種を蒔く人



「ふわあ……先生? あれ、俺寝てたのか」
 草の上に体を起こしたアーフェンは、学者を視界に入れてあくびをした。テリオンが横から近寄り、容赦なくそのほおを叩く。
「わ、何すんだよ!?」
 アーフェンは目を白黒させた。これで眠気は吹き飛んだだろう。
「寝ぼけてる暇はないぞ。他の奴らの様子を見てくれ」
「すまないねアーフェン君、一応目覚めさせることはできたのだが、私ももう魔力がなくて……」
 サイラスが申し訳なさそうに眉を下げる。
 ルシアの呪いから解放されても、仲間たちはぐったりしたままだった。そのため学者が復活魔法によって意識を引き戻し、残った力でアーフェンを重点的に治療したのだ。テリオンの魔力も全て渡してしまったので、もう何もできない。
 幸いにも優秀な薬師はすばやく我に返った。
「そっか、俺たちルシアに眠らされて……すぐ手当てするぜ。てか先生こそ目が覚めたんだな」
「テリオンが起こしてくれたんだ」
 サイラスはにっこりする。へえ、とアーフェンが意味深な視線を寄越したので、テリオンはすごんでみせた。
「早く他の二人を治してやれ」
「分かってるっての!」
 彼は未だに意識と無意識の間をさまようオルベリクとプリムロゼの元に向かった。
 その背を見送ったサイラスは、手の中の本に目を落とす。
「それが辺獄の書か」
「ああ。やっと手に入れることができたよ」
 彼は大事そうに表紙をなでた。オデットの話では、この本によって多くの人々が犠牲になったらしい。テリオンは空恐ろしい気分になる。だが、サイラスにとっては特別な価値があるのだろう。
「で、これからどうするんだ」
「ここに来る途中で通ったあの書庫を調べたいんだ。今なら魔法が解除されているかもしれない。本棚には古代ホルンブルグ語の辞典があったから、辺獄の書の解読にも役立つだろう」
「分かったが、後にしろ。村に帰るのが先だ」
「もちろん」
 と答えたサイラスは、まぶしそうに目を細める。
「その前に、私はキミに謝罪と感謝をすべきだろうね」
「……そういうのは全員集まってからやれ」
「いや、今ここできちんと伝えておきたいんだ」
 学者の押しの強さにテリオンはうろたえた。
 思えばサイラスとまともに会話するのは久々だった。無我夢中だった戦闘が終わり、こうして落ち着いた状態でいざ向き合うには、まだ心の準備ができていなかった。
 学者の唇が開きかけた時、鈍い音とともに部屋全体がずしりと揺れた。
「今の音、なんだ……?」
 プリムロゼを助け起こしたアーフェンが怪訝そうな声を発した。
「様子を見てくる。おたくはここにいろ」
 テリオンは再び鞘から短剣を抜いて、サイラスとともに階段を駆け下りた。その途中で音の正体に思い当たる。
「魔導機でも攻めてきたのか」
「魔導機? 私が通った時にはいなかったが」
「その後にルシアが配置したんだろ」
 おそらくはサイラスの退路を断つために。そうであれば、ルシアの死後も作動するように仕組まれていてもおかしくない。
 床に降りた二人は異様な気配を悟った。行きは気づかなかったが、部屋の入口に魔法陣が描かれていたのだ。陣は脈打つ赤光を発し、そこからぬうっと巨大な影が現れる。
「赤兵……!?」
 二人はそれぞれ息を呑んだ。古代遺物の中でもとりわけ厄介な代物で、魔導機と同じように魔力で動く巨人である。これもルシアの置き土産に違いない。
「あれは転移、いや召喚の魔法陣だろう。私たちの帰りに呼び出されるよう仕掛けていたのか」
 悠長に解説するサイラスを置いて前に出ると、巨人はテリオンに容赦なく火を放った。避ける間もなく全身があぶられる。思わず息を吸ってしまい、肺が焼けるように痛んだ。
「テリオン……!」
