その瞳に星は宿る



「今のが式年奉火の注ぎ火か……実に貴重な経験だったよ!」
 セントブリッジではじめての儀式を終えた後、サイラスは興奮しながらオフィーリアに感想を語った。普段の冷静な教師の姿とは大違いの、無邪気な様子で。
「ふふ、サイラスさんのためにも、最後まで儀式をやり遂げねばなりませんね」
 オフィーリアは思わず笑みをこぼす。
 それは嘘偽りのない本心であり、大切な誓いでもあった。彼を喜ばせたい、あの笑顔をまた見たいという気持ちは静かに胸の中で燃え続けた。
 ――まぶたに炎が映る。いつもオフィーリアがそばで見ていた、青色に揺らめく導きの火だ。
 彼女はゆっくりと目を開けた。
「サイラスさん……!」
 頼もしいローブの背が視界に入る。衣に描かれた蔓草模様が闇に浮かび上がった。
「起きたんだね、オフィーリア君」
 彼は前方を見つめたまま口を開く。
「は、はい。わたしは……」
 ぼんやりとあたりを確認して、はっとする。足元から発せられる黒い光――オフィーリアたちから力を奪った魔法陣が薄れていた。どうやらサイラスが効力を弱めているらしい。その証拠に、淡い光が彼女たちを包んでいる。これは神官の魔法、守護のヴェールだ。
 そういえば、サイラスには気配を隠す学者の魔法があった。あれを使ってオフィーリアたちを助けに来たに違いない。テリオンの予告どおり、いいタイミングで!
「おのれ……」
 舞台上ではマティアスが顔を険しくする。リアナはその隣で顔色を失っていた。
 オフィーリアは杖を支えにして立ち上がる。サイラスが片手で魔導書を広げた。
「私が防御を固める。その間にキミは二人を目覚めさせてくれ。行くよ」
「はいっ」
 マティアスの部下が間髪入れずに精霊石を投じた。飛来する闇色の輝きを見極め、サイラスは炎の大魔法で迎え撃つ。ぶつかりあった魔力が風を起こした。その隙を見てオフィーリアは復活魔法を唱える。
「オルベリクさん、テリオンさん……!」
 村人たちと違って、二人は無事に起き上がった。
「サイラス、いつの間に……!?」
 オルベリクが驚愕の声を上げた。テリオンも無言で目を丸くしている。サイラスはマティアスの部下をにらみ、口を動かす。
「説明は後だ。オフィーリア君、リアナさんのことはキミに任せるよ」
「……分かりました」
 彼女は杖を握りしめて覚悟を決めた。リアナが死者の復活を願ったから聖火が黒く染まり、村人たちが倒れた。ならば、反対に彼女の心を取り戻せば儀式は止まるだろう。
「オルベリクは黒炎教の信者を、テリオンはマティアスを。私は守護のヴェールで魔法陣を抑え続ける」
「承知した」
 手短に作戦をまとめ、四人はそれぞれの方向に散った。
「一番槍!」
 真っ先にオルベリクが槍を突き、マティアスの部下――サイラスが黒炎教の信者と呼んだ者たちをなぎ倒す。その脇を抜けて、オフィーリアはテリオンとともに祭壇に向かった。
「ほう、なかなかやりますね」
 追い詰められたマティアスはあくまで余裕の表情だ。
「あなたたちには負けません!」
 オフィーリアは杖で床を突き、視線を横にすべらせた。リアナが怯えたように肩を揺らす。
「儀式を止めたければリアナを殺すしかありません。あなたにそれができれば……ですが」
 マティアスはくつくつと笑う。オフィーリアが言い返す前に、珍しくテリオンが声を張った。
「そんなわけあるか。そいつの気持ちが変わればいいだけだ」
 ――あんたが変えてやるんだろ?
