果敢なき実りを胸に



「レイヴァース家に行くのかい?」
 今にも宿を出ようとしていたテリオンは、涼しい声を背に受けて振り返った。そこに学者が立っていた。
 ノースリーチで後始末を済ませ、一行はここボルダーフォールまで戻ってきた。テリオンは自分が成し遂げた大仕事について、これから最後の報告に向かうところだ。
「ああ。……あんたは?」
 じろりと学者を見つめる。彼はローブを肩にかけ、空のランタンを持っていた。同じくどこかへ出かけるつもりらしい。
「ああ。遅くなるかもしれないから、みんなに伝えてもらえるかな」
 彼は小脇に本を挟んでいる。気になる記述でも見つけて調べに行くのか。学者がふらふらするのはいつものことだから、放っておくしかない。町の外に出たとしても、このあたりの魔物なら例の気配を消す魔法や高火力の攻撃魔法でなんとでもなるだろう。
 テリオンはそのまま行きかけて、ふと足を止めた。
「おい、待て」
「何か?」
 学者が持つ空のランタンに指を向け、鬼火を灯した。小さな明かりがあたりを照らす。学者は目を瞬いた。
「おや。まだ昼間なのだが」
「自分で火をつけて山火事でも起こされたらたまらん」
 最近の学者は火力調整が下手なのだ。ノースリーチでダリウスを足止めしきれなかったのもそのせいではないか、とテリオンは疑っていた。強敵に対しては頼もしいが、その反面魔力切れも頻発している。フォローに回るこちらはたまったものではない。
 学者は魔法で大惨事になる可能性に思い当たったのか、苦笑した。
「はは、ありがとう。できるだけ明るいうちに戻るようにするよ。いってらっしゃい、テリオン」
 テリオンはぴたりと固まって彼を見返す。
「どうかしたのかい?」
 学者は不思議そうに首をかしげた。
「いや……」
 この感覚はなんだろう。とくんとくんと胸が穏やかに音を立てる。
「ヒースコート氏が待っているのだろう? 早くコーデリアさんに報告してくるといいよ」
「そうだな」
 いよいよ今日でレイヴァース家の仕事が終わる。残るは学者との取引だけだ。ついにこの日が来たか、と思った。
 不意に、冷たい廃教会の廊下で彼と交わした言葉を思い出す。
 ――行ってくれ、テリオン。そういう取引だっただろう?
 ――ああ、そうだな……そういう約束だった。
 あの時自分はどうして「約束」などと言い換えたのだろう。我ながら似合わない単語を口走ったものだ。
「……行ってくる」
 小声で別れを告げて、テリオンは学者よりも先に外に出た。
 すぐそこでヒースコートが待っていた。彼は長旅の疲れを微塵も見せず、ぴしりと背筋を伸ばしている。
「では、屋敷に帰りましょう」
 乾いた風が吹き抜ける崖際の町を、二人は並んで歩きはじめた。
 竜石を目当てにこの町を訪れたのは、もうどのくらい前になるだろう。あの時は、まさかこんな頻度で屋敷を訪れることになるとは思いもしなかった。
 すっかり見慣れた景色の中をゆく。ヒースコートとの間に会話はなかった。
 ノースリーチでの後始末は、バイロンや聖火騎士のおかげでスムーズに進んだ。廃教会には新たな司祭がフレイムグレースから派遣されることに決まったらしい。その指揮の下、これから教会の修復と町全体の立て直しが進むのだろう。盗賊団の遺体はまとめて埋葬されたそうだが、テリオンは墓前に祈りを捧げることなくまっすぐこちらに来た。
 執事に合わせてゆっくり階段を上り、レイヴァースの屋敷にたどり着く。ヒースコートの姿を確認した衛兵隊長は敬礼とともに門を開き、中に通した。
 当主コーデリアは二人の帰りを今か今かと待ち構えていたらしく、玄関を開けた途端に駆け寄ってきた。
「テリオンさん、ヒースコート……!」
 彼女はほおを上気させていた。隣の執事に小突かれ、仕方なしにテリオンは唇を開く。
「……ただいま」
 途端にコーデリアは目を丸くした。
(何だその顔は。前にあんたが「おかえり」とか言ったからだぞ)