 慌ててサイラスがブドウを差し出すが、咳き込むテリオンには受け取る余裕もない。そろそろ疲労も頂点というタイミングでの強襲である。進退窮まったテリオンが、最後の望みをかけて盗公子の力に頼ろうとした時――
「氷よ、切り裂け!」
 元気な声とともに冷気が走り抜けた。巨人の体に氷柱が生え、今にも発動しそうだった炎の魔法がぴたりと止まる。
「二人とも大丈夫!?」
 巨人の背後から駆けつけたのはトレサだった。半分凍った巨人がぎこちなくそちらを振り返る。
「今回復します!」
 続いてかつんと杖を突く音が響き、癒やしの波動が広がる。テリオンの体がふっと軽くなった。おかげで顔を見ずとも援軍の正体が分かった。
 振り下ろされる巨人の腕をしなやかにかいくぐり、雪豹がテリオンたちの元に駆けつける。
「行け、リンデ!」
 凛々しい号令を受けた四足の獣が巨人を威嚇した。その隙に、ハンイットがよく狙いをつけて巨人の関節に斧を叩き込む。
 何色もの魔法が炸裂し、弓矢や斧が飛び交う。テリオンとサイラスが呆然として見守るうちに、赤兵は崩れ去った。
 ボルダーフォールで別れた三人――神官、商人、狩人が戻ってきたのだ。彼女らは安堵の表情で走ってくる。
「先生、無事だったのね!」
 トレサは勢い余ってサイラスに飛びついた。貧弱な彼はよろけながらもしっかり受け止め、ほおを緩める。
「心配をかけてしまったね、トレサ君」
「本当よ。もう迷子になっちゃだめよ!」
「迷子ではないのだが……」
 サイラスが困った顔になったので、トレサはしてやったりとほほえんだ。
 テリオンはその脇を通り抜け、オフィーリアたちに近寄る。
「助かった。恩に着る」
「いえ、テリオンさんもご無事で良かったです」
 神官は笑顔を固定したままあたりを見回した。
「それで、今はどういう状況なんだ」
 ハンイットがずばり尋ねる。その時、騒ぎを聞きつけたアーフェンたちが階段を降りてきた。剣士と踊子はなんとか自力で歩けるまで回復したようだ。
「おっ! オフィーリアも着いたのか」
「お久しぶりですアーフェンさん」
 これで全員集合だ。八人は輪をつくって再会を喜びあった。最後に駆けつけたオフィーリアたち以外は満身創痍もいいところだが、皆表情は晴れやかだった。
「あたしたちはダスクバロウの村長さんから話を聞いて、みんなを追いかけてきたの。でも……もしかして、もう全部終わっちゃった?」
 不満げに唇を曲げるトレサへ、サイラスが例の本を見せた。
「そうだね、辺獄の書はここに。事件の黒幕はルシアさんだったよ」
 えーっと商人から文句が上がった。脳天気な反応に、テリオンは気が抜ける思いである。
「トレサ、気持ちは分かるがあまりすねるな。みんな無事だったのだから」
「あの巨人を倒してくれただけでも大助かりだったよ、トレサ君」
 ハンイットがほっとしたように息を吐き、サイラスが穏やかに感謝する。その横でオフィーリアは具合の悪そうな踊子と剣士に声をかけていた。雑談は延々と続きそうだったので、
「話は後だ。さっさと戻るぞ」
 テリオンは無理やりその場をまとめた。仲間たちは何故か苦笑を交わし合う。
 まだ他の罠が残っている可能性もあるのだから、早めに離脱すべきだろう。オルベリクもうなずいていた。
 仲間たちは一斉に移動をはじめた。それにならって足を運びながら、トレサがどこか不安そうに学者を見上げる。
「先生……宿に戻ったら、いろいろ聞かせてもらえるのよね?」
 押し殺した声を耳に入れ、テリオンはどきりとした。うっかり流されかけていたが、学者が単独行を選んだ理由はまだ明らかになっていない。
「もちろんだ。結局こうしてみんなを巻き込んでしまったのだから、きちんと説明するよ」
 返事を聞いたテリオンの胸に雲が湧く。
(俺たちはこいつに巻き込まれたのか……?)
