その瞳に星は宿る



 漆黒に塗りつぶされた洞窟を覗き込み、神官は唾を飲む。
「ここにリアナがいるのですね……」
 テリオンたちが森に残った村人の足跡をたどると、ここに到着した。マティアスもリアナも種火も、きっとこの奥だろう。
「他に入り口はないようだな。どうする?」
 オルベリクの問いかけに、テリオンは黙ってランタンを灯す。明かりで相手にこちらの存在がばれるかもしれないが、仕方ない。洞窟内は、ランタンがなければまったく視界が効かないほど暗かった。だんだん日が傾いてきたこともあるが、そこには真夜中よりも濃い闇があふれているようだった。
 軽く息を整え、三人は列をつくって洞窟に挑む。
 内部には川が流れていた。どこかに水源があるらしい。テリオンは足を踏み外さないよう注意しながら、先頭に立って慎重に村人の痕跡をたどった。
 隊列の真ん中を歩く神官がぽつりとつぶやく。
「……奇跡は決して起こらないし、人は蘇りません」
 誘惑を断ち切る、決然とした声だった。
「悲しいことですが、一度死の門をくぐった人とは、もうどうやっても会うことはできません。
 以前、アーフェンさんがわたしに言ってくれました。誰しもいつかは死ぬけれど、だからこそ今を精一杯に生きる意味があるのだと」
 セントブリッジで薬屋が起こした騒動の後だろうか。だとすると、妙に含蓄のある台詞にも納得がいく。
「亡くなった人への悲しみに囚われ、生きている人を無視してしまったら、父様はきっと悲しみます。だから、わたしはリアナを助けたい」
 テリオンは同意を込めて小さくあごを引いた。
 神官には闇市への潜入を手伝ってもらった恩がある。手を貸すことに異論はない。今や飾りと化した罪人の腕輪にかけても、最後まで協力するつもりだ。
 オルベリクが口を開いた。
「ウィスパーミルでは半年ほど前に流行病があって、多くの人が亡くなったらしい。聖火神に祈りを捧げても奇跡は起こらなかった……だから、村人たちは聖火教の信仰をやめたのではないか」
「そういえば、マティアスがその流行病を鎮めたらしいな」
 テリオンは潜入時に聞いた話を思い出す。
「それでマティアスさんが救世主と呼ばれているのですね……」
 神官が声を沈ませる。オルベリクがその背後から静かに呼びかけた。
「オフィーリア。もしかすると、村人たちはマティアスをかばってお前の敵に回るかもしれない。その時は……どうする?」
 彼女はごくりと喉を鳴らした。しばしの間、三人の足音だけが岩壁に反響する。いつしか水の気配は遠ざかっていた。
 考えに考えて、彼女は言葉を紡ぐ。
「……大切な人にまた会いたい、という気持ちを否定することはできません。でも、マティアスさんはそんな彼らを利用しようとしているかもしれません。彼が力を求めるのは、人々の願いを叶えるためではないようですから」
「ならば、村人たちの前でマティアスの悪事を暴けばいいのだな」
「ええ。みなさん話を聞いてくだされば良いのですが……」
 彼女は村人も助けようとしているらしい。それを「甘い」と切り捨てることはできない。この場合の説得は成功すれば敵の数が減るから、かなりの有効打だった。
「サイラスは今頃どこにいるのだろうな」
 ふとオルベリクがつぶやく。神官が小さな笑い声を漏らした。
「きっと無事ですよ。テリオンさんもそう思ったから、探しに行かなかったのですよね?」
 テリオンは返答を避けた。心配していないのは事実だが、わざわざ口に出す必要はないだろう。
 続けて神官は後ろを振り向く。
「そういえば、オルベリクさんたちは村外れで追手に襲われたのですよね。その時、何をしていたのですか」
「ああ……サイラスが地面に魔法陣のようなものを描いていた。何かの練習だと言ってな」
「魔法陣、ですか?」
「サイラスによれば、マティアスはこちらの魔法を封じる術を使うらしい。魔法陣はそれに対抗する策だと思うのだが、くわしい説明はなかったな……」
