Let Me Know the Truth



「そうか、俺たちのいない間にそんなことが……」
 イヴォンの生家で起こった事件を知り、別行動していたオルベリクら四人は一様に苦い顔になった。
 テリオンたちはストーンガードの町人から好奇の視線を浴びながら宿屋に戻った。すでに四人は宿で待っていて、テリオンたちの疲弊した様子に驚いた。
 一番重傷の学者は部屋で眠り、神官が看病をしている。教え子は別室で薬屋の診察を受けていて、比較的元気なハンイットは「やることがある」とどこかに引っ込んでしまった。
 他の者たちは、混雑する時間を外れて閑散とした食堂に集まった。テリオンはこのややこしい事情と顛末を、一人で全部説明する羽目になった。
「尾行に気づいていながら、こうなるとはな」
 オルベリクは頭痛を感じたように額に手をやる。
「あの秘書の人、あたしたちを森に案内したらいきなりいなくなったの。その時にはもう研究員たちに囲まれてて、とても町には戻れなかったわ」
 トレサが悔しげに唇を噛んだ。森の中には幾人もの伏兵がいて、彼女たちに襲いかかってきたらしい。
「でもあいつら、ちょっとやり方がぬるかったわね」
 踊子が口をとがらせる。その眉間には深いしわが刻まれていた。
「そうそう、こっちより数が多かったのに普通に倒せちゃったし。なんでかなって思ってたけど、あたしたちをサイラス先生から引き離すことが目的だったのね」
 手ぬるいという印象はテリオンも抱いていた。イヴォンは、最終的に学者を地下に誘い込んで石の力で排除するつもりだったのだろう。しかし、彼を始末するタイミングならいくらでもあった。そうしなかったのは、もしやあの秘書がイヴォンを誘導したからではないか。想像の域を出ない話だが、そんな気がした。
 結局、秘書の行方は杳として知れない。イヴォンの「騙されていた」という話が本当なら、彼女こそが黒幕であった可能性がある。
 このくらいのことはテリオンですら思い当たるのだから、学者本人はとうの昔に気づいているはずだ。今頃は夢の中だろうが。
「その研究員たちはどうしたんだ?」というテリオンの問いに、
「捕まえて衛兵に引き渡した。どうも、やつらは以前から勝手に森に立ち入り荒らしていたそうだ。だが、何が目的だったのかはまだ分からん」
 オルベリクが力なくかぶりを振った。
 それきり沈黙が降りる。四人はそれぞれ行き場のない気持ちを消化しようとつとめた。
「テリオン、いるか」
 不意にハンイットが食堂に顔を見せた。くつろいだ格好に着替えた彼女は、テリオンたちと違ってなんだか軽い雰囲気をまとっている。異形との戦闘による疲労もまるで引きずっていない様子だった。
「オフィーリアを呼んできてくれないか。もうすぐ晩ごはんができると伝えてほしい」
 何故俺が、と口を挟む暇すらない。「これを持っていくといい」とハンイットは皿を渡す。その上には切ったリンゴがいくつか載っていた。
「なんだこれは」
「看病で疲れているだろうから、少し甘い物を食べるといいと思ってな。サイラスはまだ寝かせておこう。ああ、ついでにアーフェンとテレーズさんの方も頼む」
 一息に喋ってから、ハンイットは再び食堂を出ていく。その方向は厨房だ。なんだかいい香りが流れてくる。
「ねえ、もしかしてハンイットさん……」
 トレサがびっくりしたように口に手をあてた。テリオンも同じことに思い当たり、呆れてしまう。
(あいつ、こんな時に夕飯をつくっていたのか?)



