種を蒔く人



 まぶしい日差しの下、葉のさざめきが心地よく耳に残る。
 平原の中心にある城下町にて、その木は路地のどん詰まりに一本だけ生えていた。伸びやかに広がる枝の先で、青々とした葉が風にそよぐ。幼いテリオンは建物が落とす影の中に立ち、それを眺めた。
 今しがた、彼は兄弟と二人でとある屋敷に忍び込み、宝石を盗んで逃げてきた。高揚も冷めぬまま路地を駆ける途中、その木に惹きつけられて立ち止まったのだ。
 一呼吸置いて我に返ると、前にいたはずの兄弟が忽然と姿を消していた。
「ダリウス?」
 テリオンはぐるりと周囲を見回した。わずかな間に置いてけぼりにされてしまったのか。焦りながらもう一度正面に目を戻せば、今度は木陰に一人の男が立っていた。先ほどはいなかったはずだが――
「こんにちは」
 涼やかな声とともに、青空を切り取ったような瞳が細められる。このアトラスダムの町でよく見かける黒いローブをまとった男――学者だ。
 立派な身なりの大人に敵意なく話しかけられ、テリオンは驚いて声が出せない。学者はこちらの反応などお構いなしに、ゆったりした袖を持ち上げた。
「この枝を見てくれ。たとえ日照に恵まれない場所でも、太陽を目指して天へと伸びている」
 テリオンはつられて目を上に向けた。影の中から見ると、まばゆい光に包まれた男と若木がいっそう遠い存在に感じられる。
「私たち学者の知識はこのように、太陽へ――学者の守護神アレファンのいる高みへ近づくためのものとされているんだ」
 指先は空に転じられた。一面の青の中心に、さんさんと降り注ぐ光の源がある。
 テリオンにはほとんど理解できない話だった。学者は気にした様子もなく、肩にかけた布をマントのようにはためかせて、体の向きを変えた。
「先ほどのキミの演技を見ていたよ」
 鋭いまなざしに射抜かれ、テリオンの小さな心臓が跳ねる。
 ――盗みに入った屋敷から脱出した直後、二人は運悪く衛兵に呼び止められてしまった。みすぼらしい身なりの少年が貴族街を歩いていることを見咎められたのだ。
 そこで、テリオンは身元を誤魔化すべく「もともと宝石は自分の持ち物だ」「汚い格好をしているのは泥遊びをしたからだ」と言い張った。根拠がないにもかかわらず、衛兵は何故かあっさりとこの発言を信用した。
 ダリウスによると、自分は「芝居」で衛兵を騙したことになるらしい。より演技を磨けば盗みの役に立つだろう、という兄弟の言葉をテリオンは素直に受け入れた――
(あれを見られていたのか)
 背中に冷や汗が流れる。何も言えないテリオンに対し、学者は大股で近寄ってきた。逃げなければ、と思うのに体がうまく動かない。
 彼はテリオンのいる影の手前で立ち止まった。
「見事な芝居だったよ。とても子どもとは思えなかった。ただ、宝石を盗んだことは咎めるべきだろう」
 青い双眸が逆光の中で生き生きと輝く。
(こいつは俺たちの正体を知ってるんだ)
 近頃この町で頻発している盗賊被害はテリオンとダリウスの仕業だ。しかし衛兵たちは大人の犯行と判断したらしく、テリオンたちは警戒対象から外れていた。これならもうひと稼ぎできると見込んでいたのに。
 テリオンは後ずさりした。
「……俺を衛兵に突き出すのか」
 身を固くする彼と反対に、学者は柔和に笑った。
「そんなことはしないよ。キミはなかなか見どころがありそうだ。どうだろう、私と一緒に来ないかい?」
 長身がかがめられ、光の中で手が差し伸べられた。
 嘘だ。この男はテリオンを騙そうとしている。出会ったばかりでいきなり訳の分からないことを言ってくる男なんて、怪しすぎるだろう。
