種を蒔く人



 金鉱山の町クオリークレストに到着するや否や、一行は活気に包まれた。
「ここに来るのも久々ね」
 町の入口でプリムロゼが立ち止まった。テリオンも一緒になって鉱山を見る。以前来た時と同じように、大勢の人が木組みの足場の上で働いていた。自分たちがあちらこちらを旅する間も、鉱山労働者はここで碧閃石を探し続けていたのだ。
「なあ、前より人増えてねえか?」
 きょろきょろとあたりを確認したアーフェンが疑問を呈する。
「悪徳地主がいなくなったからでしょ。いいことじゃない」
「このにぎわいもトレサのおかげだな」
 オルベリクが表情を緩めた。テリオンはその脇を通り抜けようとしたが、
「待てテリオン、少し休んだ方がいい。プリムロゼも足が限界だろう」
 剣士に肩を叩かれ、渋々停止する。
 ボルダーフォールから強行軍で進んだおかげで、通常よりずいぶん短い時間でここに到着した。確かに踊子には少々厳しかっただろう。しかし彼女は気丈にかぶりを振った。
「私のことは気にしないで。休んでたら日が暮れちゃうわ。オデットさんに会うなら早い方がいいでしょ」
「いや、宿に行く」
「どうしたのよテリオン」
 プリムロゼが目を丸くする。テリオンはふんと鼻を鳴らした。
「あんたを置いたらすぐに出かける」
「そういうことね」
 彼女は肩をすくめた。アーフェンが苦笑しながら、
「なら俺はプリムロゼの足を診とくぜ。それが終わったら聞き込みにでも行くかな」
 皆はテリオンの主張をよく理解していた。先行する学者との距離は今この瞬間も開き続けている。本人を見つけるまでは絶対に油断できなかった。一人でルシアのもとに向かった可能性を考慮すれば、なおさらだ。
 宿に直行して部屋を取り、踊子たちと別れた。テリオンとオルベリクは崖に張りついた階段を上って学者オデットの家を目指す。
 その一軒家は見晴らしのいい高台に建っていた。玄関を叩いてしばらく待つが、反応がない。
「留守だったか」
 腕組みするオルベリクの横で、ちらりと窓を覗いたテリオンは、腰巻きから商売道具を取り出した。
「おい、テリオン……!?」
 問答無用で鍵を開ける。足音を忍ばせて家に上がり込めば、オルベリクは人目を気にしながらついてくる。
「一体どうする気だ」
「居留守かもしれないだろ」テリオンは廊下を大股で歩きながら答えた。
「……お前、よほど焦っているな?」
 オルベリクは呆れたようにこちらを見下ろした。都合の悪い質問は無視する。
「外から部屋を見た時、違和感があった。これほど片付いているのは妙だ」
 記憶どおりに足を運び、以前通された居間にたどり着く。先ほど抱いた印象は正しく、部屋は整然としていた。
「前に訪れた時は失踪事件の資料が散乱していたのだろう。普段はこのくらい整頓されているのではないか?」
 オルベリクが常識的な意見を述べる。だが、盗賊の勘が「この家は空いている」と告げていた。オデットが家を離れたのはどのくらい前だろう。部屋の様子からして、長期で留守にするような雰囲気だった。
「サイラスがこの家に来たとすると、オデット殿と二人でどこかに出かけたのか……」
「もしくは、先輩だけで研究の旅にでも行ったのかもしれん」
 部屋を物色しながら二人で議論していると、不意に玄関先で音がした。テリオンはぴたりと動きを止め、耳を澄ませる。気配を殺すのはもはや癖である。
「オデット殿が帰ってきたか」
 オルベリクが楽観的な推測をする。どのみちいつまでも隠れているわけにもいかず、二人は玄関へとって返した。
 開け放たれた扉の前には細い影が立っている。
「あのう……オデットさんに何かご用でしょうか」
 見慣れぬ女性である。近所の者だろうか。身構えるテリオンに対し、オルベリクが低くつぶやいた。
「確か、町の地下に囚われていた女性ではないか」
 ギデオンに誘拐され、あわや血晶石の材料にされかかっていた女だ。言われてみればそんな気もする。つまり、あのやたらと迫力のある老婆の孫娘か。
 彼女もこちらの正体に気づいたらしく、ぺこりと頭を下げた。
「まあ、あなたたちは! 以前助けていただきましたよね。その節はありがとうございます」
(こいつは先輩の行方を知ってそうだな)
 オルベリクも同じことを考えたのか、居住まいを正す。
