果敢なき実りを胸に



「オルベリク、俺に剣を教えてくれないか」
 ある日、オルベリクは仲間の一人であるテリオンからそんな申し出を受けた。
 ウェルスプリングでの戦いを終え、ボルダーフォールの屋敷で報告を済ませた後だった。まわりに誰もいないタイミングで彼はそう切り出した。
 以前のテリオンは、オルベリクとアーフェンが目の前で試合をしてもただ見物しているだけだった。彼は見て盗むタイプだから一人でこっそり鍛錬しているのだろう、とオルベリクは結論づけていた。
 それがこうして真正面から依頼するようになったとは。この旅がテリオンにもたらした大きな変化に、しみじみと感じ入る。
 とはいえ口で指摘すると相手が嫌がることは目に見えていたので、オルベリクはあくまで冷静にうなずいた。
「もちろん構わないが、理由を聞いてもいいか」
「それは……」
 テリオンは唇を噛んでうつむく。長い前髪で顔が隠れたが、むき出しの耳の色で照れていることは丸わかりだった。彼はぼそりと答える。
「あんたとエアハルトの試合を見たからだ」
 リザードマンの巣窟で双璧の騎士がぶつかりあったあの試合は、たまたま居合わせたテリオンにも何らかの影響を与えたらしい。
 それからオルベリクは何度も彼と剣を交えた。テリオンには我流で積み上げた技術があるため、下手に矯正すると逆効果になるかもしれない、と危惧していた。しかし、テリオンはオルベリクの拙い言葉による指導や試合内容そのものを吸収し、どんどん自分の力にしていった。盗賊を生業とするだけあって器用なものだ。
 彼は鍛錬を他の仲間に知られたくないらしく、宿に泊まった翌朝などにこっそり試合を挑んでくる。が、ほとんどの者にとっては周知の事実だろう。
 指導を引き受けるオルベリクは、すでに自身の旅に区切りをつけていた。リバーフォードという町の領主ヴェルナー――エアハルトにホルンブルグへの裏切りを仕向けた、元傭兵団の団長――と戦い、勝利したのだ。
 戦闘のさなかで、オルベリクはホルンブルグが滅ぶ原因になった「フィニスの門」というキーワードを耳にした。今後はその謎めいた単語を探りながら旅を続けるつもりだ。とはいえ以前ほどの焦燥感はない。仲間たち全員の目的を達成すれば、一度コブルストンに足を運ぶつもりだった。
 ――そんなことをつらつらと回想しながら、ノースリーチ近くの洞窟に身を潜める。
 スサンナから教わった待機場所で、氷竜の口という名前がついているらしい。最近人が入った形跡はなく、風もしのげるため、潜伏にはうってつけの場所だ。オルベリクは定期的に外に出て街道を確認したが、今のところ異変はない。
 テリオンとトレサ、それにアーフェンの三人は先んじてノースリーチに潜入している。彼らはヒースコートと合流してめぼしい情報を得た後で、一旦この洞窟に戻ってくる手はずになっていた。ある程度時間が経っても彼らが来なければ、反対にオルベリクが町に赴く。もしくはその前にサイラスたち別働隊がここを訪れた場合は、ともにノースリーチへ向かう。つまりは連絡役としての待機だった。
 もう何度目になるか、雪道に出たオルベリクは付近の様子を確かめ、再び氷竜の口に戻ろうとする――と、背後から軽やかな足音が近づいてきた。跳ねるようなリズムで、振り返る前に正体を悟る。
「いたいた、オルベリクさん!」
 トレサだった。ほおを真っ赤に染め、はあはあと息を弾ませている。急な坂道を駆け降りてきたらしい。大きなリュックを背負っているのによく転ばなかったものだ。
「何かあったのか?」
 テリオンとアーフェンの姿はない。言葉少なに問うと、彼女はひざに手をつき呼吸を整えてから答えた。
「今すぐ町に来てほしいの。テリオンさんが盗賊に見つかっちゃったわ」
「何っ」
 血相を変えたオルベリクは即座に出発した。
 道すがらトレサの説明を聞く。町の住民にテリオンの人相書きが配られていること、ヒースコートと合流できたこと、薬師オーゲンが味方になったこと、敵に見つからない隠れ家があることなどをざっと頭に入れる。