 それなのに、どういうわけか拒絶する気になれなかった。テリオンは魅入られたように右手を差し出した――



 宙に向かって伸ばした手は何も掴まず、ぱたりと布団の上に落ちる。
(……嫌な夢だったな)
 寝返りを打って隣を見る。ベッドは空っぽだった。本来そこにいるはずの男は、今頃どこで何をしているのだろう。
 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。ボルダーフォールの定宿の一室である。
 テリオンは頭を振って起き上がった。妙な夢を見たのは、ノースリーチで「もしも昔、あの男と出会っていたら」などと考えたからに違いない。
 夢の中で学者が語った太陽が云々という話は、以前耳に挟んだことがあった。学者が問答無用で与えた知識の一つだろう。いつ聞いたのかも思い出せないけれど、頭の片隅に引っかかっていたらしい。
 身支度を整えて廊下に出ると、あくびをするアーフェンと遭遇した。
「おはよ、テリオン」
 返事代わりにあごを引いた。アーフェンは気遣わしげに瞬きしながら、
「あのさ、やっぱり先生は……いや、いるわけねえよな」
 テリオンの表情から察したのだろう。二人はそのまま食堂に入った。
 程なく朝食の場に七人が集まった。全員顔が暗い。あのトレサですらほとんど食事に手をつけず、リンデも人間たちの消沈具合にあてられたのか元気がなかった。
 原因は分かりきっている。学者がボルダーフォールから姿を消したのだ。彼は誰にも行き先を告げず、どこかへ旅立ってしまった。発覚したのは昨日の夕方ごろで、夜になって捜索は打ち切られた。それぞれに眠れない晩を過ごしてからの、今朝である。
 テリオンの脳裏には「何故」という言葉がずっと渦巻いていた。考えても仕方ないのに、ついその疑問に足をとられてしまう。
「……これからどうするの?」
 ほとんど汚れのないフォークをテーブルに置いて、トレサが恐る恐る切り出した。
「もう一度、明るい状態で探せば新たな手がかりが見つかるかもしれない。まずはそれからだな」
 ハンイットが背筋を伸ばして答えた。まわりから賛同の声が上がるが、どうもぎこちない。
 思えばこういう時はいつも学者が話を進めていた。無論、彼がいない状態で旅の目的を消化することもあったが、今回はこともあろうに学者本人が自発的に失踪したのだ。そうなると置いていかれた側の心理がまったく異なる。
(俺との取引はどうなったんだ。手を貸すだけ貸していなくなるなんて……一方的すぎるだろ)
 テリオンはこぶしを握りしめる。いっそのこと「ふらふらした挙げ句崖から足を踏み外した」という顛末の方がよほどマシだと思えてしまう。だが、こういう時に限ってあの男は完璧に目的を達成するのが常だ。
 学者は一人で辺獄の書を探しに行った。それが昨晩、議論の末に出た結論である。彼は何らかの手段によりルシア――辺獄の書の所有者と思われる――の居場所を知り、そこへ向かったのだろう。どうして一人で行ったのか、何故今まで情報をひた隠しにしていたのか、肝心の理由は一切不明だった。書き置きひとつ残っていなかったのだ。
 しかし、もし事前に説明があったとして、自分は納得できたのだろうか。
 テリオンが悶々とするかたわら、仲間たちは熱心に話し合いを続けていた。
「これでいいか、テリオン」
 オルベリクが静かに尋ねる。他の者と違い、彼は平常通り泰然自若としていた。
 話題を振られた理由はさすがのテリオンも承知している。どういうわけか、己は一行のまとめ役として担ぎ上げられているのだった。
「悪い、聞いてなかった」
 素直に謝れば、オフィーリアが首を振った。
