果敢なき実りを胸に



 何度同じ経験しても、吐く息が白く染まる光景には毎回新鮮に驚かされる。
 初めてフロストランドに来た時、温暖なクリアブルック出身のアーフェンは大いにはしゃいだものだ。すぐに雪の厄介さを思い知ることになったが、それでも一面の銀世界を見た時の感動は今でも忘れられない。だからこうして寒さに耐えている間も、どこか物珍しさが抜けなかった。
 彼はノースリーチの城壁の外で待機していた。きっとテリオンにとっての最終目的地となる場所だ。彼がトレサとともに町に入ってからしばらく経った。木の枝に積もる雪がいっそう分厚くなったのが分かるほど、十分な時間が経過した。
(そろそろいいかな)
 アーフェンは背もたれにしていた針葉樹から離れ、町の入口につながる橋を目指した。
「君はこんな場所で何をしているんだね」
 出し抜けに、氷雪よりも冷たい声が鼓膜を叩いた。振り返った先に見覚えのある黒衣の男がいる。アーフェンの胸中には驚きよりも先に嬉しさがこみ上げた。
「オーゲンじゃねえか。こんなところで会うなんてよ!」
 薬師オーゲンはふうと息をつく。オアウェルで別れた時と比べて、ずいぶん穏やかな表情だった。
「それはこちらの台詞だよ、アーフェン君」
 オーゲンは黒い髪の下で鋭く目を光らせる。再会の喜びなど微塵も感じられない、実に彼らしい態度だ。アーフェンはどんと胸を叩く。
「俺は仲間の手伝いでノースリーチに来たんだ」
「仲間ね……」
 皮肉げなつぶやきに、アーフェンは少し意地悪な気分になる。
「あんただって、俺たちがテングワシの羽を採ってきたから助かったんだぜ?」
「……分かっている。あまり蒸し返さないでもらいたいな」
 相変わらず尊大な態度だが、彼なりの感謝が伝わってきた。アーフェンはからりと笑う。
「あんたもあの町に用があんだろ? ちょうどいいや、一緒に行こうぜ」
「仕方ないな。行き先が同じなのだから」
 二人は凍りついた湖を渡り、門番の前を過ぎてノースリーチに入った。
 さっそく城壁の内側を見回す。町は雪に埋もれ、あたりに人影はない。盗賊団について聞き込みしようと思っていたが、相手がいないのではどうしようもなかった。代わりに隣に目を向ける。
「で、オーゲンこそ何の用だよ」
「私はこの町に以前住んでいたことがあるんだ。……妻が、ここに眠っていてな」
 アーフェンは彼の妻に起こった事件を思い出し、「ああ……」と納得する。病気も治って旅に一区切りをつけて、墓参りのために戻ってきたのだろう。少し前にアーフェンも里帰りしたので気持ちは分かる。
 彼は少々気まずい心地で切り出した。
「えーっと……あんた、今この町がどういう状況か知ってんの?」
「いや、久々に戻ってきたからな。何かあったのか」
 残念ながらのんびり墓参りできるような状況ではない。どう説明するか悩んでほおをかいた時、通りの先から騒がしい声が聞こえた。次いで、複数の足音が近づいてくる。
「いたぞ、テリオンだ!」
「仲間と乗り込んで来たらしいぞ」
「賞金は俺のものだ!」
 揃いのフードをかぶった男たちは、唖然とするアーフェンには目もくれず、どこかへと走り去った。
 オーゲンは真顔でこちらを振り向いた。
「……今、君の仲間の名を呼ばなかったか?」
「そうだった。こうしちゃいられねえ!」
 我に返ったアーフェンは、オーゲンを置き去りにして男たちを追いかける。
 今のが盗賊団だろう。アーフェンはウェルスプリングで闇市の後始末をしたので、彼らの服装や雰囲気を覚えていた。会話から察するに、テリオンたちはすでに見つかってしまったらしい。念入りに変装したにもかかわらず正体を見抜くなんて、相手もなかなかの実力だ。ヒースコートと合流できたかどうかはまだ分からなかった。
 大股で盗賊の足跡をたどると、開けた場所に到着する。がらんとした広場の隅で、テリオンとトレサが五人の男に囲まれていた。二人はどうにか家の壁を背にしているが、明らかに劣勢だ。みるみる包囲網が狭まっていく。