「俺たちはオデット殿に用事があってな。しかし……留守のようだが」当然、無理やり鍵を開けたことは濁す。
「ええ、実は今日、『しばらく留守にする』とおっしゃってどこかへ出ていかれたのです」
 最悪のタイミングですれ違ってしまったらしい。テリオンは失望を隠しながら口を挟む。
「もう一人、学者の男が一緒にいなかったか」
「私を助けてくれた人ですか? いいえ、見ていません」
 彼女は残念そうにしていた。おそらく「会えるものならまた会いたかった」と言いたいのだろう。
「オデット殿がどこへ行ったか、心当たりは?」
「分かりません。ですが、近頃は町の外で何かを調べていたようです。そうそう、あの崖の下にある――」
 その瞬間、テリオンはオデットの目的地を察した。
「盗公子の祠に行っていたみたいですよ」



 街道を外れて崖の底へと降りる。だんだん水音が近づいてきた。枯れたクリフランドだが、谷水は存外に豊かなのだ。
「こんな場所に祠があるの?」
 プリムロゼは少し鈍い足取りで坂道を下る。その横でアーフェンはさりげなく歩調を合わせつつ、
「お参りしにくいよなあ。霊薬公とは大違いだぜ」
「盗賊の守護神なのだから、堂々と祈りに来る者はいないのではないか」
 オルベリクは真面目に受け答えした。テリオンは一番前を歩きながら、背中で三人の声を聞く。
 とにかくオデットに会わなければクオリークレストに来た意味がない。よってテリオンたちは彼女を追って盗公子の祠に向かうことに決めた。仕入れた情報を報告するため一度宿に戻ると、「私も行くわ」とプリムロゼがソファから立ち上がった。アーフェンの見立てでは足に問題はないとのことで、こうやって全員で祠を目指している。
 会話は坂道の終点が見えてもまだ続いていた。
「盗公子の祠っていえば、前に先生とテリオンが流れ着いたとこだよな」
「あの時はテリオンが風邪を引いて大変だったわよね。自分から水に落ちたくせに」
 嫌味のような思い出話を聞かされ、テリオンは乱暴に地面を踏みつける。
「着いたぞ」
 あごで示した岩壁には大穴が開いていた。彼は暗い入口を眺めて思考に浸る。
(……俺はここに来たことがあったんだな)
 以前学者と訪れた時はぼやけていた記憶も、今ははっきりと思い出せた。数年前ダリウスに崖から突き落とされた後、テリオンがこの祠に行き着いたことは間違いないだろう。
「テリオン、どうした?」
 不自然に沈黙したせいか、オルベリクが怪訝そうに声をかけた。
 今は思い出に浸っている場合ではない。テリオンは率先して祠に踏み込む。薄闇に目が慣れると、神を祀る祭壇の前に人影が見えた。彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
「おや、あんたたちは」
 明るい金髪をひっつめにした女――学者の先輩オデットだった。彼女は四人の姿を確認して瞠目する。
「お久しぶりね、オデットさん」
 プリムロゼが一行を代表して前に出た。彼女とオデットは古い知り合いだから、会話は任せていいだろう。
 オデットは旅装に身を包み、ふくらんだ鞄を肩から斜めにかけていた。
「もしかして、どこかに行こうとしてたの?」
 プリムロゼがさりげなく探りを入れた。オデットは意味ありげに目を細めて、
「まあ、ね。あんたたちはサイラスを追ってきたのかい」
 刹那、テリオンは自分の顔色が変わるのを感じた。
「あいつはどこだ」
 即座に問い詰める彼に、「まあ待てよ」とアーフェンが制止をかける。
「オデットさんは最近サイラス先生と会ったんだよな? 先生、俺たちに何も言わずにボルダーフォールからいなくなっちまってよ」
「……やっぱりか。おかしいと思ったんだよ」
 彼女は呆れたように額を手でおさえた。この反応は大当たりだろう。全員思わず前のめりになる。
「わたしが分かる範囲で、最初から順番に話すよ。それでいいかい?」
「オデット殿、頼む」
 頭を下げるオルベリクに軽くあごを引き、彼女は深呼吸してから語りはじめた。
「何日か前、サイラスが突然一人でうちを訪ねてきたんだ」
 ――前触れのない訪問に驚きつつも、オデットは彼を招き入れた。真っ先に聞くことはもちろん、
「仲間はどうしたんだい?」
