砂に刻む帰途



「おかえりなさい、テリオンさん」
 レイヴァース当主が放った何気ない一言に、テリオンの内心はぴくりと揺れた。
(おかえりって……ここは俺のねぐらじゃないんだぞ)
 数回来ただけの場所に適した言葉とは思えない。だから無言を貫いた。
 砂漠の町から西回りに北上し、テリオンはボルダーフォールにあるレイヴァースの屋敷に戻ってきた。
 衛兵の大歓迎を受けながら門をくぐる。屋敷の中では当主と執事が待っていた。対するこちらは一人だ。竜石奪還に失敗したという辛気臭い背景のせいか、今回は誰もついてこなかった。
 前回と違って応接室に通される。ヒースコートが茶を用意して「ご無事で何よりです」とねぎらった。ある意味罵られるよりもきつい反応だ。
 彼女たちにはすでに手紙を送り、ウェルスプリングにおける顛末を知らせていた。返事によると、当主たちは手紙を受け取ってから即座に屋敷の警備を強化したらしい。今のところダリウスに襲われる兆候はないという。
「盗賊団の居場所は分かったか」
 やたらと体が沈むソファから身を乗り出し、ヒースコートに尋ねる。あの規模の組織なら、必ずどこかにアジトを持っているはずだ。最近テリオンは同業者の情報に疎く、まるで心当たりがなかった。
「ただいま探っております。見つけたらまた連絡を入れますよ」
「お願いします、ヒースコート。テリオンさんも無理しないでくださいね」
 テリオンは首を振った。
「このまま放っておくつもりはない。緑竜石は必ず取り戻す」
「それは……わたしたちのためでしょうか?」
 彼女はカップで手をあたためながら質問する。
「違う。この腕輪を外すためだ。……それと、過去の因縁だ。あんたたちには関係ない話だがな」
 テリオンは己の手首にはまった枷に視線を落とした。ヒースコートがじっとこちらをうかがっているのが分かる。
 ダリウスとは絶対に決着をつけなければいけない。同じ宝を狙う盗賊同士だから、というだけではない。きっと二人の道は別れるべくして別れたのだろう。それでも顔さえ合わせなければ、互いに知らないふりをしていられた。だがそれはもはや夢物語だ。あれだけ好き放題に言われ、宝も奪われて、テリオンは黙っていることなどできない。自身の心に決着をつけるためにも、緑竜石は取り返してみせる。
 当主は何故か眉をひそめていたが、やがて「あ」と声を上げた。
「テリオンさんにひとつお願いがあります」
 また頼みごとか。あごをしゃくって続きを促す。
「町へお買い物に行きたいのです。一緒についてきていただけませんか」
「買い物?」
 突然の申し出だった。そんなもの、使用人に任せればいいではないか。
「それはいいお考えです。いってらっしゃいませ、お嬢様」
 しかし使用人の筆頭たるヒースコートが許可を出した。テリオンは釈然としないまま屋敷を追い出され、門の外でしばらく待機した。
 足元に落ちる影が少しだけ伸びた頃。つばの広い帽子をかぶった当主が門から出てきた。服装はいつものエメラルドグリーンのドレスではなく、生成りの地味なワンピースだ。外出のためにめかしこむ、という概念とは正反対の格好だった。
「では、行ってきます」
 彼女の言葉を受けて、衛兵たちは嬉しそうに頭を下げた。つくづく部下に慕われているらしい。
「町にはいつもその格好で行ってるのか」
 ボルダーフォール名物の長い階段を降りながら問う。当主はそっとほほえんだ。
「ええ。あまり目立ちたくないのです。もっとも、わたしがレイヴァース家の当主だということは皆さん気づいているでしょうが……」
(そりゃ気づくだろうよ)
 服の素朴さはともかく、着ている本人の素材が良すぎる。裾のほつれた外套を着たテリオンが隣を歩いて、なんとか町人に溶け込めるくらいだろうか。どうやらテリオンはお守り役に抜擢されたらしい。いつもは衛兵か執事でも連れているのだろう。
 彼女はテリオンを連れて楽しそうに町を見て回った。露店のひさしに首を突っ込んでは、目を輝かせて商品を観察する。何かほしいものがあるわけではなく、ただ息抜きをしたいだけのようだ。普段は取引の許可を出した商人からものを買い取るだけなので、こういった店自体が珍しいのだろう。
 いちいち着替えて護衛をつけなければ町も歩けないのか。窮屈な身の上だな、と思う。たとえ罪人の腕輪をはめられていても、そういったたぐいの不自由さはテリオンにはなかった。