 黒くわだかまる疑問を抱えたまま、歩を進めた。
 帰路の途中にはあの書庫がある。「後にしろ」というテリオンの忠告はどこへやら、サイラスは足を弾ませて本棚を目指した。
「おや」
 背表紙に指をかけ、彼は微妙な角度に眉を上げた。テリオンは隣に並んで「残念だったな」と鼻で笑う。
 学者の期待に反して本棚の時は止まったままだった。プリムロゼが硬い背表紙をこつんと指で弾く。
「これもルシアの魔法よね?」
「おそらくは。もしかすると、辺獄の書に解除方法が記されているかもしれない。だが古代ホルンブルグ語の解読には時間がかかるな……」
 彼はあごをなでて考え込む。
「サイラス、今はどうにもならないのだろう? ひとまず帰って休むべきではないか」
 ハンイットの真っ当な指摘を受け、彼は渋々といった様子で書庫を出た。
 粘る空気から脱出し、大きく息を吸う。学者にとっては楽園のような場所だろうが、テリオンには埃くさい部屋としか思えなかった。
 続いて細い廊下を抜ける。途中でトレサが例の壁画を指さした。
「ねえ先生、この絵って何?」
 テリオンはやや緊張しながら隣の男を眺めた。壁に描かれた門は、きっと夢の中で子どもの学者が目指していた場所だ。彼は「そこに答えがある」などと不穏なことを口走っていた。
 学者は立ち止まり、トレサに理知的なまなざしを注ぐ。それは教師としての視線だった。
「確実なことはまだ分からない。だが、ルシアさんも同じ壁画を見たことは確かだ。彼女はこれが何のために描かれたのか、答えを出していたのだろう」
 サイラスはそこで一呼吸置いた。
「同じ知識も扱う者によって用途や目的が異なるように、この壁画から読み取る意味も人によって違うものになる。あの書庫が解放されたら、私は自分の力でこの壁画を読み解きたいんだ」
 あなたとは異なる答えに至ってみせる、という宣言の通りに行動するつもりらしい。ルシアに対するある種の誠実さだろう。
 壁画の前を過ぎてしばらく行った頃、アーフェンが不意に声を上げた。
「そういや先生、ルシアとどんなことを話したんだ?」
「ええと……」
 サイラスは珍しく言葉に詰まった。そこにテリオンが割り込む。
「別にいいだろそんなこと。それより、オフィーリアに頼みがある」
 無理やり話題を転換すると、オフィーリアは「なんでしょう」と小首をかしげた。
「あの女の呪いか何かで、俺以外の全員が一回倒れてる。宿に戻ったら診察してやってくれ」
「ええっ! みんな大丈夫なの?」
 トレサが仰天し、オフィーリアも目を丸くした。アーフェンはほおをかきながら、
「呪いはルシアを倒したら解けたし、先生の気絶はテリオンが治してくれたんだよ。でも一応診察は必要だな。俺からも頼むぜ」
「まあ、テリオンさんが……」
 オフィーリアは意味ありげな笑顔をこちらに向けた。テリオンは思わず顔を背ける。
「くわしい話は後にして、先を急ぐぞ」
 オルベリクの鶴の一声があった。テリオンは生ぬるい視線から逃れるように率先して前を歩く。
 行きの道中で避けて通った魔導機たちはすべからく機能を停止していた。というのも、先を急ぐハンイットたちが容赦なく潰したらしい。おかげで帰りはスムーズだった。
 やっとのことで遺跡の外に出ると、夕暮れ時の涼しい風が吹き抜けた。八人はそれぞれ息をつく。
 ルシアの悪意が張り巡らされた空間だった。こんな場所に一人で挑んだサイラスは無謀としか言いようがない。今更それを悟ったのか、本人は黙りがちになっていた。
 遺跡群を抜けて小道を歩く。その途中、テリオンたちの帰りを待ち構える人物がいた。
「あ、村長さん」
 トレサが気まずそうに学者の影に隠れた。村長は白い眉毛を上げて、
「勝手に遺跡に入られては困るのう」
 当然の抗議だった。テリオンたちはルシアと違って、許可も取らずに貴重な遺跡を荒らしたのだ。すかさずサイラスが一歩出る。
「申し訳ありません。彼らには私の研究を手伝ってもらっていまして」
「あんたもアトラスダムの学者じゃったな」
 その肩書を信じたのか、村長はそれ以上詮索しなかった。
「で、ルシアさんは見つかったんじゃな?」
