種を蒔く人



 テリオンさんへ
 今わたしたちはアトラスダムにいます。そうです、ここが魔法陣のつながる先でした。
 サイラスさんは一旦この町に戻って、学院や王城で用事を済まされたようです。調べたところ最終的な目的地も分かりました。ダスクバロウというウッドランドの村です。テレーズさんに教えてもらいました。サイラスさんは彼女からエレメントブースターを借りたみたいです。
 ひとつ、気になることを耳に挟みました。サイラスさんは、辺獄の書を見つけたらすぐアトラスダムに戻るように国から言われていたそうです。もしかすると、ご自分の目的をずっと後回しにされていたのはそのためかもしれません。
 わたしたちは情報を手に入れてすぐボルダーフォールに戻ろうとしましたが、魔法陣が使えなくなっていました。原因は分かりません。ですのでこのお手紙はコーデリアさん宛に出して、わたしたちは徒歩で直接ダスクバロウに向かいます。
 他にも、旅に出る前のサイラスさんについて、今まで知らなかったことをいくつか耳に入れました。そのせいで、わたしは少し混乱しているのかもしれません。とにかく今は一刻も早くサイラスさんに追いつきたいです。
 テリオンさんも気が塞いでいるかもしれませんが、お体にはお気をつけて。
 オフィーリアより



 テリオンたちは鬱蒼とした森を進んでいた。
 葉がつくる天井から日差しがまばらに降り注ぎ、四人の髪を照らす。密集する針葉樹の間を通り抜けた先、東ダスクバロウ森道の終点にその村はあった。
 以前オルベリクやトレサの用事で訪れたヴィクターホロウよりもさらに北である。オデットの話の通り、ここに来る途中もたくさんの遺跡を見かけた。ハンイットか、それこそ学者がいれば何か解説があったのだろうが、四人は無言でそばを通り抜けるだけだ。
 ノースリーチやリバーフォードなど、近頃訪れる集落は物騒な状態になっていることが多かった。今回こそ余計なトラブルが起こらなければいいのだが、と思いながら訪問したダスクバロウは、見るからに穏やかな空気に包まれていた。ウッドランド特有の軒の深い家の前で村人たちが談笑している。ウィスパーミルとは違って、どうやら真実のどかな場所らしい。どこかに危険な書物が隠されているとはとても思えない雰囲気だった。
 小さな村なので固まって行動する。今回はある程度道中のペースを落としていたので、プリムロゼも「すぐに動いて大丈夫よ」と請け負った。さっそくアーフェンは聞き込みをすべく相手を探しはじめる。
 村の中心に石の舞台があり、その前に老人が立っていた。
「ちょっと聞きてえんだけどよ。最近ここに学者が来なかったか?」
 アーフェンが話しかけた相手はこの村の長と名乗った。
「学者さんならよく見かけるぞ。遺跡の調査で、はるばるアトラスダムから来られるんじゃ」
 テリオンたちは思わず顔を見合わせた。
「もしかして、黒くて長い髪の……?」
 プリムロゼが首をひねる。村長は踊子の艶姿に目を見張りながら、
「そうそう、ルシアという名前の女性じゃ。お知り合いか?」
 大当たりだった。間違いなく辺獄の書はここにある。意外なことに、ストーンガードで抱いた印象とは違ってルシアはこの村で堂々と活動していたらしい。
 アーフェンは頭をかきながら質問を続ける。
「その人、最近ここに来たか?」
「いや……村に寄らず遺跡に直行することもあるようじゃから、わしが気づいていないだけかもしれんが。