「相手は数が多いのだろう。隠れ家で待機する選択肢はなかったのか?」
 オルベリクが疑問を呈すると、トレサは口を尖らせた。
「テリオンさんがどうしても出るって言うから。ねえ、今回あの人の無茶が目立つと思わない?」
「自分の仕事だからな。他人を巻き込みたくないのだろう」
「そんなの今さらでしょ。水くさいわよ!」
 目を吊り上げるトレサに、オルベリクは苦笑とともに同意した。それがテリオンの弱点であり、好ましい部分でもある。
 ノースリーチの城壁が見えたので一旦会話を切り上げた。トレサは堂々と正門に向かう。
「門番がいるようだが」オルベリクは反射的に身構えた。
「大丈夫よ。オーゲンさんが説得してくれたの。あの門番さん、もともと盗賊団に不満があったみたい。あたしたちに協力してくれるって」
 トレサはにこやかに正門を通り抜けた。門番は素知らぬ顔で視線を外す。おおっぴらに抵抗できなくとも、内心で盗賊団を嫌っている者は多いのだろう。
 町に入り、トレサは周囲をぐるりと見渡す。
「オーゲンさん、いないわね。テリオンさんたちと合流したのかしら?」
「あいつらは今どうしているんだ」
「隠れて盗賊たちの動きを見るって。隙があったらこっちから仕掛けるって言ってたけど……」
「せめて俺たちが到着するまでは待ってもらいたいな」
 オルベリクは先に盗賊団から探すことにした。きっとテリオンたちもその近くに身を隠しているはずだ。
 用心深く足を運び、家々の間を通る。トレサが耳をそばだてた。
「あっちから声がする」
 二人は薄く雪の積もった石畳を早足で歩き、声の方へ急行した。
 やがて広場にたどり着く。そこに見覚えのある服装をした盗賊が五人ほど集まり、何やら会話していた。おそらくテリオンの行方について討論しているのだろう。
 建物の陰に隠れて様子を見る。トレサがしかめっ面で彼らを指さした。
「あいつらがバーテンダーの通報を受けて、あたしたちを追い回してきたの」
「なるほど」
 直後、オルベリクははたと気づいた。こちらから見て広場の対角線上にある家の角に、ちらりと水色のマフラーが覗いている。あれはアーフェンのものだろう。トレサに小声で伝えると、何度か瞬きしてから「間違いないわ」とうなずいた。
「テリオンたちにこちらの位置を合図できるか」
「うん、やってみる」
 トレサは帽子を脱ぐと、指を立ててかすかな風を呼んだ。帽子は軽やかに宙を舞い上がり、盗賊の目に入らぬ高所を飛んでいく。最後にはテリオンたちの潜んでいる家の後ろに消えた。風を自在に操るさまにオルベリクは感心した。
「これで気づくと思うわ」
「よし、行くぞ」
 合図とともに二人は物陰を出た。堂々と広場の中央に向かって歩いていく。
「……おい」
 オルベリクはいつでも剣を抜けるように準備しつつ、盗賊たちに低く声をかける。
「なんだ、お前ら」
 一人が胡散臭そうに振り返った。隣の男があっと口を開けてオルベリクを凝視する。
「待て、顔に傷のある男……お頭から聞いた覚えがある。闇市で邪魔してきたっていう、テリオンの仲間だ!」
「何だと」
 盗賊たちは色めき立った。
 背後でトレサが静かに息を吐き、集中に入る。大風を呼ぶのか、学者の魔法を使うのか。これだけ開けた場所なら、周囲への影響を気にする必要はなかった。
「知っているなら話が早い。……行くぞ!」
 短い気合とともにオルベリクは剛剣をふるった。先頭の一人が慌てて己の得物を振り上げたが、受け止めきれずに構えを崩した。
「氷嵐よ、巻き起これ!」
 トレサの詠唱により、舞っていた雪が凍りついて盗賊たちに襲いかかった。相手は顔の前に腕をかざして防ぐ。
「くそっ、なんだこいつら」
「相手は二人だ、落ち着け!」
 先制攻撃を受けた盗賊たちは急いで体勢を立て直そうとするが、
「二人だけじゃねえんだよなあ」