 サイラスはぐっと言葉に詰まる。昼間、彼は「ルシアを探している」という方便を使って村長から遺跡の場所を聞き出した。しかし彼女はもう――
「いいえ……どうやら来ていないようでした」
 かぶりを振る彼を、仲間たちは固唾をのんで見守る。
「そうか。今度会ったら質問したいことがあったのじゃが……」
 村長は心の底から残念そうにしていた。村人にとってはあの女もただの真面目な学者だったのだろう。
 サイラスは伏し目がちに尋ねる。
「……あなたから見て、ルシアさんはどのような人なのですか?」
 声に含まれた切実さに、テリオンはごくりと唾を呑んだ。村長は少し考えてから答える。
「寂しそうな人、じゃったな」



 ダスクバロウの宿に着くと、さっそくオフィーリアによる診察がはじまった。最初に薬師、踊子、剣士の三人がまとめて部屋に呼ばれる。仲間たちはやきもきしながら結果を待った。
 しばらくして、部屋から出てきた神官は笑顔とともに「呪いの後遺症は見受けられませんでした」と告げた。トレサなどは大げさに喜んでいた。
 学者は最後に一人だけ――否、何故かテリオンまで一緒に呼ばれた。
「意識を失っていた時、サイラスさんはどのような様子でしたか」
 診察室と化した部屋で、椅子に腰掛けたオフィーリアはまずテリオンに尋ねた。横で学者本人が興味津々で聞いているため、非常に話しづらい。なるべく横を見ずに答えた。
「普通に寝ているようだった。そうじゃないのはすぐに分かったが。殴っても起きない雰囲気だったな」
 もちろん殴ってないぞ、と言外に含ませる。オフィーリアはテリオンの意図を汲み取ってほほえんだ。
「サイラスさんにはその間の記憶がありますか?」
「ううん……ルシアさんに魔法のような攻撃を受けたことは覚えているよ。血晶石から光が出たと思ったら、いきなり意識が飛んでしまった。そこから先は覚えていないな」
 やはりあの夢のことは認識していないようだ。その方が都合がいい。テリオンが必死になって紡いだ言葉など、あまり真剣に思い起こされても困る。
 オフィーリアは首をひねった。
「他の皆さんの受けた呪いとは違うようですね。もしかすると、サイラスさんはルシアさんに魔力を奪われたのでは? 特にサイラスさんは他の方よりも魔法に頼ることが多いですから、同時に精神にも大きなダメージを受けたのかもしれません」
 その推理にサイラスは膝を打った。
「やはりそうか。意識を失う直前に脱力するような感覚があったのは、魔力を抜かれたからだね」
「わたしは黒炎教の調べを進める過程で、精神破壊という危険な術の存在を知りました。相手から一気に魔力を奪い去る効果があるそうです。ルシアさんが使ったのはそれではないでしょうか」
 テリオンは疑問を挟む。
「つまりルシア……いや、辺獄の書とマティアスは裏でつながっていたのか?」
 白黒の衣装をまとう二人は気まずそうに顔を見合わせた。テリオンは眉間にしわを刻んで、
「説明はいらない。話はだいたい聞いてる」
 おそらくこれも「隠しごと」の一部だろう。どうやらテリオンは本格的にのけものにされていたらしい。
「その件については確証がとれたら話すよ」
 とのたまうサイラスに、思わず疑いのまなざしを向けた。オフィーリアが苦笑して話を戻す。
「精神破壊を受けた人は、魔力を取り戻さない限り目覚めないのかもしれません。もしかして、テリオンさんはご自分の魔力をサイラスさんに分け与えたのでは?」
「ああ、きっとその通りだろう」
 大きく首肯するサイラスは、ルシアとの戦いの時点で確信を持っていたはずだ。
 一方でテリオンは狼狽する。未だに自分でもうまく整理できない話だ。しかし、この二人なら何か答えを導けるのではないか。そう考え、思い切って打ち明けることにする。
「炎が見えたんだ」
 オフィーリアが察したようにうなずき、サイラスは瞳を大きくした。テリオンは蔓草模様の描かれたベストを指さす。
「あんたの胸のあたりに。それが消えそうになってたから、自分から移したんだが……」
 支離滅裂な話であることは承知しているので、言葉が尻すぼみになってしまう。するとサイラスは満面に笑みを浮かべた。
「そうか、盗公子の逸話だ! これはエベル神に感謝しなければならないね」
