Let Me Know the Truth



 体の芯に鈍い痛みが走る。
 ぴくりと指先が揺れ、意識が覚醒した。テリオンはゆっくり体を起こす。
「おはようテリオン君。体の調子はどうかな」
 穏やかな声が降ってくる。軽く頭を振ってまぶたを開けた。が、真っ暗闇でほとんど何も見えない。声と気配により、かろうじて学者が近くにいることが分かる。
「ここは……どこだ」
 以前も似たような出来事があった。クオリークレストの地下遺跡から水路に落ちて、盗公子の祠で目を覚ました時だ。
 しかし、あの時とは大きな違いがある。おそらくこの場所は——
「イヴォン学長の家にあった穴の底だよ」
 案の定、安全地帯とは程遠かった。ようやく前後の出来事がつながる。テリオンたちはあの女によって穴に突き落とされたのだった。
「学長って、あんたのいた学院の親玉か」
「そうだよ。私は学長秘書のルシアさんによってこの生家に誘い込まれた。まさか、家の中にこれほど深い地下があったとは……とても上れそうにないな」
 危機的な状況の割に学者の声はけろりとしていた。おかげで気が鎮まる。節々が痛むのは硬い床で寝ていたためであり、幸いにもテリオンはほとんど怪我をしていなかった。
 ふっと息を吐き、指先に鬼火を灯す。少し離れた場所に端正な学者の顔が浮かび上がる。彼は珍しくローブをきちんと着込んでいた。石の床から忍び寄る冷気を遮断するためだろうか。
 手を伸ばして上に光を飛ばすが、天井は見えない。相当深い穴だ。
「私たちが落ちた直後に塞がれたようだ」学者が座ったまま顔を上げた。
 テリオンは立ち上がり、壁をよく調べる。古びた石材がかっちり積まれており、とても崩せそうにない。手や足をかけられるような突起もほとんどなかった。
 どうやら本当に穴の底に閉じ込められたらしい。不快感がこみ上げ、テリオンは眉をひそめた。
「あの女が怪しいと気づかなかったのか? ギデオンと同じ魔法を使っていただろ」
 思わず詰問調になる。そうだ、学者が先に秘書の正体を悟っていれば、こんな場所に落ちることはなかったはずだ。
「追手がいるから気配を隠していると説明されてね。確かに彼女の魔法は強力なものだったが、ギデオンとの共通点はキミに言われるまで失念していたよ。
 そういえば、あの転移魔法は初めて見たな。ごく短距離だが、素晴らしい精度で移動していた。大風といい、ルシアさんは相当な魔法の使い手らしいね」
 あろうことか彼は敵を褒めはじめた。一体どういう神経をしているのだ。
 ここで学者相手に腹を立てても、無駄に体力を消耗するだけだ。仕方なしに腰を下ろせば、狭い穴の底は細身の学者と小柄なテリオンでほとんどいっぱいになる。
「俺たちが落ちた後、あの女から接触はあったか」
「いいや。まったく」
「ふうん」
 会話の直後、天井の方から硬い靴音がした。誰か来た。おそらくは二人いる。
 テリオンは身構える。天井が開くことを期待したが、相手は姿を見せなかった。
「騙してすまないね、サイラス君」
 酷薄な声が地の底に届く。そっと横を見やると、学者は相手の正体に思い当たったらしく、息を呑んだ。
「その声は……あなたか、イヴォン学長」
 アトラスダム王立学院のトップが直々にやってきたわけだ。一教師を穴に閉じ込めるような者が学長をつとめているなんて、王立学院とはどんな魔窟なのだろう。この学者が町を飛び出してきたのはある意味正解だったのかもしれない、とテリオンは頭の隅で考える。
「君が『辺獄の書』の調査を開始したならば、きっとここにたどり着く——そう思っていたが、やはり来たか。本当に優秀だよ、君は」
 辺獄の書。聞いたことのない単語だ。学者が探している本のうちの一冊か。
 学者は穴の底から声を張り上げる。
「なるほど、ルシアは私の監視役ということか」
 くつくつと笑いが返ってくる。もうひとりの気配の主——秘書ルシアは一言も発しない。
 監視役と聞いて、テリオンははっとする。クオリークレストを出る時に感じたあの視線は、秘書のものだったのか? オルベリクは今日になって尾行者の気配を感じたと言っていたから、つじつまは合う。