 そういえば今朝、他の学者にも同じことを訊かれたのう」
 テリオンの心臓がどきりと跳ねた。オルベリクは常ならず興奮した様子で、
「その学者はサイラスという名ではなかったか」
「ああ、確かそう名乗っておったわい」
 四人の間に安堵が広がった。テリオンはひそかにこぶしを握りしめる。
(やっと追いついたのか……)
 オデットの読みどおりだ。そもそも学者は鈍足であり、一人きりだから魔物との戦いにも苦労したのだろう。小さな遅れが積み重なった結果、同じ日にテリオンたちがダスクバロウを訪れるほど差が縮まったのだ。
 アーフェンは喜色を隠しきれない顔で尋ねる。
「俺たちその先生の知り合いでさ。会いたいんだけど、どこ行ったか分かるか?」
「ルシアさんが調べている遺跡の位置を教えたから、そこではないかのう」
「もしかして、ルシアって人は結構前から村に来てるの?」プリムロゼが何気なく質問を重ねる。
「そうじゃよ。もう十数年にはなるかの」
 テリオンは瞠目した。それほど前から村とのつながりがあったのか。
 村長の話によると、どうやらこの村は遺跡の保護という名目でアトラスダムから寄付をもらっているらしい。王立学院――あの化物になった学長のいた伏魔殿からの援助だ。それだけでもう怪しさ満点である。
「ありがとよ! 助かったぜ村長さん」
 アーフェンは心のこもった感謝とともに話を切り上げた。舞台を後にして、四人で顔を突き合わせる。
「遺跡を巡るぞ」
 テリオンの提案は仲間たちにすんなり了承された。彼は内心ため息をつく。
 まったく、こういう役割は学者がつとめるはずだったのに。今度会ったらどんな文句を言ってやろうか。テリオンは村を訪れる前よりもずいぶんと気が軽くなっており、こんなことを考える余裕も出てきた。
 村長の示した遺跡群は集落から少し離れた場所にあった。村人やルシアが何度も往復したのだろう、自然の小道ができている。それをたどると、散らばった石材や折れた柱が次々と視界に入った。遺跡は原型を留めていないものがほとんどだが、屋根まで残った建造物もちらほらある。よほど頑丈なつくりらしい。
 おそらく学者連中には貴重な代物なのだろうが、テリオンは「石が積み上げられているな」という感想しか抱けなかった。ここまで古いと盗掘の対象にもならないだろう。
「さすがにああいう立派なのは立ち入り禁止みたいね」
 プリムロゼが指差した遺跡は入口が石の扉で閉ざされていた。内部を保護し、野盗が住みつくのを回避するためだろうか。
「ルシアは許可を得ているから、あそこにも入ることができるのだろう」
 オルベリクの推測にアーフェンが首をかしげて、
「ってことはルシアはあの中にいるのか?」
「分からん。とりあえず、あそこは俺が調べる」
 テリオンは最も立派な遺跡を一直線に目指した。仲間たちも別れて手がかりを探しはじめる。
 ぴたりと閉まった石の扉には継ぎ目すらなかった。まわりを一周したが、侵入できる穴など存在しない。屋根に登れば崩れた天井でも見つかるかもしれないが、まさか学者がそこまでするとは思えなかった。
 ここに来てテリオンは疲労を感じた。適当な石材に腰掛け、大きく嘆息する。
(俺はどうしてこんなに必死になってるんだ……)
 自分でも理解不能なくらいだから、仲間はさぞ驚いているだろう。