 仕方なしに宿の一室を訪れる。そこでは、ベッドに横たわる学者を、神官がそばの椅子から見守っていた。プラチナブロンドの髪がうつむく顔の横に垂れて、表情を隠している。
「わたしがサイラスさんにかけた魔法は、どんな痛みにも耐えられるようになるものなんです」
 テリオンが何か言う前に、神官が口を開いた。
「ぎりぎりの戦いを耐え抜くための神官の秘術です。以前、サイラスさんに『こういうものがある』と話したことがありました。覚えていたんですね……」
 神官は顔を上げて歪んだほほえみを見せる。促されて、テリオンも別の椅子に座った。
「ですが、いくら耐えられても、痛いものは痛いんです。魔法の効力が切れたら、こうなってしまうのは当然ですよね」
 穏やかな語調とは裏腹に、彼女は痛切な後悔をにじませていた。
 たとえこの先どれだけ過酷な旅路が待っていても、死ぬ寸前まで耐える力など必要になってたまるものか、とテリオンは思う。
 おそらく、学者は己の命を狙う相手への対抗策として、あの魔法を採用したのだろう。旅に出るまでろくに戦ったことなどなかっただろうに、彼はあっさりこういう判断ができる。素人のせいか妙に思い切りが良い。さらに、彼は痛みに慣れている——というより痛覚がやや鈍い。たとえ毒を受けても「あれ?」と首をかしげるだけという自覚の薄さで、「体調不良ならちゃんと教えてくれよ」と薬屋によくたしなめられていた。
 神官は両手で顔を覆った。
「サイラスさんはわたしの旅に付き添ってくださっているのに、こんな目に遭わせてしまうなんて……」
 学者には学者の目的がある。神官も知らないその事情を、テリオンだけが把握していた。だが、こればかりは本人が告げるべきだろう。
 代わりにテリオンは首を振った。
「あんたが気にすることじゃない」
「でも、気にしてしまいますよ」
 神官は手をおろし、少しだけ笑った。
「サイラスさんには、学院の方に命を狙われるような事情があったのでしょう。それをわたしたちに言わなかったのは、この人がそうすべきだと判断したからです。わたしたちを信用していないからでは、決してありません」
 神官はきっぱりと言い切る。茶色の瞳が朝焼けを思わせる光を放った。
「でも……わたしがそれを寂しいと思ってしまうことは、どうしようもありませんね」
 彼女は何かをこらえるようにぱちぱち瞬きしていた。テリオンはその様子を直視できず、持っていた皿を差し出した。
「食べないのか」
「いただきます」
 ハンイットが切ったリンゴにはいくつか楊枝がさしてある。神官に続いてテリオンもひとつほおばった。水っぽい甘さが口に広がる。
 そういえば、穴の底では学者にリンゴの受け取りを拒否された。積極的に他人に施すくせに、当人は一向に何も受け取らないのだった。
 テリオンは眠る学者を見下ろす。穏やかな寝顔だった。待てど暮らせどまぶたは開かない。文句を言うにも目覚めてくれないことには不可能なのだと、今初めて気がついた。



 宿の食堂に学者を除いた全員が集まった。旅の連れの七人に加えて、教え子テレーズも卓につく。
 ハンイットが厨房を借りてつくったのは、昼間狩った山羊の肉をメインにした煮込み料理だ。いい香りのするスープが深皿から湯気を立てている。
 料理のあたたかさに反して食卓の雰囲気は重い。あの食欲の権化たるトレサすら、遠慮してなかなか皿に手を伸ばさないほどだ。
 そんな空気の中、料理を準備したハンイットだけがいつもどおりだった。
「サイラスにはあとで一皿持っていってやろう。冷めてもあたため直せばいいからな」
「あ、あの、ハンイットさん……?」
 神官がおそるおそる声をかける。ハンイットは背筋を伸ばしたまま、
「とにかく今は食べるぞ。あの人が起きないと反省もできない。心配ごとがあっても、よく食べてよく眠れば解決する、と教えてくれたのはトレサだろう?」
 大真面目な返事に、話を振られた本人は言葉に詰まる。
「そ、そうよね……いただきます!」
 トレサは率先して食器を手にとった。彼女に続き、またはハンイットの勢いに押されて、皆がばらばらと皿に手を出す。
「あ、おいしいです」
 さじを口に含み、教え子が目を丸くした。食べたことのない味だったのだろう。アトラスダムの上品な食事処では味わえないメニューだ。「それは良かった」とハンイットが満足げに言う。
