果敢なき実りを胸に



「さて、今回私たちが挑むノースリーチという町について、おさらいしようか」
 学者サイラスは机の上に地図を広げ、まるで講義をはじめるかのように朗々と声を響かせた。
 暖炉でぱちぱちと薪が爆ぜ、窓の外には音もなく雪が降り積もる。一行はスティルスノウのとある屋敷に集っていた。
 トレサは会議のはじまるこの瞬間が好きだった。もう何度もこうして作戦を立て、皆で難局に挑んだものだ。行く手にどんな困難が待ち受けていようと、その度に彼女はわくわくする。故郷のリプルタイドからはるか海の彼方へと旅立った、知り合いの冒険家ル・マンもこのような気持ちを抱いていたのだろうか。
 机を囲み、地図に目を落とすのは六人の仲間たち――に加えて、この屋敷の主たるスサンナもいた。老婆は真っ黒なフードの下で瞳を光らせ、サイラスの言葉に耳を傾ける。
 トレサたちは北にあるノースリーチを目指すにあたり、ここスティルスノウに宿をとった。目的地の近くに住むスサンナから情報収集をしようとハンイットが提案したのだ。スサンナは突然押しかけた彼女たちを快く受け入れ、こうして作戦会議の場まで提供してくれた。
 赤々と燃える炎が寒さを遠ざける。火のそばには雪豹リンデが陣取り、ふわふわのしっぽを床に打ちつけていた。サイラスは秀麗な横顔にあたたかい明かりを浴びながら、地図に指を走らせる。
「ノースリーチはダリウス盗賊団の根城になっているらしい。これはヒースコート氏から入った確かな情報だ。彼はすでに町に潜入して情報を集めている。そうだったね、テリオン」
 学者に促され、テリオンは軽くうなずいた。
「ああ、間違いない」
「みんなに改めて説明してもらえるかな」
「分かった」
 テリオンがあっさり応じたので、トレサは少し驚く。さすがの彼も、この状況でサイラスを邪険に扱うつもりはないようだ。
 ノースリーチにはテリオンの旅の目的である緑竜石がある。彼に仕事を依頼したレイヴァース家の執事ヒースコートは、ウェルスプリングで竜石を奪った盗賊団の居場所を突き止めた。そして一足先に町に潜り込み、手紙を寄越したのだ。
 テリオンは短く告げる。
「ヒースコートの連絡によると、ダリウスたちはこの町にある廃教会にいるらしい」
「放棄された教会がある、ということか?」
 オルベリクが眉をひそめた。その隣でプリムロゼが首をひねる。
「変ね。フレイムグレースが近いのに、教会が機能してないなんて」
 確かに、とトレサも疑問符を浮かべた。何か理由があって教会を預かる神官がいなくなったのだろうか。だが、普通なら聖火教の総本山フレイムグレースから新たな人材が派遣されるはずだ。盗賊の縄張りになるほど建物が放置されたのは一体何故だろう。
「スサンナさん、心当たりは?」
 ハンイットが老婆に話題を振った。占い師として知られるスサンナは、その実かなり頭の切れる人物である。鋭い観察眼と豊かな知識からあらゆる物事を言い当てるとの噂だ。赤目討伐の際には、石化を解除する効果を持つヘンルーダ薬をつくってくれた。ハンイットの師匠ザンターの古い知り合いでもある。この家を訪ねたハンイットが真っ先に彼の無事を報告すると、スサンナは「よくやったね」と喜んでいた。
 老婆は若い頃さぞ人目を引いたことがうかがえる顔立ちで、にやりと笑う。
「まあ、悪い噂はよく入ってくるね。衛兵も盗賊団に手を出せなくて、無法地帯になっているらしいよ。
 ただ、あそこの教会が放棄されたのはもうずいぶん前だ。盗賊は関係ない。当時の司祭が寄付金を着服していたって話を耳に挟んだことがあるけれど……それ以上は知らないね」
「うーん、オフィーリアさんがいたら何か分かったのかしら」
 ぽつりとこぼした直後、トレサは失言に気づいて口元をおさえた。皆も一瞬沈黙する。
