Let Me Know the Truth



 生家の地下には巨大な迷路が広がっていた。
 ハンイットは慎重に歩を進める。どこから敵が出るか分からず、リンデも最大限に警戒を続けていた。このふたりが先頭で、間にサイラスとオフィーリアを挟み、テリオンが最後尾だ。
 どうやらこちらが屋敷の本体らしい。薄暗い廊下は、いくつもの階段をはさんでハンイットたちを地下深くへといざなう。おそらく、サイラスたちが落とされた穴の底と同じ深さまで続くのだろう。さらに、廊下にはいくつもの小部屋がつながっていた。テレーズがいないかと念のためすべての部屋を覗いたが、まるでハンイットたちをあざ笑うかのように空の本棚が並んでいるだけだった。
 今のところ人の気配はない。しかし人の出入りは多いようだ、とリンデが教えてくれた。実際、埃まみれの絨毯の上には複数の足跡が残っていた。
 この地下が何をするための場所なのか、ハンイットには見当もつかない。生家というからにはかつてイヴォンの一族が住んでいたのだろう。落とし穴に謎の地下まであるのだから、昔から怪しい実験でもしていたのか。ストーンガード上街の片隅にこんな空間が広がっているとは、地上の人々は思いもしないだろう。
「あの学長は、クオリークレストでギデオンに血の石を作らせた依頼主だな」
 唐突にテリオンが発言した。静かな地下ではささやき声でもよく通る。問いかけられた相手——サイラスは無言で肯定の意を示した。
 思えばこのメンバーの中で、クオリークレストの地下遺跡を探索したのは男性二人だけだった。どうやら今回の事件は、あの町での一件と深く関わっているらしい。
 テレーズやラッセルの言っていたことが本当なら、サイラスはアトラスダムを出てからずっと、イヴォン学長たちを敵に回していた。黒曜会を相手取るプリムロゼとも、ある意味で近いものがあったわけだ。
(それをわたしたちに黙っていたのか)
 ハンイットは胸の裡に兆した黒いもやを、軽い咳払いで振り払った。
 また小さな部屋を見つける。一応中を確認するが、何もない。ハンイットがきびすを返しかけた時、ふとサイラスが足を止めた。
「これは……」
 視線の先には古びた本が無造作に床に積まれている。本棚からはみ出たものらしい。
「探している本でもあったのか?」
「いや、ただ……これでは本が可哀想だな」
 サイラスは眉をひそめて一冊拾い上げ、埃を払う。
「知識を閉じ込める……か」
 その横顔ににじむのは、どうやってもハンイットが共有できない思いだ。サイラス自身もそれを伝える気はないのだろう。教えてもらったところで理解できるとは限らないが、それでも「サイラスが何かを感じた」という事実だけは覚えておこうと思った。
 サイラスは本を元に戻し、顔を上げた。
「先に進もう。早くテレーズ君を助けなくては」
 彼は足を怪我したばかりだ。手当てしたオフィーリアによると、完治したわけではないらしい。にもかかわらず進んで前に出ようとするので、リンデが追いかけて横に並んだ。
 ハンイットは残りの二人に視線を投げる。オフィーリアが首肯を返し、テリオンは顔を背けた。
 地下を進みだしてから、どうもテリオンの様子がおかしい。乾いた瞳が後ろめたさで揺れている。同じように穴に落ちて、サイラスだけが怪我をしていたのだから、何があったのか薄々察しがついた。
(サイラスは気づいているのか? テリオンも、それを伝えなくていいのか……?)