 テリオンが憮然として唇を結ぶと、横からヒースコートが口を出す。
「ただいま戻りました。お嬢様、まずは部屋に入りましょう」
「あ、はい」
 ヒースコートが案内した先は、前回も通された応接室だった。
 帰ったばかりの執事はコーデリアの申し出を断って、自ら紅茶を準備する。当主の前では疲れた顔を見せたくないらしい。従者として当然のふるまいだろう。だから、テリオンも「老い」の話は伏せておくことにする。
 当主と向かい合ってソファに座った。テーブルに茶を置いたヒースコートは立ったまま話を聞く姿勢だ。テリオンは湯気の立つ紅茶をすすり、喉を潤した。
「二人とも、よく無事に戻ってきてくれました。本当に良かったです」
 コーデリアは花咲くような笑みを見せた。竜石を取り返したことはすでに手紙で知らせているから、よほど待ち焦がれていたのだろう。ヒースコートは軽く両肩を持ち上げた。
「いやはや、年寄りの冷や水とはよく言ったものですな。あのような無理はもういたしません」
「長い間の潜入でしたからね。さぞ疲れたでしょう」
「心配をおかけして申し訳ございません」
「……まったくだ。心配させやがって」
 つい口を挟むと、「え?」とコーデリアが目を見開く。
 テリオンは頭を振って誤魔化した。ヒースコートが愉快そうな視線を向けてくるので、さっさと本題に入ることにする。
「ほら、竜石だ。もう盗まれるんじゃないぞ」
 二つの宝玉を荷物から取り出し、包んでいた布ごと机の上に置く。はらりと布が解けて緑と黄色の輝きが現れた。コーデリアは表情を明るくする。
「ありがとうございます!」
 喜んだのもつかの間、彼女は何故かしゅんとして目を伏せた。
「これで取引も終わり……なのですね。ヒースコート、腕輪の解除を――」
「いえ、必要ありません。もう外してありますので」
「え!?」
 驚くコーデリアの前で、テリオンは腕輪に手をかけて軽く力を込める。金属の枷はあっさり外れた。彼女はらしくもなく口を開けたままにしている。
「そのようだな」
 我ながら白々しい演技だった。コーデリアはおろおろしながら男二人を順繰りに見る。
「い、いつの間に……?」
「一度お嬢様が提案なされた時に、わたくしめがこっそりと」
 ヒースコートはいたずらっぽく片目をつむった。そんなに前から、とコーデリアは呆然としている。期待通りの反応だ。図らずも執事と結託して騙した形になった。
 そこで、彼女は弾かれたようにこちらを見た。
「もしかしてテリオンさんも気づいていたのですか? それなのにわたしたちのお願いを……」
「さて、どうかな」
 テリオンは口の端を持ち上げる。腕輪の解除に気づいたのは学者の入れ知恵だが、それは黙っておこう。
 これ以上当主をからかうとヒースコートに目をつけられそうだ。テリオンはやや真剣な表情をつくり、二つの竜石に目を落とした。彼女には聞きたいことがある。
「それよりも、これはただの宝石ではないのか? ダリウスは『大きな力を得られる』と言っていたが」
「ええと、それは……」コーデリアが口ごもると、
「やはり気になりましたか。竜石については、わたくしからお話しします」
 ヒースコートは竜石をそっと持ち上げ、「場所を移動しましょう」と言った。
 三人は竜石が安置された部屋にやってきた。屋敷の中で最も警備が厳しい区画だ。ここでテリオンは学者と出会い、ヒースコートに腕輪をはめられた。なかなか因縁深い場所である。
 執事が空の台座に二つの竜石を飾った。これで青、赤、緑、黄の四つが揃ったわけだ。初めてこの屋敷に忍び込んだ時は青竜石しかなかった。四色に光る宝玉は、テリオンが無事に仕事をやり遂げた証拠である。
 コーデリアがほうとため息をつく。彼女がこの光景を見るのは十年ぶりのはずだ。両親が亡くなってからの懸案事項がついに晴れて、ほっとしたのだろう。
 ヒースコートは重々しく口を開く。
「この四つの竜石は、フィニスの門を開くための鍵と言われております」
(フィニスの門……?)