「テリオンさん」彼女はテリオンの外套の裾を引き、反対の手で店先に並ぶ木工品を指さした。「あれは珍しいものですよね。結構お値段もしますし……あんな形は見たことがありません」
「そうでもない。ウッドランドに伝わる護符だ。ヴィクターホロウで買ったら半値がいいところだぞ」
 すると当主はきらきらしたまなざしを向けてきた。
「さすが、お詳しいんですね。どんなことも見抜かれてしまいます」
「あんたの執事の罠は見抜けなかったがな」
 苦い気分で言ってやる。彼女はくすりと笑った。
 次々と当主が投げかける質問に適当に答えてやりながら、しばらく店を巡った。
「少し疲れてしまいました。休んでもいいですか?」
 当主はてくてく歩いて広場のベンチに座った。隣に座るのもおかしな気がして、テリオンはベンチの横に立つ。
 クリフランドの赤茶けた山並みを背にして、当主がつぶやいた。
「テリオンさん、先ほど屋敷で『過去の因縁』とおっしゃっていましたよね」
「……ああ」
 しまった、と心の中でつぶやく。きっと彼女はこの話をするために外出したのだ。買い物に連れ回してテリオンの意識をそらし、好機をうかがっていたのだろう。
 真摯な瞳がじっと彼を見つめる。
「その過去は、テリオンさんが時折見せる寂しそうな顔と関係あるのでしょうか?」
 思わず片手で顔を覆った。ダリウスに「誰も信じない目をしている」と指摘された時もそうだが、自分はそんなに表情が読みやすいのだろうか。
「余計なお世話だ」テリオンは早口になる。「人に裏切られたこともない、箱入り娘のお嬢様が知った口を——」
「あります」
 当主はきっぱりと言った。「裏切られたことは、ありますよ」
 その目に宿る光はサンランドの日差しよりも強かった。テリオンは気圧され、口をつぐむ。
 当主は静かに語りはじめた。
 十年ほど前、彼女の両親は馬車の事故により亡くなった。彼女は一人娘だったので、十にも満たない歳で当主の座を継ぐ羽目になった。
 途方に暮れる彼女のもとに、親戚や父母の友人と名乗る者たち——それまで顔も名前も知らなかった大勢の人々がやってきた。彼らは口々にお悔やみを言い、彼女を慰めて協力を申し出た。
 最初は「なんて親切なのだろう」と思った。けれども、実は彼らのほとんどがレイヴァース家の財産を目当てにしていた。彼女は言葉巧みに騙され、搾取され続けて、家宝として守るべき竜石まで奪われてしまった。
 当主はテリオンにまっすぐ視線を合わせる。
「あなたを放っておけなかった理由が分かりました。あなたも誰かに裏切られた。わたしと同じ痛みを知る人だったんですね」
 あたたかい寝床から突然嵐の中に放り出されたような境遇は、テリオンの過去にも通じる部分があった。彼女の言う「同じ痛み」の意味は、確かに理解できる。
「あんたは何故信じられる。裏切られる痛みを知っていながら、どうして……」
 どうして俺のことを信じられるんだ。
 喉奥に声を飲み込む。彼女はほほえみを浮かべ、遠い過去を思い出すように口調を和らげた。
「ヒースコートが教えてくれたんです。裏切られる痛みを知っているからこそ、人を信じる本当の意味が分かると」
「あいつが?」
「ええ。他愛のない約束から今回の件に至るまで、ヒースコートはいつもわたしの信頼に応えてくれた……だから、わたしは信じるのです」
 多くの人に裏切られても、自分のそばにはいつも誰かが寄り添っていた。彼女にとってはそれが救いだったという。
 明るい日光を浴びるボルダーフォールの町を愛おしげに眺めながら、当主は言葉を紡ぐ。
「あなたが誰に裏切られたのか、わたしには分かりません。ですが、裏切られた時『もう二度とこんな思いはしたくない』と思ったのでしょう。そう思えるほど、その人のことを信じていたのでしょう?」
 心臓が早鐘のように鳴りはじめるのが分かった。
 裏切られる前のテリオンは、自分にはダリウスしかいないと思い込んでいた。ダリウスはこの大陸でただ一人の家族であり、彼のいない生活など考えられなかった。
 だが今、兄弟はどこにもいない。それでもテリオンは当たり前のように生きている。
「なら、ご存知なのではないですか? 誰かを信じるからこそ強くなれる——そういうお気持ちを」
 当主はベンチから立ち上がり、静かに言い切る。