 テリオンはゴールドショアでの出来事を思い返す。神官を眠らせた犯人を追いかけた時、何故か学者は魔法を使わなかった。あれはその術のせいだったのか。
 神官がなめらかに答える。
「陣を描くのは古いかたちの魔法で、現在は主に儀式を行う際に用いられています。サイラスさんがあえて魔法陣を選んだのは……もしかしたら、マティアスさんは場所に宿る力を利用しようとしているのかもしれません」
 場所に宿る力。また知らない概念が出てきた。神官はすらすらと説明を続ける。
「水が湧くのも風が吹くのも、あらゆるものに宿るエレメントによって起きる事象です。魔法とは、そのような自然の力に方向性をつけて操るものとも言えます。中でも、魔法陣は場の力に作用しやすいとか」
(いつか学者先生からそんなことを聞いたな)
 ぼんやり思い出したテリオンは、「意外とちゃんと聞いていたのか」と自分でも驚いた。
「マティアスさんは、この洞窟に特有のエレメント――おそらくは魔神にまつわる力を操るために、ウィスパーミルを選んだのでしょう」
 神官の話の運び方は、なんだか学者のようだった。
「なら、魔力切れというのはどういう状態なんだ」
 オルベリクの率直な質問がテリオンの琴線に触れる。魔法を使いすぎた学者や神官がたまに陥る状態のことだ。ああなると、よく休ませるか回復薬を与えないと復帰しないので、面倒だと思っていた。
「あれは、エレメントを方向づけるための魔力が尽きた状態だと言われています。エレメントそのものが枯渇することはありませんから」
「魔法を封じる術は、強制的に魔力切れの状態を起こすのか?」
「どうでしょう。実際にその術を見ないとなんとも……」
 なんだかややこしい話だ。そもそも魔力を多用しないテリオンには関係のないことである。そちらの対処は神官たちに任せればいいだろう。
 雑談の間も三人は歩みを進める。足跡の終着点はすぐそこだった。
 前方に明かりが見えた。テリオンはランタンの火を消し、音を立てずに短剣を抜く。
「テリオンさん、その武器は?」
 神官が目ざとく指摘した。いつもと刃の形状が異なるため、気になったのだろう。この暗さでよく見えたものだ。
「あの村で買った」
 ウィスパーミルを訪れる前、彼らはある村に立ち寄っていた。神官はそれ以上追及しなかった。そろそろ話し声が相手に聞こえる位置である。
 岩陰に隠れながら慎重に最後の距離を詰める。たどりついた行き止まりにはかがり火に囲まれた広場があり、村人たちが集まっていた。彼らはこちらに背を向けて奥の祭壇を見つめている。
「やはりここにあったのですね……!」
 身をかがめた神官が息を呑む。祭壇の上では採火燈に入った青い炎が弱々しく揺れていた。
 祭壇の周囲は一段高い舞台になっており、マティアスと三人の部下、そして黒い衣装をまとったリアナがいた。彼らはこちらを――否、村人たちを見下ろしている。
 初めて来た場所なのに、テリオンは奇妙な既視感を覚えた。
(ああ……例の祠と似ているのか)
 旅の途中で幾度か訪れた、十二神を祀る祠だ。「洞窟の中に祭壇がある」という構造がなんとなく似通っている。普段は神の象徴が飾られている場所に、今は採火燈が置かれていた。
「あれがガルデラの祭壇ですね」
 神官がささやく。マティアスは洞窟目当てでウィスパーミルにやってきたのでは、という先ほどの推測は当たっていたようだ。
「少し様子を見ましょう」
 彼女は食い入るようにリアナを見つめながらも、冷静に判断した。直前に単独行動をして捕まったばかりなので、慎重になっているようだ。
 壇上のマティアスはおもむろに唇を開く。
「みなさんのおかげでついに儀式を執り行う時が来ました。ありがとうございます」
 陶酔した声が洞窟を通り抜けた。
「おお、救世主様から感謝のお言葉をいただけるなんて……!」
「私たちにお手伝いできることなら何でもいたしましょう」
 感極まった村人が口々に答えた。村に残した子どものことなど完全に頭から抜けている様子である。リアナと同じく、目先の利益しか求めていないようだ。