 近頃考えごとをする度に、オデットの発言が脳裏に浮かぶ。教師になる前の学者がアトラスダムで孤立していたこと、ある意味で不自由な身の上だったこと。学者は今までそんな様子を微塵も見せていなかっただけに、普段の印象とのギャップがあった。
 つまるところ、テリオンは学者のことを何も理解していなかったのだ。だから失踪の理由を聞き出したくて、ここまで追いかけてきた。
 あれだけ学者を遠ざけていた自分が、その心を知りたいと渇望しているのはおかしな状況である。だが、そう仕向けたのは学者本人なのだ。訳の分からない言動や行動を目の前でとられ続けた結果、テリオンは学者のことを「放っておけない」と思ってしまった。
 ダリウスの時と同じ齟齬を繰り返すわけにはいかない、という気持ちもある。それが、学者との対話をかたくなに拒否し、思いを口に出すことを避けてきたテリオンなりの、精一杯の反省だった。
 迷っている暇はない。もう目的地はすぐそこなのだから。テリオンが立ち上がると、ちょうどアーフェンたちが戻ってきた。
「だめだテリオン、見つからねえよ」
「他の遺跡はひととおり調べたが、人が隠れるような場所はどこにもなかった」
「残りはここだけね……」
 プリムロゼがにらんだ先は、最初に目星をつけた遺跡だ。他と比べても特に頑丈で、厳重に戸締まりされている印象を受ける。四人は散らばって調査した。
「テリオン、これは何かの仕掛けではないか」
 正面を探っていたオルベリクに呼ばれた。剣士が指さした扉の脇で、わずかに壁石が浮き出ている。
「よく気づいたな」
「仲間に技術を教わったのはお前だけではないぞ」
 オルベリクは愉快そうに眉を上げた。例の試合のことを言っているのだろう。テリオンは久々に小気味よい心地になる。
「なあ、俺に試させてくれよ」
 近寄ってきたアーフェンは腕まくりし、浮き出た石材を押し込む。が、扉は開かない。
「代われ」
 テリオンは薬師を押しのけると、出っ張りに指をかけて引いた。変化はなかった。しかし、指先の感触がヒントを伝える。
(……まさか)
 思いつきで手首をひねる。積み上げられた四角い壁材の一部など、どう考えても動くはずがない。にもかかわらず石はあっさりと回った。どうやら壁の内部で別の構造になっていたらしい。仕組みは不明だが、扉がひとりでに開いていく。
「やるじゃない!」
 後ろで見ていたプリムロゼが手を叩いてはしゃぐ。未知の仕掛けに高揚しているというより、彼女も早く学者に会って文句を言いたいのだろう。
「サイラスやルシアはこの先にいるのか……」
 入口をにらみ、オルベリクが剣の柄を握った。今の所おかしな雰囲気はないが、警戒するに越したことはない。
 もし学者がこの先にいるなら、彼も今の仕掛けを見破ったということだ。やはり盗賊の才能があるのでは、と考えてしまう。
「突入するぞ」
 テリオンがらしくもなく号令をかけると、短い同意が返ってきた。
 この村に来る直前、オフィーリアから手紙が届いた。記された日付からすると、こちらがクオリークレストに到着した頃、彼女たちはアトラスダムを徒歩で発ったらしい。どれだけ急いでも彼女たちがダスクバロウにたどり着くのはまだ先だ。待っている暇はなかった。今この瞬間にもルシアと学者が対峙しているとすれば、事態は切迫している。このまま突き進むしかない。
 あの手紙に関してはひとつ気がかりがあった。帰りに魔法陣が使えなくなった件だ。もしや学者はわざと帰り道を封じて、追跡の手を遅らせたのではないか。彼はそこまでして一人で行きたかったのだろうか……?
