その瞳に星は宿る



「あら、また来たの? 暇なのねえあなた」
 紫の髪を結ったその女は、からかうように語尾を上げる。ふくらんだ鞄が彼女の生業を示していた。
「あんたこそ、まだいたのか」
 テリオンは肩をすくめた。
 最後の儀式を行うためにフレイムグレースへ向かう途中、彼らは平原の半ばで小さな村に立ち寄った。行きも一度訪れた、特産のリンゴで有名な村――学者たち四人と遭遇して旅の連れが一挙に増えた、ある意味で思い出深い場所だった。ちなみにリンゴはすでに収穫され、果樹園はずいぶん寂しい見た目になっている。
 宿に入ったテリオンたちは、ロビーでその女性と出くわした。後ろにいた神官、学者、剣士は驚きの声を上げる。リアナだけはぼんやりしていた。
「お前は……ヴァネッサだったか」
 オルベリクの誰何を受けて、薬師ヴァネッサはつややかな髪を手で軽く払った。
「ええそうよ。よく覚えてたわね」
「ああ、確かアーフェン君の……。そうか、キミがテリオンの協力者だったのか」
 学者が納得したように頭を縦に振る。
「別に協力したわけじゃないけど」
 ヴァネッサはつまらなさそうに鼻を鳴らす。テリオンはあごをしゃくり、
「こいつ、薬屋に痛い目に遭わされて改心したらしい」
「はあ!? あいつの影響なんて受けてないわよっ」
「どうだかな」
 テリオンが片眉を上げると、ヴァネッサは唇を曲げて不服そうな顔をした。
「ヴァネッサさんは、どうしてここに?」
 神官が首をかしげる。
「この村でひと稼ぎしてるだけよ。でも、前にやり手の薬師がいたみたいで、みんな薬の値段にうるさいのよねえ」
 四人はそれとなく顔を見合わせた。以前この村を訪れた時、彼らはその薬師が起こした騒動を解決した。事情を知らないリアナは無反応だった。
 ヴァネッサはテリオンをじろりと見やった。
「で、あの短剣は役に立ったの?」
「ああ、十分だった」
「大蛇の短剣のことか」
 オルベリクの質問に、テリオンは首肯する。
 ――少し前、強行軍でウィスパーミルを目指していた四人は、一旦足を休めるためこの村に立ち寄った。その時単独行動をとったテリオンは、道端で偶然ヴァネッサと鉢合わせた。
 かつてテリオンは薬屋とともにゴールドショアの洞窟で彼女と一戦交えている。あちらも顔を覚えていたようで、すぐに身構えた。が、テリオンはもはや彼女に興味などなかった。無視して立ち去ろうとすると、彼女は何を思ったか商談を持ちかけてきた。
「あなた、短剣使いだったわよね。これ買わない?」
 ヴァネッサは鞘に収まった武器を鞄から取り出す。
「……何の真似だ」
「たまたま手に入れたんだけど、私はもっといいものを持ってるのよね。どうせなら売ろうと思って。
 これ、刃に毒が仕込んであるの。マンダラヘビの毒よ」
「ほう」
 ヴァネッサは短剣を抜いて刃を見せる。マンダラヘビといえば、クリアブルックで薬屋と一緒に狩った魔物だ。あのヘビの毒はなかなか厄介だったと記憶している。
 薬屋は「味方を巻き込む」と言ってなかなか毒を使いたがらないが、こうして武器に付与すれば話は別だ。どうやらヴァネッサは毒の扱いに慣れているらしい。
「毒も薬も使いようよ。どう?」
「いくらだ」
 彼女の告げた値段は適正と思われた。取り引きが成立し、テリオンは大蛇の短剣を手に入れる。
 去り際、ヴァネッサは「アーフェンによろしく」と小さすぎる声で付け足していた――
「ま、こっちはさすがに手放す気はないけど」
 再会したヴァネッサはひらひらと自分の短剣を振る。鞘に収まった状態でもかなりの業物であると察せられた。以前話していた「もっといいもの」だろう。とはいえ金にがめつい彼女のことだから、本職の商人を連れてきたら交渉に乗るかもしれない。
 と、いきなり神官が一歩前に出た。
「ヴァネッサさん、わたしと一緒にフレイムグレースに来ていただけませんか」