 だが、あの女は例の気配を隠す魔法が使える。わざわざこちらに存在を悟らせた理由が分からない。
 とにかく秘書は、学者がストーンガードを訪れることをどうにか察知し、イヴォンとともにここで網を張っていた。テリオンは学者ともども見事に罠にかかったわけだ。舌打ちしたい気分になる。
「残念だよ、サイラス君。その知識に貪欲な姿勢を私は高く評価しているのだが」イヴォンは相変わらず高慢な態度だ。「ふむ、どうだ? 私の弟子に——」
「断る」
 学者の温度のない声が垂直な壁を駆け上がる。鬼火に照らされた双眸が青白い光を放った。
「自分だけが知識を得ればいい、そのような考えは私の理念に反する。知識とは分かち合うべきもの。私とあなたの考え方は根本的に違う」
 その言葉に宿るのは強い拒絶だ。テリオンは発言自体にはいまいちピンとこなかったが、それでも迫力を感じた。
 天井の向こうでしばしの沈黙があった。
「そう答えると思ったよ。とても残念だ」
 まるで残念そうでない声色だった。
 それにしても杜撰な勧誘である。この学者がおとなしく言うことを聞くとでも思ったのか? まったく甘い考えだ。イヴォンは同じ学院に勤めていたくせに、そんなことも分からないらしい。
「そうそう、この家は今でも私のものでね、訪ねてくる者は誰もいない。これがどういう意味か、分からない君ではないだろう」
 学長は余計なことを付け加えた。
「さらばだ、サイラス君。お仲間ともどもそこで最期を迎えたまえ」
 二人分の靴音がゆっくりと遠ざかる。地の底には再び静けさが戻った。
「最期ね……。とはいえ、おとなしく死んでやるいわれはないな」
 学者は細く息を吐き、「さて、どうしたものか」と意味ありげにこちらを見た。
「残念だが、俺でもここを上るのは無理だ」
 何かあった時のために、移動用のロープは常備している。が、そもそも天井が開いておらずロープの片端を掛けられない。身軽なテリオンでも、さすがに道具も使わず垂直の壁を上る能力は持っていなかった。
「そうか。ならば助けを待とう」
 学者はあっさり諦めて口を閉じた。
 改めて、テリオンは先ほどのやりとりを思い返す。脳内は疑問だらけだった。
 何故イヴォンはテリオンたちを閉じ込めたまま放置したのだろう? 「最期を迎えろ」と言うからには学者を殺すつもりらしいが、それならこんな迂遠な方法をとる必要はない。学者が誘いを断った時点で、上から魔法を浴びせればいい。逃げ場がないから確実に仕留められるだろう。
 学者が「助けを待つ」と言ったように、いずれは旅の連れがここを探り当てるはずだ。彼らならそうするだろうし、その能力もある。イヴォンだって学者が複数の連れとつるんでいることくらい承知しているはずだ。彼らを全員相手にしても勝てる算段があるのか、もしくは絶対にここが見つからない自信でもあるのだろうか?
 悩むテリオンの横で、学者は口をつぐんでまぶたを閉じている。
(珍しいな)
 こういう時、彼はいつも喋り通しになる。相手の行動に対して疑問を抱き、積極的に仮説を立てて、テリオンの返事も聞かずに口を動かすだろう。体力を温存するために黙っているのなら、合理的な判断だが——
 鬼火越しに向けたテリオンの視線に気づいたのか、学者はおもむろに唇を開く。
「この後、学長が何を仕掛けてくるか……キミはどう見る?」
 少し考えてから答えた。
「逃げ場のない穴の底なら、水攻めが定番だろう。まあ、あいつらの好みによってやり方はいくらでもある」
 テリオンはもっと過激な知識を持っているが、話す方も聞く方も気持ちのいい話題ではない。
「それは……勘弁願いたいね」
 学者は肩をすくめた。想像して気分が悪くなったのか、顔が白っぽくなっている。
 テリオンは学者をじろりと見つめる。
「それより、あんたのいた学院はどうなってる。辺獄の書とやらは一体なんなんだ。いい加減、話してもいいだろ」
 こんな穴の底まで付き合わされたのだから、説明のひとつも求めたい。今分かっているのは、辺獄の書はろくでもない本だということだけだ。本一冊追いかけただけで、こうして殺し合いにまで発展するのだから。
「そうだね……キミには教えておこう」