 テリオンは無意識に胸元を掴んだ。この不安を解消できるのは、結局本人と再会することだけだった。



 明るい遺跡だった。天井の一部が抜け、そこから柔らかい陽光が降り注ぐ。床石は地面とほとんど同化して、ところどころに草や大きな樹まで生えていた。建物の中なのに、テリオンは森を歩いているような心地になる。
 あたりはしんと静まり返っている。少なくとも魔物はいないようだ。
「ここ、神話時代につくられたのよね。相当古いってことしか分からないわね……」
 プリムロゼがあちこち見回しながらつぶやく。あの男がいれば意気揚々と解説しただろうに、と続けたかったようだ。
 内部の道は入り組んでいた。テリオンは当てずっぽうで進んでいく。幾度か角を曲がった時、ふと違和感を覚えた。
「待て」
 足を止め、とっさに壁に隠れる。背後の三人も従った。
 直後、壁の切れ目の向こうに、ほとんど無音で姿を現すものがあった。
「……魔導機か」
 オルベリクがごくりとつばを飲んだ。
 登場の予兆はなかった。これまで貴族の屋敷などで何度も遭遇してきたテリオンだけが、ぎりぎりで気配を察知できたようだ。暖色の明かりを灯した魔導機はゆっくりと廊下を巡回している。少なくとも三体はいた。
 単体での強さは大したことがない魔導機も、集まればそれなりに強敵になる。それに、この遺物は偵察の役割を持つ場合が多かった。もし見つかればテリオンたちの侵入は「主」に報告されるだろう。
 プリムロゼは壁の端から顔を出して古代遺物の姿を確認した。
「あいつら、遺跡のつくられた時代からずっと動いてるのかしら」
「まっさかあ」アーフェンが小さく肩をすくめる。
「遺跡の守りのためにルシアが配備したのではないか?」
 オルベリクの意見にテリオンは「かもしれないな」と同意した。やはり、この遺跡には何かが隠されているのだ。
 学者はここを通ったのだろうか? 交戦の形跡がないので、少なくとも強硬手段で突破したわけではないらしい。気配を隠す魔法で切り抜けたのか、もしくは彼が通った時はまだ遺物が起動していなかったのか。
 テリオンは魔導機がひとつ去ったのを見て、すぐに動く。
「あれを全部相手にするのは面倒だ。避けていくぞ」
「お、テリオンの得意技だな」
「うふふ、やっぱりわくわくするわね」
 のんきすぎる反応だった。呆れて後ろを見れば、仲間たちからほほえみが返ってくる。
(……そういうことか)
 彼らは焦りがちなテリオンを落ち着かせようと、わざと気楽に会話していたのだ。オルベリクのおさえた笑い声が胸に刺さる。テリオンは照れをため息に変え、前に出た。
 一定の周期で動く魔導機の感知範囲から逃れつつ、木の陰や崩れた柱を利用して移動する。全員ついてきていることを確認する必要があるため、どうしても時間がかかった。
 やがて細い廊下に出た。もう魔導機はいないようだ。やっと人心地つく。
 息を整えたプリムロゼが、ふと傍らの壁に目を留めた。
「これ、何かしら」
 指を向けた場所は他と違って色鮮やかだった。古代の塗料が残っているようだ。他に色づいた壁はなく、そこだけ妙に目立っている。アーフェンは何歩か後ろに下がって、
「絵みたいだな。何が描いてあんだろ」
「小さい模様がたくさん集まってるみたいよ」
 プリムロゼが壁に顔を近づける。目的と関係のない雑談がはじまり、テリオンは舌打ちしそうになる。そんな彼をオルベリクが諌めた。
「テリオン、急ぐ気持ちは分かる。だが、おそらくサイラスもここで足を止めたはずだ」
 それを聞いてはっとした。意味ありげな遺跡に古代の壁画なんて、学者にとっては垂涎ものだろう。
 ならば彼の行方の手がかりでも残っていないものか――テリオンは何気なく壁画の中央を見て、ぎょっとする。
 鮮やかな赤と青の波の中心に、黒く塗りつぶされた四角があった。感覚で把握し脳で理解した瞬間、背筋が凍る。
(……あの門だ)
 そこにはテリオンが夢で見た門が描かれていた。おそらくは死者の魂が向かうべき場所――一度死にかけた時にくぐった門である。相当簡略化された絵だが、実物を知る彼には見事に特徴が捉えられていることが分かった。
 やはりあの門は夢の産物などではない。大陸のどこかに実在するのだ。古代の人々はそれを知っていたのだろうか?
