涙を遠い草原に



 復讐という名の希望を見つけたプリムロゼは、迷わずエゼルアートの屋敷を飛び出した。
 レブロー男爵は父親を殺した相手について精力的に情報を集めていたが、成果ははかばかしくなかった。だからプリムロゼは町を出て、別方面から探ってみようと考えた。
 何よりも、これ以上ノーブルコートにいることは耐えられない。楽しい思い出もたくさんあったはずなのに、すべて父の死によって黒く塗りつぶされてしまったようだった。シメオンのことだけは最後まで心残りだったが、彼にだけはこの道を選んだことを絶対に知られたくなかった。
 大きな月が照らしあげる夜、短剣だけを携えて平原を走り抜ける。しかし、このままでは魔物に見つかりあっという間に殺されるだろう。奇妙に冷えた頭でそれを承知していた彼女は、前から目星をつけていた場所に駆け込んだ。
 ノーブルコートからほど近い、碩学王アレファンを祀る祠だ。幾度か父親に連れてこられたことがあった。
 アレファンは十二神の長子であり、太陽と知性を司る神だ。紋章は書物をかたどったもので、学者の守護神として伝わる。なので昼間は学者の参拝客も多い。
 神の加護を受けた祠であれば、魔物の心配をする必要はないだろう。ここで少しだけ休み、明け方になる前に出発しようと考えた。
 祠の中には階段があり、最上部の祭壇に碩学王の紋章が掲げられている。プリムロゼは階段の下の冷たい床に体を横たえた。
 ……まぶたに朝日が差し込む。おもむろに目を開けた。
「おや、起こしてしまったかな」
 光とともに穏やかな声が降り注ぐ。寝転がるプリムロゼの眼前に、黒髪の青年がかがみこんでいた。柔和に細められた青空のような瞳が、目覚めたばかりの視界に眩しく映る。
「学者……さん?」
 彼は真っ黒いローブを肩にかけていた。ノーブルコートの町で、似たような服装の者を見たことがある。
 ぼんやりしていた頭がだんだん澄み渡ってくる。プリムロゼは跳ね起きた。入り口に差し込む光の角度からして、ずいぶん日が高く昇っている。もう彼女の失踪が知れ渡っている頃だろうか。もしレブロー男爵らがここを探しに来たら——まずい。
 青くなるプリムロゼに、その青年はにこりと笑いかけた。
「よく分かったね。キミはノーブルコートから来たのかな」
「あ、あの、えっと」
 次に予想される質問は「どうして一人でこんな場所に?」だ。このままでは家に連れ戻されてしまう。うろたえた彼女は、しきりに意味のない言葉を漏らした。
「まあ落ち着いて。硬い地面で眠って全身が痛いだろう、ゆっくり体を伸ばすといい」
 温和な声に促され、そっと深呼吸した。徐々に気が静まる。
 その青年は一切事情を聞き出すことなくプリムロゼの横に座った。どうやら迷子扱いはされないらしい、とひとまず安心する。
 しかし相手はここから動く気がないようだった。早く出発しなければ。だが一人で行かせてもらえるだろうか。それこそ「どうして」と決定的な疑問が浴びせられそうだ。
 一計を案じたプリムロゼは、あえてこちらから質問することにした。
「学者さんなら、教えてほしいことがあるの」
 何でもどうぞと言わんばかりに青年の視線がやわらぐ。彼女は思いきって口を開いた。
「一人で生きて行くにはどうしたらいいの?」
「それは……」
 彼は思案顔で口元に手をやった。
 碩学王の祠に突然現れた学者の青年——都合のいいことに、こちらの事情には踏み込んでこない——なんて、ちょっと話が出来すぎている。おまけに相手は異様に顔立ちが整っており、プリムロゼはほとんど彼を生身の人間として認識していなかった。だから、こうして突拍子もないことを問いかけたのかもしれない。
「自分にふわさしい生業を見つける方法を知りたい、ということかな」学者は茶化したり説得したりせず、ただ真摯に質問に向き合う。「それはきっと、私が学者になった理由ともつながるだろうね」
「どういうこと?」
「簡単だよ。キミの好きなことを生業にすればいい」
 祠にうっすら差し込む光を反射して、その瞳は抜けるような青色に輝く。碩学王の恵みを一身に受け、学者は涼やかな声によりプリムロゼに道を示した。
「私は学問が好きだから学者になったんだ。キミは何か好きなことはないのかな?」
 言葉とともに手のひらが差し出される。
 プリムロゼの全身を音のない衝撃が走り抜けた。
 好きなことを生業にするなんて、考えたこともなかった。エゼルアート家に生まれたからには当主の座を継ぐのだとばかり思い込んでいた。
 ——ねえお父様。見てください! 私、こんなステップが踏めるようになったんです。
 プリムロゼは厳しい修行の合間にこっそり練習した踊りを、たびたび父親に見せた。父親は困ったような顔をして、それでも彼女のささやかな趣味を祝福してくれた。
 復讐という手段は、世の理から外れた道のはずだった。でもそれを選んだからこそ、本当にプリムロゼが好きなことに取り組める可能性があるのだとしたら……?