「テレーズさん、お体の調子は?」オフィーリアが尋ねると、
「万全ではないですが、一日二日休めば大丈夫とアーフェンさんに言われました」
「ちゃんと休んだ場合の話だからな、あんまし無理すんなよ。何かあったらすぐ教えてくれよな」
「はいっ」
 薬屋の忠言に、教え子は大きくうなずいた。彼女はつとめて笑顔を見せていたが、やはり先生が心配らしく、山羊肉をほおばりながら時折顔をしかめていた。
 ほどほどに食事が進んだ頃合いになって、ばたんと食堂のドアが開いた。
「遅くなってすまない。みんなには迷惑をかけてしまったね」
 今回の事件の中心人物だった。白っぽい顔をした学者は、声色だけはいつも通りにあっけらかんとしていた。
「サイラス先生!」
 すぐに教え子が駆け寄る。
「テレーズ君……心配をかけたね」
 学者が先に謝ったので、彼女はそれ以上何も言えなくなる。
「もう平気なのか」ハンイットが横目で尋ねた。
「なんともない……と言いたいところだが、そうもいかないよ。まあ後遺症は残らないだろう」
 学者は笑顔で言い放つ。テリオンがちらりと薬屋を見やると、彼は渋面をつくっていた。
 オルベリクが立ち上がって学者のそばに行き、頭を下げた。
「すまなかったサイラス、俺が尾行に気づいていながら……」
「いや、今回の件は私のミスだよ。気にしないでくれ、オルベリク」
 神官が、薬屋が、商人が声をかけたそうにうずうずしている。そのまま延々と話が続きそうになった時、ハンイットが空いた椅子を示した。
「まあ、あなたも座れ。腹が減っただろう」
「これは昼間の山羊か。キミが料理を?」
「そうだ」
 学者はありがとう、とほほえむ。その和やかな雰囲気にごまかされず、ハンイットは彼に探るような視線を浴びせた。
 席について、学者はおもむろに口を開く。
「きっとみんなも気になっていることだろう。今更になってしまったが、私の旅の目的を話そうと思う。テレーズ君も一緒に聞いてくれないか」
「は、はい」
 教え子が緊張しながら首肯する。ふっと表情を緩めた学者は、穴の底でテリオンに打ち明けた話を繰り返した。
 皆が驚き、息を呑む。
「オデットさんが心配するわけね……」
 話を聞いた踊子は唇を歪ませた。事情の一部を知っていたのに何もできなかった、と考えているのだろう。誰もが押し黙り、じっくり話を咀嚼していた。
 教え子がそっと顔を上げた。
「サイラス先生。このことは、もちろんメアリー殿下もご存知ですよね」
「そうだよ」
 殿下という敬称からしてウォルド王国の王女だろう。学者の話にあった依頼側の人物だ。
「わたしはずっと、先生は調査の旅に出たとばかり思っていました。それに、ルシアさんの演技にすっかり騙されてしまって……わたしは先生に迷惑ばかりかけていますね」
 教え子は食器を置いてうなだれる。なんとも湿っぽい食卓だった。ハンイットを除く全員の手が止まっている。
「そんなことはないさ。騙されたということなら、ルシアさんの真意を見抜けなかった私に一番の責任があるだろう。キミが来てくれて、本当に助かったよ」
 学者はやわらかい笑みを見せる。教え子は彼の名をつぶやき、瞳に涙をためた。
 テリオンは唐突に理解した。彼女はきっと、学者に対して特別な感情を抱いているのだろう。先生のために教え子がとった行動は、ただの生徒にしては思い切ったものばかりだった。だが、この学者相手に慕情を抱くなど、その時点で負けではないかと考えてしまう。
「そうだ、これはテレーズ君に返すよ」
 学者は懐から護符を取り出した。「あ……はい」と教え子が少し残念そうに受け取る。
 彼はあれをエレメントブースターと呼んでいた。確か魔力を増幅させる代物だと聞いたことがある。実物は初めて見た。返してしまうのは少しもったいない気がする。
 一通り会話が落ち着き、学者はテーブルの上で細い指を組み合わせる。彼の皿はほとんど手がつけられていない。
 次の瞬間、彼の薄い唇から、驚くべき提案が飛び出した。
「私はウォルド国王に今回の件を報告し、今後の対応を協議しなければならない。だから、テレーズ君を連れて一度アトラスダムに戻ろうと思う」
「えっ!?」
 トレサが素っ頓狂な声を上げた。テリオンは惰性で動かしていた手を止める。皆が顔を見合わせた。
(こいつが……いなくなるのか?)
