれば、そこに同行者の二人が立っていた。
「……やったのか?」
「ええ」
 オルベリクの問いかけにうなずきを返す。彼らが相手をしていた手下の三人は全員地に伏せ、気絶しているようだった。
 仇討ちの達成によって湧き上がるはずの熱気はどこへ行ってしまったのだろう。静かにこちらを見つめる二人の前で、プリムロゼは唇を結んだまま何も言えなくなる。
(二人とも、やっぱり追いかけてきたのね。復讐のことも私の家のことも、もう知っているんだわ)
 それなのに、どうして手助けしてくれたのだろう。尋ねたくとも、答えを聞くのが無性に怖い。
 ハンイットがつかつかと歩み寄ってきた。無造作に手を伸ばされ、思わず肩が跳ねる。
「プリムロゼ、怪我をしているぞ」
「え?」
 指さされた二の腕を見れば、確かに青あざが残っていた。ルフスの腕がかすめた場所だ。舞の効果があっても無傷とはいかなかったらしい。似たような痕跡はあちこちにあった。
「まだ興奮しているのかしら。全然痛くないわ」
「ちゃんと治さないとアーフェンに怒られるぞ」
 オルベリクの発言に、文句を言いつつも無銭で薬を処方するであろう薬師を思い浮かべ、本当に久しぶりにプリムロゼは笑った。ほっとしたような空気が流れる。
 やっと気が緩んできて、プリムロゼは素直に尋ねた。
「ねえ二人とも、どうしてここに来たの」
「あなたが心配だったから」
 ハンイットの即答に、ぴくりと心臓が弾んだ。オルベリクに視線を向けると、彼は同意を示すようにまぶたを閉じる。
「……そう。迷惑かけちゃったわね」
「それを言うなら、芸人一座の落ち込みようもなかなかだったぞ」ハンイットが顔をしかめた。
「本当に?」
 たった数日の付き合いなのに、そこまで気にかけてくれるなんて。悪いことをした、という思いがあふれてくる。
 オルベリクが重々しく口を開く。
「互いに話さなければならんことはたくさんある。だが、それは後回しだ。プリムロゼも疲れただろう。村に帰って休むのが先だ」
 急激に全身から力が抜けていく。それは甘い毒のような言葉だった。弱い己に負けて身を任せたら、一生立ち上がれなくなってしまいそうだ。
「二人とも、その……ありがとう」
 だから、今はそれだけしか言えなかった。「これからも助けてほしい」だなんて都合のいい願いは、口に出せるはずがない。
 ハンイットはうつむいたプリムロゼの隣に並び、「どういたしまして」とやわらかく声をかける。
「では戻ろう」オルベリクはしんがりを守るように後ろに立った。魔物たちもどこか優しいまなざしを向けてくる。
 三人はそれぞれ疲れを引きずりながら、抜け道の出口に向かって歩き出した。
 あたたかい沈黙を破るように、プリムロゼはわざと明るく隣に話しかける。
「それにしても、よくこの場所が分かったわね。館の位置は隠されていて、馬車に乗らないとたどり着けないって聞いたんだけど」
「サイラスが探り当てたんだ。何故特定できたのかは、話してくれなかったが」
 ハンイットの答えを聞いたプリムロゼは、開いた唇がかさかさに乾いていることに気づいた。
 やはり、あの男が裏で糸を引いていたのか。
 心のどこかで分かっていた事実を突きつけられ、プリムロゼは足元を強烈に照らし上げる太陽の存在を思い出した。
 彼女の意識は遠い過去の草原へと誘われた。

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