 何やら一人で勝手に納得している。テリオンはじろりと彼をにらんだ。
「クオリークレストで祠に寄った理由はそれだな」
「そうだけど、もしやキミたちもあの町へ……?」
「そのあたりの事情はまだお話ししていませんよね。みなさんがそろっている時に情報を交換しませんか?」
「ああ、そうしよう。トレサ君に頼まれた通り、私からすべき話もたくさんあるからね」
 サイラスは元気に立ち上がった。
 果たして彼の口からはどんな説明が出るのだろう。テリオンは幾ばくかの不安とともに、秀麗な横顔をじっと眺めた。



 事情の説明は、宿の食堂で夕食をとりながら行うことになった。
 ダスクバロウには酒場が一軒しかない上、本格的な食事は扱っていないという。そのため、旅人たちは必然的に宿で食事することになる。ここの主人は料理に凝っているようで、地場で取れた木の実や森の獣がメニューに並んだ。故郷の味に近いのか、ハンイットは満足そうに口を動かしている。
 程よく茹でられた青菜を咀嚼し、サイラスがおもむろに話を切り出した。
「今日は本当にありがとう。みんなには迷惑をかけてしまったね……」
「そうよ、ストーンガードでテレーズさんを困らせた時とまるで変わってないじゃない」プリムロゼが厳しく咎めた。
「返す言葉もない……」
 学者はうなだれた。しおらしくされると、誰もそれ以上文句を言えなくなる。
「どうして一人でここに来たのか説明しなければならないね。だがその前に、みんながこの村を見つけ出した経緯を教えてもらえないかな」
 これから仲間に吊るし上げられる予定の人物が、あべこべに質問してきた。このあたりはさすがと言うべきだろう。
 オフィーリアは穏やかに答えた。
「わたしとハンイットさん、トレサさんはあの魔法陣でアトラスダムへ行きました。そこでテレーズさんにダスクバロウのことを教えてもらったんです」
「俺たちはクオリークレストで、オデットさんから多分ここじゃないかって聞いたんだよな。ルシアはだいぶ前からこの村に通ってたんだろ?」アーフェンが得意げに言う。
「なるほどね、どちらも知り合いからの情報だったか」
 サイラスは何度もうなずく。テリオンはエールの泡をなめながら、少し椅子を引いてその様子を眺めていた。
「ならばおおよその足取りは分かっているのだろう。まず、私はボルダーフォールから魔法陣を経由してアトラスダムに飛んだ。あの町には以前帰った時に陣を描いていたから、こちらから『入口』を描けばすぐだったよ」
 彼は故郷の町でルシアの居場所を知り、テレーズからエレメントブースターを借り受けた。その後ボルダーフォールまで戻ったかと思うと、今度はクオリークレストへ足を伸ばしたという。
「先生は魔法陣を使って帰ってこられたのよね。なんであたしたちの時は一方通行だったんだろう?」
 トレサが純粋な疑問を発した。サイラスは思案顔になる。
「そうだったのかい? 風雨にさらされて陣が途切れてしまったか、周囲のエレメントが不足したのか……まだまだ研究すべきことは多いな」
 どうやら単純な事故だったらしい。「もしや時間稼ぎのために帰り道を塞いだのでは」というテリオンの読みは外れたわけだ。
 オルベリクが説明を引き継ぐ。
「そしてクオリークレストではオデット殿に挨拶して、盗公子の祠に参り、最終的にダスクバロウへ向かったのだな」
「そのとおりだよ」
 テリオンは脳内の地図に今聞いた経路を描き出す。大陸の北半分をほとんど網羅するような線が引けた。改めて、こんな常識はずれな旅路によく追いつけたものだと思う。
 すると、黙って聞いていたプリムロゼが眉を跳ね上げた。
「あなたの行動はよく分かったけど、理由はまだ言ってないじゃない。私のことを引き止めておいて、一人で出ていくなんてありえないって理解してるわよね?」
 緑の目が据わっていた。これは本気で怒っている証拠だ。しかしサイラスは苦笑を深めるだけだった。
「私がアトラスダムに戻ったのは、ルシアさんの残したメッセージを読み解くためだ。以前トレサ君たちと帰った時に見つけたのだが、限られた時間では解読できなくてね。今回読み込んだ結果、ダスクバロウまで一人で来るように書いてあったから、そうしたまでのことだ」