 以前は何人も連れていたのに、いつの間に解散したのだろう。時折届く手紙には何も書かれていなかったが。
 すると学者は涼しい顔で、
「訳あって今は別行動していてね。それよりも、辺獄の書のことなんだ」
 性急に話を進める彼に違和感を覚えながらも、オデットはその単語に反応する。
「もしかして見つかったのかい」
 彼女は学者に頼まれて本の捜索を続けていた。クオリークレストは流入者が多いので、彼らに地道に聞き込みをしたり、ルシアが怪しいと知ってからは学院時代の知り合いを頼ったりもした。その結果掴んだ情報は逐一学者に手紙で知らせた。
 学者の青い目が理知的な輝きを放つ。
「本自体はまだ発見できていないけれど、私はルシアさんの居場所を見つけたんだ」
 ――テリオンはしびれを切らして話に割り込んだ。
「それはどこだ」
 オデットは一瞬絶句した。
「……すまない、聞いてないんだ。サイラスは教えてくれなかった。
 あいつは最初から一人で行くつもりだったんだ。だから、わたしには『辺獄の書について調べてくれてありがとう』って言っただけさ」
「オデットさんにも話せないような秘密なの?」プリムロゼが仰天する。
「そういうことになるね」
 皮肉げな返事ににじむのは怒りではなく、学者に置いて行かれた寂寥だった。アーフェンが遠慮がちに口を開く。
「あのさ、オデットさんは先生を追いかけようとしてたのか……?」
 彼女は神妙な顔で四人にじっと目を合わせてから、祭壇に飾られた盗公子の象徴を見上げた。
「……そうさ。サイラスは、わたしと別れた後ここに寄ると言ってたんだ。だから行き先のヒントがないかと何度か探しに来たんだが、大したことは分からなかったよ」
「だが、あなたは今にも旅立つつもりだったのだろう? 最終的にサイラスの居場所を探り当てたのではないか」
 オルベリクが鋭く切り込めば、オデットは素直にうなずいた。
「ああ。あいつが向かった場所に見当がついた。それで出発前に祠に寄り道したら、あんたたちが来たってわけさ」
 彼女は仲間たちの顔を順番に眺め、最後にテリオンを見据える。
「すぐにでも行き先を言えって雰囲気だね」
「……まあな」
 テリオンは腕組みして片足に重心を乗せた。オデットは肩の力を抜く。
「教えるのは構わないよ。でも、あんたたちは町についたばっかりだろ。サイラスだって夜通し歩くような体力はないし、うちに帰って話そう。ついでに夕飯でも食べていかないかい?」
 堅苦しい態度から一転して、彼女はいたずらっぽい笑みをつくる。テリオンは肩透かしを食らった気分だった。
「賛成。テリオンったらずーっと急いでるんだもの、もう足がぱんぱんよ」
「ここでしっかり休めば先生にも追いつけるよな!」
 プリムロゼとアーフェンの声がいやに明るく響いた。憮然とするテリオンの肩に、オルベリクの大きな手が置かれる。諦めろということらしい。
 焦燥ばかり抱えていても仕方ない。テリオンはその申し出を受けることにした。
 オデットのおかげで町に来た目的は果たせそうだ。いくらか気が楽になったのだろう、プリムロゼが祠の中を歩き回る。
「サイラスはどうしてここに来たのかしら」
「盗公子の逸話を確かめたいって言ってたよ。わたしも軽く調べてみたけど、いまいちピンとこなくてね」
「逸話って?」
 以前学者に聞いた覚えがある。クリフランドが豊かな水源を持つのは盗公子が鬼火で氷を溶かしたから、という話だった。
「いろいろあるよ。たとえばエベルの左目の話とか」
 何気ないオデットの発言に、テリオンはぎょっとした。反射的に前髪の上から目をおさえると、隣でアーフェンが怪訝そうにする。
「盗公子の目には特別な力があったそうでね。普通の人には見えない宝物を探し出せたとか、魔力の流れをたどることができたとか、いろいろ聞くよ」
 まさしくテリオンの左目ではないか。潰れたはずの目に宿った力は、盗公子エベルのものだった……?
 嫌な緊張が全身を支配した。短剣を模した神の象徴をにらみつけ、テリオンははるかな過去を思い起こす。
 数年前、この祠を訪れた彼はほとんど全身を怪我をしていた。あれは放置すれば命に関わる傷だった。それなのに、今は左目以外完全に復帰している。
(まさか……治したのか?)