「良かった」などと言って片付けられる問題ではない。様々な要因が重なった結果、たまたまそちらに道がつながっただけだ。
 それでも、プリムロゼは胸に陽光が差し込むような気持ちになった。それは復讐を志した時に見つけた暗中の光ではなく、きっと何年も前から知っていた、彼女の行く先をあたたかく照らすもの。
 荒涼とした心の平原には、復讐の道に走ることを決めた翌朝とは思えないほど爽やかな風が吹いていた。
「私の好きなことは——」
 プリムロゼがおそるおそる手を伸ばし、小さな唇を動かして答えを導こうとした瞬間。
「ずいぶん時間がかかっているじゃないか」
 ざっくばらんな物言いが、張りのある女声とともに発せられる。死角になって見えないけれど、祠の入り口に誰かいる。
「おや、オデット先輩だ」
 青年が腰を浮かせた。反対にプリムロゼは身をこわばらせる。
 オデット。彼女は何年も前にノーブルコートを出たはずだ。父親が亡くなってからは一度も顔を見ていない。そんな彼女が、何故ここに?
 プリムロゼは怯えた目を青年に向ける。彼は唇にそっと人差し指をたてた。ローブを翻して入り口に向かい、そこにいるであろうオデットに話しかける。
「すまないね、長居してしまって」
「いくら碩学王の祠だからって熱心すぎやしないかい」
「ふふ、大切なことだろう? それに先輩の分も祈っていたんだよ」
「あのねえ、わたしが学院を出るって時にのんきすぎるだろう」
「大事な門出じゃないか。盛大に祝わないと」
 歯切れよいやりとりを交わす二人の声が徐々に遠ざかっていく。
 十分に時間が経った頃を見計らって、プリムロゼはそろりそろりと光の下に出た。
 涙を捨てた一人の女の前に、朝露に濡れた平原が広がっていた。



「ついたぞ」
 魔物の引くそりに乗せられたプリムロゼは、去りゆく黒曜館を眺めながらいつの間にか眠っていたらしい。ハンイットの声に起こされた時、あたりはまだ真っ暗だった。濃闇の中にぽつぽつと明かりが灯っている。スティルスノウの村に戻ってきたのだ。
 不思議な感慨がこみ上げる。昼間、オランという御者の操る馬車で村を出発した時は、「ここにはもう戻らないかもしれない」と覚悟を決めていた。仇討ちを仕損じれば命はなく、もし成功してもアリアナに報告せずこの地を去る可能性は高かった。
 しかし、プリムロゼはこうして二人の同行者とともにスティルスノウへ帰ってきた。
 三人はアリアナの家に向かう。窓越しにそりを見つけたのだろう、家主はすぐに扉を開けた。
「プリムロゼ様!」
 飛び込んできた痩せぎすの体を無言でぎゅうと抱きしめる。人肌のぬくもりに疲労が溶けていくようだった。
(やっぱり心配かけちゃったわね)
 一人で家に残され不安になったアリアナは、体調を崩しているにもかかわらず、プリムロゼを助けるためにハンイットたちをよこしたのだろう。
 今なお忠義を捧げる元使用人は、プリムロゼの腕に巻かれた包帯に目を留め、
「お怪我をされたのですか……」と眉を下げる。
「手当てはしたわ、大丈夫。それよりもアリアナ」
 仇は討ったわ。
 短く言い切ると、アリアナの両目にじわりと雫が浮かぶ。それはずいぶん前にプリムロゼが捨て去ったものだった。
「ごめんなさいプリムロゼ様。私、みなさんに何もかも話してしまったんです」
「いいのよ。みんなが助けてくれなかったら、私も仇は討てなかったから」
「支配人が死に、私は自由になれます。本当に感謝いたします……」
 まだ仇は二人残っている。アリアナはそれに気づいているだろうか。少なくとも、今のタイミングでは言いたくない。プリムロゼは体を離し、アリアナを慰めるように肩をぽんと叩いた。
 オルベリクが静かに横に並んだ。
「プリムロゼ、宿はとってある。もう休むぞ」
「そうね……あら、そういえばサイラスはどうしたのかしら?」
 あまりに疲れていて気づくのが遅れたが、あの学者はそりに乗っていなかった。
「事後処理があるからと聖火騎士とともに館に残っている。そのうち戻ってくるだろう」