 仲間の一人であるオフィーリアはこの場にいない。やむを得ない事情があるとはいえ、やはり心細く思ってしまう。
 今や、トレサを含めたほとんどの仲間たちは目的を果たし、旅に一区切りをつけていた。残るはテリオンの竜石とサイラスの辺獄の書だけである。にもかかわらず、八人中七人もそろっているのは奇跡のようだ。だから余計にオフィーリアの不在がこたえるのだけれど。
「……ヒースコートによれば、ダリウスは黄竜石も手に入れている可能性が高いらしい」
 仕切り直したテリオンに、サイラスは確認の意味を持つ視線を向けた。
「今回の目的はあくまでも竜石の奪還で、盗賊団と正面から戦うつもりはない……ということでいいね?」
「ああ」
 端的な返事を受けた学者は周囲を見回し、指を二本立てた。
「そうなると、問題は二つある。一つは単純に人数のことだ。闇市の件でいくらか戦力をそいだとはいえ、もともと盗賊団は圧倒的に数が多い。私たち七人にヒースコート氏を加えても、万一囲まれたら相手をするのは厳しいだろう。
 もう一つは――」
「もたもたしていると、ダリウスがどう出るか分からない。レイヴァース家に攻め込まれたら面倒だ」
 台詞を継いだのはテリオンだった。彼は肩をすくめ、自嘲気味に笑う。
「まあ、あいつは俺を見つけたら優先して殺しにかかるだろう。こっちが先に顔を見せればいいだけだ。
 ……だから、今回は俺一人で行く」
 間髪入れずにテリオンは結論を出した。え、とトレサは息を呑む。
「闇市の時と違って俺たちは警戒されているはずだ。大勢だと動きにくいから、一人で乗り込んでヒースコートと合流を目指す」
 それでいいのだろうか? 思わず横目で仲間たちを見ると、一様に険しい顔をしていた。サイラスだけはあごをつまんで、別の考えに浸っているようだ。
「つまり、また芝居を打つのか?」
 ハンイットが問いかける。
「そうだな」
「演技が下手なやつは置いてくってことかよ」
 アーフェンが不満げに眉間のしわを深くした。
 ウェルスプリングの闇市で見た光景を思い出す。トレサたちが駆けつけた時、会場は怪我人だらけだった。ダリウス盗賊団は暴力を振るうことへの躊躇がない。
 これからテリオンはそんな者たちの本拠地に挑もうとしているのだ。トレサは高揚を押し込め、頭を切り替えた。彼一人で行かせるわけにはいかない。ならば自分にできることは――
 その瞬間、脳裏に閃くものがあり、反射的に片手を挙げた。
「待って。あたしもついて行くわ!」
 仲間が一斉にこちらを見る。テリオンは呆れたように腕組みした。
「話を聞いていたのか? お前に芝居ができるとは思えん」
 にべもない態度である。トレサはむっとして、
「そんなこと言って、あたしやみんなを危険な目にあわせたくないんでしょ!」
 断言してやった。テリオンは眉を跳ね上げ、ことさらすごんで見せる。
「足手まといはいらないと言ってるんだ」
 トレサは負けじと彼をねめつけた。
「……グランポートでのこと、もう忘れたの?」
 それはほとんど脅しだった。案の定彼は絶句した。まわりに目を向ければ、他の者もどこか気まずそうに口をつぐんでいる。
 自分の発言がもたらした変化に気を良くして、トレサはうんうんと頭を振った。
「ふふ、そうよね。あたしに逆らえるわけないわよね」
 唯一事情を知らないスサンナが、楽しげに唇を吊り上げる。
「おや、グランポートで何かあったのかい、お嬢ちゃん」
「はい。実はね――」
 トレサは得意満面になって話しはじめた。



「おめでとう、トレサ!」
 グランポートの酒場にて、トレサは異口同音に祝福の言葉をかけられた。
「えへへ、ありがとう。みんなが手伝ってくれたおかげよ」
 達成感に満たされながら果汁を飲み干せば、爽やかな酸味が疲れを癒やしていった。
