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落下地点を予測して滑り込むと、分厚いローブにくるまった体がテリオンを押しつぶすように降ってきた。
受け止めようとして失敗し、学者ごと床に倒れ込む。いつぞやとは反対に、テリオンが学者のクッション代わりになった。
アーフェンが駆け寄り、すばやく学者の体を引き受けて床に横たえる。
「先生! だめだ、気絶してる」
学者のまぶたはかたく閉ざされていた。外傷はなく、ぎりぎりでテリオンがかばったから頭も打っていない。それなのに、アーフェンが気付けのハーブを嗅がせても反応がなかった。
彼は階段の上でルシアの魔法を受けたのだろう。少なくとも化物になった秘書に殴られたわけではないようだ。
そういえばあの秘書は――と目を上げれば、階段を駆け上る剣士と踊子の後ろ姿が見えた。
この場はアーフェンに任せ、テリオンもそちらに向かうべきだ。ルシアが血晶石で変貌したら二人ではとても支えられないだろう。
そうと分かっているのに体が動かなかった。かすかに寝息を立てる穏やかな顔から目が離せない。ひととおり診察を終えたアーフェンがかぶりを振った。
「どこも怪我はしてねえし、頭も打ってねえ……どういうことだ」
「おたくでもどうにもならないのか」
「原因が分からねえと。さすがに魔法は専門外だからな」
オフィーリアがいれば、と彼は悔しげにつぶやき、気持ちを切り替えるように立ち上がった。
「テリオン、ここは任せるぜ」
「え?」テリオンはぼんやりと麦穂色の頭を見上げる。
「俺は二人を手伝ってくる」
上の足場から激しい戦闘音が聞こえてくる。死角になって見えないが、ルシアが青白い肌の化物に変化し、仲間たちを追い詰めているのだろう。
「何言ってるんだ、薬屋がいた方がずっと――」
「今のあんたが戦えるとは思えねえな。ひでえ顔してるぜ」
テリオンは思わずほおを触る。アーフェンはぎこちなく笑みをつくった。
「気持ちは分かるけど、先生が起きる前にその顔なんとかしとけよ。先生が見たら不安になっちまう。……多分、先生はあんたのそういうところが心配だったんじゃねえかな」
一体誰が何を心配していたのだろう。テリオンはろくに返事ができないまま、アーフェンの背を見送った。
意識のない学者に目を落とす。ベストに包まれた胸が静かに上下していた。案外何事もなかったように起き出すのでは、という楽観はすぐにかき消える。眠る学者はますます人形じみた顔で、生気が感じられなかった。テリオンはもうやめてくれと叫びたくなる。
この学者が弱っている姿を見ると、テリオンは平静でいられなくなる。ずっと前からそうだった。よりにもよって目の前で彼が傷つくのは、どうしても嫌だった。クオリークレストで学者を追って自ら水に飛び込んだのも、ストーンガードで彼にかばわれたと知って動揺したのも、元を辿ればそういう思いがあったからだ。
感情が焼き切れたようだった。テリオンは焦点を結ばない瞳で学者を見つめた。暗くなった視界に、小さな揺らめきが浮かぶ。
(……炎?)
学者の胸元に、今にも消えそうな灯火が宿っていた。ボルダーフォールの時と同じように、左目に映し出されているらしい。
その時、ノースリーチでオフィーリアが戯れに告げた言葉が蘇った。もし、聖火が誰の胸にも宿るなら――己の炎を誰かに分け与えることができるのなら。
テリオンは自分の胸に手を当てた。そこから取り出した不可視の炎を、学者の胸元にそっと置く。
体温を移すように片手を重ね、祈るような気持ちで目を閉じた。
*
まぶたの裏に眩しい光が差し込んだ。
ゆっくりと目を開ける。そこはウッドランドの遺跡ではなかった。
(……どこだ?)