「ふうん」
 ハンイットはそりから魔物を解放し、何ごとか語りかけてから雪原に逃していた。
「アリアナもゆっくり寝てね」それじゃまた明日、と別れを告げる。
 そのまま宿に向かおうとするプリムロゼに、「待ってください」と声がかかる。
「プリムロゼ様は、何を信じるのですか」
 その問いかけに腰の短剣をそっと押さえた。何を信じて生きるのか——復讐を志したあの日から何度も自分に問いかけてきた。
「父の無念を晴らすことが私の生きる意味……信じるものなのよ」
 アリアナの返事はなかった。
 宿はそれぞれ一人部屋を用意してもらっていた。渡された鍵でドアを開けると、ひとりきりになる。体は重く疲れているのに、プリムロゼはしわひとつなくシーツが敷かれたベッドをそのままにして、まんじりともせずに夜を過ごした。
 やがて朝日が上ってくる。髪をまとめ直して、静かに宿を出た。
 清涼な空気を肺いっぱいに吸い込み、村を抜けて少しばかり歩く。雪原の中にかがり火が見えた。そこには洞窟がある。
 入り口に積もった雪に足跡がついていることを承知しながら、プリムロゼはあえて中に踏み込んだ。
 洞窟は静謐な気配に満ちている。神官帽の象徴であらわされる聖火神エルフリックの祠だ。
 プリムロゼもよく知る碩学王の祠と似たようなつくりになっていた。階段を上った先に祭壇があり、象徴が飾られている。
 祭壇では、一人の男がひざまずいていた。まとった純白のケープはきらきらと朝日を浴びて、見る者に鮮烈な印象を残した。
 彼は祈りを終えると肩からケープを外し、小脇に抱えて階段を降りてくる。
「サイラス」
 階段の下で待っていたプリムロゼの呼びかけにも、彼は片眉を上げただけだった。
「プリムロゼ君、おはよう」
「……おはよう」
 もっと他に交わすべき言葉があるはずだった。しかしプリムロゼはとっさにその返事しか思いつかなかった。
 サイラスは思慮深いブルーの瞳を数度瞬かせた。
「まだずいぶん早い時間だよ。大仕事で疲れているだろう、眠った方が良いのではないかな。かく言う私もそろそろ限界がきそうで——」
「式年奉火の神官を騙って黒曜館にやってきたのは、あなただったのね」
 答えには少し間があった。
 この推測が否定されることはないだろう。何よりも、神官服と見紛うばかりの白いケープが正解を物語っている。
「ああ。聖火騎士に頼んで服を用意してもらったんだ。みんなには似合わないだの詐欺だのと、散々言われてしまったが」
 サイラスは困ったように笑った。まったく、そのような大胆すぎる行為をよくも聖火騎士が許可したものだ。オフィーリアだってこれを知ればどう思うことか——「サイラスさんの考えですから」とあっさり承諾しそうな気もするが。
「わざわざ聖火の運び手のふりをしたのは、聖火騎士の不足を補うためかしら?」
「そうだね。明らかにこちらは数で劣っていたから、正面から黒曜館に対応する方にはあまり人数を割けない。聖火の運び手が来たと名乗れば、それなりに効果があるだろうと思ってね。青い炎はなんとか自前で用意したよ」
 たまたま村に発明家がいて助かったよ、炎の温度を保ったまま運べる特殊なランタンをすぐにつくってもらえてね、ほら炎は温度を上げると青くなるものだから——と、火の消えたランタンを見せながらくどくど説明する。
 プリムロゼは腕を組み、片足に体重を乗せて軽くポーズをとった。
「そうやって支配人や顧客を抜け道に誘導して、出口に網を張ったのね。抜け道の場所はどうやって調べたの」
「アリアナさんから聞き取りをしてつくった館の見取り図と、付近の地形図を照らし合わせて見当をつけたんだ。具体的には——」
「もういいわ」
 長話に発展しそうだったのでぴしゃりと遮り、重ねて尋ねる。
「ねえ、どうして私が支配人を追いかけてくると分かったの?」
「それは不確定要素だった。キミが支配人を追う可能性は高かったが、確証があったわけではない。……キミの目的が果たされるかどうかは、キミの問題だから」