(やべえなこりゃ。今助けるぞ)
 アーフェンが腕まくりして加勢に入ろうとした時、
「お待ち下さい」
 肩に誰かの手が載った。アーフェンは思わず大声を上げそうになる。
「あ、あんたは――」
 恐る恐る振り返った先に、礼服をまとった老爺がいた。
「ここはわたくしにおまかせを」
 その人物は返事も聞かず、なめらかな足取りで盗賊団に近寄っていった。束ねられた銀の髪が流れ、腰に佩いた長剣が揺れる。音もなく移動する彼を、アーフェンは呆然と見送った。
 間違いない、ヒースコートだ。アーフェンは以前レイヴァースの屋敷を訪れた時、彼と会ったことがある。テリオンの話を聞く限りただ者ではないと思っていたが、事実そのとおりだった。複数の盗賊を前にしてもまるで動じていないのは、勝算があるということか。
 続いてオーゲンがやってきて、落ち着いた調子で告げる。
「アーフェン君、私たちは先に移動しよう。今の老人から隠れ家の場所を聞いた。巻き込まれたくないならそこで待て、との話だった」
「お、おう……」
 広場ではちょうどヒースコートが盗賊に声をかけていた。盗賊たちは一斉に振り返り、殺気のこもった視線を執事に突き刺す。それでもヒースコートは一歩も引かない。
 間違いなくあの執事は相当な実力者だ。テリオンたちを任せても問題はない。だが、見事に活躍の機会を奪われた形になり、アーフェンは多少の悔しさを感じた。
(いやいや、俺は薬師なんだ。これからが本番だよな……きっと)
 オーゲンの案内で隠れ家とやらを目指す。以前この町に住んでいたというだけあって、彼は複雑な街路をするすると抜けていく。
「ところで今の連中はなんだね?」
 黒衣の薬師は後ろを振り返りながら尋ねた。
「盗賊団さ。今はあいつらが町を支配してるんだってよ」
「迷惑な話だな」
 オーゲンは顔をしかめた。まったくそのとおりである。
「君たちはあの盗賊と抗争でもしているのか」
「まあな。一応、もうちょっと穏便に話を進めるつもりだったんだけど……」
「それはもう無理だろう」
 オーゲンはそっけなく首を振る。たまたま居合わせたのだから彼も協力してくれないかな、とアーフェンは都合のいいことを考えた。
 角を曲がり、路地を出ると視界が開けた。
「ここが隠れ家だそうだ」
 目の前には貴族が住むような豪邸があった。周囲に塀が走り、広い庭までついている。アーフェンはぽかんと口を開けた。
「めちゃめちゃ立派な家じゃねえか……」
 もしやヒースコートはここに潜伏していたのだろうか。屋敷の主がレイヴァース家の知り合いなのかもしれない。
 鍵のかかっていない門をくぐり、庭を通って玄関に向かう。よく見ると屋敷はあまり手入れされていなかった。外壁は薄汚れ、庭は雪に埋もれるままで、およそ人が住んでいる気配がしない。オーゲンは家を見上げてつぶやく。
「ここは私も覚えているな。入ったことはないが、昔からある屋敷だ。ヒースコートという名前を出せば、入れてもらえるらしい」
 オーゲンの助言に従い、アーフェンがおそるおそる扉を叩くと、一人の男が出てきた。身なりは古びているが、どことなく品位を感じる。
「あの、俺たちヒースコートさんの知り合いなんだけど……」
「話は聞いている。入ってくれ」
 男は名乗りもせずにきびすを返し、廊下を歩いていく。ついてこいということらしい。アーフェンはおっかなびっくり屋敷に足を踏み入れた。
 中は薄暗かった。高い天井に対して照明が足りていない。掃除は明らかに行き届いておらず、おまけに室内なのに身を切るように寒かった。本当にここが隠れ家なのか、とアーフェンは不安になる。
 通された先は居間だった。二人は埃っぽいソファに腰掛けた。すぐに茶が出てくる。白い湯気を見下ろしながら、アーフェンは向かいに座った案内人におそるおそる尋ねる。
「あのーここって……?」
「私はバイロンという。一応、貴族に連なる者だ」