「仕方ありませんよ。テリオンさんが一番お辛いでしょうから……」
 テリオンはぎょっとした。一体何を言い出すのだろう。
「このタイミングでいなくなったもんな。先生、もしかしてテリオンの目的が終わるのを待ってたのか?」
 アーフェンの発言に納得する。そうだ、もやもやの源はそこにある。テリオンのレイヴァース家訪問と前後して行方をくらますなんて、まるで当てつけではないか。
「サイラスの失踪は、例の隠しごとと関係があるかもしれない」
 ぽつりとハンイットがつぶやく。「黒曜会の件か」とオルベリクが応じた。テリオンには覚えのない話だが、他の仲間もうなずいている。
「……なんだそれは」
 テリオンは憮然として尋ねた。
「そうか、あなたは聞いていないのだな。ちゃんと話しておけとサイラスに言ったのだが……」
 眉根を寄せるハンイットの説明によると、学者は以前から黒曜会を敵対組織として警戒していたという。プリムロゼの復讐の結末を考えれば、得心がいく話だ。しかし、学者がそれほど危機感を覚えていたとは、テリオンは予想だにしなかった。どうやら脳天気なのは自分の方だったらしい。
「先生、そんなこと考えてたんだ……」
 同じくトレサも初耳らしく、落ち込んだ様子だ。アーフェンが黙っているのは、もしかして薄々勘付いていたのか。それなのに自分は――とテリオンがひそかにショックを受けていると、ハンイットに肩を叩かれた。
「気にするなテリオン、あなたは余裕がなさそうに見えたから、サイラスも話しづらかったのだろう」
「ハンイットさん、それは言わない方が……」
 オフィーリアのフォローも含めて、テリオンはもはやとどめを刺された気分である。
「で、その隠しごとのせいでサイラス先生がいなくなったのか?」
 アーフェンがうまく話題を変えた。ハンイットは腕組みをする。
「分からない。だが、何か危険を感じてわたしたちから距離をとった可能性もあるだろう」
「そんなの、教えてくれたら良かったのに」
 トレサが力なくうなだれる。沈鬱な空気が流れる中、プリムロゼが眉をひそめてテーブルの上で指を組んだ。
「あのねみんな、理由なんていちいち考えてどうするの。今はサイラスを追いかけるのが先」
 緑の双眸は暗く燃え、唇から呪詛が漏れる。
「……あの人、私を引き止めたくせに勝手にいなくなったのよ。ありえないでしょ。絶対に見つけてとっちめてやるんだから」
 彼女はぱしんと手のひらにこぶしを打ち付ける。貴族の令嬢とは思えない仕草だ。
「そのくらいはしてもいいかもな」
 ハンイットまで物騒なことを言い出した。女性陣から漂う殺伐とした雰囲気に、テリオンは背筋が寒くなる。
「とにかく、もう一度聞き込みと手がかりの探索だな」
 オルベリクが無難にその場をまとめた。これまで学者に一任していた役割を、今や彼が引き受けている状態である。
 その時、小気味よい音を立てて食堂の扉が開いた。
「テリオンさん!」
 可憐な声が沈んだ空気を打ち破る。乱入者はなんとコーデリアだった。護衛の衛兵も一緒である。テリオンは思わず腰を浮かせ、仲間たちは目を丸くした。
 昨日の今日で再会したコーデリアは、当主らしいシックなワンピースを着ていた。彼女はにこにこしながらテーブルに近づいて、
「良かった、まだこちらにおられたのですね。昨晩お仲間の方々が忙しそうにしていた、という話を聞きまして。もしかして今朝旅立ってしまうのでは……と思ったのです。みなさんにもお礼を申し上げたかったですし」
 そこで彼女は言葉を区切り、テーブルを見回した。仲間たちの呆けた顔に気づいたのだ。
「あっ……お食事中ですよね! ごめんなさい、忙しい時に」