「テリオンさん。わたしは、あなたのことも信じています」
 ひたむきなまなざしとともに「それ」がテリオンに届けられた。形や言葉は違うけれど、いつも誰かが彼に与え続けていたもの——クリフランドの谷底で、ひとりになりながらもテリオンが求めたものが、その瞳の先に見えた気がした。
 テリオンはそっと視線を外した。今の自分では彼女に応えられなかった。
「もう買い物はいいのか」
「はい。いつもこうやって見て回るだけなんです。それでも楽しくて……今日はテリオンさんと一緒に歩けて良かったです」
 当主は花咲くような笑顔を見せる。ますます町娘とは程遠い雰囲気だ。
 少し目を細め、テリオンは彼女に背を向けた。
「ついてこい」
「えっ」
 行く先も告げず、さっさと歩き出す。彼女は戸惑いつつも隣に並んだ。
 向かった先は果物屋である。ボルダーフォールに寄る度に買い出しに来るので、場所は覚えていた。テリオンは山と積まれた赤い果実を指さして、
「二つくれ」
「はいよ」
 店主に小銭を差し出す。受け取ったそれを当主に渡すと、彼女は目を丸くした。
「リンゴ……ですか?」
 せっかくの外出なのに、何も成果がないのもどうかと思ったのだ。きっとヒースコートや衛兵たちは、テリオンにこういう役割を期待していたのではないか。しかし、変なものを与えて後で文句を言われるのも面倒だ。それなら食べものがいい。
「いらないなら俺がもらうぞ」
「あ、いえ! いただきます」
 当主は勢いよくリンゴにかじりついた。「おいっ」と制止をかけたが遅かった。案の定少し硬かったようで、彼女は顔をしかめる。
「そんな食べ方したことないだろ、あんた」
 丸かじりにも下手という概念があることを今初めて知った。仕方がないので食べかけのリンゴを奪い、短剣で切り分けてやった。当主は何故かにこにこしながらこちらの手元を注視している。
「テリオンさん、なんだかお兄さんみたいですね」
 一瞬、頭が漂白された。呆然と見返すテリオンに、当主は慌てた様子で取り繕う。
「あ、いえ、わたしにきょうだいはいないのですが、そんな気がして……」
 盗賊に言うべき台詞とは思えない。まったくどうかしている。
 じわじわと顔が熱を持ちはじめたことに気づかないふりをして、切ったリンゴを渡した。当主は爽やかな咀嚼音とともに果実をかじる。
「おいしいですね」
「ああ、悪くない味だ」
「リンゴ、お好きなんですか?」
「……別に」
 さすがに無理のある返答だったらしく、察した彼女はにっこり笑った。
 果実を食べ終わると、もう日が傾いていた。伸びゆく影から逃げるように階段を上り、テリオンは彼女を屋敷へ送り届けた。
 門の内側に入った当主はお辞儀をする。
「今日はありがとうございました。リンゴ、とってもおいしかったです。どうかお気をつけて……テリオンさんに盗公子様のご加護がありますように」
 聖火神に祈らないのは彼女なりの配慮だろうか。テリオンは肩をすくめ、きびすを返した。
「……ああ、行ってくる」
 返事はあえて聞かなかった。
 一人になったテリオンは、宿に帰ることにした。ボルダーフォールはそろそろ夜の顔を見せはじめた時刻だ。この町は区画によっては治安がよろしくないので、先に当主を送っておいて正解だった。
 そう考えた瞬間、彼女の言葉が脳裏に甦る。
(信じています、か……)
 どうしてそう言えるのだろう。思い返せば、当主は初めてテリオンと顔を合わせた瞬間から、ずっとあの態度を貫いていた。
 だが、テリオンだって裏切られる瞬間まではダリウスのことを信じていたのだ。無限の信頼だってあっさり反転することを、彼は知っている。だったら自分は何を頼りに生きていけばいいのだろう。
 すっかりあたりが暗くなった頃、今晩の宿にたどり着いた。割り当てられた部屋のドアを開け放つ。
 そこでは、学者が一つきりの机を占領して読書をしていた。
(今日はこいつと同じ部屋だったか)
 八人という大所帯の旅では、常に一人部屋がとれるとは限らない。だから相部屋には慣れているはずだった。それでも学者を見る度、テリオンは新鮮に動揺してしまう。
 北ストーンガード山道で学者と別れる際、突然テリオンを襲った予感はなんだったのだろう。あの時感じた胸のざわめきが嘘のように、学者はいつもどおりの様子で戻ってきた。