 その日、町で開かれた品評会でトレサは見事一位を勝ち取った。目もくらむような大金とともに、商人としての名誉とこれ以上ない経験を得たのだ。水平線の向こうの未知と自分だけの宝物を求めたトレサの旅は、この町で大団円を迎えたと言っていい。
 アーフェンがジョッキに口をつけた。エールの泡で白いひげができる。
「にしても十億かあ、想像もつかねえなあ」
「あれはウィンダムさんにとっておいてもらってるのよ。まだあたしのものじゃないわ」
 とはいえトレサの口角は自然に上がってしまう。この町ではウィンダム家という大富豪に近づけたことに加えて、ノーアという大切な友達ができた。ノーアは今頃、品評会に出したトレサの宝物――ある旅人の手記を紐解いているのだろう。大事な旅の思い出をノーアにおすそ分けできることが、この上なく嬉しかった。
「それにしても、よくとっさにあんな対応ができたわね。私なら十億なんて大金持て余しちゃうわ」
「まさに大商人にふさわしい器だよ、トレサ君」
 踊子や学者といった年長者からも口々に褒められて、トレサは「えへへ」とだらしなく顔をゆるめる。
 手記の落札額十億リーフを前にしても彼女が怖気づかなかったのは、商人としての目標である父オルネオの教えが根底にあったからだ。ものや人を動かしてまわりを豊かにすることこそ商人の役割である、と父は口を酸っぱくして言っていた。この生業は一生分のお金を稼いだらそこで終わり、とはならないのだ。
「それで、トレサはこれからどうするつもりだ?」
 オルベリクの質問を受け、表情を引き締める。
「アリーにも話したけど、一旦家に帰るわ。今回のことを両親に報告したいの」
「なら、お前の旅はそこで終わりか」
 珍しくテリオンが口を挟んだ。トレサはきょとんとして彼を見つめる。
「何言ってるの。あたしがいないとみんなの旅は続けられないわよ」
「……どういうことだ?」
 ハンイットが小首をかしげた。トレサはとっておきの話をするように声をひそめる。
「あのね、これだけ長く旅してきて、なんで今までお金に困らなかったと思う?」
 仲間たちは不思議そうに視線を返す。そもそもそんな疑問は頭から抜けていたらしい。ある意味トレサの作戦は大成功だったわけだ。
 装備品や宿代などはすべて共有の財布から賄っており、それを預かるトレサは長いこと資金繰りに悩んでいた。収支のわずかなマイナスが積もりに積もって限界が近づいて来たのが、二度目にストーンガードを訪れた頃である。
 テレーズを家に送るため、サイラスがアトラスダムに赴くことが決まった時、トレサは彼に同行を申し出た。道中でリプルタイドに寄るためだ。
 久々に訪れた実家で、彼女は両親に相談した。
「父さん母さん、あのね……少しの元手で大きく稼げるようなアイデアってない?」
 いきなり俗にまみれた話を切り出す娘に対し、母マリーネは難しい顔をする。
「そんな方法、あったらみんなが試してるわよ」
「もちろん分かってるけど……結構切実な問題なの」
 すがるような気持ちで父親を見れば、彼は大きく肩を落とす。
「トレサ、お前は旅に出る前、毎日何をしていたんだ?」
「え?」トレサは戸惑いながら指折り数える。「品質の高いものを目利きして、できるだけ安く仕入れて――あっ」
 彼女は手のひらで口を塞ぐ。父はそうだと言うように大きくうなずいた。
 商人の仕事は本来とても地味なものだ。仕入れから売却までをひたすら丁寧に行うことが基本であり、それに勝る技術はない。画期的なアイデアなどあるはずがないのだ。クオリークレストで大きな山を掴んだせいか、少し思い上がっていたのかもしれない。トレサは深く反省した。
 それから彼女は両親と一緒に、財布の収支を記録した帳簿をじっくり見直した。結果、今まで習慣として続けていた行為――単純な買い取りにも案外無駄が多かったことに気づいた。