 あらゆる音と気配が意識から消える。テリオンは食い入るように壁画を見つめ続けた。
「おいテリオン、大丈夫か?」
 アーフェンに肩を揺さぶられて我を取り戻す。いつの間にかテリオンは両のこぶしを強く握っていた。
「……悪い。先を急ごう」
 壁画の調査は後回しだ。四人は廊下を奥へ進んだ。
 突き当たりに部屋があった。扉はすでに朽ち果てたのか、間仕切り壁に四角い入口がぽっかり開いている。その向こうには眩しいほどの光が満ちていた。
 部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、時が止まったように感じた。
 宙に浮かぶ塵まで凝固したかのごとく、粘っこい空気が体にまとわりつく。なんだか息苦しかった。閉口して隣のオルベリクを見れば、彼も渋い顔をしていた。
「どうやら、部屋全体に魔法か何かが働いているようだな」
 そういった感覚に疎い彼やテリオンですら悟るほどである。しかし、罠という雰囲気でもないのが不思議だった。
 明るさに慣れてくると、部屋の全体像が明らかになる。おそらくここは書庫と呼ぶべき部屋だ。人の背丈の何倍もある本棚が壁際に並んでいた。棚にはぎっしりと本が詰まっている。
「うわ、なんだここ。先生が大喜びしそうだな」
 と言いつつアーフェンはふらふらと本棚に吸い寄せられた。アトラスダムでは図書館に寄ったというから、書物にはそれなりに興味があるのだろう。彼は近くの棚に手を伸ばした。
「わっ」
 刹那、弾かれたように本の背から指を離す。彼は呆然と自分の手を眺めた。
「どうした?」
「いや、見た目と違ってめちゃくちゃ硬いんだよこれ」
 テリオンは不審のまなざしで本棚とアーフェンを見比べる。横からプリムロゼが無造作に手を伸ばし、
「本当ね。この本、まったく動かせないわ」
 そんなことあるか、とテリオンも本を取り出そうとする。しかし無理だった。まるで凍りついたかのようにびくともしない。一行で最も膂力のあるオルベリクが挑戦しても駄目だった。
 よく観察すると、どの本も相当古びていた。中には触っただけで表紙と中身がばらばらになりそうなものまである。プリムロゼが首をひねった。
「大事なものだから、こうやって時を止めて保管しているのかしら」
「そんな魔法あるのかよ?」
「さあ。あるってことなんだろ、きっと」
 テリオンは気のない返事をした。学者も神官もいない以上、分かるはずがないという判断だ。
 三人はよほど本棚が気になるのか、あちこち調べはじめた。テリオンは彼らを置いて部屋の奥に向かい、別の通路を発見した。
 部屋を出る瞬間、膜のようなものを通った感覚があって、どろりとした空気から解放される。
 一息ついた直後、その声が聞こえた。
「サイラスさん。イヴォンの言う通り、あなたは本当に優秀な学者のようですね」
「……上辺だけの言葉は結構だ」
 ルシアと学者だ! テリオンは反射的に駆け出していた。
「心からの賛辞だったのですが……それが伝わらないとは残念です」
 断続的に聞こえるルシアの声を頼りに角を曲がると、そこには不思議な空間が広がっていた。
 天井の高い円筒形の部屋である。壁にはこれまた本棚がいくつも取り付けられていた。どの棚も無駄に背が高く、最上段の本をとるにははしごが必要になるだろう。ここも壁の一部が崩れて天光が差し込んでいた。
 部屋の中央には階段があって、ひときわ高い中心部へと続いている。学者たちはその上で会話しているようだ。テリオンは階段に足をかけようとして――
「うっ」
 見えない何かに弾かれ、勢いよく尻餅をついた。追いついたアーフェンに助け起こされる。
「平気かよテリオン」
 テリオンは答えず、食い入るように段の上を見つめた。学者たちの声が遠くなった気がする。うるさい心臓の音も相まって、うまく聞き取れない。
「学者先生は上だ。だが何かに邪魔をされた」
「なるほど、こういうことか」
 オルベリクが空中を剣で突くと、何もないはずの場所で叩き返された。どうやら階段の手前には透明な壁がそびえていて、テリオンたちの行く手を阻んでいるらしい。