 学者は前を向いたまま話しはじめた。自身が旅に出たきっかけを、最初から順番に。
 彼はウォルド王国から指示を受け、かつて王立図書館から盗まれた本を探している。中でも辺獄の書こそが本命であった。
 その手がかりとして、彼はクオリークレストで写本を入手した。彼は先輩オデットとともに本の材質から製造場所を調べ、このストーンガードに行き着いた。
 テリオンの推測は当たっていた。学者は、製本工房に探りを入れて翻訳者ドミニクを見つけ出した。ドミニクは十五年前、多額の謝礼と引き換えに辺獄の書の翻訳を受けたらしい。それを依頼したのはイヴォン学長だった。
 真実を知ってドミニクの家を出た直後、学者のもとに味方面をした秘書が現れた。彼女は辺獄の書を盗んだのは学長であると明かし、「学長の生家に手がかりがあるかもしれない」と言って、ここまで学者を誘導した。
(こんなに大事なことを、今まで黙っていたのか……)
 テリオンは苦いものを噛んだ気分になる。
 普段からろくに話を聞かない自分ならまだしも、学者にとって一番最初の旅の連れである神官にすら何も言っていなかったとは。果たしてそんなことが許されるのか。
 テリオンはこの学者と、互いの旅の目的に協力する取引きをした。半ば不可抗力で結んだとはいえ、それ自体は公正な約定のはずだった。それなのに、テリオンは「学者は盗まれた本を探している」という断片的な目的しか知らされていなかった。
 どうしようもなく胸がもやもやする。
「で、辺獄の書ってのはどういう本なんだ?」
 テリオンが絞り出した至極まっとうな質問に、学者は柳眉をひそめる。
「古い時代に書かれた書物だ。クオリークレストで見たあの結晶の製法のように、生と死に関する力が記されているらしい。学長が求めている力は、大勢の人を死に追いやるかもしれない危険な代物だよ」
 そう告げたきり、学者は再び口をつぐんだ。テリオンも話の接ぎ穂を失ってしまう。ぶつける先を失った不満が体の内側に沈んでいく。
 いい加減気詰まりだった。助けはまだ来ないのか、と首を上向ける。あとどのくらいこの男と二人きりでいればいいのだろう。
 暗闇にそびえる壁を眺め、ふとテリオンはつぶやく。
「……穴に落ちた直後、あんたはどういう状況だった?」
 学者の肩が揺れる。
 テリオンは身を乗り出し、鬼火をずいと学者の顔に近づけた。白いこめかみに汗が浮かんでいる。
「どういう状況、とは?」
 学者がやっと口を開いた。普段より明らかに返事が遅い。
 もしかしてこれは——テリオンの頭は腹立たしい結論を導き出した。
「あの体勢のまま落ちたら、あんたが俺の下敷きになったはずだよな」
 どうして最初に気づかなかったのだろう。ほぼ間違いなく、テリオンは学者の体を緩衝材にして、穴の底への激突を免れたのだ。
 思わず唇を噛んだ。よりにもよって、この男に余計な負担をかけるなんて。
 学者は観念したように答えた。
「確かに落ちた時点でいくらか体に損傷はあったが……オフィーリア君から教わった魔法で、キミの分も治したよ」
 少なくとも怪我をしたことは事実らしい。テリオンは表情が歪むのを感じ、炎を遠ざけた。マフラーで顔を隠す。
「何故、神官の魔法が使える?」
 神官の扱う魔法は、学者のものとは体系が違うという話ではなかったのか。思い返せば、クオリークレストでギデオンと戦った時も、彼は光を呼んでいた。
 学者は少し早口になった。
「ただ習っただけでは使えなかっただろうね」
 オルステラの大地に生まれる人々は、すべからく十二神の加護を受ける。その恩恵は人によって多寡があり、神の寵愛によって強い能力を開花させる者もいる。今ともに旅をしている八人は、偶然にも神の加護を最大限に受ける生業を持っていた。
「こうして長く旅することによって、私たちは互いに影響を及ぼし合っているのではないかな。神官の魔法を操ることができたのは、スティルスノウで聖火神の祠に立ち寄ったことも関係していそうだね」
 人の性質は誰かとの関わりによって変わっていくのだ、と学者は言う。
「キミにもきっとその兆しはあるよ」