 添えられた言葉がオフィーリアの心を支えた。暗闇に押しつぶされそうになっても、自分のそばには仲間がいてくれる。彼女はしっかりと前を見据えた。
「テリオンさん、マティアスさんをお願いできますか」
 彼は答えず、前に踏み込む。軽やかな跳躍とともに真新しい短剣が振りかぶられた。マティアスが杖で防ぎ、甲高い金属音が響く。
 オフィーリアは姉妹に向き直り、真正面から呼びかけた。
「リアナ!」
 彼女はわなわなと震えながら、自分の体を抱きしめる。
「だめなの。私、どうしても父様に会いたい……」
 オフィーリアは一歩ずつ歩み寄った。採火燈の黒い炎はますます燃え盛り、リアナの横顔を暗く照らし出す。サイラスはいつまで魔法陣を抑え続けられるだろう。早く聖火の色を戻さなければ、村人たちの命に関わる。
 こんな時、ヨーセフ大司教ならどうしたのか。逸る気持ちをおさえて考えを巡らせ、オフィーリアは閃いた。
「リアナ、思い出して。いつか大聖堂の裏で死んだ小鳥を見つけた時のことを――父様に言われた言葉を!」
 幼き頃のオフィーリアとリアナは、死というものをきちんと理解していなかった。どんなに手を尽くしても蘇らない小鳥に絶望し、大司教にすがりついた。しかし――
「死んだものが生き返ることはないんだ」
 彼はきっぱりと告げた。
「ヨーセフ父様は言っていました。去りし者は心の中で生き続ける。だから自分がいなくなった時は、心の中に生きる姿を思い出してほしいと!」
 今思えば、あの話は子ども向けに聖火教の教えを噛み砕いたものだった。おかげで当時のオフィーリアは、肉親を失った悲しみから真の意味で抜け出すことができた。
 去りし者――ヨーセフからリアナへメッセージを届けるために、オフィーリアはここにいる。
(どうか伝わって、心を取り戻して、リアナ……!)
 できる限りの言葉は尽くした。後は、まなざしに気持ちを込めることしかできない。
 リアナは大きく目を開き、一筋の涙を流した。がくりと両膝を崩す。
「ああ、父様……!」
 その慟哭と同時に、あたりを照らす光が変化した。種火は晴れ空のような色を取り戻していく。
「ば、ばかな! 黒呪炎が弱まって……」
 叫んだマティアスに押しのけられ、テリオンが飛び退いた。サイラスが張ったヴェールが薄れ、魔法陣の光はすっかり消え失せる。
 オフィーリアは座りこむリアナを起こして祭壇に寄りかからせた。次いで、マティアスを強くにらみつける。
「許さない、リアナの心を弄んで!」
 三人の信者はすでにオルベリクが片付けた。舞台にそろった四人に対し、マティアスはたった一人で杖を構える。オフィーリアを刺す彼の目は、まるで先ほどの黒い炎が宿ったようだった。
「あなたは最後まで私の邪魔をするのですね。リアナが式年奉火の旅に出ていれば、すべてがうまくいったものを。それが何故、あなたが儀式を行っているのです!」
 サイラスが黙って隣に並ぶ。テリオンが、オルベリクが前に出た。
「忌々しいオフィーリアめ……この場で黒呪炎の贄となれ!」
 マティアスは杖を振りかざした。
 黒い竜巻が巻き起こる。防壁を張り直す暇はなく、オフィーリアは学者に背を支えられてなんとか風に耐えた。
 息もつく間もなくマティアスは闇色の炎を呼んだ。見たこともない魔法に翻弄され、オルベリクたちは一向に近づけない。
 手をこまねいていると、杖を取り出したサイラスに肩を叩かれた。
「オフィーリア君、私は少し外すよ」
「あ、はい」
 学者が後ろに下がる。また何か策があるのだろう、と彼女は確信した。
 マティアスは魔力の壁の向こうから、オフィーリアに声を投げかける。
「あなたがどんなに言葉を尽くそうとも過去の幸せは戻らない。死者の復活を支えに生きていく――それ以外にリアナにどのような救いがあるのか」
 彼の言葉は切実な響きを伴っていた。いつかマティアスも同じように考えたことがあるのか、とオフィーリアは推測した。
「心の支えや救いは身近にあります。たとえ小さなものでも、そのつながりが人を立ち直らせるのです」
 魔法をかいくぐったテリオンが短剣で斬りかかった。マティアスの衣と皮膚を裂いたが、深手には至らない。今度はオルベリクが槍で立ち向かう。連続して刺突を浴びせ、確実に手傷を負わせた。
 二人の波状攻撃を魔法の壁や強化した肉体で捌きながら、マティアスはなおも叫ぶ。