 盗公子と呼べる者が――奥義を使う際にぼんやりと意識する大きな存在が、テリオンに生命を吹き込んだというのか。
 もしやこの祠の主は、彼に何かをさせようとしているのではないか。だから取引とばかりに怪我を治したのだ。やたらと多くの仲間ができたのも、大陸に蔓延る物騒な力に関わる羽目になったのも、そのせいでは――
「逸話は他にもたくさんあるからね。サイラスがどれを目当てにしてきたのかは結局分からなかったよ」
 オデットの冷めた声を聞き、我に返る。
 明らかに考えすぎだった。今は、たまたま左目が役に立った事実だけを受け取ればいい。
 祠の外に向かう仲間やオデットの背中を追いながら、テリオンは後ろ髪を引かれる思いで振り返った。
 短剣の彫像はただ静けさを保っていた。



 本棚に囲まれたオデット家で食卓につくのはもう二度目になる。
「あまり構えなくて悪いね」と言い、彼女は以前と同じく屋台で買ってきた出来合いの料理を出した。そもそも長期間留守にするつもりでいたのだから、当然の処置だろう。
 参加者は前回の半分で、決してにぎやかとは言えないが、あたたかい夕食だった。
「……あいつがアトラスダムでどんな暮らしをしてたか、知っているかい?」
 一通り皿の上が片付いた頃、オデットは不意にそんな話題を出した。テリオンは黙ってかぶりを振る。代わりにアーフェンが答えた。
「俺は先生と一緒にあの町に行ったことがあるけど、すっげえ慕われてたぜ。ちょっと顔を出しただけで、図書館の人も王立学院の生徒もみんな嬉しそうにしてた」
「それ、主に女の人でしょ?」
「そうそう」
 プリムロゼが茶々を入れると、アーフェンは笑ってうなずく。
 旅先でも似たような場面は多々あった。性格に多少難があれど、抜群の容姿の良さでずいぶん得をしている男である。
 オデットはどこか遠い目をした。
「それは教師になってからの話だよ。それよりも前、駆け出しの学者とか学院の生徒だった頃は、そうじゃなかった」
「……というと?」
 オルベリクが渋い顔で尋ねる。オデットは軽く両肩を上げた。
「アトラスダムきっての天才として有名だったね。学院に入学した時点で、その先三年分のカリキュラムを終えてたって話だし」
 テリオンにはそれがどの程度のレベルか判別できないが、プリムロゼやオルベリクは素直に感心していた。
「もしかして、まわりから孤立してたってこと?」踊子が小首をかしげる。
「あいつはまるで気にしてなかったけどね。わたしやラッセルあたりに積極的に絡みに行ってたよ」
 学者は恐ろしく目立つから、まわりに馴染めない姿も容易に想像がついた。教師になる前はもっと遠巻きにされていたのかもしれない。
 オデットの昔話はとめどなく続いた。
「わたしが学院から出ていったのは、元学長のイヴォンが幅を利かせてきた頃でね。権力争いも激しくなる一方だし、あそこにいてもますます窮屈になりそうだったから、逃げ出したんだ。
 それでもサイラスは学院に残って学者になるって言ってた。だから、こっちに来てから届いた手紙に『教師になった』って書いてあって驚いたんだ」
 アーフェンがきょとんとする。
「学者と教師ってそんなに違うのか?」
「自分でひたすら学びを深めることと、誰かに教えることは全然違うよ。わたしはあくまで学者であって教師じゃない。頼まれて知識を貸すことはあっても、授業という形で生徒に教えることはないからね。
 それと単純な話、教師をやってると自分の研究をする時間が減るんだよ。だから教師をやりたがらない学者も多いんだ。イヴォンだってそんな部分があったくらいだからね」
 プリムロゼが組んだ足を入れ替え、顔をしかめた。
「教育に力を入れないと次の学者が育たないんじゃないの?」
「ウォルド国王の方針はもちろんそうさ。それでも、知識を独り占めしたいやつはたくさんいるよ」
 テリオンのように無学な者と違って、王立学院の学者は難しい本を手に入れる環境と、それを楽に読みこなせる実力がある。だから他者より優れていると思いこみ、知識を独占したがるのだろう。そういう人種はテリオンもよく知っていた。
「でもサイラスは違った。あいつは、知識は誰にでも平等に与えるべきだって信じ切ってる。それがどこから来た考えなのかは、わたしも知らないけどね」