「えっ」「はあ?」
 仲間たちは驚きの声を上げた。
「いや、罠だって思わなかったのかよ」あのアーフェンすら呆れ返っている。
「だからといって、辺獄の書を取り戻す機会を逃すわけにはいかないだろう」
 サイラスは真っ向から反論した。ハンイットが鋭く目をすがめる。
「ならば、どうしてそれを説明しなかったんだ。わたしたちが伏兵として一緒にダスクバロウに潜入しても良かっただろう?」
 実際ウィスパーミルでは似たような作戦をとったわけだから、確かに不自然だった。サイラスは眉を下げて、
「……正直、キミたちがついてくるとは思わなかったんだ」
「普通追いかけるわよ! いきなり先生がいなくなってびっくりしたのよ。理由も分からないし、テリオンさんなんか見たこともないくらい落ち込――わっ」
 テリオンはトレサの頭から帽子を取り上げた。「返してよ」と伸びてきた手からさらに遠ざけてやる。サイラスは怪訝そうにそれを眺めてから、座ったまま深々と頭を下げた。
「今回の件については、本当にすまなかったと思っている」
 オルベリクは諦めたようにかぶりを振る。
「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ」
 彼は椅子の下に置かれた鞄に視線を落とした。そこに辺獄の書が入っている。万が一のことを考えたのか、彼はあの本をずっと持ち歩いていた。
「そうだね……しばらくダスクバロウに滞在して、あの壁画を解読するよ。本来ならば一刻も早くアトラスダムに辺獄の書を持ち帰るべきだろうが、この宿題だけは片付けたいんだ」
「それ、あたしたちも手伝うわ!」
 トレサの勇んだ提案に、サイラスは首をかしげた。
「手伝う?」
 テリオンはのんきな声色に不吉な予兆を感じた。学者は不思議そうに目を開いて、
「みんなの目的はすでに達成されただろう? そこまで付き合ってもらわなくてもいいよ。私たちの旅はここで終わりなのだから」
 一瞬にして食堂の空気が凍りついた。テリオンの頭にかっと血が上る。
 ――もしかしてこの男は、仲間の目的がすべて終われば即座に解散だと決めつけて、別れも告げずに一人でここまで来たのか。そうと仮定すれば、「仲間を巻き込んだ」「追ってくるとは思わなかった」という発言にも筋が通る。
(そんなの勝手すぎるだろ)
 テリオンはジョッキの底で卓を叩いた。天板が揺れ、空になった皿が耳障りな音を立てる。
「ふざけるな」
 自分でも驚くような大声が食堂を揺らした。仲間たちがびっくりしたようにこちらを振り向く。テリオンはふつふつと煮えたぎる怒りを抑えられず、サイラスをにらみつけた。
「そんな理由、俺は認めない。いい加減にしろ」
 今の話が学者の本音だとは思えなかった。いや、思いたくなかった。それ以上言葉が出なくなったテリオンは、勢いよく立ち上がって食堂の出口に向かう。
「テリオン!?」
 困惑した声が背中を叩いたが、構わずその場を後にした。サイラスの反応すら確かめなかった。
 宿を出て夜の村を横切り、近くの森に入る。あたりは真っ暗だった。わざと足音を立てながら草を踏み荒らし、しばらくして立ち止まった。
 木々の呼気を浴びるうちに、多少頭が冷えてくる。こみ上げてきたのは自嘲だ。
(……ガキか、俺は)
 サイラスの返事が気に食わず、怒って逃げたわけだ。だが、それほどまでに今の発言は受け入れられなかった。
 背後から何者かの足音が迫る。ランタンの光が近づき、周囲を照らした。
「テリオンさん」
 オフィーリアの声だ。ゆっくりと振り向いた先に、明かりを持った彼女が白く浮かび上がった。どうやって居場所を探り当てたのかと思えば、傍らには雪豹リンデが寄り添っていた。
「悪かった」
 反射的に謝ったのは相手が神官だったからだろう。学者本人であれば絶対に頭を下げなかった。
 オフィーリアは小さく笑う。
「いえ、わたしも同じことを思っていましたから。テリオンさんが先に言ってくださって、すっきりしました」
「あんたもか?」テリオンは軽く目を見開く。
「もちろんです」
 凛とした声には少なからず怒りの成分が含まれていて、テリオンは背筋が寒くなった。この神官を立腹させるなんて、学者は怖いもの知らずにも程がある。