テリオンは平原の真ん中に立っていた。朝露に濡れた下生えが金色に輝き、頭上には抜けるような青空が広がる。人工物はひとつも見えず、緩やかな起伏を持つ草原が地の果てまで続いていた。
(また夢でも見ているのか)
そんな場合ではないというのに。舌打ちしながら自分の姿を確認すると、近頃見る夢にしては珍しく、普段通りの背丈だった。
突っ立っていても仕方ないので、テリオンはあてどもなく歩き出した。
薫風が鼻をくすぐる。先ほどまでの緊迫感が嘘のように安穏とした雰囲気だった。フラットランドのどこかで似たような景色を見たかもしれない、と思う。
ゆるい坂をのぼって丘の上に立つ。と、視界の端に動くものを見つけた。
テリオンがいる丘の斜面を、一人の子どもが駆け下りていく。黒い髪を無造作に跳ねさせた男の子だ。テリオンは大股になって後を追った。
「おい、あんた」
小さな手首をつかまえる。振り返った子どもの顔を確認し、テリオンは絶句した。
「どなたですか?」
きょとんとしてこちらを見上げる子どもは、間違いなく学者サイラス・オルブライトであった。
後ろ姿では気づかなかったが、こうして対面するとひと目で分かる。どこからどう見ても子どもの頃の学者だ。少年からそろそろ青年に移り変わる頃――今の半分ほどの年齢だろうか? 子どもは仕立ての良い服を着ており、当然いつものローブは羽織っていなかった。
テリオンが答えられずにいると、彼は「失礼します」と言って身を翻す。
「あ……くそ、待て!」
テリオンは再び追跡をはじめた。今度は妙に相手の足が早く、半ば本気で走る必要があった。
もしや、テリオンの夢にまた学者が出てきたのか? ならば何故子どもの姿をしているのだろう。直近のボルダーフォールで見た夢では違ったが――
(いや、今思えばあれもおかしかったな)
テリオンは過去の姿だったにもかかわらず、学者は大人だった。今回はちょうどあの時と立場が反転しているわけだ。それは一体何を意味するのだろう。
考えごとをして歩が緩んだ。テリオンが我に返った時、子どもはずいぶん離れた場所を駆けていた。
しかも、彼の向かう先は明るい平原ではない。足元の草はいつしか枯れて、あたりは岩だらけの谷底となる。遠くに見える空が血のように赤く染まっていた。
いやに見覚えのある光景だった。戦慄が走り、テリオンはスピードを上げた。ここはまさか。
「やめろ、行くな!」
最後の一歩で距離を詰め、なんとか子どもの二の腕を掴む。
ごくりと喉が鳴る。今にも子どもが駆け込もうとする先には、あの巨大な石の門があった。壁画にも描かれていた例の門だ。今はぴたりと閉ざされているけれど、テリオンはその先を見たことがある。真っ暗闇で、恐ろしい何かが潜んでいて、二度と行きたくないと思った場所だった。
子どもは疑問のまなざしを向けてきた。
「どうしてですか? あそこに行けば全てが分かるかもしれないのに」
その瞬間、テリオンの脳裏に雷鳴が轟いた。
ここは自分の夢ではない。学者の夢の中だ。理屈は分からないけれど、あの炎を渡した時にテリオンの意識も一緒に入ってしまったらしい。
何故なら、子どもの頃の学者などテリオンは想像すらしたことがなかった。ボルダーフォールの夢に出た学者が大人だったのは、きっとテリオン自身の認識を反映していたのだろう。あれほど邪険に扱っておきながら、彼は学者のことをきちんとした年長者だと思っていた。皆を正しい道へ導く者だと信じていた。
だが、この子どもこそが学者の本質だったのだ。夢という無意識の中で、彼はきっと何年も前から成長できていなかった。
軽く息を吐いて衝撃を逃がす。一度に多くのことを悟り、思考が止まりかけていた。そうなる前に、テリオンにはやるべきことがある。