 アーフェンがこぶしでどんと壁を叩く。
「先生! くそ、聞こえねえのか!?」
 その隣でプリムロゼが垂直の壁を確かめるように触った。
「どこかに抜け道があるのかも。壁に沿って回り込みましょう」
「よし、アーフェンとプリムロゼはそちらを探してくれ。俺はテリオンとここを破れないか試してみる」
 オルベリクが二人を送り出す横でテリオンは短剣を抜いた。すぐさま集中に入る。
「奥義なら破れるかもしれない」
「やるか」
 目で合図した二人は互いの守護神に祈りを捧げ、十分に離れた位置から同時に奥義を繰り出す。衝撃が重なって部屋を大きく揺らした。
 薬師たちの驚く声が部屋の反対側から聞こえた。だが、見えない壁はびくともしない。
(これでもだめか……)
 物理的な衝撃では壊れそうにない。となると、鍵となるものがあるに違いなかった。
 ふと、テリオンは記憶の底からある出来事を引き上げた。ノーブルコートにいたオルリックという学者は、竜石をおさめる研究室に封印を施していた。あれは特別な材質でつくった鍵を使わないと開かない仕掛けだった。
 今目の前にある透明な壁は、魔法陣や詠唱がなくとも持続する魔法らしい。ならば、あの水晶の鍵のように何かを触媒にしているのではないか。
 部屋の中には本棚の他にも実験器具のようなものがごちゃごちゃと置かれている。テリオンはすばやく周囲に目を走らせた。
「あれか!」
 飾り棚に安置されていたのは水晶の玉だ。以前、竜石を見た学者が「球形には魔力を増幅する効果があるのではないか」と話していたことが頭の隅にちらつく。
 テリオンは水晶に向かって短剣を振り下ろした。玉はあっさりと砕け散る。
 すると、透明な板があるかのように、階段の前の空間にぴしりと亀裂が入った。見えない壁の存在が明らかになったのだ。
「おおっ」「やるわね、テリオン!」
 部屋の反対側から薬師たちの歓声が届いた。
 壊れかけた壁にオルベリクが打ちかかる。だが今度も弾かれた。水晶ひとつではまだ足りないということか。
「どこかに同じものが隠されているかもしれない。アーフェン、プリムロゼ、水晶の玉を探すんだ」
 オルベリクの叫びに「了解」と返事がある。テリオンは周辺の探索を続行した。
 その時、壁の中から再び声が漏れ聞こえた。
「今、何か音がしなかったかな」
 学者だった。テリオンは思わず動きを止め、耳をそばだてる。
「気のせいです」
 ルシアは冷静に答える。表面上は二人とも穏やかに会話していた。テリオンがより聴覚に集中した途端、また聞こえなくなる。ルシアが何かしたのだろうか。
「テリオン、見つけたぞ」
 低い声がテリオンの意識を引き戻す。オルベリクの見つめる先、本棚と本棚の隙間にもう一つの水晶が隠れていた。
 剛剣が玉を割った。同時に空間の亀裂が深くなり、今にも壊れそうに壁が震える。
 これでもまだ足りないのか。いよいよテリオンの焦りが加速すると同時に、「こっちにもあったぜ」とアーフェンが声を上げる。
「……もう、結構です」
 壁の隙間から聞こえるルシアの声が、急激に曇りを増したようだった。
 斧が水晶を叩き割る澄んだ音が部屋に響いた。それと同時に、ルシアはぞっとするほど暗い嘆きを発する。
「あなたが私の手を取れば、こんな力は使わずに済んだのに……!」
 穏やかな光に満ちた部屋が、一瞬で赤く塗り替えられる。落日のような鮮烈な紅が階段の上から降り注いだ。
 ルシアが血晶石を取り出したのだ。空気が一気に張り詰める。
 その瞬間、壁が壊れた。飛び散っていく破片の中を、テリオンは真っ赤な光を目指して駆けた。
 光が収束すると同時に、上部の足場から何の前触れもなく黒いローブが宙に飛び出した。
 ゆっくりと落ちてくるその男に向かって、テリオンは手を伸ばした。ずっと胸に秘めていたその名を力の限り呼びながら。
「サイラス――!」

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