 心臓の鼓動が早まる。何故これほど動揺しているのか、自分でも分からなかった。
「旅をやめるということですか……?」オフィーリアが眉を下げながら問う。
「いいや。キミの旅に付き添うことも重要な責務だ。何よりも、私はまだ辺獄の書を見つけていない。良ければ手紙で連絡をとりあって、またどこかで合流させてもらえると嬉しいな」
「それは構わんが……」
 オルベリクが言葉を濁し、意見を求めるように他の者たちを見やる。
 学者の青いまなざしがまっすぐにテリオンをとらえた。
「テリオン君、どうだろう」
 何故か皆の視線がこちらに集まる。とにかく返事をしようと口を開いた、その瞬間。ずっと黙っていたハンイットが、椅子を蹴って立ち上がった。
「サイラス」
 低く唸るような声だった。その気迫に、学者がびくりと肩を揺らした。
「それからテリオン」
 今度はこちらに矛先が向く。
「あなたたちは、どうしていつもまともに話し合わないんだ」
 図星をさされて、テリオンは息を呑んだ。
 もうずっと前から、彼は学者と対話することをひたすら避け続けてきた。そもそも最初に出会った時、問答無用で氷を浴びせられたことだって未だに納得していないのだ。学者とは生まれも育ちも考え方も、何もかもが違う。二人の間にはあの取引きがあるだけで、それ以上踏み込みたいと思ったことなどない。
 なんで俺があんたたちの代表みたいな扱いを受けて、こいつと話し合わなくちゃいけないんだ。
「わたしたちを旅の仲間として集めたのは、あなたたち二人だろう。きちんと互いに顔を見て話せ!」
 いきなり目を吊り上げて怒り出した彼女を、皆が呆気にとられて眺めていた。ハンイットの燃え立つ緑の目が学者に向けられる。
「サイラス、あなたは隠しごとが多すぎる。別に全部話せとは言わないが、負担はみんなで分かち合ったほうがいい。現に、今回はあなたのミスでこうなったのだろう。こちらの持つ情報が限られていたら、協力するにも限界があるぞ」
 あの学者が反論できず、ただ拝聴している。ざまあみろと思っていたら、次はこちらが睨まれた。
「テリオンもそうだ。黙っていてもあなたの意図を汲み取れるのはサイラスだけだぞ。あまりサイラスに甘えるな」
(は……?)
 何を言われているのか分からず、テリオンはまばたきを繰り返す。
 視界の隅で薬屋が肩を震わせているのが見えた。「ハ、ハンイットさんそれは……」とトレサがとりなそうとするが、彼女も妙に緊張感のない表情をしていた。
(俺は怒られているんだが?)
 テリオンが憮然としていると、
「……と、いうわけで二人とも」
 ハンイットは学者につかつかと歩み寄る。右手で彼の首根っこを掴んだかと思うと、一気に椅子から引きずり下ろした。
「うわっ」
 情けない悲鳴が部屋に響く。あまりのことに、誰も動けない。学者は尻もちをついたまま放置された。
 次いで、彼女はこちらにやってきた。呆然と見上げるテリオンに手が伸ばされる。マフラーを掴まれ、彼は学者と同じくあっさり椅子から引き離された。
(う、嘘だろっ)
 足をふんばっても無駄だった。どれだけ力が強いのだ。
 ハンイットは「二人とも、立て」と命じる。とても逆らえる雰囲気ではない。ぎこちなく立ち上がった二人は彼女に先導され、食堂を出て廊下を歩く。
 二人は宿の一室——先ほどまで学者が寝ていた部屋に放り込まれた。
「ここでよく話し合うんだ。でないと夕飯は抜きだぞ」
 ハンイットは脅しをかけて、扉をぴしゃりと閉める。
 しばしテリオンは唖然として閉まった扉を見つめていた。何だったんだ、今のは。
「……テリオン君」
 隣から声がかかる。仕方なしに視線を合わせた。学者は乱れたシャツの襟を整えていた。やはり本調子でないらしく、顔色が悪い。穴の底のやりとりを思い出して、思わずうろたえてしまう。
「イヴォン学長の生家では、本当に助かったよ。キミがいなければあの穴から脱出することは不可能だった。私の怪我については気にしないでくれ、こうしてなんとかなったのだから。とにかく感謝しているよ」
 真正面から礼を言われた。何か返事をしなければならない。口を開きかけた彼はその時、雷に打たれたような衝撃とともに悟った。
 テリオンは、この学者に届けるべき言葉を何一つ持っていない。ずっと避けてきた対面の瞬間が訪れて、いつも心の中にあった悪態は離散した。その後に残るものは何もなかった。唇が動かない。
 彼が自分のせいで怪我をしたと知った時、どう思ったのか。イヴォンに狙われ傷ついた彼を見て、何を感じたのか。その気持ちはわざわざ相手に汲み取ってもらう必要はなく、最低限のことは言わなくても伝わるのだから、何も告げなくていい——そう考えて逃げ続けてきたせいで、いつしか自分の気持ちも伝えるべき言葉も見失っていた。
 それが、ハンイットの言う「甘えている」ということなのだろうか。
 長い沈黙の末、テリオンはどうにか口を開こうとする。それを、学者の言葉が遮った。
「キミは、イヴォン学長と戦った時に盗公子の奥義を使ったね」
 いきなり別方向の話題を差し込まれ、テリオンは混乱しながら考え込む。
(あれが奥義……?)