(今ここで止めないと、こいつは現実でも目覚めないんだろうな)
なんとしてでも学者があの門に向かうのをやめさせなければならない。だが、テリオンはそうするための正当な理由を持っていなかった。
ただ不安になるから、嫌な予感がするから、行ってほしくない。そんな言葉を相手が聞き入れるとは到底思えなかった。ここにいるのがオフィーリアや他の仲間たちならうまく伝えられたかもしれない。テリオンではだめだ。今まで学者とろくに会話してこなかったのに、いきなり「行くな」と言ったところで誰が耳を貸すだろう。
(でも……俺は諦めたくない)
この子どもはテリオンを仲間とすら認識していない。だからこそ、届く言葉があるのではないか。
腕を掴んだまま固まってしまったテリオンを、子どもは不思議そうに見つめる。その瞳にちらちらと不吉な赤が映り込んだ。
テリオンは腰をかがめて子どもと目線を合わせた。小さな両肩に手を置く。
「……なんであそこに行きたいんだ?」
なるべく柔らかく声をかけると、子どもはまっすぐに言った。
「どうしても知りたいことがあるんです。きっと、あの先に答えがあるんです」
それはもしや、彼の抱えた十五年前の事情に関わることではないか。テリオンはオデットの話を思い出しかけて、かぶりを振った。代わりにゆっくりと唇を動かす。
「残念だが、そこはあんたの思うような場所じゃないんだ」
「どうして分かるんですか」
「俺はあの門の先に行ったことがある」
「……本当に?」
断言すると、子どもは目を丸くした。好奇心にきらめく空の色は昔も今も同じだった。テリオンは若干複雑な気分でそれを見守る。
「どんな場所だったか教えてやってもいい。だが、それは目が覚めてからだ」
「目が覚めて……あ」
子どもは何かに気づいたように唇に指をあてた。その双眸に思慮深い光が宿る。
「だから早く戻ってこい、サイラス」
テリオンは穏やかに呼びかけた。無造作になびく黒い髪の上にそっと片手を載せれば、子どもは目を細める。
夢は終わりを告げ、視界は真っ白に塗りつぶされた。枯れた谷底も輝く平原も、すべてが遠くへ押し流されていく。
*
青空のような瞳が視界に入った。
「……テリオン」
血の気を取り戻した唇がかすかに動く。床に横たわった学者が――サイラスがこちらを見ていた。
ここはダスクバロウの遺跡だ。周囲は静寂に包まれている。テリオンは学者の体を起こしてから、階段を見上げた。
「行けるか」
「ああ、もう大丈夫だよ」
学者の表情は凪いでいて、夢で見た無邪気な少年の面影はどこにもない。彼はいつものようにローブの裾を払って立ち上がった。謎の眠りの後遺症はないようで、姿勢はしっかりしている。これなら戦わせても問題ないだろう。
「さあ、あの聞き分けのない子に……授業の時間だ」
サイラスは魔導書を小脇に抱え、テリオンは長剣を携えて、一気に階段を駆け上がる。
「なっ……」
頂上に広がる光景を見て二人は言葉を失った。
草の生えた円形の舞台の中心に、怪物となったルシアが立っている。イヴォンと違って頭部から長い髪が生えており、かろうじて人だった頃の名残が残っていた。
仲間の三人は全員地に伏せ、ぴくりとも動かない。意識を失うほどの大怪我はしていないのに、彼らはまぶたを閉ざし、悪夢でも見ているかのように表情に苦悶を刻んでいる。先ほどの学者ともまた違う状態だ。
「サイラス……どうやって戻ってきたのです」
ルシアは憎悪を帯びた声で問いかける。落日を思わせる赤い両目が二人をにらみつけた。
「彼らに一体何をしたんだ」
質問に答えず、サイラスは険しい顔をした。治療の心得がある彼を仲間のもとに向かわせようにも、当然ルシアが行く手を阻むだろう。今は下手に動けない。
「鬱陶しかったので呪いをかけただけですよ」
テリオンは油断なく身構えながら隣にささやく。