 テリオンはどきりとした。ウィスパーミルの洞窟で見たあの不吉な夢が思い出される。「門を開く」というのは、彼にとって嫌悪感のある概念だった。
 そういえば、オルベリクが以前似たような単語を口にしていた覚えがある。後で聞いてみるべきか。
「伝承では、その門が開けば世界の有り様が大きく変わるだろう、とうたわれています。あなたにはおとぎ話に聞こえるでしょうが……」
 単なる夢やおとぎ話として処理できたらどれほど楽なことか。テリオンはかぶりを振る。
「少なくとも、ダリウスはそれを信じていた。あいつがあれだけの数の盗賊を率いることができたのも、竜石の力か?」
「分かりません。フィニスの門が実在するかどうかはさておき、レイヴァース家は代々竜石を守ってきたのです」
 雲をつかむような話だった。さすがにそんな曖昧な情報を何代にも渡って伝えてきたわけではないだろう。テリオンは隣に佇むコーデリアに視線を流した。
「先代からくわしい話は聞いていないのか?」
「はい。あの事故があった時、わたしはまだ小さかったので……両親が生きていれば教えてもらえたのでしょうが」
 この分だと、竜石のいわれは文書にも記録されていないようだ。親から子へと口伝に頼って残すとは、よほどの機密情報らしい。それが両親の夭逝により途切れてしまったわけだ。竜石が戻ったとはいえコーデリアはこの先苦労するだろうな、とテリオンは他人事のように思った。
 それにしても、何故こんなにあの門の話が気になるのだろう。触れたくもない記憶のはずが、気づけば思考がそちらに引きずられている。「あそこに何かがある」という漠然とした予感が、テリオンの胸に不安と焦燥をかきたてる。
 竜石を見つめてあれこれ考えていると、コーデリアが控えめに切り出した。
「あの、テリオンさん……少しだけわたしと話していきませんか」
「分かった」
 考えに浸っていたため、半ば上の空で返事してしまう。我に返った時にはもう遅かった。しかも、いつの間にかヒースコートが姿を消している。「あとは若者同士で」という気遣いなのか。余計なことを。
 テリオンの動揺に気づかず、コーデリアはいつぞやのテラスに向かった。後を追って戸外に出る。あの時と同じように、彼は当主の差し向かいに腰掛けた。
「で、話ってなんだ」
「あの……ええと」
 コーデリアはもごもご口の中でつぶやいてから、
「竜石を取り戻すにあたって、お仲間の方々にも手伝っていただいたのですよね。ほとんどお礼もできず申し訳ないです」
 殊勝な態度で頭を下げた。テリオンは流れる金の髪を見つめて息を吐く。
「あんたには関係ないだろ。礼が必要なら俺が勝手にやっておく」
「そんなことはありませんよ。遠慮せず、好きな時に屋敷に来てほしいと伝えてもらえませんか」
「薬屋が来たらまたうるさくなるぞ」
 以前屋敷に案内した時のはしゃぎようを思い出しながら言った。コーデリアは少しの間言葉に詰まる。かと思うと、意を決したようにおもてを上げた。
「テリオンさんは、誰かを名前で呼ぶことが苦手なのですか?」
「は?」
「あなたの口からあまりお仲間の方々の名前を聞かないので、気になったのです」
 テリオンはぽかんとした。いきなり何を言い出すのだろうと思いつつ、自分の言動を省みる。
 指摘の通り、彼はあまり他人の名を呼んでこなかった。心の中ですら、つい相手の生業で呼びかけることが多かっただろう。
 親しみを込めてダリウスを「兄弟」と呼べど、思いが伝わらなかったという苦い経験があったからかもしれない。誰かを信じて思いを託すことを放棄した結果、名を呼ぶ意味すら分からなくなっていたのだ。
 コーデリアはテーブルの上で指を組み合わせる。
「急におかしな話をしてすみません。でも、名前を呼ぶということは、その人への好意を示すことでもありますよね。ですから……その、大切にしてほしいんです。いえ、テリオンさんがお名前を大事にされていることは分かるのですが……」