 あるはずがない、とテリオンは首を振った。自分が学者や神官の魔法を使うなんて想像できないし、そんな努力をする気もなかった。
「そうだ、奥義というものの話は聞いたことがあるかな。自身の生業を極めたものだけに開ける道らしい。性質の違う誰かから影響を受けることとは、また対極にある概念だ。十二神の持つ力そのものを身におろす技と聞く。奥義が使えたら、きっと旅の助けになるだろうね」
 先ほどまでとは対照的に、学者は不自然に明るく語り続けた。テリオンは話を聞き流し、ひたと相手を見据える。
「あんた、まだ怪我が残ってるんじゃないか」
 青い瞳孔が小さくなった。
「治したと言っただろう?」
「なら、どうして立ち上がらない。いつもだったら立って穴の底を調べ回っているはずだ」
「キミが起きる前にひととおり調べたよ。最終的に脱出の手段はないと結論づけた。これ以上動いても仕方がない」
「そんなことは知らん。今ここで立ち上がって証明してみろ」
 もはや売り言葉に買い言葉である。学者は押し黙り、動かなくなる。テリオンは床に投げ出された足に——忙しく身振り手振りをする上半身に比べ、先ほどからぴくりとも動かないそこに——そっと触れた。
「いっ……」
 学者は肩を跳ね上げ、顔を歪めた。テリオンはため息をつきたい気持ちをこらえて、
「治したんじゃなかったのか?」
「……神官の回復魔法と、薬師の応急手当の違いは分かるかい?」
 間髪入れずにこの返事である。心底うんざりした。また煙に巻くつもりか。学者は平然とした顔で言う。
「神官の魔法は外傷を塞ぐことには適しているが、こういった内部の炎症を取り除くことには向いていない。きちんと固定して動かさないようにするのが一番だ、とアーフェン君が言っていたよ」
「つまり、立てないくらいの怪我ってことか」
 学者は分かりやすく視線を外した。
「……他の部分は治せたのだがね」
 もしや、落ちた直後は相当悲惨な状態になっていたのか。見たところ床に血痕はないが、それもテリオンが起きる前に片付けたのかもしれない。いつも肩にかけるだけのローブに袖を通しているのは、その下に何か隠しているのか。
 テリオンはそうとは知らず、学者を押しつぶした挙げ句、のんきに気を失っていたのだ。
 不意に沈黙したこちらを覗き込むようにして、学者があっけらかんと声を出す。
「そう気にせずともいいだろう。キミが昔崖から落ちた時も、こうして誰かを下敷きにしたのかもしれないよ」
「つまらん冗談はやめろ」
「ええと……すまなかった」
 いつもの戯言と分かっていても、タイミングが悪すぎる。ただでさえこちらは罪悪感があるのだから、追い打ちをかけないでほしい。
 冷たい床に座っていたら、体力が削られていくばかりだ。少しでも学者を回復させねば、と懐を探った。大きな荷物は宿に置いてきたのでろくなものがなかったが、
「これでも食べろ」
 やっと見つけたリンゴを差し出す。学者は目を丸くした。
「いいよ、キミの好物だろう? ああそうだ、ハンイット君からクラップフェンをもらったんだった」
 反対に、学者は紙に包まれた揚げパンを半分ちぎって渡してくる。つい受け取ってしまった。
「中身はプラムのジャムだそうだよ」
 甘い香りが鼻孔を刺激する。油も良いものを使っているようだ。狩人の料理の腕にはテリオンも一目置いていた。口内に唾液がこみ上げてくる。
(まあ、少しくらいはいいか……)
 テリオンは指先の火を消して、パンをかじった。じわりと口の中に果実の風味が広がる。暗闇の中で五感が制限されているせいか、余計に甘く感じた。学者も満足げに咀嚼しているらしい。
 腹は膨れたが、やはりブドウの一粒でも持ってくるべきだったと省みる。施すつもりが施されてしまったのも、なんだかきまりが悪い。
 二人がパンを嚥下したタイミングで、再び天井の向こうから足音がした。
「誰か来たようだね」
 学者の肩がわずかにこわばる。
(違う、学長じゃない)
 先ほどとは違って、どこか余裕のない音だ。二人、いや三人以上はいる。
「サイラス、いるか」
 壁に沿って落ちてきたのは、狩人ハンイットの凛とした声だった。
(やっと来たな)
 テリオンはすかさず短剣の柄で壁を叩いた。金属音が石の壁によく響く。