「で、俺に何の用だ。あいつと仲直りしろとでも言いたいのか」
「いいえ。わたしはあなたのお手伝いをしに来ました」
 瞬きするテリオンに、オフィーリアは言葉を続けた。
「あなたの気持ちを整理するお手伝いです。テリオンさんは、どうして『認めない』とおっしゃったのですか?」
 話しながら彼女は手近な倒木に腰掛けた。テリオンも横に座る。
 要するにオフィーリアは、自分の気持ちを言葉にすべきだと言いたいのだろう。いい加減テリオンもその重要性には気づいていたので、じっくり考えた。膝に置いた手に力がこもる。
「あいつが言ったことは本心じゃない。俺がそう思いたいだけかもしれない。多分俺は……もっと別の言葉を期待してたんだと思う」
「そうですね、わたしもそうです」
 力強い同意が返ってきた。だからこそテリオンは素直に打ち明けられた。
「このまま旅が終われば、あいつと最後までろくに話ができないままだ。それは嫌なんだ」
 サイラスが一方的に仲間を遠ざけるような発言をするのが我慢ならなかった。テリオンがそれを不快に感じることを、学者に知ってほしかった。
 どうにかして相手の心を覗きたい、自分の気持ちを分かってほしい。それは誰かとの交流の入口となる衝動だ。しかし、今までのテリオンとサイラスの間にはそれすらろくに成立していなかった。
 オフィーリアはつぼみがほころぶように表情を緩める。
「それをサイラスさんに伝えればいいんですよ」
「分かってはいるんだがな……」
 テリオンは嘆息した。いざ学者と話そうとすると、いつも余計な感情が邪魔をする。今までまともに向き合ってこなかった分、真正面から対峙するのが気恥ずかしいのだろう。
 だが、テリオンはそれを乗り越えようと決めた。あの不思議な夢でサイラスの秘めたる願いを知ったことは、ただのきっかけに過ぎない。もっと以前からそう望んでいたのだ。
 オフィーリアは虚空に向かってつぶやく。
「今のサイラスさんはきっと動揺しているのでしょう。ルシアさんと戦って辺獄の書が見つかって……様々なことが重なったせいで、心にもないことを言ってしまったのではありませんか」
「でも、先生はそれが自分の本心だって信じてるのよね」
 困ったように言ったのは、草を踏み分けてやってきたトレサだ。テリオンの耳は少し前から「彼女たち」の足音を拾っていた。
「それが厄介なところだな」
 同じくハンイットが追従した。彼女は暗闇の中でテリオンに向かって何かを差し出す。
「テリオン、まだ食事の途中だっただろう。これを」
「助かる」
 どうやら果物らしい。夕食は半分ほどしか食べていなかったので、ありがたくかじりつく。プラムの甘酸っぱさが口の中に広がった。
「他のみなさんは?」
「あのね、今食堂でプリムロゼさんが先生をお説教してるの」
「ものすごい剣幕だったぞ。わたしたちは追い出されてしまった」
 ついに踊子が爆発したのか。苛烈な性格の彼女のことだ、そうなって然るべきだろう。
 アーフェンとオルベリクをそばに残したということは、プリムロゼはいざという時に力づくで自分を止められる人材を選んだようだ。テリオンは「抜けてきて正解だったな」と思った。
 だが、踊子がどれほど糾弾してもサイラスがあの発言を撤回することはないだろう。それはテリオンにも容易に予想がついた。
 ハンイットはランタンの明かりの下でにやりとする。
「それにしてもテリオン、よくあそこまではっきり言うようになったな」
「ねー。びっくりしたけど、ちょっと嬉しかったわ」
「なんでお前が嬉しがるんだ」
 憮然として尋ねると、トレサはにいっと笑う。
「えへへ、知りたい?」
「……やっぱりいい」
 きっとテリオンにとって不都合な理由だろう。彼は立ち上がり、肺の空気を絞り出して気持ちを切り替えた。
「協力してほしいことがある」
 女性陣に深々と頭を下げる。
「俺はあいつの本心を聞き出したい。一人でここに来た本当の理由が知りたいんだ。だから、どうやったらちゃんと話ができるか、一緒に考えてほしい」
 三人が顔を見合わせる気配がする。テリオンがとっさに発言を撤回しようとした時、
「もちろんよ!」