 あの時の記憶はどうも曖昧だった。学者が崩され焦っていたことは確かだ。とにかく場の流れを変えなければと思いながら短剣を握ると、自分の体に何かが降り、通り抜けていったようであった。
 テリオンはかぶりを振った。
「よく分からん。あんたがその後使った技は、なんだったんだ」
「あれはキミの真似をしたらできたんだ。碩学王アレファンの知識——魔法を収束させて威力を上げる奥義だろうね」
 土壇場でそう簡単に真似などできるものかと思ったが、テリオンだってよく分からないまま奥義を使ったのだから、うなずくしかなかった。
「これも盗公子の祠にお参りしたおかげかな。いいものを見せてくれて、ありがとう」
 朗らかな顔で感謝される。テリオンはその目をまともに見られなかった。
 学者は表情を改め、「ところで」と本題を切り出した。
「先ほどの私の提案だが——どうかな?」
 一度アトラスダムに帰る、という件だろう。テリオンは考えに考えて、質問を返した。
「どうして俺にいちいち許可を求めるんだ?」
 提案の是非よりもまず、そちらを知りたかった。学者は虚をつかれたように目を見張った。
「それは……今私がアトラスダムに戻れば、ウェルスプリングでキミの目的を手伝えなくなってしまうだろう」
 この学者は大真面目に例の取引きを果たそうとしているらしい。
 テリオンは肩の力を抜いた。どのみち、自分の一存で学者を引き止められるとは思えない。
「だったら——」彼は無茶振りをしてみる気になった。「その場にいなくても、俺の助けになれ。あんたならそのくらいできるだろ」
 学者は首をかしげた。
「難しい話だが……やってみよう」
 その提案がいい加減な方便であるにもかかわらず、彼は了承した。
 そもそも、テリオンは彼の旅路に口を挟む理由も権利もない。ハンイットがどういう認識をしているのかは分からないが、誰に何と言われようと、テリオンにとって学者はただの旅の連れなのだから。



 それから休養に一日挟み、ストーンガード滞在四日目の朝、テリオンたちは町を発つことになった。学者も教え子も、旅に耐えうる程度の体調を取り戻したと薬屋が請け負ったためだ。
 あの後、教え子は一気に調子を崩した。学者の無事を知り、張り詰めていたものが緩んだせいで、気力で持たせていた部分が決壊したらしい。やはり、あの一件は箱入り娘には刺激が強すぎたのだろう。むしろ一日で回復できたことが奇跡だった。
 学者は半日寝てから起き上がって、数人の「助手」を引き連れイヴォンの生家を調査した。そこに辺獄の書はなかった。おそらく秘書が持ち去ったのだろう。学者は何も言わなかったが、そう考えているに違いなかった。
 衛兵に引き渡した研究員たちは未だ何も吐いていない。これからじっくり取り調べが行われるはずだ。ただし、彼らが森ではたらいていた悪行は、ある程度判明していた。動物を罠にかけてとらえていたらしい。人の血でなく、動物の血で結晶をつくろうとしていたのだろうか。その罠のせいで町に住む狩人が怪我をするという事件も発生していたという。それを知ったハンイットは「わたしがもっと前に気づいていれば……」と悔やんでいる様子だった。
 教え子を加えた九人が、町の入口に立つ。そこにはいつかのクオリークレストのように見送りが来ていた。ハンイットはナタリアという知り合いと言葉をかわし、学者は見知らぬ初老の男性と顔を合わせていた。
「本当にすまなかった。あの写本に関わったばかりに、あんたに怪我をさせてしまうとは……」
 男性は学者に向かって頭を低くする。話の内容からして、彼が翻訳者ドミニクのようだ。学者は首を振った。
「いや、今回の怪我は私の油断が原因だ。気にしないでくれ」