「人の絆は脆いものです。いつでもあっけなく壊れてしまう」
「いいえ、壊すことなんてできない。わたしはリアナを信じているから」
「大した自信ですね。それがいつまで保ちますか?」
 マティアスの足元から黒い炎が噴出した。炎は天井近くまで膨れ上がり、こちらに降ってくる。いきなりのことで避けられず、オフィーリアの体に炎がまとわりついた。痛みはないが、喉が塞がれるような違和感を覚えた。
「これは……!」
 身を巡る魔力の流れが途絶えたようだった。もしや、これがサイラスが懸念していた魔法を封じる術なのか。
「オフィーリア君!」
 その瞬間、背後のサイラスに腕をとられた。引き寄せられた先は、白い光を放つ円の内側だ。そこに入った途端、オフィーリアの魔力が復活する。
「まさか……私の魔法陣を書き換えたのですか」
 気づいたマティアスが学者をにらみつければ、
「あなたがゴールドショアで手の内をさらしてくれたおかげさ」
 サイラスは涼しい顔で言い放った。三人が戦っている最中、彼は杖でマティアスの魔法陣を書き直していたらしい。オルベリクに披露した「練習」の成果だ。
 マティアスは苦々しげにリアナを振り返る。彼女は目を伏せ、思い出に残る亡父の声に耳を傾けているようだった。
「か細き絆よりも亡き父の復活こそ彼女の心の支えになるというもの。リアナの悲しみと絶望は、あなたごときでは救えないのです」
「わたしはかつてリアナの優しさに救われました。家族の死にふさぎ込んでいたわたしを救い出してくれました」
 オフィーリアは杖を掲げる。込めるのは祈りと導きの力だ。
「だから今度はわたしが助けます。あなたには負けません!」
 マティアスは顔を歪めた。
「やはりあなたは邪魔な存在ですね……消えていただきましょう。そうすれば、リアナがすがるものは私とガルデラ神だけとなる!」
 その体から一気に魔力が膨れ上がる。大技が来る、とオフィーリアは確信した。マティアスは執拗な会話によってこちらの気をそらしながら、準備を続けていたのだ。
「聖火神エルフリックよ――!」
 だがそれはオフィーリアも同じだった。早口で奥義を唱える。杖から放たれた光が向かう先は、誰よりもすばやく動けるテリオンだった。
 マティアスの杖から漆黒の雷がほとばしる。サイラスの扱う大魔法よりも範囲が広い。網膜を塗りつぶす光が舞台全体に走り、大きな衝撃が洞窟を揺らす。オフィーリアは強烈な痺れに全身を貫かれ、悲鳴を漏らした。
「くうっ……」
 手から杖が落ちた。狭い視界の中で、膝をつく仲間たちが見える。かろうじて雷を受けずに済んだリアナが呆然と目を見開いていた。
「これでようやく終わりですね」
 マティアスは勝ち誇った笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。
「あ、れ……?」
 しかし、彼は途中で前のめりになって倒れ込んだ。
 いつの間にか、その背後にテリオンがいた。神出鬼没の盗賊という通り名を持つ彼は、短剣を軽く振って血を飛ばす。エルフリックの奥義――ごく短時間だけ神速の行動を可能とするもの――を受けた彼が、マティアスを刺したらしい。
「ばかな……こ、こんな、ばかな!」
 テリオンは短剣をもてあそびながら、地に伏せたマティアスを冷たく見下ろす。
「あんた、あれだけ部下に毒を配ったくせに、気づかなかったのか?」
 彼は声を出せないオフィーリアのもとにやってきて、「ほら」とハーブを差し出す。続いて彼は同じものを他の二人にも分け与えた。
「そうか、あれは大蛇の短剣……刃に毒が仕込まれていたのだね。それが切り傷から体内に入り、マティアスを蝕んだのだろう」
 痺れから復帰したサイラスが立ち上がり、いつものように分析した。
 それだけではない。テリオンはハーブを人数分用意していた。いつの間にか毒も薬も立派に使いこなしている。きっと、彼は薬師アーフェンに影響を受け、ひそかに技を磨いていたのだ。
 まだ息のあるマティアスは、這いつくばったまま虚空に手を伸ばす。地面にじわりと血が広がった。
「私が、こんな世間知らずの小娘に……」
 オフィーリアはぐったりしたリアナのそばに行き、その肩を抱いた。
「あなたの言うとおり、わたしたちはただの小娘です。でも二人とも父様の愛を知っています。それがわたしたちに力を与えてくれたのです」