 慌てて頭を下げるコーデリアに、プリムロゼがふふ、と笑いかけた。
「あなたがテリオンの依頼主ね?」
「はい、コーデリア・レイヴァースです。もう依頼は終わってしまいましたが、みなさんありがとうございました」
 コーデリアはスカートの裾をつまんで丁寧にお辞儀する。仲間のもの言いたげな視線がテリオンに集まった。彼はさっと立ち上がり、コーデリアの姿を自らの背中で隠す。
「出発はまだ先だ。それに、町を出る時は挨拶くらいする」
「そ、そうですよね。すみません、早とちりしてしまって」
 謝罪は必要ないのでこれ以上目立たないでほしい。テリオンは彼女の腕をとって無理やり食堂の外に追い出そうとした。すると、コーデリアは一転して不安そうに眉を下げる。
「テリオンさん、どうされたのですか。そのようなお顔で……」
 ぎくりとして目をそらした。よりにもよって、彼女に指摘されるとは。
「別に……なんでもない」
「そんなはずはありません。そういえばサイラスさんはどこへ?」
 さすがに気づかれてしまったか。皆が口を閉ざし、重い沈黙が降りる。テリオンは舌打ちしたい気持ちをこらえて、
「あいつはいなくなった」
「えっ」
「理由は分からん。俺があんたの屋敷から戻ったらいなくなっていた」
「なあ、コーデリアさんは何か知らねえか?」
 アーフェンが横から口を挟む。コーデリアは思いつめたような表情でテリオンを見上げた。
「サイラスさんの失踪と関係があるかは分かりませんが……あの人に関して、わたしはまだテリオンさんに言っていないことがあります」
 テリオンは軽く目を見張った。彼女と学者の接点というと、一番最初に会った時――テリオンがレイヴァース家に侵入した日くらいだろう。二人は屋敷から盗まれた本について会話したはずだ。
 ちらりと背後を見れば、仲間は興味津々の様子でこちらを観察していた。テリオンは彼らをにらみつけ、
「話は外で聞く」
 とコーデリアに告げた。
「それがいい。俺たちは先に捜索を再開する。昼には一度宿に集合しよう」
 幸いにもオルベリクが仲間の不満を封じた。テリオンはうなずき、コーデリアを伴って宿を出る。
 衛兵は下がらせて、歩きながら二人で話すことにした。コーデリアのペースに合わせ、ゆるい歩調で広場を目指す。まだ人々の活動ははじまっておらず、白っぽい朝日に照らされた町は閑散としていた。
「お話ししたいのは、あの日――テリオンさんが屋敷に忍び込んできた日のことです」
 コーデリアは静かに切り出した。
「同じ日、サイラスさんはアトラスダムからの書状を持って屋敷を訪れました。その後テリオンさんがやってきたので、あなたの相手はヒースコートに任せ、サイラスさんには一度席を外してもらいました。
 竜石の取引をした後、テリオンさんはすぐに屋敷を出ていかれましたよね。あの後、わたしは応接室で待っていたサイラスさんに、あなたの話をしました」
 テリオンはごくりと唾を飲む。
 ――盗賊という人種は、旅から旅へと移りながらものを盗むものなのか。
 学者は今までの人生において盗賊との関わりがなかったらしく、コーデリアたちにそう質問した。
 徒党を組んでアジトを構える盗賊もいるが、テリオンはそうではないとヒースコートは答えた。一人でレイヴァース家に乗り込んできたのは、腕に覚えがある証拠だ。彼は盗賊なりの矜持を持って盗みを働いているのだろう。旅をしているのは追跡から逃れるためであり、余計なものに縛られないためでもある。家や財産を持たぬ分、彼らは誰よりも自由でいられるのだ。
「話を聞いたサイラスさんは何か考えごとをされていました。よほど盗賊のことが気になっていたのでしょうね。