 アーフェンはびっくりした。言われてみればバイロンは服装も態度もまさしく貴族のそれだが、あまりにも屋敷がぼろぼろなのでちっともそんな身分には見えなかった。
「確かあなたは薬師だったかな、オーゲンさん」
 バイロンは顔と名前を知っていたらしい。オーゲンはうなずきつつ、部屋の中をざっと見回した。
「ああ。ここはバイロン家なのか……確か幽霊屋敷として有名だったな」
「ゆ、幽霊屋敷って」
 仰天するアーフェンに向かって、オーゲンは淡々と説明する。
「あくまでたとえだ。バイロン家は元はこの町の領主だった。しかしその名を知る者はもうほとんどいないだろう」
「このように見事に落ちぶれてしまったからな。家財を売ってもどうにもならなかった……」
 バイロンは遠い目になる。冷え切った屋敷とは対照的に、彼が手ずから入れた紅茶はあたたかかった。
 なんだか込み入った事情がありそうだが、アーフェンはどうしてもテリオンたちの安否が気にかかり、いまいち話に集中できなかった。他の二人も口を閉ざし、気まずい沈黙が下りる。
 その時、玄関先で物音がした。テリオンがやってきたのかと腰を浮かせれば、期待に応えるように居間の扉が開く。
「なんとか追手を撒いて来ました……」
 ヒースコートが息を切らせて入ってくる。彼は別の人物に肩を貸していた。アーフェンは顔色を変えて駆け寄る。
「テリオン、無事か!?」
 彼はぐったりと老執事に半身を預けていた。アーフェンはすぐにその身柄を引き受け、ソファに座らせる。テリオンの冷え切った体にはいくつも傷があった。さっそく薬と包帯を取り出す。
「怪我したのかよ」
「少しな。さすがに数が多かった」
 テリオンは小さく息を吐く。裂傷に擦過傷、どれも浅いが数が多い。おまけに足を挫いているようだ。平気そうな顔をしているのは、寒さで痛みが麻痺しているのか、彼らしいやせ我慢か。
 後ろからひょっこりトレサが姿を現す。手当てを受けるテリオンを見て、彼女はほっとしたように表情を緩めた。
「良かった、アーフェンも来てたのね。テリオンさんってば無茶するから……」
 彼女も雪まみれだが、幸い大きな怪我はないらしい。テリオンがうまく盗賊の注意を引きつけたのだろう。
「お前に守られるほどやわじゃないからな」
 テリオンの皮肉に、トレサはほおを膨らませた。
 アーフェンは苦笑しながら治療を進めた。ひねった方の足を固定し、傷を消毒すると、テリオンはこっそり顔をしかめた。やはり気を張っていたらしい。
 トレサとヒースコートが心配そうに見つめてくる。アーフェンは「大丈夫さ」と笑いかけた。二人はやっと人心地ついた様子で別のソファに腰掛け、そこにバイロンが茶を配る。
 オーゲンにじっと手元を観察されているため、下手な処置はできなかった。ことさら丁寧に手当てしながら、テリオンの意識を痛みからそらすため、アーフェンは軽口を叩くことにした。
「あんな大勢に囲まれるなんて、すっかりお尋ね者じゃねえか、テリオンさんよ」
「まったく、迷惑な話だ」
 彼は忌々しいと言わんばかりに吐き捨てた。アーフェンは片ほおを持ち上げる。
「そうとも限らんぜ? 考えようによっちゃ、ダリウスがあんたを警戒してるって宣伝しているようなもんだ。あんたは一級の盗賊なんだってな」
「なるほど。薬を練るだけが能じゃないらしい」
「へへ、だろ?」
 手当てを終え、アーフェンは患者の背中をばしっと叩いた。小柄な彼は軽く前のめりになり、恨めしげにこちらをにらむ。
「これからも頼ってくれていいんだぜ。なんかあったら薬屋がついてる」
「……もう傷を負うようなヘマはしない」
「お、言ったな! その調子その調子!」
 はやし立てれば、テリオンは鬱陶しそうに前髪を払った。その拍子に、隠された左目があらわになる。アーフェンはふとつぶやいた。
「そういやあんたのその目……」
「どうかしたか」
 テリオンは両目を瞬いた。