 マティアスは空虚な笑みを浮かべた。
「それではせいぜい、その愛とやらにすがって生きていけばいい。私はそんなもの、いら……な……」
 言葉の途中で手が落ちる。命を失った彼の体は灰のようになって崩れた。異形と化したイヴォン学長と同じ最期を迎えたように見えた。これが魔神の力の代償なのか。
 オフィーリアの胸には悲しみが残る。結局、マティアスがどのような背景を持つのか、何を求めていたのか、ほとんど分からなかった。せめて魂だけは正しく聖火に導かれたと思うしかない。
 リアナは我に返ったように、ぶるりと震え上がった。
「オフィーリア……わ、私は……」
「いいのよリアナ。あなたが無事だった。今はそれでいいでしょ?」
 話すべきことはたくさんある。けれどもリアナはもう限界だろう。父親が死んでからずっと、激しい感情の波にさらされ続けていたはずだ。今だって、オフィーリアが支える体にはほとんど力が入っていなかった。
 サイラスやオルベリクが広場を回って村人の容態を確認している。黒呪炎が消えたおかげか、ちらほら起き上がる者もいた。テリオンが「どうやら全員無事らしい」と報告してくれる。
 オフィーリアは祭壇に置かれた採火燈を持ち上げる。懐かしい重さとあたたかさだ。
「さあ、一緒に帰りましょう」
 そっと姉妹の手をとれば、小さく握り返された。オフィーリアはやっと取り戻したぬくもりに、安堵の息を吐いた。



「みなさん、一体何があったのですか……?」
 ウィスパーミルの小道で子どもを遊ばせていたテラキアは、洞窟から戻ったオフィーリアたちを見て凍りついた。後ろの村人たちも含めて、全員が疲労困憊の状態で歩いてきたのだ。さぞ異様な光景だっただろう。
「お母さん!」
 テラキアのそばから子どもが飛び出し、母親に駆け寄る。洞窟に向かう前に挨拶した男の子だった。
「ああ……ごめんなさい。もうあなたを置いてけぼりにしないわ」
 母親に抱きしめられ、子どもは目をぱちくりさせた。謝罪の理由が分からないようだった。
「あの子の父親は、流行病で亡くなったそうです」
 テラキアはそっとまぶたを伏せる。オフィーリアは胸元に手を置いた。
 きっとあの母親は、自分が本当に目を向けるべきものに気づいたのだろう。他の村人たちも憑き物が落ちたような顔をしていた。
「オフィーリア……」
 そばにいたリアナが不安そうに衣の裾を引く。今の彼女にこの光景を見せるのは酷だった、と思い直す。
「すみません、わたしはリアナを宿に連れて行きます」
「ああ、あとのことは私たちに任せてくれ」
 サイラスに送り出され、村人の中から見つけた宿屋の主人とともに輪を抜け出した。
 宿の一室にリアナを案内して、無理やりベッドに押し込む。
「リアナ、疲れたでしょう。今日はゆっくり休んで、ね?」
「ごめんなさい、そうさせて……」
 リアナはすぐにまぶたを閉じた。意識が落ちる間際、「父様……」と消えそうな声を漏らす。
 オフィーリアはベッドのそばに椅子を持ってきて、しばらくその寝顔を見つめた。眠る姉妹は時折苦しそうに顔を歪める。今のリアナは罪悪感にとらわれているのだ。
(わたしに一体何ができるのでしょう……教えてください、父様)
 取り戻した採火燈に向かって呼びかけるが、答えは出ない。思考に浸るうちに炎の温度が伝わって、とろとろと眠気に誘われた。
 ――いつの間にかあたりは真っ暗になっていた。しかし、漆黒の洞窟を満たす冷たい闇とは違って、なんだか馴染みのある気配がする。ここは夢の中だ、とオフィーリアは何故か理解した。
 遠くにぽつんと青い光が見えた。小さな炎は揺らめきながら近づいてくる。
(父様……)
 柔和な顔が闇に浮かび上がった。懐かしきヨーセフ大司教が、聖火を灯した採火燈を片手に持っていた。オフィーリアはこらえきれず、迎えに走る。
 彼に会うのは旅立ちの日以来だ。夢の中の養父は最後に見た時よりもずっと元気そうだった。オフィーリアにとっては病床に伏せた姿よりも、こうして背筋を伸ばして人々を導く姿の方が印象に残っていた。
(夢に出てきてくださるなんて……ありがとうございます)
 彼は何も言わなかったが、それで十分だった。柔らかいまなざしの中にいるだけで、胸がいっぱいになる。
(先にリアナの夢に行ったのですよね。そうでしょう?)