 ストーンガードでは穴の底に閉じ込められようと、イヴォン相手に真っ向から啖呵を切っていたものだ。商人や薬師への態度からも、学者のスタンスは非常に分かりやすい。テリオンにすらあれこれ教えようとするくらい、学びへの姿勢は徹底していた。
 オデットは薄く笑ってワインをあおると、空にしたグラスを見つめて一呼吸置く。
「今までのあいつが持っていた関わりは、先輩と後輩とか、教師と生徒みたいなものばっかりで、友人らしい友人もいなかった。だから、あいつにとって仲間っていうのは特別なものだったんじゃないかな。
 やっぱり……サイラスのこと、あんたたちに頼んでもいいかい?」
 オデットはまっすぐにこちらを見つめた。テリオンは眉根を寄せる。
「あんたは追いかけないのか?」
「わたしは行かない。……行けないんだ」
 苦しげな返事だった。実際は今日にも旅立とうとしていたのだから、「行けない」というのは心理的な問題なのだろう。テリオンは大きなため息をついた。
「あいつのことを『放り出すべきじゃなかった』って思ったんだろ? 本当に、それでいいのか」
 いつかオデットがプリムロゼに対して述懐した内容を、テリオンは不可抗力で盗み聞きしたのだった。女性たちは弾かれたように顔を上げる。
「どうしてそれを?」
「そんなこと、今はどうでもいいだろ」
 テリオンは語気を強めて誤魔化した。オデットは唇を噛み、ぽつりと言う。
「わたしはあいつの一番大事な時、いつも近くにいてやれないんだよ」
 いやに実感のこもった言葉だった。深刻な声色に、誰も相槌を打てなくなる。
「それに、わたしはあんたたちより体力がない。足手まといになるから、急ぐ旅には不向きだろ」
 取り繕うように小さく笑う。プリムロゼが首肯した。
「安心して、私たちがオデットさんの分もサイラスを叱ってくるわ」
「そうだって! だからさ、そろそろ先生の行き先を教えてくれよな」
 アーフェンはにこやかに話を聞き出す。オデットは少し安らいだ顔になって、
「サイラスはダスクバロウに向かったよ」
 テリオンは一瞬混乱した。旅慣れた彼でも聞いたことのない土地だった。
「それはどのあたりだ?」オルベリクも同様に眉をひそめる。
「ウッドランドの奥地にある小さな村さ。神話時代の遺跡がたくさん残っていることで有名なんだ。
 サイラスがいなくなった後、学院時代の知り合いから『ルシアは学長の命令で遺跡の調査をしていた』っていう噂を聞いてね。可能性は高いだろう?」
 テリオンのまぶたの裏に、木々の間を黒いローブが一直線に進む光景が浮かび上がる。
 オデットは深々と頭を下げた。
「改めて、サイラスのことをよろしく頼むよ」
「最初からそのつもりだ」
 テリオンは即答する。その胸には、以前彼女に似たことを託された時とは異なる意思が燃えていた。



 夕食を終えた四人はオデットの家を辞した。出発は明日の早朝である。今晩はアーフェンにも酒を控えさせ、すぐに就寝するつもりだ。
 鉱山はひっそりと闇夜に沈んでいた。酒場の喧騒は遠く、風の吹き抜ける音ばかりが谷間にこだまする。悪徳地主のいなくなった町は、夜でもどこかあたたかかった。
 仲間たちの後を追って宿に戻ろうとしたテリオンは、オデットに引き止められた。
「あんたに話があるんだ」
 何故俺に、という意味を込めた視線を返す。彼女は軽く笑った。
「いざって時はあんたが一番頼りになるだろう。ほら、ギデオンと戦った時もサイラスを助けたじゃないか」
 どうもオデットにはあの時の印象が強いらしい。彼はふっと息を吐いた。
「……用件は?」
「サイラスが追っている辺獄の書……あれは危険な代物なんだ」
「そんなことは知っている」
 血晶石の力は十分すぎるほど味わっていた。だがオデットはかぶりを振る。
「内容だけじゃない。あれを書いたのはザロモンっていう、古代の王国ベルンシュタインの学者だ」
 聞いたこともない単語を連発され、テリオンは眉間にしわを寄せる。オデットは説明を付け加えた。
「大体今から三百年くらい前、『碩学王の息子』とまで呼ばれていた学者さ」
「つまり、学者先生みたいなやつか」
 と言うとオデットは驚いたように瞳を大きくしてから、
「ああそうさ。だから……わたしは不安になったんだよ」
 からりとした印象を持つ彼女が、ここまではっきりと負の感情を表明するなんて。テリオンはより真剣に話を聞く態勢になる。