 サイラスたちは復讐を手伝ったわけではなく、プリムロゼの安全を確保しにきただけだ。それは復讐者に対する適切な距離の取り方だった。
「ありがとう、と言っていいのか分からないけれど、とにかく助かったわ」
 あの二人には素直に感謝できたのに、どうもこの男に対しては警戒が先に立ってしまう。プリムロゼは少しこわばった笑みをつくる。
「それは良かったよ」
「じゃ、私は宿に戻るわね」
 さっときびすを返した彼女を、涼しい声が引き止めた。
「ノーブルコートに行くのは後回しにしてくれないか」
 踊るような足取りがぴたりと止まった。彼女は首だけ回して振り返る。
「……どういうことかしら?」
「キミはスティルスノウに戻らず、その足で次の目的地を目指そうとしているのだろう」
 青い視線が矢のように飛んでまっすぐにプリムロゼを貫いた。
(ああもう、本当に嫌になるわね)
 この学者の前では隠しごとなどできない。何から何まで暴かれてしまう。
 聖火神の祠など寄るべきではなかった。それなのに彼女がここに来てしまったのは、心の奥底ではサイラスに止めてほしいと願っていたからだろうか。
 サイラスは靴音を響かせて歩み寄り、プリムロゼを追い立てる。
「今回キミは多くの人の助けを借りた。オルベリクもハンイット君も、自分の目的を後回しにしてキミに協力してくれたんだ。ならば、まずはその借りを返すべきではないかな」
「……それも、そうね」
 サイラスの言うとおりだった。少なくとも彼らの恩に報いなくてはならない。でなければ、今後無事に復讐を成し遂げたとしても、胸を張って父親に報告することができない。
 そうと分かっていても嘆息するしかなかった。
(この人にだけは踏み込まれたくなかったのに)
 あの赤い果実の村で出会った時は気づかなかったけれど、サイラスはプリムロゼがノーブルコートを飛び出したあの日、碩学王の祠で遭遇した若き学者だった。プリムロゼが進むべき方向を決定づけてしまった人。自分だって彼女を助けるために尽力したのに、決して「自分の旅を手伝え」とは言ってくれない人。相手の事情に踏み込むくせに、絶対に自分の懐には入れてくれない人。
 サイラスが真正面にやってきた。
「良かった。ここでキミを行かせてしまったら、オルベリクたちに申し訳が立たないところだったよ」
 普段は散々探りを入れるのに、今はこちらの内心に気づきもしない。彼はあの日と同じように屈託なく笑う。
「ふふ。私はあの盗賊さんと違って素直だから」つい嫌味を言ってみたくなった。
 何故急にその名が、とサイラスは目を丸くした。少しだけ考えるそぶりをしてから、
「ああそうだ、芸人一座の給金は座長殿に預けておいたよ。キミが自分で受け取りに行くから、と言ってね」
「迷惑料ってことで預けたままでもいいけど……」プリムロゼはその場で軽くターンを決めた。「また一踊りしてあげようかしら」
 そのまま腰をかがめて、下から学者を覗き込む。プリムロゼが自覚する、己がとりわけ魅力的に映る角度だった。
「あのね……私、踊子になったのよ」
 この瞬間、彼女の過去は二つの祠を介して草原から雪原へとつながった。
「キミの好きなことは踊りだったんだね」
 青空の瞳がにこりと細められる。やはり彼は正しく言葉を返してくれた。
「今度踊る時はちゃんと見に来てね。お願いよ」
「もちろん。贈り物を準備して行くよ」
 さながら蜜月のようなやりとりを交わしているのに、きっとサイラスには何も伝わっていないのだろう。
 復讐の旅の途上で抱いた思い——踊子の道へ導いてくれた彼に対する感謝とも呼べるもの——は決して本人には届かないだろうし、届けるつもりもない。
 プリムロゼはからりと笑い、いつかの彼がそうしてくれたように手を差し伸べた。
「サイラス。改めて、私を旅の仲間に入れてくれるかしら」
「ああ、喜んで!」
 二人はかたく手を握り合った。

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