「え?」
 突然の申し出に、ヴァネッサは目を丸くする。
「あなたは毒にくわしいのですよね。もしかして分析もできるのではありませんか」
「できないことはないけど……何のつもりよ」
「折り入って頼みたいことがあるのです」
 神官は小さな瓶を取り出した。
 あれは確か学者がゴールドショアの洞窟で見つけた毒だ。なるほど、黒炎教とやらの手がかりを掴むためにヴァネッサを頼る気らしい。毒の分析ならば薬屋よりも確実だろう。
「あなたに聖火の加護と祝福のあらんことを」
 神官が杖で床をつく。涼やかな音があたりに響き、ヴァネッサは感じ入ったようにぼうっとした。
「これが神官の導きなのね。私、今度こそ真っ当な道を……」
 テリオンは「それは無理だろ」と言いかけてやめた。
 会話の間に学者が宿と交渉していた。たまたま四部屋――神官とリアナは同室である――確保できたらしい。
 神官は部屋の鍵を受け取り、姉妹の手を引いた。
「ヴァネッサさんにはあとでご説明します。先にリアナを休ませますね」
「分かったわ」
 リアナはうつむいてこちらに背中を向ける。黒炎教から解放されて以来、ずっとあの調子だった。父親を復活させると息巻いていた時とは打って変わって消沈している。
 ここに至る道中、神官は常にリアナを気にかけていたが、一向に回復の兆しはなかった。テリオンやオルベリクはほとんど会話していないし、学者が話しかけてもまともな返事がなかった。
 部屋へ向かう神官たちを、ヴァネッサが横目で見送る。
「今の落ち込んでた子は誰なの?」
「オフィーリア君の姉妹のリアナさんだ。ウィスパーミルでは、救世主を名乗る男に利用されていてね」
 学者は簡単にあらましを説明した。毒の鑑定を依頼するにあたって話すべき内容だ、と判断したようだ。ヴァネッサは目をすがめる。
「ふうん。父親を蘇らせようと……ねえ。そんな方法、あるわけないのに」
 神官によれば、薬屋も似たようなことを言っていたらしい。薬師たちにとっての共通認識なのだろう。命に関わる生業だからこその台詞だ。
「断言できるのか」とオルベリクが問う。
「だって、蘇りなんてあったらたまらないわよ。今までどれだけの人が死んだと思うの?」
「確かに今の世は、死が不可逆な事象だから成り立っているね。もし蘇りが人だけでなく生物すべてに適用されるなら、あらゆるサイクルが狂ってしまうだろう」
「……サイラス」
 学者が話に割り込み、オルベリクが呆れたように名を呼ぶ。そういうことじゃないだろ、とテリオンも思う。
「そうよ。死者は蘇らないし、蘇っちゃいけないの」
 ヴァネッサは呆れたように腕組みをした。
(死者は蘇ってはいけない……)
 テリオンはふと、漆黒の洞窟で見たおかしな夢を思い出した。巨大な門が脳裏をよぎる。
「死の門って実際にあるものなのか」
 反射的に尋ねた先は学者だった。秀麗な顔がこちらを向く。
「聖火教における死の概念だね。実在するとは聞いたことがないが……どうしてそう思ったんだい?」
「いや……なんとなくだが」
 テリオンは目をそらす。夢で見た禍々しい門がどうしても頭から抜けなかった。ヴァネッサが首をひねる。
「考えたこともなかったわ。でも、門が本当にあったとして、死ぬ時しかくぐれないなら誰も存在を証明できないんじゃない?」
「確かにそのとおりだ」
 学者は相槌を打ち、不思議そうにこちらを見つめる。
「……そうだな」
 テリオンはかぶりを振って、余計な考えを追い出した。



 その日、フロストランドの空は珍しく晴れ渡っていた。
 あたたかな日差しを受けて雪の表面がじわりと潤む。白く染まった道を踏みしめ、一行は聖火教の総本山フレイムグレースを目指した。
 最後の山を回り込むと、大聖堂の尖塔が見える。目的地はすぐそこだった。
「あれは……ハンイットさん!」