 このぎくしゃくした雰囲気のまま、先に進んでもいいのだろうか。ハンイットはどうしても気になってしまう。
 静かすぎる廊下を抜けて階段を降り、やがて屋敷の最奥と思われる部屋の前にたどり着いた。扉はぴたりと閉ざされている。
 ハンイットは仲間を振り返ってうなずいた。
「入るぞ」
 そっと扉を押し開ける。警戒しながら踏み出そうとした瞬間、脇をサイラスが駆け抜けた。
「テレーズ君!」
 彼はすぐに立ち止まった。さらわれたサイラスの生徒は、部屋の中心に立てられた板に両手を拘束され、宙吊りにされていた。
 ハンイットは息を呑む。クオリークレストの地下では、誘拐した人々から血を抜く非道な実験が行われていたらしい。幸いにもテレーズはただ拘束されているだけのようだ。
 テレーズの前にはイヴォン学長が陣取り、こちらに背を向けていた。ルシアはいない。学長と同じように、またどこからともなく姿を現すかもしれない。
「せん……せい……」
 テレーズが力なく頭を持ち上げる。血は抜かれていなくとも消耗しているようだ。身を低くするリンデに一瞬遅れてハンイットは斧の柄を持ち、サイラスを孤立させぬようテリオンとともに前に出た。
 イヴォンは異様な雰囲気を帯びていた。先ほど玄関で襲ってきた時とはまた異なる気配だ。漂う魔力のせいか、それとも単に迫力のせいか。びりびりと空気が弾ける感覚がある。
 相手は一見無防備に背を向けたまま、嫌味たらしい声を出す。
「やれやれ……君はもっと冷淡な性格だと思っていたよ、サイラス君」
 テリオンが軽く鼻を鳴らした。「何を言ってるんだこいつは」とでも思っているのだろう。ハンイットも同感だった。サイラスがクラップフェンをほおばる姿を一度でも見ていたら、冷淡だなんて言えるはずがない。
 つまりイヴォンは、サイラスのああいう側面を知らないのだ。何年も同じ町に住んでいたとしても、そこはハンイットたちとの大きな差異だった。
「……イヴォン学長、テレーズ君をどうするおつもりですか?」
 サイラスの声には明白な怒りが込められている。それでも敬語を通しているのが不釣り合いだった。
 ゆっくりと学長が振り返る。その両目は赤々と燃えていた。
「君たちも彼女も、私の秘密を知ってしまった。生きていられては困るのだよ。だから……全員一緒に、仲良く死んでもらう」
 四人を一度に相手取るつもりらしい。その自信の源はなんだ? ハンイットは警戒を強める。
「させませんよ。テレーズ君は、私が助けます」
 サイラスは平素の表情のまま片手で魔導書を広げる。ローブの裾が静かにはためいた。
「らしくもなく熱くなっているな。いいだろう——」
 学長は懐から赤い石を取り出した。
「あの石は……!」
 テリオンが鋭く叫ぶ。その反応で正体を悟った。クオリークレストで誘拐事件の犯人が作成していた、人間の血を結晶化させたものに違いない。
 掲げた石にみるみる力が集まっていく。目に見えるほど高密度の魔力だ。声を出せない四人の前で、イヴォンのシルエットが膨んでいった。
 背丈がハンイットの三倍ほどに伸び上がる。青白い肉体にはちきれそうな筋肉がついて、学者のローブがちぎれ飛んだ。不気味なことに、異形と化しても人相はほとんど同じだった。あの赤い石は胸元に埋め込まれ、毒々しい光を放つ。
 背後でオフィーリアが息を呑んだ。誰もがその姿に圧倒されていた。
「『辺獄の書』に記述された力の一端、冥土の土産に拝ませてやろう!」
 イヴォンは濁った声で咆哮し、テレーズの前に立ちふさがる。ハンイットは唇を噛んだ。隙あらば救出しようと、あらかじめリンデに指示していたのに。
 だが、イヴォンは人質を積極的に活用する気がないらしい。彼女に刃物でも突きつければ、こちらは手出しできなくなるにもかかわらず。あの力を見せつけて、正面から叩き潰すのが狙いか。
 冷や汗をかきながら、ハンイットは一度斧をしまった。見るからに力の強そうな相手に、いきなり接近戦を挑むのは危険だ。弓を構え、傍らの学者に声をかける。
「サイラス、あいつの弱点は分かるか」
 やや遅れて返事が来る。
「……すまない、少し時間がかかりそうだ」
 平坦な声だった。かつての上司が異形に変貌し、さすがに動揺しているらしい。
「それならオフィーリアと一緒に下がっていてくれ。隙を見つけてわたしがテレーズさんを助ける」
「ああ……頼むよ」
 今回はサイラスが狙われているのだから、できるだけ後方にいてもらった方がいい。視界の端で黒いローブが引き下がった。
 イヴォンは余裕を見せながら一歩ずつ前進する。その巨体を見据え、まずテリオンが突出した。うなりを上げて襲いかかる腕をかいくぐり、相手の脇腹に長剣の一撃を浴びせる。短剣を選ばなかったのはリーチの差を考慮したらしい。
「だめか」
 テリオンは舌打ちとともに距離をとる。青白い肌に走った一筋の線はたちまち消え失せた。相手が魔法を使った様子はない。まさか肉体が再生したのか。
「厄介な……!」
 ハンイットは目一杯弦を引き絞り、矢を放った。胸元の石を狙ったが、割り込んできた異形の腕に弾かれる。肌はそれほど固いわけではないが、軽い傷はすぐに治ってしまうらしい。
 後衛の二人は魔法を使うタイミングを慎重に見極めていた。相手の位置が悪く、テレーズを巻き込みかねない。こうなればサイラスが弱点を見破るまで時間を稼ぐしかなかった。
 彼もそれを分かっているのだろう、両目を大きく見開いてイヴォンの一挙手一投足に集中する。ハンイットは、相手を探る時のコツについて幻影の森で語らったことを思い出した。
 再び矢を浴びせる。今度はどこでもいいからイヴォンの体に傷をつけるつもりだったが、刺さった矢尻がすぐ抜けてしまう。よほど深く切り込まないと効き目が薄いのか。
「どうした。そんな攻撃いくら当てても効かないぞ」
 高笑いとともにイヴォンの巨体が突進してきた。ハンイットはとっさに横に飛び退き、判断の誤りを悟った。狙われたのは——背後のサイラスか!