「辺獄の書の魔法か?」
「おそらくは。解呪できるかは怪しいな。先にルシアさんを倒した方がいいだろう」
どうやら彼はこの期に及んでもルシアへの敬称を取る気はないらしい。テリオンはひそかに呆れた。
ルシアは肥大した脳で考えを巡らせた結果、恨みがましい視線をこちらに向けた。
「なるほど、サイラスが復帰したのはあなたのせいですね。ストーンガードの時といい、いつも私の邪魔をして……!」
怨嗟の感情がびりびりと肌に突き刺さる。思えばテリオンは、この女がサイラスを毒牙にかけようとする場面を何度も妨害したわけだ。目の敵にされてもおかしくはない。
怪物の青白い手が握りしめられ、哄笑が上がる。
「いいでしょう。あなたたちには呪いをかけず、たっぷり時間をかけて殺してさしあげます!」
なんとも嬉しくない宣言だった。テリオンはため息をつく。
「あんたのせいで恨まれたんだが?」
「議論は後にしてくれ。前は任せたよ」
サイラスは軽く肩をすくめるだけだった。
返事はせず、鞘から長剣を抜き放つ。イヴォンと戦った時と同じように広めの間合いを保てば、一人きりでも少しは時間が稼げるだろう。ルシアは強靭な肉体による攻撃に加え、魔法も使ってくるはずだ。そんな相手にたった二人で勝てるのか――問題は山積みだがやるしかなかった。
二人は会話を交わすことなく作戦を決めていた。テリオンが戦線を支え、その間にサイラスが打開策を練る。テリオンの役割はとにかく負傷を避けて粘ることだ。
悠然と構えるルシアに正面から挑んだ。胸元の石を狙って突きを放つが、巨体に似合わぬ速さで避けられた。狙いが外れ、肩に剣が刺さる。テリオンはすぐに引き抜いた。確かに筋肉を切ったはずが、みるみる傷がふさがっていく。やはりイヴォンと同じ再生能力を持つらしい。
「いくら攻撃しても無駄ですよ」
ルシアは嘲笑とともに腕を振った。テリオンは上体をのけぞらせ、間一髪で避ける。体格の大きい相手とは幾度も戦ってきたが、血晶石で変貌した者は人間の知性を持つのが厄介だ。後ろでサイラスが叫ぶ。
「いいや、どんな呪法にも必ず限界はある!」
「血晶石の力を忘れたのですか? 完成した私の石は、イヴォンのものとは違います」
何を持って完成とするのかは不明だが、どうせ「倍の数の人間を犠牲にした」というような猟奇的な理由があるに違いない。そんなふざけた代物に負けるわけにはいかなかった。
サイラスの魔法が発動し、ルシアめがけて氷が降り注ぐ。すべてを凍りつかせるような氷嵐にテリオンの外套が激しくはためいた。しかし、風が去った後も怪物は平然とそこに立っていた。人間らしく勝ち誇った笑みを浮かべて。
「これも違うか」
小さなつぶやきが背後から聞こえる。彼はルシアの弱点を探り出そうとしているのだろう。冷静なのは助かるが、あまり悠長に調べている暇はなかった。
二人がかりで一気呵成に攻めても、ルシアを討ち取れるかどうかは怪しい。しかし持久戦に持ち込めば、その間にアーフェンたちの呪いが進行するかもしれない。テリオンは一瞬次の手に迷った。
「おや、もう諦めるのですか?」
ルシアの胸の石が光を放ち、闇色の炎が地面から立ち上った。「くっ」冷や汗とともに外套の裾を引き上げて体をかばうと、布の向こうからルシアのこぶしが叩き込まれた。脳が揺れるような衝撃があり、意識が遠のく。
「テリオン!」
体が面白いほど跳ね飛ばされた。階段から転げ落ちそうになり、テリオンはなんとか足場の縁を掴んで落下を免れる。被害は甚大で、全身が痛んでなかなか立ち上がれなかった。
こちらに駆けつけようとするサイラスを遮るように、ルシアが大きな腕を伸ばす。
「サイラス、この手を取る気はありませんか」
今更勧誘するつもりか! テリオンは歯を食いしばって体に力を込めた。