 そこで、わたしはサイラスさんにひとつ頼みごとをしました。もし旅先でテリオンさんと再会することがあれば、その旅路を手伝ってはいただけないかと」
「……何だと?」
「都合のいいお願いだったことは承知しています。でも、あなたには仲間が必要だと思ったのです」
 コーデリアのブルーの瞳が真摯にテリオンを見据えた。心臓の鼓動が加速する。
「学者先生はなんて答えたんだ」
「もしも自分とテリオンさんの道が交わることがあれば提案してみよう、とおっしゃっていました」
 そうか。だから学者はリンゴの村で偶然再会したテリオンに、あの取引を――取引とは名ばかりの約束を持ちかけたのだ。孤高の盗賊たるテリオンは、取引や契約という形でしか依頼に応じないことを、彼はよく分かっていた。
(そんなの、盗賊の矜持でも何でもない……ただの建前だったんだ)
 あの頃のテリオンは見返りもなく手を貸し借りすることに慣れていなかった。だからそれ以降もずっとつまらない意地を張って、不遜な態度をとっていた。学者が変に気を回す必要などなかったのに。
 テリオンはいつしか足を止めていた。きつく唇を噛みしめ、こみ上げる感情に耐える。
 前に回り込んだコーデリアがそっとテリオンの手に触れる。体の震えが止まった。
「テリオンさん……心配しなくても大丈夫です。サイラスさんは必ず見つかります。あなたなら、見つけられます」
 頼もしい発言にも、テリオンはなかなかうなずけなかった。
「……俺は、あいつの言葉や行動の意味を、今までろくに考えてこなかった」
 自分の気持ちを整理するように、ぽつぽつと告解する。
「俺が何を頼んでもあいつは絶対に協力するだろうと思っていた。実際、今まではそうだった。だから旅程の調整も何もかも丸投げしてたんだ。いい加減、あいつはそれが嫌になったのかもしれない」
 今になって、ストーンガードでハンイットに投げられた「甘えるな」という言葉の意味を思い知る。確かにテリオンは学者の好意に寄りかかっていた。何も言わずとも意図を汲み取ってもらえることは非常に楽だった。そのせいで学者にどれだけの負担を強いたのだろう。
「ですが……」
 コーデリアは続きを飲み込み、唇を閉ざす。
(もう俺の協力なんかいらないと思ったのか。誰もついてくるなと言いたいのか)
 もしそうだったとしても――テリオンは決意とともにおもてを上げた。
「理由が分からないままなのは嫌だ。迷惑だと思われようが、それだけは聞き出したい」
 謎は解き明かさなければならない、という口癖が耳の奥に蘇る。テリオンにとっては学者の心理の方がよほど謎に包まれていた。
 彼は腕輪の外れた右手を見た。やっと自由になったにもかかわらず、テリオンは学者を追いかけようとしている。だが、それは不自由に縛られることではない。今までどおりわがままを通した結果、そうなるだけだ。
 彼はまっすぐにコーデリアを見つめる。
「あんたにも何か協力を頼むかもしれない。その時は――」
「ええ、お手伝いします!」
 コーデリアは食い気味に答えた。テリオンは少し表情を緩める。
「ですが、ひとまず理由は置いて、サイラスさんがどこに行ったかを調べましょう。それが一番の近道です」
 仲間たちはとうの昔に同じ結論に達していたのだろう。だからテリオンほどくよくよ悩まず、手がかりを探しに行ったのだ。
 コーデリアはほっそりした指で空中をなぞる。脳裏に周辺の地図を描いているらしい。
「町を出てすぐの場所に、北ボルダーフォール崖道の分岐がありますよね。サイラスさんはあそこを北か西に行ったはずです。その方角さえ分かれば、ある程度は行き先を絞れるのでは?」