「うあっ」
 観察に専念して反応が遅れたらしい。イヴォンが大股で向かった先で、何かが砕ける嫌な音がした。もうもうと土埃が立つ。
「サイラス!」
 追撃を防ぐため、リンデが異形の後頭部にかじりついた。イヴォンの相手は雪豹とテリオンに任せ、急いで救出に向かう。煙の向こうに汚れたローブが見えた。サイラスが目を閉じてぐったりしている。
(まずいな)
 部屋の中にイヴォンの哄笑が響く。青白い顔に張りついた笑みは、まるで人間のものではなかった。
「サイラスさんはわたしが治します。ハンイットさんは、どうかテレーズさんを助けてください」
 駆けつけたオフィーリアが杖を握りしめた。その先端に癒しの光が灯る。
「……任せた」
 このメンバーでハンイットが担うべきは攻撃役だ。覚悟を決めて前に出る。相手の振り回す腕に注意しながら距離を詰めた。異形といっても元は学者であり、動き自体は単調だ。だが一撃でも当たれば大きな被害が出る。相手が一向に魔法を使ってこないのは、油断の象徴だろうか?
 掴みかかってきた腕をのけぞってかわし、お返しに斧を振るうが、ごく浅い傷をつけただけに終わった。これも弱点ではない。サイラスが回復するまでリンデとテリオンとともに波状攻撃を仕掛けよう、とあたりを見回し、ハンイットは驚く。
(テリオン?)
 彼は少し離れた場所で、何故か棒立ちになっていた。
(……いや、あれは集中しているんだ)
 テリオンはまるで魔法を使う時のように——サイラスやオフィーリアがそうするように——イヴォンを通り越した先を見つめている。
 その瞳にはゆらめく緑の炎が宿っていた。一瞬彼が別の誰かのように思えて、ハンイットは瞠目する。
「——盗公子エベルよ」
 紡がれた言葉は神への祈りであった。
 テリオンの声に呼ばれて空中に巨大な鉤爪が現れる。それは風のように舞い降りて、イヴォンの肉体をやすやすと切り裂いた。
 異形が悲鳴を上げた。巨体が揺らぎ、膝をつく。
 ハンイットはすぐに我に返った。よろめくイヴォンの脇をすり抜けてテレーズの元に駆けつけると、斧を叩きつけて拘束を解き、床に下ろしてやる。力の抜けた彼女を抱えてその場を離れた。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます」
 テレーズはなんとか自力で立ち上がった。思ったより意識もしっかりしている。化け物になった学長を目撃し、激しい戦闘のただ中にいるにもかかわらず、よく気を保っていた。彼女は部屋の反対側にいる先生をちらちら確認している。どうやらサイラスの容態が気にかかり、それ以外のことは頭から抜け落ちているようだ。
「ありがとう、オフィーリア君」
 落ち着いた声がここまで届く。オフィーリアはすでに治療を終えていた。サイラスは先ほどの様子が嘘のようにすっと起き上がった。
(あれだけのダメージを受けたのに、何故だ?)