「この地に眠る祭壇を発見できたのも、皆さんのお力添えによるものです。では、これより神子となるリアナ様をみなさんにご紹介いたします」
 マティアスの指示によりリアナが一礼した。神官服と真反対の色をした衣装のせいか、青白い顔に見えた。
「さっそく神子契約の儀式をはじめましょう。さあリアナ、その種火に触れなさい。そしてあなたの望みを心から願うのです」
 リアナはこちらに背を向け、祭壇の上の採火燈に手を伸ばした。
「父様、私のところに戻ってきて……」
 静寂の中、小さなつぶやきがテリオンの耳に入る。彼女は懸命に祈りを続けた。すると、洞窟を照らす青い光がみるみる濁っていく。
「……え?」
 リアナが声を漏らす。見間違いではなかった。テリオンたちや村人が固唾をのんで見つめる先で、種火が黒く変色していった。燃え盛りながら光を吸い込むその炎は、聖なる火とはとても呼べない雰囲気を醸している。
 禍々しさすら感じる光景を目の当たりにして、テリオンは動けなかった。知らぬうちに体がこわばっていた。神官もオルベリクも息をひそめ、ただ目を凝らしている。全員、足が地面に縫いとめられたようだった。
 村人の間にも動揺が走り、ひそひそと会話がかわされる。そんな中、マティアスだけが悠然と構えていた。
「もう少しです。さあリアナ、祈りを続けなさい」
「で、でも……」
 リアナは渋った。黒い種火の異様さは、亡父に心を囚われた彼女すら怖気づくほどだった。
「父上が戻らなくてもよいのですか」
 マティアスの冷たい声に背中を押され、リアナはうつむいて再び祈りはじめた。
 突然、重い音とともに何かがどさりと地面に落ちる。村人の一人が倒れたのだ。
(なんだこの儀式は)
 地に伏せたのは、村に潜入したテリオンが聞き耳を立てる前で「神官を捕らえても良かったのか」と漏らした女性だった。テリオンの背にぞくりと悪寒が走る。
「おい、大丈夫か? うっ……」
 助け起こそうとした男性もすぐに膝をつく。村人たちは戸惑う間もなくばたばたと倒れていった。意識を失った体がいくつも地面に転がる。
「一体何が起こっているの……?」
 リアナは広場を振り返って青ざめる。
「彼らは贄となるのですよ。封じられた神の力たる黒き火――この黒呪炎のね!」
 ついに正体をあらわしたマティアスの高笑いが岩壁に跳ね返る。これで村人を説得する必要はなくなったが、喜ばしい事態ではない。
「式年奉火に使う種火は持ち主の心を映すもの。そう、つまり死者の復活を願うあなたの心が、種火を死の国へつなげたのだよ。それこそ封じられた神の力――黒呪炎! 人の命を吸い、黒呪炎はさらに力を増していく」
 彼は機嫌良さそうにまくしたてた。
「これこそ私が求めた力だ。この黒呪炎で世界を我が物とせん!」
「そ、そんな……」
 リアナはうろたえ、後ずさった。
 その瞬間、神官がかつんと杖をつく。清浄な音が洞窟にこだました。テリオンやオルベリクが引き止める声も聞かず、彼女は倒れた村人に駆け寄る。
 あの場に行けば神官も同じ目に遭うのでは、という危惧は外れた。彼女は広場の真ん中に立ち、己の信仰する神に祈りを捧げる。
「聖火神の御業で救いたまえ……!」
 杖の先端から白い光が膨れ上がった。魂を呼び戻す復活魔法だ。だが、誰も起き上がらない。もう手遅れなのか、それとも別の原因があるのか。
「オフィーリア!?」
 リアナが舞台の上から叫んだ。
「何故あなたがここに――」愕然としたマティアスは、すぐ我に返る。「そうか……勝手なことをなされては困りますね、リアナ様」
 話の間にテリオンとオルベリクが神官の前に出た。敵はマティアスとその部下、合わせて四人だ。数ではこちらが不利だが、力比べで負けるつもりはない。
「黒呪炎の儀式はまもなく終わる。ここで邪魔されるわけにはいきません」
 マティアスはリアナとともに後ろに下がった。テリオンたちは三人の部下とにらみ合う。相手はなかなか舞台から降りてこなかった。
(何故だ。高所を確保したいのか?)