 出し抜けに背後で声がした。盗賊たちが愕然として振り返ると、斧を肩に担いだアーフェンが挑発的に笑っていた。その隣で鞘から長剣を抜き放つのは――
「テリオン……!」「やっと出てきやがったな」
 ターゲットを見つけた盗賊たちが目の色を変える。
「さっきのお返しだ」
 テリオンは冷たく敵を見据えた。水色のマフラーをなびかせ、すかさず近くの相手に迫る。連続で太刀を浴びせれば、盗賊は防戦一方になった。その間にアーフェンが別の一人を引き受ける。
 良いタイミングでの乱入だ。オルベリクが試合の合間に教えていた兵法をテリオンが実践したのだろう。戦力が足りない場合は挟み撃ちにする――基本に忠実な戦法だった。
 囲まれた盗賊たちは、不利を悟りながらも降参する気はないようだ。
「やっちまえ!」
 たちまち乱戦になった。市街で集団戦など治安が悪いことこの上ないが、そうも言っていられない。あちこちで武器がぶつかり、耳障りな音が響く。
「みんな、できるだけ敵を一箇所に集めて!」
 トレサの意図を汲んだ男たちはさらに一歩踏み込んだ。オルベリクは突きによって盗賊を追い詰めていく。後ろで小さく息を吸う音がした。
「紳商伯ビフェルガンよ!」
 凛々しい声とともに商人の奥義が炸裂した。高密度の魔力が天から降り注ぎ、盗賊たちが悲鳴とともに吹き飛ばされる。
「……あれ?」
 雪の上に倒れた彼らは、すぐに起き上がった。威力の割に大した痛みがない、と思ったのだろう。その奥義は殺傷能力に欠ける代わりに、一風変わった効果を持っていた。
 起き上がった盗賊の懐から、ちゃりんちゃりんと音を立てて石畳にコインが散らばる。
「あっ俺の財布!」
「いつの間に!?」
 盗賊たちは慌てて硬貨を拾い上げる。かろうじて警戒を解かなかった者ですら、一瞬そちらに意識をとられた。
 その隙にテリオンは相手の腹を蹴って昏倒させた。ワンテンポ遅れて我に返った盗賊も、オルベリクが剣の柄で殴りつけて気絶させる。程なく五人全員の意識を飛ばすことに成功した。
 雪雲の隙間から薄い日差しが覗き、トレサの不敵な笑顔を照らし出す。
「商人だからって甘く見たでしょ」
 紳商伯の奥義には、攻撃を受けた相手の持ち物を散らす効果があった。理屈は不明である。サイラスが熱心に文献を紐解いても判明しなかった。テリオンが「便利そうだな」と半ば本気で羨んでいたことを思い出し、オルベリクは笑いを噛み殺した。
 アーフェンが腕をぐるぐる回しながら、気絶した盗賊たちに近づく。
「さて、こいつらはどうするかねえ」
「私に任せてくれ」
 音もなく広場に現れたのは黒衣の薬師オーゲンだった。
「あんた、いつの間に」アーフェンはのけぞる。
「先ほどから君たちの戦いを見ていたよ」
 彼は盗賊のそばにしゃがみ、薬鞄から何かを取り出して手早く処置を施した。オルベリクからは手元が見えない。
「これでしばらくは目覚めないだろう」
「シトゲ草……でもねえのか」
「いちいちトゲを刺すのは面倒だからな」
 オーゲンはさっと道具をしまう。その処方に心当たりがあったのか、アーフェンは「うわあ」と顔を歪めた。腕がいいだけあって、オーゲンは物騒な方面にも強いようだ。激しい戦いにも動じていないのは、薬師としてあらゆる死地を見極めてきたからだろう。何はともあれ味方としては心強い。
 広場はすっかり静まり返った。テリオンは剣をおさめ、まっすぐにこちらにやってくる。緑の目が透明な輝きを放った。
「オルベリク、来てくれて助かった」
 なんだか立派なことを言うようになったものだ。オルベリクはひそかに感慨にふけりつつ、
「俺を呼んだのはトレサだ。礼ならそちらに言ってくれ」
「そうだったな。恩に着るぜ、トレサ」
 テリオンは薄く笑いながらトレサの頭に帽子を載せた。合図に使ったものをしっかり拾っていたらしい。商人の少女はびくりと肩を震わせた。
「あっ当たり前でしょ。仲間だもの!」
 彼女は胸を張りつつも、なんだか居心地悪そうにしていた。いやに聞き分けの良いテリオンが珍しいのだろう。オルベリクはまじまじと彼を見つめた。