「ザロモンはね、あの本を書いた後で急に人が変わったんだ」
「人が変わる?」
「本当に別人みたいに性格が変わったらしいよ。それまでは模範的な学者だったのに、調べた知識を独占した挙げ句、他国に戦争を仕掛けるようになった。ザロモンは、辺獄の書を書いたことで『触れてはいけない何か』から啓示を受けたんじゃないかって説もある」
「……まさか、学者先生もそういうことを吹き込まれたと言いたいのか?」
 予想以上に不穏な話になってきた。学者は自発的にルシアの元に向かったわけではなく、その存在に呼ばれたのだとしたら――
「いや、ありえないだろ」
 テリオンは自らその考えを切り捨てた。オデットはつかの間、呆けたような視線をよこす。
「あいつはそんなもんに引っ張られるようなやわな性格じゃない。それはあんたもよく知ってるだろ?」
「……そうだね。この前会った時もいつもどおりの様子だった。やっぱりあんたにサイラスのことを頼んで正解だったよ」
 彼女は迷いから解き放たれたように破顔一笑した。
「あんた、ちょっといいやつすぎるんじゃないかい? 盗賊なんだろ、そんな性格で今までよく生きてこられたね」
 それは自分でも不思議に思っていたので、テリオンは閉口するしかなかった。
 オデットは心地よさそうに夜風を浴びながら、話を続ける。
「サイラスはね、自分一人じゃ限界があるってよく言ってた。下手に才能がある分、てっぺんもよく見えたんだろう。どれだけ知識を高めようにも人の寿命は限られてるわけだしね。
 だから、生徒たちに未来を託すため、あらゆる知識を広めようと学院に在籍してたんだ」
 テリオンはしかめっ面になる。一人に限界があるというのなら、単独行動や隠しごとはやめてほしいものだ。学者はそのあたりの言動と行動がまるで噛み合っていないので、こちらは翻弄されてばかりだった。
「でも、イヴォンがいる学院じゃうまく教えを広められないだろ。ちょうど今回は辺獄の書や式年奉火のこともあって、アトラスダムから飛び出してきたんだろうね。本当なら国もあいつを手放したくないだろうに」
「……どういうことだ?」
 小さく付け加えられた発言に、何故かテリオンの胸はざわめいた。オデットは表情に複雑な色を浮かべる。
「王女の教育係を任されたのは、国から相当期待をかけられてるってことだ。アトラスダムはあいつを囲い込む気満々だったはずだよ。好き勝手に旅をさせるより、国元でやらせたいことがいくらでもあっただろう。
 正直あいつが町を出てこられるとは思ってなかったよ。多分、サイラスも半分くらいは旅なんて諦めてたんじゃないかな」
 テリオンは息を呑んだ。
(旅を諦めていた? あいつが……?)
 いつも楽しそうに旅程を決め、好奇心のままに未知を追い求める――テリオンは学者のそんな側面しか見たことがなかった。だが、本来ならば彼にはそういった自由は存在しなかったというのか。
「結果として旅に出たあいつには仲間ができた。わたしはあいつの選択は何も間違ってなかったと思う。おまけに、その仲間がこんなに必死になって行方を探してくれるんだから、サイラスも幸せ者だねえ」
 オデットは意地悪な調子で言葉を結んだ。むずがゆい気分になったテリオンは、わざと急かすように「話は終わりか」と尋ねる。
「……十五年前のことなんだけど」
 いきなり話題が飛んだ。テリオンは目をぱちくりさせる。十五年前というと、ダリウスと出会うよりも前だ。学者など今の半分の年齢だった頃である。
 オデットはそれまでの饒舌な口ぶりから一転して、ひどく言いづらそうにしていた。
「わたしと出会った頃、あいつのまわりで……いろいろあってね。それが、今サイラスが一人で辺獄の書を探しに行ったことと関係するかもしれない。
 だから、あんたに話しておきたいんだ」
 オデットはひたりと決意のまなざしを向けた。一方で、テリオンは逡巡する。
 何やら彼女は重要なことを打ち明けようとしている。それは学者がいなくなった理由を知るための足がかりになると同時に、決定的に相手の印象が変わりかねない話なのだろう。自分にそれを聞く覚悟があるのか。
 迷った末、テリオンはそっと唇を開いた。
「俺は――」

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