「いや、普通に開くんだなと思って」
 彼の左のまぶたには縦にまっすぐ傷が入っている。瞳は両方同じ色だが、左目の焦点があっていなかった。
「今さらそれを聞くのか? 薬屋のくせに」
「だって下手に触れたらあんた怒りそうだったし……」
「らしくもない気遣いだな」
 鼻で笑ったテリオンは、目の下あたりに触れる。
「開いているが、何も見えない。あってもなくても同じだから隠してるだけだ」
「ふうん……よくきれいに治ったよな。誰にも手当てされなかったんだろ?」
 数年前ダリウスと仲違いして崖から突き落とされた、という話は大まかに聞いている。目の傷もその時についたのかもしれない。
 過去を語る時のテリオンは決して同情は許さないという雰囲気だった。だからアーフェンも内心思うことはあれど、深く突っ込まないことにしている。
「……そうだな」
 テリオンは返答を濁し、瞑想するようにまぶたを閉じる。また前髪が流れ、左目を隠した。
「どうです、動けそうですか」
 ヒースコートに訊かれ、テリオンは固定された足を触った。軽くうなずいたので、問題ないと判断したのだろう。彼は薄暗い室内を眺めた。
「まあな。この屋敷は安全なのか」
「足跡は消してきたのだろう。それなら見つからないさ。とても人が住んでいるとは思えない家だからな」
 というのは家主バイロンの発言である。本気なのか冗談なのか判別できず、トレサが困ったように愛想笑いしていた。照明が少ない上、窓に分厚いカーテンまで引かれているのは、盗賊団の目を逃れるためかもしれない。
「レイヴァース家とバイロン家は以前交流がありまして、その縁を思い出してここを頼りました」
 ヒースコートが言う。やはり彼はこの屋敷に身を潜めていたのだ。テリオンが腕組みする。
「あんたが酒場に来なかったのは、盗賊を警戒したからか?」
「ええ……実は、このような人相書きが町にばらまかれていたようです」
 ヒースコートはテーブルの上に紙を置いた。そこにはテリオンの似顔絵と、短い文章が書かれていた。アーフェンが読み上げる。
「えーっと……この者に関わった者は、理由を問わずダリウス様に逆らう意思ありとみなす。命はないものと思うべし――うへえ、思いっきり警戒されてたのか」
 しかも妙に似顔絵が上手い。簡単なタッチなのにテリオンの特徴がよく捉えられている。一体誰が描いたのだろう。
「それでバーテンダーに通報されたのね……」
 トレサは脱いだ帽子を悔しそうに握りしめた。
「申し訳ありません、気がつくのが遅れてしまいました。その紙を見つけてすぐに酒場に向かおうとしたのですが……はあ」
 頭を下げるヒースコートはまだ息が整わないのか、胸のあたりをおさえている。
「ヒースコートさん、大丈夫かい」こちらも診察すべきかとアーフェンは起立しかけたが、ヒースコートは「お気遣いなく」と手を挙げて制止した。
「珍しいな、あんたがそうなるなんて」
 テリオンはからかうように言葉尻を上げた。ヒースコートは目を伏せる。
「当たり前です……それが老いるということです。若者には想像もつかないでしょうがね」
 アーフェンはどきりとした。以前レイヴァース家で顔を合わせた時と比べて、今の彼は何十歳と老けたように見えた。背中は丸まり、表情には重い疲労が刻まれている。
 テリオンは右腕にはまった腕輪をそっと触った。
「俺にこれをはめた時は、まったく年齢を感じさせなかったがな」
「あれは身につけた技というやつです。その技も衰えつつありますが」
「そんな技、どこで覚えた?」
 盗賊団を撒いた手腕といい、ただの執事ではありえない。アーフェンはごくりと唾を飲み、トレサがさり気なく身を乗り出す。オーゲンは聞いているのかいないのか、じっとまぶたを閉じていた。
 テリオンはかぶりを振った。
「いや、言わなくていい。……盗賊の技だな?」
「その通りです」
 アーフェンとトレサはそろって目を丸くした。バイロンは知っていたらしく、動揺した様子はない。テリオンも薄々察していたのだろう、ソファの上で悠然と足を組んだ。