 彼が一度アトラスダムに帰ったのは、教え子を送り届けるためだけではなく、王国の助けを借りて辺獄の書の行方を調べるためでもあったらしい。しかし、結局真犯人と思しき秘書ルシアの行方は分からなかった。「だから私の方は後回しでいいよ。先にみんなの目的を優先させよう」という彼の申し出に、誰も文句を言わなかった。
 学者はこちらに気づき、本から顔を上げた。
「おかえり、テリオン」
 その呼びかけにむずむずしながら、無言であごを引く。未だに慣れない呼び方だ。理由を尋ねようにもなんだか返事を聞くのが恐ろしくて、まだ実行に移せていなかった。
「盗賊団の行き先について、ヒースコート氏はなんと言っていた?」
「まだ調べている最中だ。分かればいつものように連絡が入る」
 テリオンはつとめて事務的に答える。
 この町に来る前、ウェルスプリングに残ったエアハルトから便りが届いた。ガーレスが町から逃げ出したらしい。複数の部下を犠牲にしながらも守備隊を出し抜いたという話だ。おそらくはダリウスのもとに向かったのだろう。そちらも懸念事項の一つだった。
 学者は本を閉じて机に地図を広げた。テリオンにもよく見えるように体の位置をずらす。
「そうなると、次の目的地なのだが——」
 なめらかに話がはじまりかけたので、思わず口を挟む。
「なんであんたは毎度、俺に相談するんだ」
 ストーンガードでも似たような疑問を発した覚えがある。旅程を定めるのは学者の役割だ。それなのに彼はこうして度々テリオンに許可を取る。それがいつも不思議だった。
 学者はきょとんとした。
「それは……みんな、キミに従ってここまで旅をしてきたのだから、当たり前だろう?」
 予想外の方向からきた返事に、思考が止まった。咀嚼に時間がかかる。
 この学者は、どうやらテリオンを一行のまとめ役として認識していたらしい。
(そんなわけあるか。あいつらはあんたについてきてるんだ。俺じゃない!)
 そう大声で反論したかった。
 まさかずっと前からそう思われていたのか? 振り返れば、思い当たる節はいくつもあった。
(待てよ、もしかして他の奴らも……)
 ストーンガードではハンイットが「わたしたちを集めたのはあなたたち二人だろう」と言い、ウェルスプリングではオルベリクが「お前が俺をここまで導いた」と言っていた。
 もしかして彼らは皆、テリオンこそがリーダーであると思い込んでいたのか。
 ずきずきとこめかみが痛む。なんて厄介な勘違いだろう。だが訂正するのも難しそうだと思った時、いいアイデアを思いついた。
(いや、これはむしろ利用できる)
 まとめ役という立場を使って、旅の体制を自分に都合よく整えてしまえばいいのだ。テリオンは腕組みをして、わざと尊大な態度をとった。
「旅程の調整など俺にはできん。いつもどおり、行き先はあんたとオルベリクとハンイットで決めてくれ」
「分かったよ」
 学者は素直にうなずいた。やはりこちらの指示を——言葉を待っていたらしい。彼はご丁寧に膝の上に手をそろえている。
「……何か判断に困ることがあれば、聞かれたら答えるようにする」
「そうか!」
 学者はなんだか嬉しそうに返事をした。
 結局、彼の勘違いは放置することにした。今更である。実質的に学者が面倒事をすべて引き受けているのは変わらないのだから、好きにさせればいい。指示だけ飛ばせばいいのはかえって好都合だ。
 学者は柔らかくほほえむ。
「互いに目的まではあと少しの道のりかもしれないが……最後までよろしく頼むよ、テリオン」
 手は差し出されなかった。テリオンが取らないと分かっているからだろう。代わりに首肯してやった。
 旅を終えた後、この男はどうするのだろう。やはり教え子の待つアトラスダムに戻るのか。彼とはあくまで取引きが終わるまでの関係だが、少しだけ気になった。
「……この腕輪が外れるのも、そろそろか」
 テリオンはひとりごちる。竜石は残り二つ。黄竜石の行方は未だ不明だが、すでにダリウスが所持している可能性があった。もし予想が当たれば、旅の終わりはもうすぐだ。
「その腕輪の件なのだが」
 学者は急に立ち上がり、近寄ってきた。思わずのけぞるテリオンの右腕をとって、罪人の腕輪に触れる。
 かしゃり。存外に軽い音とともに、腕輪が二つに割れて床に落ちた。
「は」
 腕輪が、外れた? こいつが外したのか?