「下か!」
 すぐに天井が引き剥がされる。四角く穴が空いて、久方ぶりの光が地の底に降り注いだ。
「テリオンもいたのか。二人とも無事か?」
 狩人は床に膝をついて穴を覗き込む。傍らには雪豹の鼻先も見えた。テリオンは立ち上がって答える。
「俺は何ともないが、学者先生が怪我をしている」
「サイラスさんが……!?」
 この声は神官だろう。学者がもの言いたげにこちらを見上げたが、無視してやった。
「ロープを投げるから、それを使って引き上げてくれ」
「分かった」
 幸いにもハンイットは落ち着いた様子だった。彼女がどこまで事情を知っているのか、学長や秘書はどこに行ったのか——情報を交換するのはここを脱出してからだ。
 テリオンはロープを取り出すと、先端に適当な重しをつけて振り回し、上に向かって投げた。なんとか天井の外まで届き、ハンイットが端を掴む。
「待っていろ、どこかに先を結んでくる」
「頼んだ」
 テリオンは未だ座ったままの学者に向き直る。
「痛めたのは片足だけか?」
「あ、ああ……」
「肩を貸すからもう片方の足で立て。あんたの体にロープを結ぶ。自力じゃ上れないだろ?」
 怪我をしているのだから、普段の非力さをさらに低く見積もったほうがいいだろう。
「……すまない」
 学者が小さく頭を下げる。殊勝なものだ、いつもそういう態度でいればいいのに……と思ってしまった。
 テリオンは彼の腕をとって、壁に寄りかからせた。その体に手早くロープを結びつける。
「結んだ。上げてくれ」
 地上に向かって声をかける。この様子では、あちらには女性しかいないらしい。力が足りるか若干気がかりだったが、なんとかロープが動き出した。学者の体が徐々に吊り上がっていき、やがて穴の上にたどり着く。
「ああ、先生! 良かった……」
 今度は教え子の声が聞こえた。テリオンと別れてから彼女なりに行動し、ようやく先生と会えたわけだ。
「テレーズ君! アトラスダムにいるはずのキミが、なぜここに?」
 学者は本気で驚いていた。そういえば教え子が来ていることは教えていなかった。彼女は「実は——」と語り出す。
 再会を喜ぶのはいいが、早くロープをほどいてもう一度穴に落としてほしい。でないといつまで経ってもテリオンはここから抜け出せない。いい加減しびれを切らし、声を張り上げようとした時——
「話はそこまでだ」
 ぱっと視界が白く染まる。地上で轟音が巻き起こり、次いで誰かの悲鳴が響いた。
(今の声——まさか学長か!?)
 テリオンはとっさに武器を抜いたが、こんな地の底では何もできない。相手は最悪のタイミングで奇襲をかけてきた。
「テレーズ君!」「待て、彼女を放すんだ」「みなさん危険です!」
 いくつもの声が混じり合って降ってくる。上で何が起こっているのだろう。焦りを深めるテリオンが見つめる先で、再び魔法の閃光が走った。
「サイラスさんっ!」
 神官の叫びが空気を切り裂いた。重いものが崩れるような音がする。同時に土煙が立ち、外が見えなくなった。
 ずいぶん時間がかかってから、視界が回復する。やっとロープが垂れてきた。テリオンはそれを掴んで壁に足をかけ、引き上げられる前に一気に穴を駆け上がった。
 薄暗い屋敷の玄関に戻ってくる。そこに広がる光景を見て、テリオンは息を呑んだ。崩壊した壁際に学者が倒れており、神官が手当てしていた。教え子の姿はない。
「……何があった?」
 ハンイットは毛を逆立てるリンデをなでておさえ、沈痛な面持ちで首を振る。
「いきなり何もないところからあの男——イヴォンが出てきて、サイラスに魔法を放ったんだ。あいつはテレーズさんをさらってまた消えた。すまない、わたしはほとんど反応できなかった……」
 彼女は悔しげに頭を振った。
 何もないところから出現する。おそらく、テリオンたちを穴に落とす際に秘書が使った転移魔法だろう。気配を隠す魔法に輪をかけて、厄介極まりない能力だ。
「学長はどこに行った?」
 尋ねると、ハンイットは日の差さぬ廊下にあごを向ける。そこには地下へ向かう階段があった。
 テリオンは眉間を押さえる。
(どうしてその場でトドメを刺さなかったんだ?)