「そうだな」
 助言に従ってテリオンは町の外で手がかりを探すことにした。さすがにコーデリアを連れて行くことはできないので、ここで別れる。
 離れた場所で待機していた衛兵を呼び寄せ、彼女を引き渡した。警備の者に囲まれたコーデリアは、テリオンの安堵を誘うように笑う。
「今度は是非、みなさん一緒に屋敷に来てください」
「ああ、そうする」
 そのためにはなんとかして学者の首根っこをつかまえ、ここまで引きずってくる必要があった。
 屋敷に戻る彼女を見送り、テリオンは早足で宿を目指す。
「テリオンさん、おかえりなさい」
 宿のロビーではオフィーリアが待っていた。彼女はソファから腰を上げ、しずしずと寄ってくる。
「コーデリアさんとのお話はどうでしたか?」
「学者先生の行方とは関係なかった。だが、おかげで頭が整理できた……と思う」
「それは良かったです」
 オフィーリアは花咲くような笑みを浮かべた。
「みなさんは手がかりを探しに行かれました。ハンイットさん、プリムロゼさん、オルベリクさんは街道に、他の方は町にいます」
 この連絡のために彼女が待機していたのだろう。テリオンは相槌を打って、
「俺は街道に行く」
「ご一緒してもいいですか?」
「ああ」
 二人は宿を後にして崖道に向かった。太陽はだんだん高く昇り、道ゆく人が増えてくる。ボルダーフォール名物の階段に足をかけながら、テリオンはこの機会にと隣の神官に質問する。
「学者先生がいなくて、あんたは平気なのか」
 オフィーリアは学者にとって初めての旅仲間であり、ともに過ごした期間も長い。だからテリオンは気にかかっていた。彼女は少し考えるように首をひねる。
「平気というか……すみません、テリオンさんが予想以上に落ち込まれていたので、わたしはなんだか冷静になってしまいました」
「……そうか」
 昨晩から己がひどく取り乱していることは自覚していたので、反論のしようがなかった。皆が混乱しつつもすぐ次の行動に移ったのは、テリオンの動揺ぶりを目の当たりにしたからだったのか。
 オフィーリアは珍しく唇を尖らせる。
「でも、本当にひどい人ですよね。わたしたちのことは何度も助けてくださったのに、ご自分の目的は手伝わせてくれないなんて」
「まったくだな」
 テリオンは心の底から同意した。別れの言葉もなく、学者に一方的に放り出されたことが腹立たしくて仕方なかった。
「……どうしていなくなったんだろうな」
 聞き上手の神官の前で、つい本音がこぼれる。彼女はそんなテリオンを決して笑わず、痛みをこらえるように瞳を沈ませた。
「ご本人に直接聞かなければ、分からないのでしょうね」
 やはり彼女も傷ついているのだ。ますます学者の所業が許せなくなる。
 話しながら町を出た二人は、崖道の分岐点にやってきた。ここから道沿いに北に向かえばウッドランドの大森林が広がり、西に向かって橋を渡ればクリフランドの奥地につながっている。
 何か痕跡が残っていないか、とテリオンは目を凝らした。オフィーリアも一緒になって探しながら、
「わたしではだめでも、テリオンさんなら見つけられるかもしれません」
「どういう意味だ」
「あなたはストーンガードの時もサイラスさんの居場所を探り当てたでしょう?」
 あの時の学者は単独で行動した上、ルシアに罠へと誘導されていた。もしも再びあんな事態になっていたら、なんて考えたくもない。
 テリオンが顔をしかめれば、びゅうと強い風が吹いた。冷たい空気を浴びて、こわばっていた体から力が抜ける。前髪が流れ、隠れていた左目があらわになった。
 ――と、視界の隅に何かが見えた。
(あれは……なんだ?)