「それならレイヴァース家の警備にも説明がつく。盗みに入る側の心理を知り尽くしたものだった」
「やはり気がついておいででしたか」
「え、え、どうしてそんな人が執事やってるんだ?」
 アーフェンが思わず疑問をぶつけると、隣のオーゲンに「余計なことを言うな」と肘で小突かれた。一方、「気になるわね」と興味津々でつぶやくトレサはお咎めなしである。
 ヒースコートはゆるく息を吐き、遠くを眺めるように目を細めた。
「……では、少しばかり老人の思い出話にお付き合いください」
 どうやら重要な告白をするようだ。部外者が聞いていいのか、というアーフェンの遠慮がちな視線に構わず、ヒースコートは静かに語りはじめた。
 ――彼が先代レイヴァース家当主と出会ったのは、現当主コーデリアが生まれる前だった。当時のヒースコートは、この世に盗めないものはないと自負する腕自慢の盗賊だった。しかし、レイヴァース家に忍び込んだ結果、見事に捕らえられてしまう。
 先代は「衛兵に突き出さない代わりに一つ願いを聞いてほしい」とヒースコートに取引を持ちかけた。
「竜石を守ることになる我が子を助けてやってくれ、と言われました」
「その取引に今も従っているのか?」
 訝しげなテリオンに対し、ヒースコートは首を縦に振った。
「ええ、腕に覚えがあればあるほど、しくじった時の屈辱は大きいものです。あなたもそうだったでしょう」
 自分の時を思い出したのか、テリオンは口をつぐむ。
 旅に出た当初、アーフェンは罪人の腕輪の存在自体を知らなかった。そのため、テリオンとレイヴァース家の取引内容を聞いた時も「なんか大変そうだな」という感想しか抱かなかった。だが、盗賊にとってあの腕輪はいたく誇りを傷つけるものだったらしい。
 ヒースコートは過去にひたるように眉を下げる。
「わたくしも同じですよ。盗賊稼業から足を洗うしかなかった……盗み先で情けをかけられたとあっては、盗賊の名折れです。
 ですが、あの屋敷で盗賊の誇り以上に大切なことを教わりました」
「なんだそれは」
 興味なさげなテリオンの問いかけに対し、ヒースコートは真剣そのものの顔で答えた。
「人から信じてもらうこと――そして、人を信じることの尊さです」
 さらりと放たれた言葉は、存外に重いものだった。アーフェンとトレサは静かに息を呑み、テリオンは大きく目を見開く。ヒースコートはまっすぐテリオンに向かって声を届けた。
「あなたも聞いたでしょう、お嬢様の過去を……。他人に裏切られ続けた結果、この世のすべてが敵と思い込んで、誰も寄せ付けようとしませんでした。
 ですが、日々の積み重ねがお嬢様を変えていきました。わたくしは自分を信じてもらうために、お嬢様を信じることを続けたのです。
 裏切ったことで負った心の傷は、信じることでしか癒せないのですよ。それを知るからこそ、お嬢様はあなたを信じているのです」
 アーフェンはコーデリアの過去をほとんど知らないにもかかわらず、不覚にも涙ぐみそうになってしまった。あのお嬢様はやはりテリオンのことをずっと気にかけていたのだ。そして、彼が必ず竜石を持ち帰ると信じている。
 テリオンは曖昧な表情を浮かべて沈黙していた。今の言葉は彼の胸にどう響いたのだろう。
 ヒースコートは気を取り直したように声色を変える。
「さて、昔話はこれぐらいにいたしましょう。奪われた竜石を取り戻さねばなりません」
 それを合図にアーフェンも意識を切り替えた。ヒースコートが口を開く。
「まず、手紙でもお伝えしたとおり、ダリウス盗賊団はこの町の北にある廃教会に居座っています」
「なんだと」
 急にオーゲンが立ち上がったので、アーフェンはぎょっとした。
「わ、驚かせるなって」
「……あの教会の近くには妻の墓があるんだ」
「ほんとかよ」
 ますます墓参りなどできないではないか。オーゲンは顔をしかめた。