 以降のトレサは、いらなくなった装備品や街道で採取した素材をなるべく高く売る、町人の頼みごとを聞いたら経費以上の報酬をきっちりもらう、時には魔物の持ち物を奪って活用する、といった地道なやりくりを続けた。好敵手たるアリーを見習って弁舌も磨き、一回一回の取引に対してそれまで以上に真剣に臨んだ。おかげでじわじわと財政状況は好転していった。彼女は財布を取り出す度に父母への感謝を捧げた。
「――ってわけで、全員の目的が終わるまではあたしがついてないとね!」
 トレサは胸を張った。もう自分なしでは旅が成り立たないほど財布を掌握している自信がある。
「なるほどね……。資金難と縁遠い旅だったのは、そういう理由だったのか」
 あのサイラスが目を丸くしてつぶやいた。食事中ということも忘れてぽかんと口を開ける者、苦々しく顔を歪める者などそれぞれ反応の違いはあるが、皆が驚いているのは間違いない。トレサはグランポートの海の幸がごろごろ入ったパスタをほおばり、得意な気分に浸る。
 彼女が共有の財布を預かるようになったのは、学者、神官、狩人の旅路に加わった直後である。リプルタイドを出てアトラスダムに寄った時点で、年上の三人がふわふわした金銭感覚の持ち主だと察した。トレサが商人の端くれとして財布を預かることを提案すると、やはり三人とも金勘定は不得意だったようで、喜んで任せてくれた。
 彼女は他の四人と合流してからも財布係を続け、誰にも悟られないうちに少しずつ地歩を固めてきたのだ。
 呆然として食器をおろす皆の前で、トレサは機嫌よく果汁のおかわりを頼む。サイラスが丁寧に頭を下げた。
「むしろこちらから頼む必要がありそうだ。トレサ君、今後も一緒に来てもらえると助かるよ」
「もちろん!」
 トレサは口の端のソースを拭き取り、とびきりの笑みを浮かべた。



「ははは、なるほどねえ。そりゃあ傑作だよ」
 話を聞いたスサンナは呵々大笑した。
 作戦会議から一転して、屋敷にはくだけた雰囲気が漂う。誰もがくつろいだ顔でグランポートの思い出に浸っていた。スサンナは目を細めてハンイットを見やる。
「ザンターの坊やも、金銭のやりくりまでは弟子に教えられなかったか」
「ああ。賭け事に関しては反面教師になってくれたのだがな」
 ハンイットは肩をすくめた。一方、トレサは憮然として黙りこくる人物に視線を向ける。
「だから、あたしに逆らうなんてありえないわよね、テリオンさん?」
「……わかった、わかった」
 彼は降参するように両の手のひらを振った。トレサはこっそり安堵する。これで彼が単独でノースリーチに向かうことは回避できそうだ。
 テリオンは片目をすがめて、
「で、どうするんだ。お前に芝居ができるとは思えないが」
「テリオンさんとあたしで、一緒に商人のフリをして潜入するの。あたしは本職だし、ちょうどいいでしょ?」
「ほう」
「それに、あたしは盗賊団に直接顔を見られてないから、何かあっても動きやすいわ」
「一理あるわね」
 プリムロゼは唇に人差し指をあてた。その点、彼女やオルベリクは潜入に向かないだろう。二人は頭領のダリウスやその右腕であるガーレスと直接会っていた。
「なら俺も一緒に行けるよな! 芝居は自信ねえけど、別々で町に入るくらいならいいんじゃねえか?」
 アーフェンの楽観的な提案に、テリオンがうんざりしたように閉口する。
「しかし、顔が割れていない者たち全員で潜入するとしても、数の問題は解決しないだろう」
 オルベリクが冷静に割って入った。剣士の鳶色の瞳を読み取り、テリオンが尋ねる。
「考えがあるのか、旦那」
「うむ……ウェルスプリング守備隊のような組織に協力を頼めたらいいのだが」