「……なんだ、何か言いたそうだな」
 彼は怪訝そうに片眉を上げる。オルベリクはふっと相好を崩した。
「いい顔になった。答えは出たようだな」
 テリオンは瞠目した。近頃になってようやく見せるようになった無防備な表情だ。
 きっと彼が長年抱えていた悩みが解消されたのだろう。オルベリクも同じように迷い続けた過去があるので、なんとなく分かる。
「答え、か。これが答えだというなら……そうなのかもな」
 テリオンはマフラーを口元まで引き上げ、つぶやく。その後ろでは何故かアーフェンが得意げに鼻の下をこすっていた。
 オルベリクはその答えの内容までは分からない。だが、あえて聞かないことにした。それは本人の心に秘めておくべきことだ。
「気楽にいけばいい。きっと、あまり気負うようなものではないぞ」
「そういうもんか。覚えとくぜ、オルベリクの旦那」
 テリオンは口の端を持ち上げる。そういえば、この「旦那」という呼び方はアーフェンにでも影響されたのだろうか。オルベリクは小さく笑った。
「なあ、追手はこれで全員か? 今なら教会に乗り込めるんじゃねえか」
 アーフェンが思いついたように声を上げた。テリオンがこちらに視線を向ける。
「どう思う、オルベリク」
「砂漠にやってきた盗賊団は全勢力の半数程度ではないか、とエアハルトは推測していた。ならば拠点にはまだ大勢残っているはずだ。地上の部隊が全滅したことを知れば、援軍を送ってくるだろう」
「いちいちそれを倒していくの? なんだか気が遠くなるわね」トレサがうんざりしたようにあくびをする。
「いいや、次はもっと多くの追手を差し向けるはずだ」
 オルベリクの不吉な予測に、アーフェンが嫌そうに顔を歪めた。
「やっぱり一旦隠れ家に戻らねえか? 俺たちの援軍もそのうち来るんだろ」
 消極的だが悪くない案だ。腕組みして思案するテリオンに声をかける。
「サイラスたちを待とう。その隠れ家とやらに案内してくれ」
 テリオンは渋々といった様子でうなずいた。
 追手は一度全滅させたわけだから、先ほどとは状況が異なる。盗賊たちが町の者に無差別に手を出す可能性が低くなったため、退却しても問題ないと判断した。
 気絶した盗賊は縛って路地に引きずり込み、そのまま放置する。昼間だから凍死はしないだろう。
「サイラス先生たち、早く戻ってこないかなあ」
 作業中に何気なく放たれたトレサの発言に、テリオンはこっそり苦い顔をしていた。「どうして自分一人では竜石を盗めないのか」とでも考えているのだろう。
 テリオンが単独行動を取りたがるのは、仲間を信用していないからではない。要するに彼が甘いからだ。
 自分の仕事によって関係ない者が傷つくのが嫌だ、という気持ちはごく当たり前のものである。テリオンはこれまで誰かと行動する機会が少なかったので、自分のそういう性質に気づかなかったのだろう。今もはっきりとは自覚できていないかもしれない。
 そんな彼の甘さを支えるために仲間がいる。オルベリクはテリオンの意向を守るべく戦線に立つこともあれば、反対に退却のタイミングを見極める役割も担う。今回は後者だった、というだけだ。
 五人は帰路についた。オルベリクは隠れ家の場所を知らないため、最後尾に従う。目的地は複雑な路地を抜けた先にあるらしい。
「にしてもあんた、素直に先生の作戦を採用するようになったよな」
 一番前をゆくテリオンに向かって、アーフェンがにやにやしながら話しかけた。テリオンは振り返らず、
「あいつに任せておいたら勝手にうまく回るからな」
「それって先生の実力を認めてるってことよね」
 トレサがすかさず指摘すると、テリオンは不機嫌そうに押し黙った。
 オルベリクに剣の教えを請うたように、彼はサイラスの頭脳もきちんと認めているのだ。
 他の仲間たちも同様に学者を頼りにしている。教師としての側面を持つ彼は、何かと一行のまとめ役を引き受けることが多い。
(だが、サイラスは……)