 あまり敵陣深く踏み込んでリアナを人質に取られたら面倒だから、できれば広場に引きずり下ろしたいところだ。隣のオルベリクも同様の考えらしく、瞳が迷いのない色をたたえている。
 テリオンは最近、オルベリクとの「試合」の合間に兵法の基礎を教わっていた。こちらの戦力が少ない場合は奇襲が有効だが、今回はなし崩しで姿を現してしまったのでそれは不可能だ。他に使えるのは、やはり絡め手だろう。
(さっそくこれが役に立つな)
 テリオンは真新しい短剣を構え、膠着した戦線に立つ。後ろで神官がすばやく詠唱した。
「聖火の光よ、輝きたまえ!」
 白い柱が部下たちを撃ち抜いた。三つの黒衣がよろめき、隙ができる。
「今です!」
 すでに前衛の二人は駆け出していた。一気に攻勢を仕掛けるべく、神官も後に従う。
 舞台の階段にもうすぐ足が届く、と思った刹那、地面から黒い光が湧き上がった。
「なっ……!?」
 壇上の敵に集中するあまり気づかなかった。三人が立つ地面には、うっすらと魔法陣が描かれていたのだ。光は円に踏み込んだ三人を閉じ込める。見る間に光が強まって、全身から力が抜けていった。
 テリオンは砂漠でも同じ感覚を味わった。人の命を奪う危険な魔法だ。これも黒呪炎とやらの力なのか。
 村人たちが倒れた時点で警戒して然るべきだった。こういう罠を見つけるのはテリオンの役割だったのに!
「ああ……っ」
 神官が杖にすがりつく。テリオンも唇を噛んで片膝をついた。オルベリクだけはぎりぎりまで立っていたが、前に進むことは叶わなかった。
「オフィーリア……!」
 リアナの悲鳴と同時に、背後でばたりと神官が倒れる。テリオンも体勢を崩した。視界いっぱいに地面が広がり、思わず目を閉じる。
 ――まぶたの裏に、大きな門が映った。



 気づけばテリオンは闇の中に放り出されていた。目を凝らしても何一つ見えない、正真正銘の暗黒だ。
(どこだ、ここは……)
 見回すうちに、これは夢だと気づいた。何故ならテリオンの右腕には腕輪がなかった。
 そのまま手探りで自分の体を確かめて、違和感に気づく。いつもより一回りほど体が小さい気がする。視界が塞がっているので背の高さは比べようがないが、腕や足を動かす感覚が普段と違った。
 自分は過去の夢でも見ているのだろうか。そういえば、今までも何度かこういうことがあった。クオリークレストの地下水道で水に飛び込んだ時や、ウェルスプリングの闇市でガーレスに斬られた時など、意識を飛ばしたテリオンは時折過去の夢を見た。それは主にクリフランドの崖から落ちる前後の回想だった。
 しかも、その夢はだんだん記憶の空白部分に近づいていた。テリオンは、抜け落ちた過去を無意識下で思い出し、夢として再現しているのかもしれない。
(だが、こんな場所に来た覚えはないぞ)
 靴で触れる地面は平坦で、前方に手を伸ばしても何もない。彼は暗闇の中をゆっくり進んだ。
 しばらく歩いた頃、不意に指先が冷たいものに触れた。石の壁だろうか。装飾が施されているらしく、複雑な起伏がある。
 その時、いきなり背後で闇がうごめいた。遠く咆哮のようなものが聞こえ、背筋が凍った。
(今のは一体……)
 巨大な「何か」がテリオンの後方にいる。それまで気づかなかったのが不思議なほど、危険な気配だった。
 光がなくて助かった。真っ暗闇ですら振り返るのが恐ろしいくらいだから、おそらく「それ」を直視していたら彼は正気を保てなかっただろう。
(なんなんだここは。罪人が堕ちる地の底か……?)