 目の前の光景が理解できず、テリオンは愕然として学者を見上げる。彼はかぶりを振った。
「私ではないよ。すでに外れていたんだ」
「まさか。一体いつから……」
 呆けたようにつぶやきながら、空になった手首をさする。嘘みたいに軽い。まだ信じられなかった。
 腕輪を外すことができるのは術者、すなわちヒースコートだけだ。ということは——
「以前キミがレイヴァース家を訪れた時ではないかな。私は確認していないが、ヒースコート氏が腕輪に触れたことがあったのでは?」
 テリオンはどきりとする。前回赤竜石を手に入れてノーブルコートから戻った後、屋敷で茶会の真似事に参加した。確かにあの時、執事に腕輪を触られた覚えがある。
(あんなに前から……? 何故だ)
 ヒースコートはテリオンを信用していないような口ぶりだったではないか。腕輪が外れたことにテリオンが気づけば、その瞬間に逃げ出すとは考えなかったのか。
「私には、ヒースコート氏が何を思ってそうしたのかは分からない。だが彼は、キミが必ず仕事を果たすと確信しているのだろう」
 学者の言葉がずんと胸に響く。
 彼は床から腕輪を拾い上げて、テリオンに渡した。反射的に受け取る。しんと冷えた温度が指先に伝わった。
 テリオンはヒースコートに期待をかけられていた。それは金属の腕輪よりもはるかに重いものだった。目に見えない気持ちの質量を、テリオンは生まれて初めて思い知った。
「お前はどうするんだ」と全方位から問いかけられている気分だった。レイヴァース家の当主、ヒースコート、学者や旅の連れたち、そしてダリウス——渦巻く思惑の中心にいるはずなのに、テリオンはただただ翻弄されるばかりだった。
 黙りこくったテリオンに、学者が声をかける。
「そうだ、私はオルベリクに用がある。先に寝ていていいよ、テリオン」
 学者は部屋の外に出ていった。混乱するテリオンに気を使ったのだろう。彼がどうして術の解除に気づけたのか、いつそれを察したのかは、結局聞きそびれてしまった。
 軽くなった手首と外れた腕輪を順番に見る。今、テリオンのそばには誰もいない。このまま逃げることだってできる。学者はそれを分かっていながら、あえて席を外した。テリオンが自分で答えを導けるように。
 まぶたを閉じて思考の淵に沈む。この際、他人の考えなど関係ない。自分が本当に求めているものは何なのか。今すぐ気楽な身分に戻ることか、それとも——砂に埋もれた細い糸を手繰り寄せるように、テリオンは慎重に疑問を紐解いた。
 やがて答えは出た。
(そんなものは自由なんかじゃない)
 早く腕輪を外して自由になりたい、とずっと願っていた。だが、こうして枷を失ってみれば、その考えは真逆だったと分かる。
 ダリウスとの決着をつけず、仕事も中途半端に投げ出すことは、テリオンの求めた自由ではない。今逃げてしまえば、一生後悔に足を取られることは目に見えていた。
 ゆっくりと息を吸った。痕のついた右手首に、割れた腕輪をあてがう。ぱちりと音がして再び枷がはまった。術をかけたわけではないので、少し力を込めればまた外せるだろう。
 テリオンは腕輪の重さと冷たさを感じながら、かたく決意した。
(俺は竜石を取り返す。この腕輪にかけて、必ず……!)
 わたしは、あなたのことも信じています——レイヴァース当主の声が耳の奥にこだましていた。

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