 あのタイミングなら学者を殺すことなど造作も無かっただろう。ハンイットたちを警戒したのか?
 ただ穴に閉じ込めたことといい、相手のやり口が妙にぬるい。おかげで一向に目的が読めなかった。
 神官の杖から癒やしの光が消え、学者がぎこちなく体を起こす。治癒が完了したらしい。
「テレーズ君を助けよう。イヴォン学長の後を追わなければ」
 学者は乱れた髪を手でなでつけ、テリオンたちに真摯なまなざしを向けた。
「サイラスさん、そのお体では……」と気遣う神官に続けて、
「そいつは足を怪我している。神官の魔法じゃ治せないらしい」
 テリオンが鋭く指摘すると、彼女ははっとした。
「わたしは応急手当の方法をアーフェンさんに習いました。ある程度は治せると思います」
「頼むよオフィーリア君」
 丁寧だが有無を言わせぬ口調だった。神官はうなずき、包帯を取り出す。
「ところでキミに話があるのだが——」
 治療中、学者が何かを囁いた。神官は「えっ」と驚き彼を見返す。
「どうか分かってほしい。学長の狙いを外すには、こうするのが確実なんだ」
 学者は真剣に訴えかける。それでも躊躇する神官は、何故かテリオンに目をやった。
「なんだ?」
「……いえ、なんでもありません」
 彼女は何やら祈りの文言をつぶやく。すると、薄い光が学者の体を包んだ。
 今のやりとりはなんだったのだろう。どうにも不穏な雰囲気だった。
「さあ、イヴォン学長の後を追おう」
 学者は力強く立ち上がる。その瞳には珍しく怒りの火が燃えていた。それほど教え子が心配なのか。テリオンたちは顔を見合わせた。
 ハンイットが慎重に話を切り出す。
「サイラス、あなたらしくないぞ。わたしたちの事情を聞く前に進むのか?」
「だいたい分かっているよ。キミたち以外の四人は、ルシアさんによって別の場所に誘導されたのではないかな」
 学者の推理に、テリオンたちは息を呑む。ハンイットはため息をついた。
「……そうだ、そのとおりだ。オルベリクとトレサ、アーフェン、プリムロゼたちは、あのルシアという女にあなたが幻影の森にいると言われて、そちらに向かった。今思えば、わたしたちをバラバラにする算段だったのだろう。わたしやテリオンの行動で計画が狂ったのかもしれない。
 とにかく、だ。あの四人と合流すれば、より確実にテレーズさんを助けられるのではないか?」
 簡潔かつ具体的な提案だった。しかし学者は首を振った。
「いや、合流は後回しにしよう。テレーズ君に何かあってからでは遅い。イヴォン学長はそれほど長くは待ってくれないだろうからね。オルベリクたちの方はあちらに任せて大丈夫だ」
 きっと学長の本命は「こちら」だから、と学者は淡白に付け加える。
 イヴォンは教え子を人質にとって、学者を地の底へおびき寄せようとしている。一体何のために?
「テリオン、あなたはどう思う」
 今度はこちらに質問が飛んだ。三人と一匹の視線が集中した。
「……やられっぱなしは癪だ」
 腰の武器に手を置きながら答える。ハンイットは肩の力を抜いた。
「分かった、あなたたちの判断に従おう。オフィーリアもついて来てくれるか」
「もちろんです。誰かがお怪我をされたら、わたしが必ず治します」
「ありがとう」
 ハンイットはうなずいてから、隣のテリオンだけに聞こえるよう声を絞った。
「……こうなったサイラスを止めることは、不可能だろうな」
 テリオンははっとして視線を上げる。深い森を思わせる緑の瞳に、緊張の色がにじんでいた。
「サイラスから目を離さないほうがいい。何か、罠が仕掛けられている予感がする」
 おそらく彼女はテリオンと同じものを感じていた。狩り場で、戦場で、はたまた盗みの時に、こういう直感に至る時がある。地下で彼らを待ち受けるものが、おぼろげに浮かんできた。
 目を離すなと言われ、つい学者の涼しげな横顔を確認した。今の彼は、あまりにも「らしくない」状態で——それがどうにもテリオンの胸をざわめかせるのだった。

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