 西へ向かう橋のちょうど真ん中あたりに、うっすらともやがかかっている。何度瞬きしても消えなかった。ふと思い立って右目だけ閉じると、真っ暗な視界の中に「それ」が浮かび上がる。
「炎、か?」
「え……?」
 オフィーリアには見えていないのだ。だが、確かに無色の火が空中に揺らめいていた。炎は潰れたはずの左目にだけ映っているらしい。テリオンはその形に見覚えがあった。
(あれは、俺が灯した鬼火だ)
 昨日、テリオンはレイヴァース家へ出かける直前に学者のランタンに火を入れた。どういうわけかその残滓が橋の上に残っているらしい。失踪した学者は、律儀に明かりを灯したまま歩いて行ったのか。
 テリオンのつぶやきを聞きつけて、オフィーリアがはっとする。
「もしかして、テリオンさんには魔力の流れが見えているのではありませんか」
「は」いきなりのことで、うまく話を噛み砕けない。
「炎の軌跡を追いかけてください。その先にきっとサイラスさんがいます!」
 興奮するオフィーリアに従って視線を動かす。軌跡は橋を渡り、崖の向こう岸を南へ続いていた。橋の手前にある道しるべの看板が、目指すべき町の名前を示す。
「……クオリークレストだ」
 テリオンの出した結論に、オフィーリアがぽんと手を打った。
「オデットさんがいらっしゃる町ですね! そういえば、あの方に辺獄の書の調査を続けてもらっているとサイラスさんが言っていました。可能性は高いのでは」
 彼女の顔がみるみる生気を取り戻していく。テリオンはほっとした。
 それにしても、何故急に魔力と思しきものが見えるようになったのだろう。きっかけなどなかったはずだ。左のまぶたにそっと触れるが、答えはなかった。
 疑問は一旦胸に押し込める。仲間と合流すべくきびすを返しかけた時、背後から声がかかった。
「二人ともこんな場所にいたのね。ついて来てちょうだい、サイラスの手がかりが見つかったわ」
 明るく告げたのはプリムロゼだった。二人は顔を見合わせる。
「とにかくそちらも確認してみましょう」
 オフィーリアが小声で提案し、テリオンも同意した。いきなり魔力の流れがどうこうと言って、皆を説得できるとはとても思えない。
 踊子は街道の脇にある岩陰へと二人を案内した。岩を回り込んだ先で、オルベリクが難しい顔をして佇んでいる。
「テリオン、オフィーリア、これを見ろ」
 指差したのは地面だ。剣士の足元の土がえぐられ、大きな真円が描かれている。円の中には読めない文字や文様がびっしりと刻まれていた。
「これは……魔法陣、ですよね」
 オフィーリアがつぶやく。ウィスパーミルで黒炎教と戦った時、学者がマティアスの張った罠を杖で書き換えていた。模様は違うが、確かにあの陣とそっくりだ。
「ああ。おそらくはサイラスが描いたものだろう」
 オルベリクも同じことに思い当たったに違いない。テリオンが続けて質問しようとした時、
「待たせたな」
 ハンイットが残りの仲間を連れてきたので、全員で魔法陣を囲む。
「あっ!」「これって……多分あれだよな」
 途端に声を上げたのはトレサとアーフェンだ。二人は気まずそうに口をつぐむ。
「心あたりがあるのか?」
 オルベリクの問いかけに、
「うん……」とトレサは顔を曇らせ、
「くそ、もっと前に気づくべきだったぜ」アーフェンが頭をかきむしる。
「二人は何を知っているんだ。話してもらえないか」
 ハンイットに頼まれ、トレサは意を決したように唇を開いた。
「あたしたち、先生と一緒にアトラスダムに行った時があったでしょ?」
「ストーンガードで別れた後ですよね。それから、予定よりもずっと早くウェルスプリングで合流されて……ああ、まさか」
 オフィーリアが何かに気づいたように口をおさえた。
「そうさ。あの移動の秘密が、この魔法陣なんだよ」
 アーフェンが神妙な顔で陣を見下ろす。テリオンは逸る気持ちを抑えきれず、
「どういうことだ」
「この魔法陣の上に乗るとね、遠く離れた場所に一瞬で飛べるの」
「飛ぶ?」
 突拍子もない単語にプリムロゼが目を丸くする。トレサが一息に説明した。
「二つの魔法陣の間を移動できるってこと。実はあたしたち、アトラスダムに行く前にコブルストンの村に寄ったのよ。先生は村のそばに魔法陣を描いてたわ。で、帰りはアトラスダム側に描いた『入口』から一瞬でコブルストンに戻ってきたの」
 果たしてそんなことが可能なのだろうか。にわかには信じがたいが、あの早すぎる帰還とも辻褄が合う。学者たちはそうやって大幅に旅程を短縮したのだ。
 テリオンは直感した。この魔法陣はストーンガードでルシアやイヴォンが使っていた空間転移の魔法の強化版だ。秘書たちの魔法はごく短距離の移動であり、陣も必要なかった。学者はそれを長距離にも適用できるよう手を加えたのではないか。
「いつの間にそんな魔法を……」
 ハンイットが絶句する。トレサが大慌てで頭を下げた。
「ごめんなさい、先生に口止めされてたの! 論文発表がまだだから誰にも話さないでくれって……」
「今思うと、この時のためだったのかもな」アーフェンの口調は苦い。
 まさか、それほど前から失踪する準備をしていたのか? いくらなんでも用意周到すぎる。テリオンの胸に黒い雲が湧いた。
 プリムロゼは複雑な文様を覗き込む。
「つまり、サイラスはこの魔法陣の先にいるのかしら」
 皆は真顔になって地面を見下ろした。トレサたちの話を参照すれば、そうなる。学者は今まで行った町のどこかに、出口となる魔法陣を描いていたのだ。
(いや……それならさっきの炎は何なんだ?)