「あまりそちらの事情に立ち入る気はなかったが、少しは協力させてもらおう。どのみち町に盗賊団がいるなど迷惑すぎる」
「おおっ、助かるぜオーゲン!」
「……恩に着る」
 テリオンが小さく頭を下げた。思わずアーフェンはトレサと顔を見合わせる。あのテリオンが素直に礼を言うなんて、と二人はひそかに感動していた。
「あの、その教会って今は使われてないんですよね? どうしてなんですか」
 トレサはよほど気になっていたのだろう、スティルスノウの作戦会議でも挙がった疑問を投げかける。
「……それは、私の家の失策が原因なんだ」
 横から割り込んだのは貴族バイロンだった。驚くアーフェンたちに彼はこう語った。
 かつて彼の家は領主として多くの事業を立ち上げ、町の発展に貢献した。だが、信仰心の強さによる教会への多額の寄付が仇となった。よりにもよって、当時教会を預かっていた司祭が奸物だったのだ。司祭は寄付金で際限なく教会を拡張した挙げ句、最後は金を自分の懐に入れて逃げ出してしまった。
 おまけにフレイムグレース側は不祥事を握りつぶした。当時の教会は末端だけでなく上層部まで腐っていたらしい。ノースリーチに新しい司祭はやってこなかった。
「その後我が家は落ちぶれ、こうして盗賊の台頭を許すことになってしまった」
 バイロンは乾いた笑みを顔に張り付かせる。貴族は領内の人々に対する責任がある。きっと盗賊団の存在には人一倍胸を痛めているのだろう。
 目をすがめて話を聞いていたテリオンは、改めてヒースコートに尋ねる。
「その教会の中に竜石があるんだな」
「ええ。教会といっても、今の話の通り地下に施設を拡張しているようです。おそらく竜石は一番奥に隠しているのでしょう」
「古いものだが、地下の図面が家に残っている」バイロンが口を挟んだ。
「ならそれを貸してくれ」
 テリオンが頼むと、バイロンは心持ち背筋を伸ばして部屋を出て行った。
 見知らぬ場所を探索する時は地形情報が重要となる。これはサイラスから教わったことだった。テリオンは幾度も金持ちの屋敷に忍び込んできた経験から、そのことを誰よりも実感しているのかもしれない。
 ヒースコートは静かにテリオンを見つめた。
「教会に忍び込むのですか」
「ああ」
「先ほど撒いた盗賊がまだ外を見回っているはずです。どう対処するつもりですか?」
 鋭い指摘を受け、テリオンは返事に詰まった。
「ねえ、やっぱりサイラス先生たちが来るのを待った方がいいんじゃない?」
 トレサがぴんと指を立てて提案する。彼女の言うとおり、サイラスたち別働隊が到着しなければ盗賊団に対抗できる戦力は揃わないのだ。
「俺を探し回る盗賊が関係ないやつに手を出したら面倒だ。すぐに出る」
 テリオンはかたくなに主張した。アーフェンは「確かに……」と考え込む。盗賊団が町人を人質にとってテリオンをおびき出すような事態になれば、目も当てられない。
 アーフェンは不満げに唇を突き出すトレサに目配せした。彼女は諦めたように首肯する。
「なら、あたしはオルベリクさんを呼んでくるわ」
「それがいいな。旦那がいたら百人力だぜ」
 アーフェンはこぶしを握った。剣士にはこういう時のために町の外で待機してもらっているのだ。
 ふとトレサは心細そうな顔になった。
「町の正門、そのまま通ってもいいのかしら。あたしもテリオンさんの仲間ってばれちゃってるわよね。門番さんってどっちの味方なんだろう?」
 バーテンダーに密告されたことが響いているのか、彼女は珍しく慎重になっているようだ。横からオーゲンが口を出した。
「あの門番か。私に考えがある。今のうちに対処しておけば、君たちの仲間が来るときも通りやすいだろう」
 その「考え」が物騒な方法でなければいいのだが。まさか薬を使うつもりではあるまい。オーゲンは腕がいいだけに、アーフェンにも予想できない調合をしそうだ。よろしくお願いしますとトレサが声を弾ませたので、余計な忠告は胸にしまうことにした。