 彼女はもう両親のことを父や母と呼びかけることはできない。テリオンも誰かを兄弟と呼ぶことは二度とないのだろう。思いを伝える機会を決して逃すな、と彼女は言いたいのだ。
「覚えておく」
 小さくあごを引けば、コーデリアはほほえんだ。
「ありがとうございます」
「なんであんたが感謝するんだ?」
「いえ……あなたはもう自由の身なのに、話を聞いてくださったので」
 テリオンは肩をすくめた。確かにこれ以上付き合う必要はどこにもなかった。
 それでも大人しくテラスに出た理由は、ただ彼女と雑談したかったからだ。素直にそう認めたテリオンは、続けて唇を開く。
「俺からもひとつ質問させてくれ」
「なんでしょう?」
「この先、竜石の守りはどうするつもりなんだ」
 屋敷の厳重な警備は、テリオンのような間抜けな盗賊を釣り出すのが目的だった。しかし、彼が仕事を引き受けてからも基本的に警備体制は変わっていない。当主がどういうつもりで衛兵を雇っているのか、テリオンはずっと気になっていた。
「そうですね。もう竜石は戻ったのですから、あの警備を続ける必要はありません。でも、また竜石が奪われてしまっては意味がない……」
 コーデリアはテラスの外に視線を投げた。赤茶けた色の岩山が雄々しくそびえ立っている。
「わたしたちも、そろそろ変わってもいいのかもしれません」
「ほう」
「実は、少しずつ町との交流を復活させようと考えています。竜石がこの屋敷から消えたのは、誰かに盗まれたからではありませんでした。屋敷のまわりに信頼できる人の目を増やしていけば、結果的に竜石を守ることができるでしょう。先代も町との交流はあったようですから」
 どうやらあの過剰防衛は苦肉の策だったらしい。他人を信じる気持ちを取り戻したはずのコーデリアが厳戒態勢を貫いているのは、前からちぐはぐな感じがしていた。テリオンは納得し、にやりと笑う。
「手はじめに信用状をなくしたらどうだ。誰かに盗まれて使われたら意味がない」
「ふふ。それも考えてみます」
 コーデリアは笑みをこぼす。町との関わりが増えれば、彼女も妙な格好をせずに外を出歩けるようになるだろう。その方がずっといい、とテリオンは思った。
 日のあたったテラスは居心地がよくて、長話をしても苦にならなかった。だが、自分はここを出ていかなければならない。もう仕事は終わったのだから。
(俺には最後の取引が残っている)
 テリオンはきっぱりと席を立った。
「さすがにそこまでは付き合ってられないぞ。あんたたちの事情はもう、俺には関わりのないことだ」
 わざと突き放せば、コーデリアは不安そうに眉を下げる。テリオンはまとわりつく視線を振り切るようにきびすを返した。
「じゃあな、もう用はない」
 そう言い残してテラスを出る。
 屋敷の内装もすっかり見慣れたものだと考えながら大股で歩く。もうはるかな過去に思えるあの日、屋敷に侵入したテリオンはこの廊下をたどって竜石にたどりついた。今度は反対にここを出ていくのだ。
 仕事の終わりがそのまま縁の切れ目になることはないだろう。散々世話になったレイヴァース家との関係をすっぱり断ち切れるほど、テリオンは薄情ではない。
 盗みに入ったはずの屋敷は、いつしかテリオンの居場所のひとつになっていた。ヒースコートがそうだったように、一言「ここにいたい」と申し出たらコーデリアは受け入れてくれるかもしれない。だが、テリオンはそれでは絶対に満足できなかった。以前フレイムグレースでオフィーリアに言われた通り、一方的に施しを受けるのは嫌なのだ。
 盗賊として生きていても、誰かの手を取ることはできる。だからテリオンは迷わずこの屋敷を出て行く。
 誰にも会わないまま玄関のドアノブに手をかけた時、後ろから軽やかな足音が追いかけてきた。
「テリオンさん!」
 首だけ回して振り向く。コーデリアは肩で息をして、ぱくぱくと口を動かしていた。
「まだ俺に何かやらせる気なのか?」