 町の入り口に人影を見つけ、神官が駆け寄る。雪国で暮らしていただけあって足取りが軽い。手に持った採火燈が青色の軌跡を宙に残した。
 薄い朝焼け色の髪を持つ狩人が、手を挙げて神官を迎えた。傍らには雪豹がいて、後ろに薬屋、踊子、商人が控えている。さらに、狩人の真横には見知らぬ人物が立っていた。見覚えのある魔狼も一緒だ。
「もしかして、そちらの方は……」
「師匠のザンターだ」
 ハンイットは自慢げに胸を張った。ザンターと呼ばれた男は朗らかに笑う。
「よお。あんたらもハンイットの仲間なんだってな」
 赤目が倒されたことで、長きに渡る石化状態から元に戻ったのだ。ザンターはストーンガードでハンイットたちと合流し、ここまでやって来たらしい。
 神官が顔をほころばせる。
「本当におめでとうございます。ということは赤目は――」
「その話はあとだ。まずはオフィーリア、あなたの儀式を行おう」
 神官はほおを上気させてうなずいた。
 二手に別れた間に、それぞれ旅の連れを増やしていたらしい。おかげで合計十一人という大所帯になる。他の者たちも「久しぶり」と声をかけ合った。
 薬屋が黙ってこちらに近寄り、片手を差し出してきた。テリオンはぱん、と自分の手をぶつける。
「テリオンも元気みたいだな」
 互いに大きな怪我もなかった。別に心配などしていなかったが。テリオンは親指で背後を示し、
「おたくに会わせたいやつがいる」
「へ? 誰だよ」
 新たな連れがおずおずと顔を出した。薬屋はびっくりしたように眉を上げる。
「あんた……ヴァネッサか! うわ、久々だなあ。なんでテリオンと一緒に?」
「あ、あの神官に導かれたのよ」
 うつむく彼女の顔は赤くなっている。気まずさと寒さのせいと、他にも何かあるかもしれない。
「てことはあんた更生したのか……?」薬屋がにやにやした。
「詐欺まがいのことはやめたらしいが、まだ薬は高値で売ってるぞ」
「いいでしょそのことは! 技術の対価よ」
 正直、テリオンはヴァネッサの指針の方がよほど理解できる。それでも薬屋は嬉しそうにしていた。
 その時、薬屋の横から別の女が出てきた。
「へえ……あれだけのことをしたのにまだ薬師やっているのね、あなた」
 氷雪よりも冷たい声を発したのは、踊子プリムロゼだった。彼女はエメラルド色の半眼でヴァネッサをにらむ。
「な、何よその言い方……!」
 ヴァネッサは肩を怒らせた。薬屋が慌てて間に入る。
「待てって二人とも! ほ、ほら、これからオフィーリアの儀式があるから……」
 二人の女はにらみ合い、同時にそっぽを向いた。遠目にこちらを眺めていた神官は、苦笑とともに町への歩みを再開する。
 全員でぞろぞろとフレイムグレースの大通りを行進した。先頭をつとめるのはもちろん神官だ。
「おお、オフィーリア様だ」
「まだお若いのに大したものだねえ」
「ヨーセフ様もきっと門の中でお喜びだろう」
 背筋を伸ばして歩く神官を見て、人々がささやきあう。リアナはその陰でうなだれていた。
 一行はまっすぐ大聖堂に向かった。テリオンが初めて足を踏み入れる、聖火教の本拠地だ。門番たる聖火騎士が神官の姿を認め、扉を開け放つ。
「お帰りなさいませ、オフィーリア様、リアナ様」
 リアナがお咎めなしで迎えられたのは、学者の助言を受けた神官があらかじめ手紙を出したおかげだった。リアナは式年奉火の儀式を手伝ったことにして、無断で教会を抜け出した件を不問にしてもらったらしい。かなり無理のある理屈だが、そのあたりは学者がうまくやったのだろう。ウィスパーミルの事件については儀式を終えた後に報告するようだ。
 大聖堂に足を踏み入れて、神官は凛とした声を張る。
「オフィーリア、ただいま式年奉火の旅から戻りました」
 同じく手紙で帰還の時期を知らせていたため、教会側の準備も万端だった。礼拝堂には聖火教の要職にあると思しき者たちがずらりと並んでいた。