 翻訳者は小さくうなずいて、
「あの本の悪用を、どうか防いでほしい」
「ああ、必ず」
 二人は短く約束を交わす。それから翻訳者はやや表情を緩めた。
「そういえば、あんたのおかげで新しく助手ができたよ」
「ほう? それはどういう意味かな」
 ドミニクは何故か神官に向かって目配せした。
「残念だが、あんたには教えないでくれと言われた」
 首をひねる学者の横で、神官がくすりと笑う。
「良かったですね、ドミニクさん。『彼』にもよろしくお伝え下さい」
 そのやりとりの意味はテリオンにも分からなかった。
 一方、ハンイットは知り合いの女性に手を振った。
「また会おう、ナタリアさん」
「ええ、あなたとザンターさんの帰りを待っているわ」
 知り合いに見送られて、九人は石の階段を降りていく。今度ばかりは尾行者もいない。オルベリクが注意深く確認したから間違いないだろう。
 岩肌を削った道を少し歩くと、北ストーンガード山道の四つ辻に来た。ここで行き先はコブルストン方面、ウェルスプリング方面、エバーホルド方面へと分かれる。
 学者と教え子が輪から外れ、北へと続く道に出た。さらに続けて商人と薬屋が並ぶ。
「それじゃあまたね、みんな!」
「アトラスダムか、行くの初めてだから楽しみだな〜」
 学者が一時的に旅を抜けると決まった後、トレサは「いい機会だし、リプルタイドに寄って父さんたちに会いたいの」と言った。薬屋は「だったら俺も」と名乗り出て、王立図書館の蔵書を読み漁りたいと主張した。最近はずっと八人で旅をしていたが、ここで久方ぶりの別行動になるわけである。
「みなさん、本当にありがとうございました」
 教え子が丁重に頭を下げる。テリオンはすでに彼女の評価を改めていた。教え子が今回の事件で重要な働きをしたことは疑いようがない。学者は家出の事実を知って叱責していたが、彼女のおかげで命が助かったことは重々承知しているらしく、その時の語調は弱かった。
「あなたの大事な先生とゆっくり過ごしてね」
 踊子が片目をつむりながら言うと、教え子は顔を赤くしてうつむいた。皆が苦笑するが、学者本人はまったく意味が分かっていない様子だった。
 いよいよ岐路に立つ。一行を代表して、ハンイットが前に出た。
「わたしたちはいつでも帰りを待っている。気をつけて行ってきてくれ」
「ありがとう、ハンイット君」
 学者はうなずき、しゃがんでリンデに別れの挨拶をした。彼は最後にテリオンに目を向けると、何も言わずにローブを翻す。
「……それでは、行ってくるよ」
 年少の者たちを引き連れた彼は、分かれ道を北へ向かう。連なる山の向こうには海がある。彼らはこれから波打ち際の街道を、テリオンたちは砂にまみれた道を行くことになる。
 テリオンは去りゆく黒い背を見送ってから、自分の道に目を戻した。
 学者の姿が視界から外れた瞬間、ほとんど何の脈絡もなく、クオリークレストで夢うつつに聞いた言葉が蘇った。
 ——本当は、あいつを放り出すべきじゃなかったんだよね。
 学者の先輩オデットの声だ。風邪で寝込んでいた時、不可抗力で聞いてしまった台詞である。
 どうしてこのタイミングで思い出したのだろう。テリオンは黙々と足を運びながら、落ち着かない気分で考えた。
 やがて理由に思い当たる。もしや、先輩がああいうことを考えたのは、今と似たような瞬間があったからではないか。
(……いや。別にあいつ一人で行かせるわけじゃない。どうってことないだろ)
 そう自分に言い聞かせ、未練がましく後ろを振り返る。その時にはもう、黒いローブは交わらない道の向こうに消えていた。

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