 意地悪く問いかければ、彼女は何故か顔を赤くした。
「あ、あのっ、そうではなく……」
 その背後から悠々とヒースコートがやってきた。登場のタイミングを図っていたのだろう。執事はくすりと笑う。
「お嬢様は、あなたに感謝を述べたいのですよ」
「律儀なことだな」
 もしや、先ほどテラスに誘ったのはそのためだったのか。あそこで言わなかったのは、単に気恥ずかしがったのか、機会を逃したのか。コーデリアはぶんぶん首を振った。
「そんなことはありません。お礼を申し上げる前に行ってしまわれるんですから」
 彼女はスカートを整え、こほんと咳をする。
「では改めまして。当家の家宝を取り戻していただき、本当にありがとうございました」
「礼はいらない。取引としてやったまでだ」
「でも、助けていただいたことは事実です」
 かたくなに主張する彼女に、テリオンはふっと肩の力を抜いた。コーデリアは照れたように笑う。
「テリオンさんはこれからどちらへ?」
「学者先生の探しものがある。場所は知らん」
 仲間たちの旅の目的はすでにほとんどが達成された。あとはどうにかして辺獄の書を発見するだけである。
 コーデリアはこちらの意図を汲み取ってうなずいた。
「お仲間の方々と一緒ですものね。どこに行っても素敵だと思います。みなさんの旅のご無事をお祈りしています」
 彼女はもの言いたげにテリオンを見つめる。やがて「町を発つ時はまた呼んでください」と言葉を結び、ヒースコートとともに身を翻した。
「コーデリア」
 テリオンはとっさにその名を呼んだ。
 当主が振り返る。彼女は可憐な顔をバラ色に染め、宝石のような目を大きく見開いていた。誰にも奪えない宝物がそこにあった。
「……なんだ? あんたが名前を呼べって言ったんだろ」
 テリオンは眉をひそめる。
「わ、わたしの名前を呼んでほしいという意味ではなかったのですが……でも、嬉しいです」
 コーデリアはほおを燃やしながら、こぼれるような笑みを見せる。
「そうか。……ありがとうよ」
 目の前の光景を記憶にしっかり焼きつけながら、テリオンはつられたようにほほえんだ。
「ただいま」だの「ありがとう」だの、当たり前なのに縁がなくて、なかなか口に出せない言葉だった。でも、レイヴァース家の者たちのおかげで、テリオンはそれを自分のものにすることができたのだ。



 夕暮れに沈みゆくボルダーフォールの町中を、仲間の待つ宿に向かって歩く。
 腕輪の外れた右手首に風が通った。仕事を終え、彼は自由になった。心も足取りも軽い。
 自分はいつか再びあの屋敷に顔を出すだろう。それは「行く」ではなく「帰る」という感覚だった。そして、今も彼は仲間のもとに帰るため、足を運んでいる。
 不思議な気分だった。どこにも寄りつかないはずの根無し草が、こうして帰るべき場所をいくつも得られるなんて。
 だが、それはおかしなことではない。宝石と違って居場所はいくつでも抱えられるのだから。それを知った今、テリオンの胸を満たすのは確かな充足感だった。
 ダリウスに崖から突き落とされた直後ですら、彼はかたく信じていた。この大陸のどこかに必ず自分の居場所があるはずだと。そんな根拠のない確信を抱いていたから、どれだけ打ちのめされても前に進むことができた。死の門の向こうからも戻ってこられた。
(俺は、誰かとのつながりを求めて生きてきた)
 それは天地がひっくり返るような発見だった。だが、自覚がなかっただけで、昔からそう思っていたのだ。
 たとえ兄弟に手酷く裏切られても、それだけは諦められなかった。一人で生きていくと決めながら、心の底では他人との関わりを望んでいた。誰も信じずに生きるなど、自分には到底無理だったのだ。
(これじゃあアーフェンを笑えないな)
 自分はあの薬師以上のとんでもないお人好しではないか。
 顔が熱くなり、闇雲に走り出したくなる。すれ違う人々に不審に思われないよう、テリオンはこみ上げる羞恥心をなんとかマフラーの中に抑えた。