 その中でもひときわ豪奢な服をまとった男が歩み出る。教皇――すなわち聖火教会のトップだ。盗賊風情がおいそれと対面していい相手ではない。テリオンは落ち着かない気分になった。
 教皇は鷹揚にうなずいた。
「聖火の運び手、オフィーリアよ。フレイムグレースの大聖火へ注ぎ火を」
「はい」
 神官はしずしずと足を進めた。テリオンたちは付き人として長椅子に案内される。
 最後の儀式がはじまった。神官は大聖火の前に立ち、いつもと同じ祈りの句を唱える。
(これで式年奉火も終わりか……)
 ゆらめく炎を眺めながら、テリオンは自分がボルダーフォールから旅立った日に思いを馳せた。
 当時、彼は式年奉火の運び手を避けるために南を目指した。にもかかわらず運び手本人と鉢合わせた挙げ句、旅に同行する羽目になってしまった。
 はじめは自らの不運に嫌気が差した。しかし今、テリオンの心は不思議と凪いでいる。
 彼がこの場にいるのは誰かに流されたせいではなく、自分で決めたことだった。罪人の腕輪が外れようと、自らの意思でこうして最後まで神官の旅に付き合ったのだ。おかげで珍しいものが見られた。それは多分、どんなに腕の良い盗賊でも盗めない「経験」だろう。
 一番前の列に座ったリアナはぴくりとも動かず、神官の背中を見つめていた。
 採火燈から炎が注がれ、大聖火が勢いを増す。礼拝堂の中がふわりとあたたかくなった。
「式年奉火の儀式を終えたことを、ここに報告いたします」
 祭壇から戻り、教皇に相対した彼女はまるで別人のようだった。テリオンは思わず「神々しい」という単語を脳裏に浮かべた。
「よくぞ大役を果たした。しばしの休息の後、再び日々の務めに励むがよい」
「はい、教皇聖下」
 一礼した神官はこちらに戻ってきた。彼女はリアナに目を合わせてほほえみ、続いて学者に顔を向ける。
「サイラスさん、本当に……ありがとうございました」
「こちらこそ。得難い体験をさせてもらったよ」
 二人のやりとりはそれだけだった。必要な会話はすでに済ませていたのだろう。
「オフィーリアさん、お疲れさま……」
 トレサが気落ちした様子で駆け寄る。「もうすぐお別れなのが寂しい」とはっきり顔に書いてあった。神官は彼女の頭をそっとなでる。
「そんな顔をしないでください、トレサさん。そうだ、みなさんとお話ししたいことがたくさんあります。あとで……その、一緒に酒場に行きませんか?」
 神官は照れくさそうに提案した。彼女がこういう誘いをかけることは滅多にない。
「よーし! ……今度こそ、オフィーリアのお祝いだな」
 勢いよく立ち上がった薬屋は、慌てて声のボリュームを落とした。オフィーリアは彼に笑いかけて、
「アーフェンさん、今日はわたしもお酒を飲みたいです」
「え、マジで?」
「はいっ」
 彼女はあまり酒に慣れていない。飲み過ぎたら面倒だなとテリオンは思ったが、視界の隅で踊子と学者が何やら相談していたので、ペース配分は彼女たちがなんとかするのだろう。
 神官は狩人師弟の正面に移動する。
「よろしければザンターさんもいかがですか。ぜひ狩りのお話を聞きたいです」
「お、いいのか? 酒の席じゃあ遠慮しないからな」
 ザンターが身を乗り出せば、ハンイットがその肩にぽんと手を置いた。
「師匠……頼むから節度は守ってくれ。それと、ほら吹きもなしだ」
「分かってる分かってる」
 ザンターは景気よく応じた。今晩の打ち上げはなかなかに荒れそうである。
 神官は微笑して皆を見回した。
「わたしはまだ少しやることがあるので、みなさんは先に宿に行ってください。教会で部屋をとっています。酒場は夜に行きましょう」
 彼らは「楽しみだなー」「何食べよう?」とにぎやかに喋りながら大聖堂を出ていく。
 テリオンも後に続こうとして、突然何者かにマフラーの端を掴まれた。不可抗力でその場に留まる。
「で、私はどうすればいいのかしら。打ち上げには行かないからね?」