「私に勝てないことは分かっているのでしょう? これが最後の勧告です。私とあなたなら、ともに碩学王のもたらした高みを望むことができます。他の誰にもたどり着けないような場所へ行くことができるのです」
優越感に浸るルシアに対し、サイラスはきっぱりと首を振った。
「その考えには賛同できない。それに、あなたは私がどう答えても仲間の呪いを解かないだろう」
学者の声には憤りがにじんでいた。テリオンは少し意外な気分になる。
ルシアは高笑いする。
「仲間なんてくだらない。あなたを真に理解する人物なんていくら待っても現れないでしょう。同じ天才である私以外は!」
こんな話をするということは、ルシアは仲間たちの知らない学者の一面を見ていたのだろうか? そうだとしてもテリオンは反論したくて仕方なかった。が、殴られた腹部に呼吸を阻害されてしまう。
サイラスは一人きりで堂々とルシアに対峙した。
「ルシアさん、私はあなたとその絶望を共有するつもりはない。
未来に賭けることが愚かなら、私は愚か者でいい。だが一つ約束しよう。私はこの戦いを生き延び、辺獄の書を紐解いて、あなたとは異なる答えに至ってみせる」
魔導書を高く持ち、肩にかけたローブを翼のようにはためかせる。彼は涼やかな声でうたい上げた。
「人の未来には希望がある。そのことをあなたに教えてあげよう」
直後、無防備に伸ばしたルシアの手から鬼火が燃え上がった。
「くっ……!」彼女は腕を引っ込める。
火を放ったテリオンは息を詰めて立ち上がると、学者とルシアの間に割り込んだ。
「傷を癒やしたまえ――」
サイラスがすばやく回復魔法を唱える。清涼な光が痛みを鈍くした。ルシアは憎々しげに二人に視線を突き刺す。
「サイラス、あなたはどうしてこのような者とともにいるのですか? 彼らは決してあなたの話についてこられません。どれだけ教え諭しても無駄なのです。あのイヴォンだって私の足元にも及ばなかったのですよ」
静かに息をつく学者は、冷たい怒りを全身にみなぎらせていた。
「ルシアさん、私があなたの手を取れない理由はそれだよ」
テリオンは台詞を引き継ぎ、ルシアを挑発する。
「天才なのにそんなことも分からないのか? あんた、はっきり言ってあの学長と同類だぞ」
「なんですって……」
ルシアの全身がわなわなと震え、赤い双眸に憤怒が燃え盛った。
「あんたは結局、知識を自分だけのものにしたいんだろ。そんな考え、こいつが受け入れるはずがない。クオリークレストからずっと尾行してたくせに、一体何を観察してたんだか」
異形は怒りのあまり黙り込んだ。どす黒い視線を浴びて、テリオンはわずかに溜飲を下げる。舌戦ではこちらの方が有利らしい。
同じ天才であればサイラスのことが分かる、などというのは完全な思い上がりだ。テリオンなど、ルシアよりはるかに長い時間をサイラスと過ごしているのにこの有様である。そう簡単に彼のことを理解されてたまるものか。
ルシアは攻撃に移る様子がなかった。どうやら真剣に反論を考えているようだ。
「テリオン、怪我は大丈夫かい」
安堵の混じった声が後ろからかけられた。テリオンは正面に顔を向けたまま答える。
「なんとかな。それよりも策はないのか」
この男が血晶石対策もなしでルシアと対決しに来たとは思えなかった。背後でサイラスがうなずく気配がする。
「あの石は、犠牲になった人の血から魔力を作り出しているのだろう。つまり、無尽蔵に思える力にも限度はある。それを削りきればいいんだ。
キミは他人に魔力を与えることができた。ならば、奪うこともできるのではないかな?」
思わず肩越しに振り返れば、二つの視線が絡み合う。サイラスはテリオンの行使した力を――炎の受け渡しを正確に把握していた。