 仲間たちはそんな彼の甘さを知っていたのだろうか? 思い当たる節はたくさんあるから、多分そうだ。気づいていないのはテリオンだけだった。
 きっとダリウスも分かっていた。だから、無邪気に慕うテリオンが余計に鬱陶しかったのだろう。こちらの能天気な無自覚のために二人の亀裂は深まり続け、最終的に取り返しのつかないことになってしまった。
 それでも彼は、つながりを求めた結果を後悔したくない。
 ――自分の行いを忘れず、何をなすべきだったかを考え続けること……それが、門の向こうへ去った者への唯一の手向けなのかもしれない。
 学者がノースリーチの廃教会で残した言葉が胸に響く。ダリウスとの思い出も、廃教会でかじったリンゴの塩辛さも抱えたまま、テリオンはこれからも盗賊として生きていく。
 風が吹き抜け、火照った頭を冷やした。彼はふと立ち止まり、切り立った崖の向こう側を見やる。赤々と燃える太陽が山の端に沈もうとしていた。
 他人の思惑や自分の感情について、これほど深く考え込む日が来るとは思わなかった。以前はもっと単純なことに脳を使っていた。警備の厳しい屋敷にどう忍び込むか、道行く旅人はどこに財布を隠し持っているか――明日の飯はどうするか。その時と比べて、現在ははるかに視野が広がったように感じる。他人を動かして自分の目的に協力させるだなんて、以前のテリオンなら思いもつかなかった。
 そもそも、自分が誰かとのつながりを求めていたことも、ひたすら考え続けたからこそたどり着いた答えだった。
(……そうか。だから学者先生は、俺に「考えろ」って言っていたんだ)
 もやが晴れるように、急にすとんと腑に落ちる。
 学者はいつだってテリオンに考えることを促していた。あの分かりづらい言動すら、そういう意図があったのではないかと思えてくる。
 勉学を志す者に対し、知識は与えられても、熱意はそうはいかない。いつか学者がアーフェンに贈った言葉だ。だが、学者はその発言とは真逆に、熱意とも呼べる意欲をテリオンに教えた。テリオンは学者が惜しみなく話した知識をほとんど聞き流した一方で、「考える」という基礎については心の中にしっかりと根付かせていたのだ。
 それがダリウスとの大きな違いなのかもしれない。テリオンは考えることをやめなかったから、罪人の腕輪が外れても「逃げるべきではない」と気づくことができた。自分が心の底で求めていたものの正体にも行き着くことができた。
 なあ、あんたはそのつもりだったんだろう? ――そう言って学者本人と答え合わせしてみてもいいかもしれない。直接テリオン自身の言葉で話すのだ。多分学者は普通に答えてくれるのだろう。難しい返答がきたら、考えて、また問い返せばいい。
 あの突拍子もない夢や、フィニスの門の話だって、彼はじっくり耳を傾けてくれるはずだ。学者は自身の行動により、そうした人物であることをずっと裏付けてきた。
 彼はいつもテリオンの目的に力を貸してくれた。その理由だって、聞けば教えてくれるのだ。
(こんな簡単なことも分からなかったのか、俺は……)
 テリオンは呆れ返り、片手で髪をくしゃりと乱した。
 学者だけでなく、仲間やコーデリアたちがいたから気づくことができた。誰か一人でも欠けたら今のテリオンは存在しなかっただろう。どんなものにも代えがたいつながりは、彼があの谷底で死にかけながらも手を伸ばし、数年越しにやっと掴んだものだった。
 山の向こうに最後の陽光が消えてゆく。燃え盛る炎にも似たそれにテリオンは腕を差し伸べ、手の中におさめる。そのまま胸元にこぶしを置けば、静かな鼓動が返ってきた。
 日は完全に暮れた。山の影がボルダーフォールの町を覆い隠す。
「……帰るか」
 誰ともなしにつぶやき、テリオンは再び歩き出した。
 目を凝らして夜道をゆく。ぽつりぽつりと灯った家の明かりが足元を照らした。空に見えはじめた星の瞬きは、彼を導いてきた多くの者たちが持つ灯火のようだった。