 仲間たちの元気な背中を見下ろし、オルベリクは音を立てずに嘆息した。
 サイラスは年少の彼らに信頼を寄せられる一方で、隠しごとを山ほど抱えていた。
 雲の切れ間から覗く弱々しい太陽に、思い出の中の眩しい日差しが重なる。オルベリクは波音とともにその記憶を手繰り寄せた。



 トレサの旅の終着点となったグランポートを出発して、月隠れの海道を南下していた時のことだ。
 しばらく行軍が続いて疲労がたまり、開けた海辺で一旦休憩を挟むことになった。仲間たちは思い思いに砂の上に腰を下ろし、身体を休める。
 剣の手入れをしようと適当な場所を探していたオルベリクは、ふと砂浜を見渡した。散らばった仲間の中にサイラスがいない。
 気になって、しばらくあたりを探索した。浜から少し上がったところにぽつんと木が生えていて、幹の向こうに黒いローブの裾が見えた。木の根本に座っているらしい。オルベリクは導かれるように足を運んだ。
「サイラス」
 離れた位置から声をかけたが返事がない。正面に回り込めば、彼は膝の上に本を開いたまま目を閉じていた。静かに胸が上下しているので、眠っているらしい。魔物の不意打ち対策として例の気配を遮断する魔法をかけているようだ。オルベリクがなかなか見つけられなかったのもそのせいだろう。
 近頃、サイラスはずいぶん寝起きが良くなった。朝の支度で手間取っていた頃がもはや懐かしく思い出されるくらいだ。しかし、こうして短い休憩に睡眠をとるということは、実のところよく眠れていなかったのか。
 オルベリクがそばに立つと、サイラスの均整の取れた顔に影が落ちる。ぴくりとまぶたが動いた。
「あれ……オルベリク。休憩は終わりかい?」
 ぼうっと目を開けた彼は、何度か頭を振って眠気を追い出した。
「いや、まだだ」
 青い瞳が瞬く。ならば何故、と問いたいのだろう。
 オルベリクはその疑問に答えず、彼の隣に腰を下ろした。二人で黙って海を眺める。さざなみの音が小さく鼓膜を叩いた。確かに居眠りに誘われる陽気だ。
「俺も少し寝る。……だから、何か話をしてくれ」
 サイラスはしばし考えてから、苦笑をもらした。
「それは、眠くなるような話をしろと言っているのかな」
「得意だろう。それに、俺は何を聞いても起きた頃には忘れている」
 サイラスは軽く息を呑み、こちらを注視した。オルベリクの意図が伝わったのだろう。
 この学者は誰にも言えない秘密を多く抱えている。オルベリクはすでにその一端をウィスパーミルで聞かされていた。
 あれからずいぶん時間が経ったが、結局サイラスはまだハンイットに打ち明けていないらしい。彼女から赤目の話を聞くだけ聞いて、自分の隠しごとについては「もう少し待ってくれ」と言ったそうだ。ハンイットは呆れながらも受け入れてくれた、とサイラスは言っていた。慎重に扱うべき話題と分かっているから、彼女もあまり催促できないのだろう。
 オルベリクはサイラスほど頭が回らない。だから、学者の負担を軽減するために、剣を振るい身を盾にして危険から守るか、あるいはこうして話を聞いてやるくらいしかできなかった。考えを吐き出して少しでも楽になればいい、と思いながらまぶたを閉じる。
「そうか。ならば――」
 潮騒に乗って、サイラスの低声が心地よく耳に入る。
「何故エスメラルダはトレサ君の手記を奪ったのだろう。あの手記に目当ての情報があると思いこんでいたようだが、実際はあてが外れて手記を放り出そうとしていた。その理由は何なのか……」
 ついこの間、グランポートで起こった出来事である。地下水道の奥で追い詰めたエスメラルダは黒曜会の幹部だったらしい。品評会も含めて事件は無事に終息したが、どうも後味が悪かった。サイラスも内心ずっと気にしていたのだろう。
「考えられるのは、手記の元の持ち主を黒曜会が探っていた可能性だ。グラム・クロスフォード……まさかあの手記を書いたのがアーフェン君の恩人さんと同一人物だったとはね。手記には薬師だと分かるような話は載っていなかったそうだから、気づかなくても無理はないのだが」