 ヨーセフは口を閉ざしたまま、オフィーリアの胸元を指した。
(え……?)
 彼は採火燈とオフィーリアの間で、幾度も人差し指を往復させる。その仕草は何を意味するのだろう。
 そういえば原初の洞窟から採火燈を持ち帰った日、オフィーリアは彼から不思議な話を聞いた。
 十数年前、ヨーセフは孤児となった彼女を引き取る際に預言を得たらしい。それは、聖火を携えたオフィーリアが彼を訪ねてくる夢だったという。
 もし、この夢も何かの啓示だとしたら。彼は大切なことを伝えようとしているのではないか。
 表情を探るように闇の中で目を凝らす。聖火は一層まばゆく燃え上がった。
 ――肩にあたたかい重みが触れた。オフィーリアはぱちりとまぶたを開ける。
「おっと。起こしてしまったかな」
 目の前にサイラスがいた。彼は椅子に座ったオフィーリアの肩にブランケットをかけていたところだった。フロントで借りたのだろうか。
 きっとテリオンだったら彼女を起こさずやり遂げただろうに。オフィーリアはくすりと笑う。
「もう十分寝ました」
「そうは見えないよ。リアナさんも休んでいることだ、キミも――」
「サイラスさん」
 いつもの長広舌を静かに遮り、オフィーリアは唇の前に人差し指を立てた。
「リアナを起こしてしまいます。外に出ませんか」
 サイラスは肩の力を抜いて承諾した。
 外はすっかり夜になっていた。天上に広がる漆黒のキャンバスに、無数の星がちかちかと瞬いている。フレイムグレースほどではないが、きんと空気が冷えていた。
「オルベリクさんとテリオンさんは?」
 村には誰もいない。動くものといえば、黒々とした影に染まる風車だけだ。村人たちは自宅に戻って家族団らんを楽しんでいるのだろう。
「彼らは酒場で先に食事をとっているよ。私はキミを呼びに来たんだ」
「そうでしたか。あの……少しの間だけ、お話ししてもいいですか」
「もちろん」
 二人は道と畑を仕切る木の柵に腰掛けた。自然と視線は星空へ向かう。
「ウィスパーミルはこれからどうなるのでしょうか……」
 教会に黒炎教の件を打ち明ければ、村人たちは取り調べを受けるだろう。難しい顔をするオフィーリアの横で、サイラスも同じように空を見上げた。
「村人はくわしい事情をほとんど知らされていなかったようだ。マティアスの信仰対象が魔神だったと知って、みんな驚いていたよ。だからそちらは問題ないだろう。
 しかし、生き残った黒炎教の関係者は皆無だ。例によって毒を飲んでしまってね。真相を解き明かすには、少々時間がかかりそうだ」
「そうですか……」
 あのサイラスが「時間がかかる」と言うくらいだ。マティアスの正体が判明する日など来るのだろうか。
「リアナのことも、教会に話さなければいけませんね」
「心配ないさ。種火は戻ったのだから、黒炎教の情報と取り引きすればリアナさんの処分は免れる。そちらは私がなんとかするよ」
「ありがとうございます」
 この複雑な状況を整理し、外部との交渉を引き受けてくれる人が身近にいて、本当に助かった。というより、サイラスがいなければこの旅は成り立たなかっただろう。
 学者の髪の上を星の光が流れる。彼は表情を和らげ、オフィーリアを見つめた。
「ただ、リアナさんの心については別だ。傷ついた彼女を導くことができるのは――」
「わたしだけ、ですよね」
 夢に出てきたヨーセフ大司教も、それを頼もうとしていたのだろう。いつかリアナが立ち直る日まで、オフィーリアがそばで支えるのだ。
「そろそろ行こう。酒場で二人が待っているよ」
「そうですね。リアナにもあとで食事を持っていきましょう」
 木の柵から降りる時、サイラスはさりげなく手を貸してくれた。
 酒場へ向かう道を歩きながら、サイラスが再び口を開く。
「そういえば、ハンイット君たちと連絡が取れたよ」
 オフィーリアが寝ている間に手紙が届いたらしい。サイラスはどことなく弾んだ声で、
「赤目の討伐は無事に完了したそうだ。まだ確認できていないが、おそらくザンター氏も石化状態から復帰しただろう、とのことだった」
「まあ……! それは良かった」
 思わず笑みがこぼれる。ハンイットはついに師匠と再会するのだ。常に凛々しい彼女の顔も、今は喜びを抑えきれずに緩んでいるのだろう。
 サイラスも嬉しそうにうなずく。