「頼ってくださって嬉しいです」
「相談ならいくらでも乗るぞ」
 快諾が返ってきた。助かった、という気分でおもてを上げる。
 先ほどまで腰掛けていた倒木を三人に譲り、テリオンは立って話を聞く姿勢になった。リンデは少し離れた場所で女性たちを守るように座っている。
「相談の内容は分かった。だがテリオン、あなたがサイラスに聞きたいことは、それとは違うのではないか?」
 開口一番にハンイットが質問する。テリオンは目を丸くした。
「何のことだ」
「あのね、テリオンさんはどんな理由を聞いても満足できるの? そもそも先生の返事が本音かどうか、どうやって判断するの」
 考えていなかった。いくら真実を話せと詰め寄っても、相手にとぼけられたらおしまいだ。学者相手に口で勝てるはずがない。押し黙ったテリオンに対し、ハンイットは組んだ腕をほどく。
「まあ、それは一旦置いていいだろう。とにかくサイラスと話をする準備を整えなければな」
「こうするのはどうでしょう」
 オフィーリアがぴんと人差し指を立てた。次いでにこやかに紡がれた提案に、テリオンは虚をつかれる。
「あんた、恐ろしい女だな……」
「そうですか? でもこのくらいはしないと話を聞いてもらえないかもしれませんよ」
 彼女はしれっと答える。他の二人も賛成のようだ。
「場所はどこがいいかな?」
「村の中だと他人が気になって話しづらいだろう。昼間行った遺跡の書庫はどうだ。あそこなら邪魔は入らないし、椅子もあった」
 とんとん拍子で話が進む。テリオンは段取りをひとつずつ頭で追い、うなずいた。
「なんとかなりそうだ。……ありがとう」
 生真面目に感謝する彼に、トレサがうららかな視線を注ぐ。
「お礼を言うのはまだ早いわよ、テリオンさん。あたしたちの分までちゃんと先生に伝えてね」
「あなた自身の言葉で、だ」
 ハンイットが付け加えた。オフィーリアは黙って微笑をたたえている。
 テリオンは大きく息を吸った。
「ああ、任せろ」
 ずっと避け続けていた対面の時が、間近に迫っていた。



 夜半、テリオンは遺跡の中でその男を待っていた。
 時の止まった書庫を月の光が照らし出す。本棚のそばには書見台が備え付けられた机がいくつかあった。引き出しには筆記具がしまわれている。ルシアが使っていたものだろう。
 椅子に腰掛けて月の影を目で追っていると、呼び出した相手がついに姿を現した。
「……やはりキミだったか」
 学者だ。夜中にもかかわらず一分の隙もなくローブで身を固め、端正な顔立ちには静かな緊張が見て取れる。テリオンは立ち上がった。
「よく来たな」
「その本を盗られてしまってはね」
 サイラスが苦々しい視線を向けた先、テリオンの片手には辺獄の書があった。
 こうして触っても、ただの古い書物としか思えない。テリオンにはどうやっても真の価値は理解できないだろう。だがサイラスと、彼の後ろに控えるアトラスダムにとっては何よりも貴重なものだ。だからこそ取引の材料になりうる。
 オフィーリアたちから助言を受けたテリオンは宿に戻り、学者の荷物から難なく辺獄の書を盗み出した。常に鞄に入れて持ち歩こうが、テリオンには関係なかった。鞄には代わりに書き置き――本を取り返したかったら遺跡の書庫に来いと記したもの――を忍ばせて、こうして待っていたのだ。
 魔導機はすでに停止し、邪魔が入る心配はない。ここならじっくり彼と向き合えるだろう。
「で、プリムロゼの説教はどうだった?」
 テリオンは薄く笑い、あえて別の話題を投げた。サイラスは神妙な顔で答える。
「少なくとも、ノーブルコートまでは同行することを約束したよ。あそこならアトラスダムにもすぐに帰れるからね」
 やはり、ダスクバロウでの調べ物がひととおり終われば、彼は国元に戻るつもりなのだ。テリオンは波立つ心を誤魔化し、辺獄の書を強く握り込む。
「さて……キミは、私に一体何を望む?」
 サイラスは取引に応じる姿勢を見せた。青い双眸に強い意思が宿る。テリオンは口の端を持ち上げた。
「話がしたい。いや……俺の話を聞いてくれないか」

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