 彼を引き止めたのはヴァネッサだった。彼女は残ったテリオンと神官をじろじろ見比べる。彼女が打ち上げに参加しないのは、過去の出来事を思えば当然だろう。
 神官は柔和な笑みを浮かべた。
「ええ、すぐご案内します。その前にリアナを――」
「大丈夫よオフィーリア。私、一人で行けるわ」
 リアナは弱々しく笑うと、見る者を不安にさせる足取りで居住区へ歩いていった。
 ヴァネッサはその後ろ姿を眺め、不意に口を開く。
「あの子のことなんだけど」
 きょとんとする神官に構わず、女薬師はぺらぺらと喋りはじめた。
「一人きりでぼうっとさせちゃだめよ。悩む時間をなるべく減らして、ひたすら仕事をさせるの。忙しくしていたら、そのうち心の整理がつくわ」
 それは助言だった。ヴァネッサはほとんどリアナと関わりがなかったはずだが、薬師として――もしくは彼女本人の性質として、一応リアナを気にしていたらしい。
 思い返せば、ダリウスと別れた直後のテリオンにも、あまり悩んでいる暇はなかった。とにかく手を動かして盗まなければ、食事もままならなかったからだ。忙しい日々を繰り返すうちにだんだん心が麻痺していき、気づけばある程度は立ち直っていた。それがいいことなのか悪いことなのかは分からないが、人の精神とはそういうものなのだろう。
 神官はぱあっと顔をほころばせた。
「ありがとうございます、ヴァネッサさん。薬師の方は心も健康にできるのですね」
「ふふん、いいこと言うじゃない」
 ヴァネッサは得意満面で胸を反らす。この二人、案外波長が合うのかもしれない。テリオンは思わぬ光景を見た気分だ。
「では、こちらに来てください」神官に案内され、ヴァネッサは居住区へと消えていく。
 その間際に女薬師が放ったつぶやきが、テリオンの耳に印象深く残った。
 ――みんな自分でどうにか区切りをつけるしかないのよ。生きている限りはね。



「お、テリオンおかえりー」
 今日の宿は薬屋と同室だった。ドアを開けた途端、テリオンは鼻をひくつかせる。
「薬くさいな」
「悪い悪い、ちょっと道具整理しててさ」
 薬屋はベッドの上に鞄の中身を広げ、何やら見慣れぬものをいじっている。
「なんだそれは」
 彼の大きな手の中に、古びた茶色の瓶があった。ガラスが曇っていて中は見えない。
「多分薬瓶じゃねえかな。マルサリムの遺跡で赤目にぶつけられたんだよ。あいつ、なんでこんなもん持ってたのかね」
「ふうん」
 赤目とやらがどんな魔物かは知らないが、おかしな話だ。ただの魔物が瓶など使うだろうか。
 テリオンが瞬きすると、薬屋の不思議そうな顔に、夢で見た光景が重なった。
(……ん?)
 漆黒の洞窟で見た夢の中で、テリオンはこれと似た瓶を拾い上げようとした。それが叶わなかったことで、自分は実体を失った状態だと悟ることになったのだが……。
 彼はつかつかと薬屋に歩み寄り、手から瓶を奪う。「ちょ、何すんだよ」という抗議は聞き流した。
 じっくり瓶を眺めるうちに、胸の鼓動が早まっていく。
 テリオンが意識を失う度に見る夢は、過去の記憶を再現したものである可能性が高い。となると、今回の夢はダリウスに崖から落とされた直後の出来事かもしれなかった。あの時、瀕死の傷を負った自分は魂となって――
 薬屋がしきりに唇を動かすが、声が耳に入らない。テリオンは思考の淵に溺れぬよう、外套の胸元をぎゅっと掴んだ。
「蘇りなどありえない」と薬師連中は口を揃えて言っていた。神官もリアナやマティアスに対してはっきりと否定したし、テリオンは彼女たちの考えを支持していた。
 それなのに、記憶から導き出されたのは正反対の答えだった。
(そうだ……俺は一度死の門をくぐって、向こう側から戻ってきたんだ)

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