「……物好きなやつらだ」
 仲間を見回し、テリオンは呆れたように言った。苦笑いしたアーフェンは、この機会にかねてからの質問をぶつけるべく、テリオンに耳打ちした。
「なあ、ダリウスってどんなやつなんだ?」
「なんだいきなり」
「いいだろ別に。ちょっと気になったんだよ」
「……俺から言えることはないな」
 あいつが裏切るなんて考えもしなかったから。そう付け加えるテリオンの表情は曇っていた。
「でもよ、テリオンとのやりとりが全部嘘だったわけじゃねえだろ。あんたの印象でいいから教えてくれよ」
 アーフェンが重ねて問うと、テリオンは少し考え、ぼそぼそと答えた。
「そうだな……。俺と別れる時、あいつは『成り上がってやる』と言っていた。誰かに見下されるのがよほど嫌だったんだろう」
 盗賊として成り上がった結果がノースリーチを支配することなのか。アーフェンの頭ではいまいち結びつかない事柄だ。
「あんたも成り上がりたいって思うのか?」
「別に。誰にどう言われてもなんとも思わない。俺は俺だからな」
 テリオンは口笛でも吹くような調子で答えた。もしかして、オアウェルの村でのアーフェンの発言――盗賊と知っていても怪我を直したのは、あんたがあんただったからだ――を意識しているのだろうか。
 とにかく、それが彼にとっての「盗賊の矜持」なのだ。ヒースコートはもっと大切なものがあると言ったけれど、その誇りこそ今までのテリオンの人生を支えてきたものだった。
 バイロンが見取り図を持ってきた。テリオンはそれを一瞥し、懐に入れる。それからカーテンのかかった窓のそばに移動してそっと外を覗き見た。
「……追手はいない。そろそろ行くか」
「わたくしも一緒に参ります」
 ヒースコートが立ち上がろうとしたが、
「あんたはここで待ってろ」
 テリオンが冷ややかに断る。彼の意図は明白だった。先ほどの疲労を引きずる執事にあまり無茶はさせられない。
「そうそう、俺たちだけで十分さ!」
「目一杯活躍してくるわね!」
 アーフェンがにかりと笑い、トレサがこぶしを振り上げれば、オーゲンも無言で席を立つ。
「分かりました、あなたたちに任せます。良い結果を期待していますよ」
 無言の気遣いを察したのだろう、ヒースコートは大人しく引き下がった。
「……行ってくる」
 テリオンは老執事と貴族に向かって軽く頭を下げた。見送りはいらないと言外に告げて、居間を出ていく。アーフェンたちも後に従った。
 玄関までの短い廊下を歩きながら、アーフェンは頭の後ろで腕を組む。
「また寒い寒い外かあ」
「おたくはそれがあるからいいだろ」
 テリオンはアーフェンが首に巻いたマフラーを指差す。フロストランドを旅するにあたり、防寒着として調達したものだ。
「そういやあんたは巻いてないんだな」
「ああ。正直落ち着かない」
 なら貸してやろうかと提案しかけた時、いきなり首元が軽くなった。
「あっ!」
 テリオンは目にも留まらぬ早業でアーフェンからマフラーを奪い、自分の首に巻いていた。彼は悪びれもせず「これであたたかいな」と笑った。
「あ、あんたなあ……」
 アーフェンはがくりと肩を落とす。盗む必要などないのに、つい手が出てしまうのが盗賊というものだろうか。彼がいつかヒースコートのように落ち着く日が来るとはとても思えなかった。
「うんうん、テリオンさんらしくなったわね」
 トレサまで満足しているので、アーフェンはもう諦めることにした。
(まあいっか。テリオン、なんか楽しそうだし)
 盗賊と薬師なんて、遠い関係だとばかり思っていた。今だって噛み合わない部分は多くある。それでもテリオンとはこれからも気軽にマフラーを貸し借りできるような仲でいたい。
 それは一般的に友人と呼べる存在であることを、アーフェンは知っていた。

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