「彼女たちは海路を使ってフレイムグレースを目指すらしい。もしかするとあちらが先に到着するかもしれないな。オフィーリア君たちはゆっくり戻ればいい、と手紙にあったよ」
「分かりました」
 しかし、いつまでも旅を続けるわけにはいかない。リアナの体調を気遣いつつ、ほどなく村を出発することになるだろう。むしろ、ウィスパーミルにずっと留まるほうが彼女にとっては辛いかもしれない。
 明るい夜の底に酒場の看板が見えた。この短い道のりと同じように、オフィーリアにとっての終着点はもう間近だった。
「フレイムグレースに帰れば、わたしの旅はそこで終わり……なのですね」
 どうしても語尾に寂寥がにじんでしまう。
 ハンイットもオフィーリアも、それぞれ旅の目的を達成した。もう仲間と一緒にいる理由はない。帰るべき家もやるべき仕事もあるのだから、速やかに以前の生活に戻らなくてはならなかった。
 オフィーリアは足を止め、意を決してサイラスに向き直る。今を逃せば機会はない。彼女は学者に尋ねたいことがあった。
「サイラスさん。わたしに……いえ、わたしたちに何か隠していることはありませんか」
「え?」
「何でもいいから、話してほしいんです」
 オフィーリアは胸の前でぎゅうと指を組む。
 近頃、彼の様子はどことなく変化した。おそらく直接の原因はストーンガードで起こったあの事件だ。教え子テレーズを巻き込んだことへの反省が、彼に影響を与えたに違いない。表面上は何も変わっていないのに、彼の心はそれまで以上に不透明になったようだった。
「そうか、キミを不安にさせてしまったんだね。すまなかった。だがこちらにも少し事情があって……」
 サイラスは柳眉をひそめる。事情というのは、ウォルド王国に関連することだろう。それを分かっていて、オフィーリアは一歩踏み込んだ。
「なら、わたしがだめでも、テリオンさんには話してあげてください!」
「それは……」
 サイラスはぱちりと目を瞬いた。
 学者は盗賊に何らかの期待を寄せている。それはテリオン本人を除いた仲間たち全員の共通認識だった。にもかかわらず二人はいつまで経っても遠い存在で、オフィーリアはもどかしい気持ちになる。
「必要なことは話しているつもりだったのだが……」
「その逆です。必要なことしか話していないのでは?」
 オフィーリアが詰め寄ると、彼は返答に窮した。
「……そうだったのかもしれない。あまり、テリオンに負担をかけたくないんだ」
 サイラスは憂いを含んだまなざしを夜空に投げる。
 オフィーリアは目を見張った。こうしてサイラスがテリオンを気遣う台詞は、今まで聞いたことがなかった。
 ゴールドショアで、テリオンは「学者の考えがさっぱり分からない」と告白した。その答えの一つが今明らかになったが、それを彼女からテリオンに教えるわけにはいかない。
 代わりに、オフィーリアは旅の最後に自分がすべきことを見定めた。
 彼女の密やかな決意をよそに、サイラスはぽんと手を叩く。
「そうだ、一つキミに伝えたいことがある」
「なんでしょう?」
 彼は居住まいを正し、穏やかに言葉を紡いだ。
「オフィーリア君、キミとの旅はとても楽しかったよ。聖火の運び手を引き受けてくれたのがキミで良かった。
 聖火教では、これを聖火の導きと呼ぶのだろう。でも、私は自分で選んだ道の先で、キミに出会ったのだと思っているよ」
 心臓がどきりと大きく跳ねた。
(最後にこんなことを言うなんて、本当にずるい人です……)
 サイラスが式年奉火の旅を手伝ったのは、聖火教会とウォルド王家が定めたことだ。何ごともなければ彼はリアナと旅立っていたはずである。だがサイラスはそれを偶然とせず、「自分で選んで」オフィーリアのもとにやって来たのだ……!
「そう言っていただけて、わたしも嬉しいです」
 あふれんばかりの感謝があっても、月並みな返事しかできなかった。言葉では伝わらないこの思いを、どうやって届ければいいのだろう。
(この旅が楽しかったのなら、サイラスさんもわたしと同じように、旅が終わらないでほしいと思っているのですか……?)
 オフィーリアはその問いかけを飲み込み、静かな胸の鼓動に耳を傾けた。

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