 プリムロゼはウェーブした髪を軽く振って、
「ノースリーチの衛兵を頼るのはどうかしら」
「衛兵がいても盗賊がのさばってるんだろ? 頼りになるかねえ」
 アーフェンが眉間を指で押さえた。難しいわね、とトレサはうなる。テリオンが慌てた様子で口を挟んだ。
「待て、なんで他人を頼ることになってるんだ」
「今までもそうしてきただろう。それに、盗賊団が町を荒らしているんだ。事情を説明すれば協力してもらえる可能性は高いぞ」
 ハンイットが落ち着いて言い返す。テリオンはむすっとして唇を閉ざした。
 思えば今までの彼は一人で盗みをはたらいてきた。ウェルスプリングでは結果的に守備隊と共同作戦をとったが、それはテリオンの提案ではない。単純に、彼が他人との協力に慣れていないことも理由の一つだろう。一人で仕事をこなすことが当たり前になっていたのだ。
 言葉に詰まったテリオンは、黙りこくる学者に顔を向けた。
「……あんたは、どうなんだ」
 何やら熟考していたサイラスは、はっとしたように顔を上げる。
「案はあるよ。やはり外部の協力者に頼ることになるが」
「じゃあもうそれでいい。あんたに任せる」
「えーっ」とトレサは声を上げそうになる。先ほどまでさんざん反対していたではないか。サイラスも目を丸くした。
「いいのかい?」
「悩んでる時間が無駄だ」
 テリオンはすげなく言い切った。思考を丸投げしたようにも見えるが、真相はどうだろう。彼はトレサたちの視線を振り切るように、机に目を落とした。
「ヒースコートには日時と場所を指定して落ち合うよう返事する。あとの細かい話は学者先生が決めろ」
「……分かったよ」
 二対のまなざしが交わり、すぐに離れた。
 それからサイラスを中心として細かい作戦の詰めに入った。仲間をいくつかの班に分けるらしい。トレサはもちろん潜入組だ。
 サイラスが数の不利を克服するための方策を発表すると、オルベリクが「その手があったか」と驚いた。トレサは再び胸躍る感覚を抱き、ノースリーチに行くことが少しだけ楽しみになってしまった。
「――というわけで、私の方にはプリムロゼ君とハンイット君についてきてもらいたい」
 サイラスの申し出に、プリムロゼがぴくりと肩を揺らした。反対にハンイットは背筋を伸ばす。
「ええ……異論はないわ」「喜んで引き受けよう」
 そういえば、この二人は近頃よく一緒に行動している。顕著になったのはプリムロゼが復讐を完遂する少し前からだろうか。サイラスもそれを見越して二人を選んだようだ。
「では、今の作戦でよろしく頼むよ」
 学者が言葉を結び、会議は終わった。
「話は決まったみたいだね」
 スサンナがぱんぱんと手を叩く。彼女は十分に注目を集めてから、仲間たちの顔を一人ひとり眺めた。
「気をつけて行っておいで。わたしはここで帰りを待っているからね」
 トレサたちは大きく首肯した。
 これから目指すのは盗賊に支配された町だ。どんな危険が待っていようが、今までどおりしっかり準備を整えて臨めば、必ず乗り越えられる。トレサは心の中の手記にしっかりと決意を書き記した。



 その町は山肌に張りつく険しい街道を越えた先にあった。ようやくたどり着いた坂の終わりには凍った湖が広がり、対岸にそびえる城壁が外敵の侵入を拒んでいる。見るからに堅牢な守りだ。
 トレサは氷湖にかかる橋の手前で立ち止まった。旅人を迎えるように並ぶ二つの石像は、片方だけ首がもげていた。
「これ、なんで直さないのかしら」
「気にしている場合か?」
 隣のテリオンが眉根を寄せた。
「そ、そうね……」
 トレサは石像から視線を外し、橋の反対側にあるノースリーチを改めて確認する。関係のないことに気を取られるあたり、どうやら自分は少々緊張しているらしい。