 サイラスの台詞が意識の海に溶けていく。絶妙に眠気を誘うリズムと抑揚だ。
「それにしても、クロスフォードという名、どこかで聞いたことがあるような――」
 波の音が遠くへ去り、いよいよ意識が落ちた。
「……オルベリク、起きてくれ」
 どのくらい時間が経ったのか、サイラスに肩を揺られて目覚める。まぶたを開けると、コーストランドの空と同じ色の瞳が穏やかに待っていた。
「休憩は終わりか」
「ああ」
 二人は腰を上げ、浜の真ん中に集う仲間たちのもとへ歩いていく。サイラスは前を向いたまま、
「聞いてくれてありがとう。おかげで考えを整理できたよ」
「俺は何も聞いていないが」
「ふふ、そうだったね」
 サイラスは笑いを漏らし、急に立ち止まった。オルベリクが振り向けば、なんだか深刻そうな顔をしている。その双眸には覚悟が宿っていた。
「……決めたよ。ハンイット君と、プリムロゼ君に話してみようと思う」
「やっとか」
 オルベリクは全身の力が抜ける思いだった。サイラスは長い間自分だけで抱えていたことを、少なくともその二人には打ち明ける気になったらしい。ぎこちないほほえみには、まだ少しだけ迷いが残っていた。
「ああ……すっかり遅くなってしまったな。そこで、あなたに一つ相談があるのだが」
「なんだ?」
 サイラスは真剣そのものの調子で、
「私と一緒にプリムロゼ君に怒られてくれないか」



「見つけたぜ、テリオン!」
 突如として轟いた荒っぽい声に、つかの間の回想が破られた。オルベリクの意識は雪深いノースリーチの路地に戻ってくる。
 道を塞ぐ盗賊たちを見据え、トレサがぎくりと立ち止まった。
「もしかして隠れ家がばれたの?」
「いや、単に俺たちが見つかったらしい」
 テリオンが声に険をにじませる。前方から三人ほどこちらに向かって駆けてきた。相手の対応が予想よりも早い。一向に戻らない地上部隊に見切りをつけて、即座に増援を差し向けたのか。
「一旦引くぞ!」
 オルベリクが号令をかけ、体を反転させる。彼らはひとかたまりになって再び広場の方へ走り出した。今度はテリオンがしんがりだ。
 そのうち前から声がしたので、オルベリクはさらに脇道へと入った。追手の気配を感じる度に右へ左へと曲がる。おかげでなかなか広場にたどり着けない。
「なあ、俺たちどこかに誘導されてねえか」
 走りながらアーフェンが叫んだ。そうかもな、とテリオンが気のない返事をする。相手の思惑が分かっていてもどうにもならず、腹立たしいのだろう。誘導に乗らないためには反撃する必要があるが、狭い場所で大勢を迎え撃つのは厳しかった。
「そこを右だ」
 いきなりオーゲンが口を出した。一も二もなく従うと、少し広い通りに出た。真正面に広場が見えた瞬間、別の盗賊たちが立ちはだかった。数が多く、先ほど広場で倒した者の倍はいる。
 仕方なしに足を止めて剣を抜いた。仲間たちも次々と武器を構える。背後にも追手が迫っていた。
「逃げ回っても無駄だ。俺たちは町を知り尽くしてるんだよ!」
 盗賊たちは下卑た笑いを浮かべながら距離を詰める。
「テリオン、あんたの首には賞金がかかってるんだ。大人しくしな」
「断る」
 テリオンは仲間の背を守るように最後尾に立ち、冷然と言い切る。
「オルベリク、正面は任せた」
「ああ」
 期待に応えるべくオルベリクが前に踏み込もうとした時だった。
 かつん、と石畳の上に硬い音が響く。誰かが杖を突いたのだ。オルベリクたちはその目の覚めるような音色を何度も耳にしたことがあった。
「テリオンさんは、あなたたちには絶対に負けません」
 盗賊たちの向こう側、広場の方から凛とした声が届く。オルベリクはその声に雪よりも清らかな純白を想像した。
 トレサが目を輝かせて乱入者の名を呼ぶ。
「オフィーリアさん!」

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