 いくら魔法で怪我を治しても、痛みまで飛ばせるわけではない。人の体や心はそういうふうにつくられている。それでもサイラスは水のように揺らがぬ顔で佇んでいた。
 たまらずテレーズはハンイットのそばを離れ、彼に駆け寄った。
「サイラス先生、これを!」
 彼女は護符を首から外してサイラスの手に握らせた。彼ははっとする。
「エレメントブースターか……! 助かるよ、テレーズ君。キミは下がっていてくれ」
「はいっ」
 テレーズはオフィーリアに手を引かれて部屋の隅に移動した。
「サイラス、体は大丈夫なのか?」
 ハンイットは彼の隣に立つ。その問いに答えず、サイラスは部屋の中を静かに睥睨した。最前線にはテリオンとリンデがいて、体勢を立て直しつつあるイヴォンへの警戒を続けている。
 サイラスはおもむろに口を開いた。
「遅れてすまない、学長の弱点は見極めたよ。ハンイット君は足止めのために矢を降らせてくれ。その隙にテリオン君は短剣の攻撃を頼む」
「分かった」「……はあ」
 テリオンは吐いた息を了承の代わりにし、イヴォンに向かっていった。
 言われたとおりハンイットは弓を持つ。あらかじめ指の間に何本も矢を用意し、連続して放つことで、土砂降りのように矢を降らせるのだ。狙いは甘くなり、一撃あたりの威力も落ちるが十分な牽制になる。弓を高く掲げて幾度も弦を弾けば、イヴォンは鬱陶しそうに矢を払った。
(矢は弱点ではない。だから足止めを任されたのだな)
 続いて、オフィーリアの導く光が足元からイヴォンを貫いた。前もって指示されていたらしい。あの巨体が明らかに揺らいでいる。
「よし、行けるぞリンデ!」ハンイットは手応えを感じ、ひるんだイヴォンに相棒を差し向けた。リンデは腕に噛みついて相手の攻撃を封じる。
 その隙にテリオンがイヴォンに飛びつき、首元に短剣を突き刺す。こちらも有効打だ。彼はすぐに離れて反撃を避けた。
 首元の傷は治りが遅い。弱点を突けば確実に倒せる。このまま一気に畳み掛ける!
 ハンイットが新たな矢をつがえる中、サイラスが護符を握り込んだ手を胸元に置き、そっとつぶやいた。
「碩学王アレファンよ——」
 先ほどのテリオンとは別の色の光が瞳に宿る。舞い降りた魔力を全身にまとい、彼は学長へ手を差し伸べた。
「火炎よ、焼き尽くせ」
 クオリークレストで手に入れた新たな魔導書とテレーズの護符が魔力を増幅させる。イヴォンを中心に爆炎が巻き起こった。あたりに焦げ臭いにおいが漂う。
(終わりか……)
 学長に引導を渡したサイラスは、今どんな表情をしているのだろう。この位置からは見えなかった。
 煙が晴れると、そこには膝をつくイヴォンの姿があった。異形の姿を保ったまま、苦しげな声を絞り出す。
「ば、馬鹿な……私は不死の力を手に入れたはず……」
 サイラスがぴくりと濡羽色の髪を震わせた。
「不死の力、だと?」
「私も騙されていたということか……」
 もはや会話が成り立っていない。イヴォンは意識が混濁しはじめているようだった。
「それはどういうことですか」
 止める間もなく、サイラスは瀕死の学長へ近づいていく。
「このままではすまさんぞ。このまま、では……」
 不意に異形の腕が伸びた。「ぐっ」サイラスの体を掴み、宙に吊り上げる。
「させるか!」
 万が一を想定してハンイットは弓を構えたままだった。放たれた会心の矢が、サイラスの脇を抜けてイヴォンの胸の石を貫く。ぱきりと乾いた音がして、異形の瞳から光が失われた。
 ハンイットは両のまぶたをぎゅっと閉じる。あのような姿に成り果てようとも、ひとつの生命に変わりはない。自分は狩人として、学長の命を終わらせたのだ。
 異形の肉体は砂のように消え失せ、サイラスは床に投げ出された。
「先生っ」「サイラスさん!」
 オフィーリアと教え子が駆け寄る。
「聖火神の御業で救いたまえ」
 学者のそばに膝をついたオフィーリアは、普段と違う詠唱を紡いだ。それは蘇生のための魔法だった。
 光がサイラスの体に吸い込まれる。皆が見守る中、わずかにその胸が上下しはじめた。呼吸が戻ったらしい。オフィーリアが表情を緩め、教え子が泣き出しそうな顔で「先生……」とつぶやく。
 ハンイットは唇を噛んだ。
(こういう結果になってしまったか……)
 サイラスが狙われていることは分かっていたのに、対処しきれなかった。もっとうまく立ち回れたのでは、という反省が胸に宿る。
(いや、考えるのは後だ)
 とにかく今は無事に屋敷を脱出しなければ。ハンイットは輪から外れて一人でぼんやりしていた男に声をかける。
「テリオン、しっかりしろ」
「……ああ」
 テリオンは顔を上げた。白銀の前髪から覗く片目が、なんだか心細そうに瞬く。普段取り澄ました表情をしているだけに、ハンイットはどきりとする。