 白い息を吐くテリオンは頭に茶色い帽子を載せ、トレサと同じく大きなリュックを背負っている。この格好に例の演技が加われば、完璧な商人が誕生するわけだ。つくづくずるい特技だった。
「まあまあ、来たことない場所なんだし、気になるのも仕方ねえって」
 へらりと笑うアーフェンは首に水色のマフラーを巻いていた。マフラーといえばテリオンがつけている印象が強いが、商人のコーディネートを担当したプリムロゼに「ふさわしくない」と言われてしまい、今回は外していた。おかげで薬師と盗賊の服装はなんだか対照的に見えた。
「旦那をずっと寒いところで待たせる気なのか」
「そうだったわね。急がないと」
 最初にノースリーチに挑む先遣隊はトレサ、テリオン、アーフェンの三名である。もう一人、オルベリクがこの近くで待機し、残りはサイラスの策により別行動していた。
 アーフェンは橋の前で立ち止まり、ぶんぶん手を振った。
「じゃ、俺もちょっと待ってから町に入るわ。気をつけていけよ二人とも」
「はーい、行ってきます」
 トレサとテリオンは二人きりで湖にかかる橋を渡った。
 城壁の前には門番がいた。「行商に来ました!」とトレサが言えば、門番は黙って通行を許可した。テリオンは帽子を目深にかぶって表情を隠し、門をくぐる。
(いよいよ敵の本拠地ね……)
 ぎゅっとこぶしを握り、足を踏み出す。トレサの警戒に反してノースリーチの町は閑散としていた。街路はしっかり雪かきされているのに人影がない。盗賊団が怖くて家にこもっているのだろうか。
 ヒースコートとは酒場で落ち合う予定になっていた。トレサは大陸共通の看板を探してきょろきょろする。
「あっちだ」
 テリオンが目ざとく建物を見つけ、先に戸をくぐる。トレサも慌てて後を追った。
 室内はよくあたたまっていた。ほっと一息つく。まだ昼間だからか他の客はいない。二人がカウンター席に直行すると、バーテンダーがちらりと視線をよこした。
「注文は?」
 無愛想な問いかけにテリオンが答える。
「エールを。お前は?」
「み、ミルク……」
 テリオンに呆れた目を向けられた。「ガキだな」とでも言いたいのだろう。こればかりは反論できない。
「ヒースコートさんはまだみたいね」
 座面の高いスツールに落ち着いたトレサは、ひそひそと隣に話しかけた。テリオンは雪のついた帽子を脱ぐ。
「バーテンダー経由で伝言があるかもしれない」
 そういう可能性もあるのか。酒場といえど気を抜けないわけだ。
 先にミルクが届いた。トレサはコップを持ち上げ白い液体を揺らす。黙っていても怪しまれると思い、関係のない話題を振ることにした。
「それにしても、テリオンさんって酒場が好きだよねー」
 テリオンはこちらの意図を察したか、わざと声を張った。
「別に好きなわけじゃない。人が集まるところには噂が集まるからな」
 いや好きに決まっているでしょ、とつっこみたくなる。アーフェンに誘われて揚々と酒場に繰り出す姿を、今まで何度目撃したことか。とはいえテリオンの照れ隠しはいつものことなので、トレサは聞き流した。
 彼はしかめっ面のまま続ける。
「それに、酒ってのは堅い口を緩ませる力があるんだ」
「へええ。そういうもの」
 他人事のような感想に、テリオンはふっと口の端を持ち上げる。
「酒場は大人が交流する場だ。ガキには分からん」
「ちょっ……! 子ども扱いはやめてよね」
 トレサはむっとしてコップを握った。
「あたしはね、五歳になる頃にはもう商売してたのよ? 三軒の酒場に毎日お酒を配達してたんだから。酔っぱらいの相手も慣れたものよ」
「大したもんだな」
 テリオンが大真面目に感心したタイミングでエールが届いた。トレサは鼻をぴくりと動かし、渋面をつくる。
「でもお酒の匂いが苦手で……くらくらしちゃうのよね」