 今後はもう少し自分の気持ちに正直になってもいいのかもしれない。これ以上大切なものを取りこぼさないために。そのための方法を、テリオンはすでに知っているのだから。
 今晩の宿は、いつぞやと同じく学者と相部屋だったはずだ。あそこに帰れば、学者や仲間たちはまた「おかえり」と言って迎えてくれるのだろうか――
 彼は静かな足取りで宿に戻った。
 玄関を開けると、すぐそこに切羽詰まった表情のオフィーリアがいた。
「テリオンさん!」
 期待した言葉はなかった。彼女は焦った様子で駆け寄ってくる。
「何かあったのか?」
「え、ええ……サイラスさんを見かけませんでしたか?」
 刹那、テリオンの胸がざわめいた。この感覚は前にも抱いたことがある。いつだろう? 思い出せない。
「いいや。いないのか」
 重ねて問うと、オフィーリアは青ざめた唇を震わせた。
「はい。手分けして探しているのですが、どこにも。荷物もなくなっているみたいで……」
 テリオンははっとした。そういえばレイヴァース家へと出発する直前、学者と短い会話を交わした。
「町の外に出たんだろ。俺が屋敷に向かう前、準備しているのを見かけた。帰りは遅くなると言っていた」
 いや、違う。最終的に「できるだけ早く戻る」と言っていたではないか。心細そうなオフィーリアの手前、つい言葉を選んでしまった。
「そうだったのですか。安心……してもいいのでしょうか。すみません、なんだかとても不安になってしまって」
 オフィーリアはぎこちなくほほえんだ。無理もない。きっと他の仲間も危機感を共有したから探しに出たのだろう。それに、学者の荷物が消えたという話が気になった。最後に見た時はそんな荷物は持っていなかったのに。
 別れ際、テリオンは学者のランタンに火を入れた。あれを持って街道をうろついているだけだと思いたかった。
 握りしめたこぶしの中で指先が熱くなる。どう自分に言い聞かせても、嫌な予感は消えなかった。
 再び玄関が開いた。今度は狩人が現れる。
「テリオン、戻ったのか」
「ハンイットさん……どうでしたか?」
 オフィーリアの質問に、狩人は力なく首を振った。足元の雪豹も心なしか元気がない。
「サイラスが町を出ていく姿が目撃されていた。だが、匂いはたどれなかった。自分で痕跡を消したらしい」
「そんな。どうして……」
「隠しごとはあれだけではなかった、ということか」
 ハンイットが悔しげに唇を噛む。
 その瞬間、テリオンは思い出した。これはストーンガードで学者と別れた時と同じ感覚だと。
 今後の相談をはじめた神官たちを尻目に、テリオンは宿を抜け出して、ボルダーフォールの入口に向かった。
 岩のトンネルの下に立つ。街道は闇に沈み、ひとつの灯火も見えなかった。
 学者は誰にも行先を告げず、一人で辺獄の書を探しに行ったのだ。理由なんて分からないが、そうとしか思えなかった。彼がこういう行動をとる時は大抵あの本が原因だった。すでに辺獄の書の行方を掴んでいたにもかかわらず、仲間には黙っていたのではないか。
 冷静にそう判断する一方で、テリオンの頭には疑問と混乱が渦巻いていた。
(いってらっしゃいなんて言ったくせに、俺のことは待ってくれないのか)
 彼はいつからか、学者にかけるべき言葉をずっと探していた。それをようやく見つけた矢先の出来事だった。
 テリオンの旅路は、リンゴの村で学者と交わしたあの取引――互いの目的を手伝うこと――からはじまったとも言えるだろう。あれからテリオンは「旅の連れ」との助け合いを積み重ね、最終的に赤の他人を「仲間」と認められるようになった。
 それは取引などではない。とうの昔にただの約束となって、テリオンの旅を導いたのだ。
 まぶたを閉じれば、夢に出てきたあの門が閉ざされるイメージが浮かぶ。学者は黒いローブを翻し、門の中に去っていく――テリオンの答えを受け取らないまま。

inserted by FC2 system