「そうだな。そっちの方が得意だ」
事実、生命力のやりとりであればノースリーチの時点でガーレス相手に成功している。ならば、と武器を短剣に持ち替えた。
「話し合いは終わりですか?」
ルシアが前に出る。とうとう反証を思いつかなかったのか、実力行使に訴えることにしたようだ。
「ああ。あんたとの会話も、そろそろ終わりだな」
テリオンは再びルシアに向かっていった。振り回す腕を避けながら、短剣による斬撃を幾度も浴びせる。サイラスは変幻自在に魔法を操り、ルシアを翻弄した。魔力切れが心配になったが、そこは自分でうまくコントロールしているようだ。
ルシアの肉体は傷をつける度に変貌する。あらぬ場所から新たな腕を生やし、彼女は歓喜の咆哮を上げた。
「素晴らしい、これが人智を超えた力……! 私はすべてを手に入れたのです!」
さすがのテリオンも嫌悪を感じた。が、恐怖は微塵も覚えない。彼らはルシアが見落とした勝ち筋を追っているのだ。ジリ貧に見える状況が巧妙に操作されたものであることに、相手はまだ気づかない。
サイラスを掴もうとする腕はテリオンの放った鬼火に邪魔され、テリオンを襲う闇色の炎はサイラスの呼び出した分厚い氷の壁が防ぐ。いつしか二人は合図なしで連携をとっていた。テリオンは学者の詠唱を聞く前に次の魔法を悟ることができた。
短剣がまたルシアの肉体を切り裂く。すかさず放った二撃目で、切っ先を深く突き刺した。ルシアは腕を引いたが、その傷が塞がらない。
「これは……!?」
怪物が愕然としたようにつぶやく。短剣でつくった傷から地道に魔力を奪い続けた結果がこれだ。テリオンは鈍くなった攻撃をくぐり抜けると、相手の腕を足場にして駆け上がった。空中に飛び出し、跳躍の頂点で胸の石に思い切り短剣を叩きつける。巨体がよろめき、大きな隙ができた。
着地した彼はすぐさま反転し、サイラスに駆け寄った。
「受け取れ!」
二人は伸ばした手を叩き合う。触れた一点からサイラスへと魔力が受け渡された。
「碩学王アレファンよ――」
魔導書を掲げた学者はまぶたを閉じて、己の守護神の名を呼んだ。
崩れた天井から覗く空に黒い雲が生まれる。経験したこともないほど強大な魔力が部屋に渦巻いた。天候を操る力に、テリオンも、ルシアでさえも立ちすくむ。
「雷鳴よ、轟き響け!」
エレメントブースターによって増幅された魔力は天から大きな雷を落とし、ルシアの体を一直線に貫いた。
テリオンは反射的にまぶたを閉じた。視界は白く塗りつぶされ、焦げくささがあたりに満ちる。煙が晴れると、ルシアが両膝をついていた。半壊した体はもう戻らない。サイラスは、残った血晶石の力をただの一撃で削りきったのだ。
化物の体が崩れ落ちていく。彼女は切れ切れに言葉を発した。
「わ、たしは……えいえん、に……まなび……」
サイラスは瀕死のルシアに向かって歩いていく。以前イヴォンに無防備に近寄って吊り上げられたことがあったので、テリオンは彼のフードを掴んで立ち止まらせた。
のけぞったサイラスは息を吐き、魔導書を閉じる。
「その知識への執着だけは素直に尊敬するよ、ルシアさん。残念なのは、あなたの想いを後世に残してあげられないことだけだ」
もっと他に残念がることがあるだろう、とテリオンは思う。相変わらず甘いのか厳しいのかいまいち分からない男だ。
身に余る力を使った代償のように、ルシアの体が塵となって消えていく。この旅で何度か見た光景だった。
生命が断たれる直前、彼女は何かをつぶやいた。テリオンは聞こえなかったが、サイラスの耳には届いたらしい。彼は一瞬動きを止めた。
知識を求めた化物が消えた後、焦げた草の上に一冊の本が残る。サイラスはそれを拾ってひとりごちた。
「そうか……もしかして、あなたは私に理解してほしかったのか」