「やっぱガキだな」
 テリオンがにやりとしてジョッキを差し出す。トレサはほおを膨らませながらコップをかち合わせた。
「まあ、酒浸りの大人よりはましだ。悪いことじゃないさ」
 その声色があまりにも穏やかだったので、トレサはひそかに瞠目する。テリオンはこれほど物腰が柔らかかっただろうか。最近は口数もずいぶん増えた気がする。
 くすぐったい気分になると同時に、「旅に出て良かったな」としみじみ感じた。旅の中には故郷にいたら一生味わえなかった出会いがたくさんあった。テリオンのような人物は最たる例だろう。おかげでトレサの心の手記はどこまでも豊かに広がっていく。
 思い出のページをめくれば、テリオンはいつだって年上としてトレサに接していた。子供扱いされることがほとんどだったけれど、そこに含まれるさりげない気遣いが心地よかった。盗賊でも当たり前に他人の思いを汲み取るテリオンはきっと貴重な存在なのだろう。敵対する盗賊団が今も町を脅かしていることと比べれば、一目瞭然だった。
 酒に口をつけたテリオンはそのまま一気に飲み干す――かと思いきや、突然ジョッキを置いた。
「どうしたの?」
 彼はまぶたを閉じて、じっと考え込む。
「いや……おかしいと思っていた。あの用意周到な執事が約束に遅れるなんてな」
 緑の目線がさっと窓の外に走った。直後、黒い影がガラスの向こうを通り過ぎる。まさか。
「客が来たらしい」
 テリオンは腰を浮かせると同時にバーテンダーをにらみつけた。相手はひっと息を呑む。
「あんたの仕業だな」
 トレサはびっくりしてコップを倒しかけた。
(もしかして……バーテンダーが買収されてたの!?)
 エールの用意が妙に遅かったのはそのためか。バーテンダーは酒を準備するふりをして一度店の裏に引っ込み、密かにテリオンの来訪を盗賊団に連絡したのだろう。
 室内に入ったテリオンは帽子を脱いでいた。白銀の髪に緑の片目――これだけ情報があれば十分本人を特定できる。
 トレサは悔しさと焦りを抱えて自分も立ち上がった。
「外に敵がいるのね?」
「ああ、間違いない」
 彼特有の鋭い感覚で察知したのだろう。テリオンは腰の短剣の位置を確かめ、リュックを肩からおろした。中身はダミーだから置いていくのは問題ないが――
「外に出るの!?」
 思わず腕を掴んで引き止めた。テリオンは振り払わず、静かにこちらを見下ろす。
「別に本気で戦うわけじゃない。適当に時間を稼ぐだけだ。ヒースコートが来るかもしれないから、お前はここで待ってろ」
 彼の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。トレサはそれでも抗議する。
「こんな場所に一人で置いてくなんてひどいわよ」
「あいつはこれから脅す予定だったんだがな」
 テリオンがわざとらしく短剣を片手で弄ぶと、バーテンダーは震え上がった。トレサは慌てて二人の間に割り込んで、
「ヒースコートさん、きっとこうなることが分かってたから、酒場に来られなかったのよ。それなら待ってても無駄でしょ。あたしも行く!」
 テリオンはまだ渋っている。トレサは不透明な緑の目をじっと見つめた。
「……あたしのこと、信用できない?」
「そうじゃない」
 即座にかぶりを振るテリオンに、彼女は破顔した。
「良かったわ。商人は信用が命だからね!」
 改めて正面から彼に向き合う。小柄なテリオンだが、もちろんトレサよりは背が高い。
「テリオンさんの背中はあたしが守るわ」
 威勢のよい宣言が酒場に響く。
 テリオンはため息を吐き、「ついてこい」と言って身を翻す。機嫌を損ねたかも、と心配する必要はなかった。酒場を出る直前に見えた横顔には、少しだけ愉快そうな色が浮かんでいた。

inserted by FC2 system