 魔力の流れがクオリークレストを目指していたのはテリオンの見間違いだったのか。彼が混乱するそばで、ハンイットが地面を指し示す。
「転移の魔法はこれを踏めば発動するのだろうか」
「えっと、確か先生は地面に手をついてたぜ」
「陣に魔力を流していたのではないですか。わたしなら発動できると思います。大体の要領は分かりますから」
 オフィーリアが胸に手を置いて請け合った。ハンイットはうなずき、
「一度向こうに行っても戻ってこられるのだろう? ならば全員でこの先に――」
「いや、俺は違うと思う」
 テリオンはすかさず割り込んだ。集まる注目を受け止め、順繰りに仲間を見返す。
「あいつは十分に準備してからいなくなったんだ。こんな分かりやすいヒントを残すと思うか?」
 あえて突き放した言い方をする。そこまで徹底して失踪したかったのか、という恨めしさは皮下に押し込めた。
「そうかもしれないけど……」とプリムロゼが眉をひそめ、
「他に心当たりでもあるのかよ?」
 アーフェンが怪訝そうにする。テリオンは隣の神官に目配せした。
「ある。あいつはクオリークレストに行ったかもしれない」
「え?」
 炎についてはうまく説明ができる気がしないので、テリオンは別の論法で断言した。
「少なくとも、あそこに住む学者の先輩は辺獄の書について調べていたらしい。だったら何か知ってるんじゃないか」
「そうね。オデットさんならサイラスから相談を受けていてもおかしくないわ」
 プリムロゼが納得したようにうなずいた。
「ならば二手に別れるか。クオリークレストに行く者と、魔法陣に踏み込む者と」
 オルベリクの発言で、つかの間皆は黙り込んだ。真っ先にトレサが手を挙げる。
「あたしは魔法陣の向こうに行くわ! オフィーリアさん、ハンイットさん、ついてきてくれる……?」
「ええ、もちろんです」「承知した」
 商人は自分にとっての最初の旅仲間を選んだらしい。転移魔法の存在に思い当たらなかったことに対する自責の念もあるのだろう。
「じゃ、残りは全員クオリークレストだな」
 アーフェンの言葉に三人がうなずく。こちらも馴染み深いメンバーだった。
「最終的にどこで合流する?」
 オルベリクの視線を受け、テリオンは自然に口を開いた。
「目的地で手がかりが見つからなければ、ボルダーフォールまで戻る。コーデリアが伝言を預かってくれるはずだ。もし学者先生の居場所が分かったら、合流せずそっちを目指せばいい」
 この意見は満場一致で支持された。トレサは張り切ってリュックの紐を握る。
「それならさっそく旅立ちの準備ね!」
 朝食時の重苦しい雰囲気は今や完全に吹き飛んだ。皆は宿に荷物を取りに行くため、歩幅を広げて町の入口を目指す。
 コーデリアに連絡を入れるのはテリオンの役割になるだろう。頭の中で段取りを確認しながら、彼は腕輪の外れた右手首にそっと触れた。
(俺の手はあいつに届くのか……?)
 いつか学者に追いついて、夢の中で差し伸べられた手をつかまえることができるのだろうか。

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