「サイラスが心配なのは分かるが、ひとまず地上に戻ろう」
 テリオンは素直にうなずいた。いつもなら即座に「心配なんかしてない」と返事するところなのに。
(こちらも相当参っているようだな)
 穴の底に閉じ込められた反動だろうか。そう推測はできても、真偽は不明である。
(こういうことは、やはり直接話してもらわないと分からないな)
 言葉のいらぬ相棒に目をやる。リンデは「困ったものだ」と言うように尻尾を振った。
 さて、満身創痍の学者をどうやって運ぼう。体格的にテリオンが背負うのは厳しいかもしれない。それならわたしがやるしかない、とハンイットが意思を固めたところで、
「ううん……」
 仰向けに寝かされていたサイラスが目を覚ました。ぎこちなく体を起こす。
「あまり無理をしてはいけません」
 心配するオフィーリアを、ハンイットはあえて押しとどめた。
「いや、もし立てるならありがたい。サイラス、宿に帰るまでなんとか意識を持たせてくれないか。ここから脱出するぞ」
 少々厳しい注文をつける。だが、こう言えば彼は従うはずだ。「筋が通っている」と判断したことに対して全力で取り組む男である。おそらく気力でなんとかしてしまうだろう。それはありがたくもあり、厄介なところでもあった。
「分かったよ」
 案の定、サイラスは物分りよくうなずいた。テリオンに肩を貸してもらい、よろよろと立って歩き出す。おかげでハンイットの手が空いて、不測の事態にも対応しやすくなった。
 リンデに最後尾を任せ、オフィーリアがテレーズの手をとる。ハンイットは一番危険な最前を歩いた。
「あの秘書、どこにもいなかったな」
 帰りの道中、階段を上りながらテリオンがつぶやいた。
「そうだな。また不意打ちを仕掛けてくるかもしれない。ルシアの行き先に心当たりはあるか、サイラス」
「さあ……分からないな」
 サイラスはぼそぼそと答える。ほとんど意識が飛びかけているようだ。青いまなざしも弱々しい。その様子を眺めたハンイットの胸に、ある記憶がよみがえる。
(やはり、この人は寿命が短そうだ……)
 彼と初めて出会った時の印象がそれだった。何故かひと目見て「こういう生き物はすぐ死ぬのではないか」と思ったのだ。実際の彼はそんな第一印象とは正反対で、元気にウッドランドの森を調査していたのだが——こうして弱っている場面に出くわすと、あの時のイメージはあながち間違っていなかったのではないか、と思えてくる。
 ハンイットは斧を握りしめて猛省していた。
(このままでは、きっとだめだ)
 朝方に狩りをした時とは真逆で、彼女たちは罠にかかり狩られる側になった。全員の命が助かったのは、ただ運が良かっただけだろう。
(こういう時、どうやって次に向かっていけばいいんだ。教えてくれ師匠)
 ハンイットは首から吊るした指輪をそっと握る。
 ——俺に聞くのか、ハンイット。どうすればいいかなんて、もう知ってるはずだろ。
 胸の中からザンターの声が聞こえた。
 狩りの失敗なんて、よくあることだ。駆け出しの頃は一人で獲物を深追いして道に迷い、泣きそうになりながら森をさまよったこともあった。探しに来たリンデと無事に再会できて、心底安堵した覚えがある。
 あの時ザンターは迎えに来なかった。代わりに、あたたかい食事を用意して家で待っていた。
(そうだな。わたしにできることは限られている。ただそれを果たすだけだ)
 ハンイットは歯を食いしばり、地上に向かう最後の階段を上った。
 帰り道は不気味なほど何も起こらず、ぼろぼろの五人は無事に生家を脱出した。
 重い玄関扉を開けると、夕焼けが目を刺した。ハンイットはほっと息を吐く。
 体にまとわりついていた重苦しいものから解放された気分だった。皆も同様の気持ちを抱いているようだ。
「みんな、宿に戻るぞ」
 号令をかければ、まばらな返事が上がる。五人はただただ足を動かした。サイラスはほとんどテリオンの肩の上で眠りかけていた。
 今しがた出てきた屋敷を振り返る。正真正銘の廃墟と化した生家は、夕日で赤色に染まっていた。それを見て、イヴォンの血のような色の目と、異形の胸で光っていたあの石を思い出す。
(赤い目——赤目?)
 突拍子もない憶測が湧き上がり、にわかにハンイットの胸を衝いた。まだ見ぬ赤目という存在が、急に現実味を帯びてまぶたの裏に像を結ぶ。
 もしも、ストーンガードにいた二者に何か共通点があったとしたら。赤目が森に来たのは、イヴォンの研究から漏れ出す死の気配を感じ取ったからかもしれない。
(……まさかな)

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