 寒気を感じる一方で、テリオンは密やかな決意を身に宿す。
 自分は絶対にここから出なければいけない。こんな訳の分からない場所で怪物か何かと一緒にいるのはごめんだ。たとえ帰る場所がなくても、頼るべき兄弟がいなくても――それはクリフランドの谷底で抱いた気持ちと同じものだった。
 なんとかこの壁をこじ開けられないものか。背後に気配を感じる度にひやりとしながら、手で壁をなぞる。やがて垂直の溝を探り当てた。そこが継ぎ目らしい。
(これは……扉なのか)
 テリオンがどれだけ手を伸ばしても壁の果ては存在しなかった。ここまで大きいものは門と呼ぶべきかもしれない。とりあえず継ぎ目から両側に開くものと仮定して、肩で押したり溝に指を入れて引いたりしてみたが、びくともしなかった。
 悪戦苦闘しながら壁に耳を寄せた拍子に、向こう側から小さな声が聞こえた。
「……は門を開けるための……よ。少し……かもしれないけれど、……を……らせるために、耐えてね」
 冷え切った女の声だ。門を開ける? まさか外側から開けてくれるのか。
 テリオンは少し後退して、その時を待った。
 永遠のような時間が経ち、いい加減諦めようかと思った瞬間、視界が縦一直線に割れた。前方から光が差したのだ。歓喜に湧いたテリオンは、あまりのまぶしさに慌てて目を閉じた。
 しばらくして、うっすらまぶたを開けてみる。最初に見えたのは赤だ。テリオンが今いる場所は、この世の果てのような色に満たされているらしい。明るくなって初めて認識できた。
(さっさとここを出よう)
 ついに出口が開いたのだ。テリオンは脇目も振らず、光に向かって駆け出した。
 門を抜けた先は寂しい荒れ地だった。高い崖が視界の両端にそびえている。まるで見覚えのない場所だ。少なくとも、クリフランドではないようだった。
 振り返れば、天を突くような巨大な門があった。門の中心には一人分くらいの隙間が開いており、落日を思わせる光が中から漏れていた。
 自分は今まであそこにいたのか、と思うと勝手に体が震え上がる。門の中は生命の気配がまったくない、寒々しい場所だった。二度と行きたくないし、思い出したくもない。
(そういえば、門を開けたやつはどこだ)
 本来なら真っ先に気づくべきだが、門に気を取られて確認が遅れた。テリオンはもう一度振り返る。
 谷底の地面に、大きな魔法陣が描かれていた。その上に一人の男が立っている。旅装の男はテリオンの姿を目に留めると、澄んだ瞳を見開いた。
「君は一体……」
 何故だろう、会ったこともないはずなのに、声を聞くだけで胸が締め付けられた。
 その場にはもう一人、黒いドレスを着た女がいた。彼女は魔法陣の外から無機質な目で男を観察している。
(これは……儀式なのか?)
 じわじわ状況を理解する。とてつもなく嫌な予感がした。テリオンがわけも分からずその場を離れようとした刹那、背後から何かを引きずるような音がした。
 門の中から、例の巨大な「何か」が飛び出してくる――! テリオンはとっさに身を伏せた。必死に地面を見つめ、「それ」を視認しないようにつとめる。
 急に男のうめき声が聞こえた。テリオンははっとして顔を上げる。魔法陣は赤々と燃え上がり、中央にいた男に黒いもやが取り憑いて、そのシルエットがおかしなふうに歪んでいく。
(だめだ、あれは見るな)
 テリオンは唇を噛んで視線を外した。
 ふと、足先に何かが当たった。こんな場所に似つかわしくない、茶色の瓶が転がっていた。
 目の前の光景から逃避するように、何気なく瓶を拾い上げ――られなかった。彼の手はガラスをすり抜けた。
(どういうことだ……?)
 よく見れば腕が透けている。自分は実体ではなかったのだ。気づいた瞬間、テリオンの意識は急激に遠のいていった。巨大な門も旅人の男も謎の女も怪物も、記憶の隅に追いやられていく。
「あら、さまよえる魂が外に……まあいいわ。この男さえいれば目的は果たされるのだから」
 女の冷笑が耳にこだました。
 門を抜けたテリオンの魂は、クリフランドの谷底へと戻っていった。

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