種を蒔く人



「話を……?」
 サイラスが目を見張る。テリオンはうなずいた。
「そうだ。あんたに話したいことがある」
 書見台の上に辺獄の書を置き、先ほどの椅子に腰掛ける。もう一つ並べておいた椅子にはサイラスが座った。
 テリオンは真正面から彼を見つめ、呼吸を整えてから話しはじめる。
「初めて会った時から、ずっとあんたのことが気に食わなかった」
 サイラスは小さく唇を開いたが、何も言わなかった。
 ――まず初対面からして最悪だった。レイヴァース家と関係ないくせにいきなり魔法を仕掛けてくるし、なんだか余裕そうな顔で退場していくし、訳が分からなくてひたすら憎らしかった。その後、ヒースコートに罪人の腕輪をはめられるという凶事があったため、テリオンは己の不運とサイラスの存在を結びつけて考えるようになった――
 自分でも驚くほどスムーズに舌が回る。学者は黙って耳を澄ませていた。
 ――ボルダーフォールを出てから、式年奉火の旅を避けるため大陸を西回りで次の目的地に向かうことにした。その途中で薬屋や踊子、剣士と出会って、いよいよノーブルコートに到着する直前で、リンゴと本で有名なあの村に寄った。そこで学者と再会した。
「あんたはコーデリアに俺のことを頼まれていたらしいな」
 指摘すると、学者はどこか気まずそうに答える。
「キミには仲間が必要だ、と彼女は言っていたよ。正直、私にはその感覚が分からなかった。だが、彼女がキミに向ける信頼に、いつしか私も感化されたのだろう。もしくは、自分の技術に誇りを抱き、自由に旅をする盗賊というものを理解したい……と思ったのかもしれない」
 そのような経緯があり、彼は互いの旅を手伝うという名目で取引を持ちかけた。これ以上ないタイミングで、あの時点のテリオンでもぎりぎり受け入れられる形で。
 サイラスは質問に対して誠実な答えを返した。そのことに静かな充足感を覚えながら、テリオンは話を続ける。
「気に入らないやつだと思っていた。あんたのことなんて理解しなくていいと考えていた。でも……気が変わったんだ」
 明確なきっかけはストーンガードの一件だが、それ以外にも萌芽はあった。テリオンが気づかなかっただけで、学者が蒔いた種はすでに芽吹いていたのだ。
 テリオンは膝の上に両手を揃え、深々と礼をした。
「ノーブルコートでも、ウェルスプリングでも、ノースリーチでも助けてもらったな。あんたや仲間のおかげで依頼が達成できた。感謝している」
 まったく、これを言うまでにどれほど時間がかかったのだろう。やっと肩の荷がおりた心地だ。
 顔を上げると、サイラスは何故かうろうろと視線をさまよわせていた。
「そういう取引だっただろう。それに、竜石を取り返したのはキミの力だよ」
「本当にそう思っているのか? あんたにしては論理的じゃないぞ」
 軽く笑い飛ばしてやると、学者は困惑したように唇を結んだ。
 今なら学者がいきなりテリオンを呼び捨てにしてきた理由もはっきりと分かる。あれは信頼を示していたのだ。以前のテリオンは彼とまともに向き合えておらず、その言動に得体のしれなさを感じることしかできなかった。
「……話というのは、そのことかい?」
 探るような視線が辺獄の書に向けられる。テリオンは本の上に手のひらを広げ、椅子に座り直す。
「俺からしたかった話はな。あとは、あんたに聞きたいことだ」
 ここからが本番だ。膝に置いたもう片方の手に力が入る。
「あんたが俺に協力した理由を知りたかった」
 あえてテリオンは過去形で語った。サイラスはきょとんとする。
「いくら取引でも、あれだけ体を張るのはやりすぎだろ。あんた、相当危険に足を突っ込んでたぞ」
「そう……だろうか」
 曖昧な返事だった。常ならば自在に言葉を操る学者だが、今はまったく「らしく」ない。テリオンは言葉の続きを待ちながら、別の考えを巡らせた。
 ハンイットに指摘された通り、テリオンが本当に知りたいことは「理由」ではなかった。それは――
 不意に、入口の方で重い音が響いた。
「なんだ」
 反射的に立ち上がる。魔導機の停止は確認したはずだ。まさか魔物が遺跡に侵入してきたのか?
 会話を中断し、サイラスと二人で入口に向かった。視界に入った光景に、テリオンは声もなく目を見開く。
「扉が……閉まっているね」
 そもそもここには扉などなかったはずだ。それなのに、入口が石の板でふさがっていた。しげしげと観察するサイラスの横で、板に触れる。扉はぴたりと閉じていて、押しても引いても動かせそうにない。
「どういうことだ」
「私たちは閉じ込められたらしい。ルシアさんの残したお土産というところかな」
 テリオンはげんなりした。本当に余計なことをする女だ。話し合いの場にここを選んだのは失敗だったか。
 書庫の奥にはルシアと戦った部屋があるが、そこにつながる通路も同じく閉鎖されていた。二人は完全に外部と切り離されてしまった。サイラスはいつもの思案のポーズをとって、
「一定の時間以上書庫に立ち入ると、扉が閉まるようになっているのかもしれない。本を守るための仕掛けだろうか。
 だが、事故で閉じ込められる可能性は当然考慮しているはずだ。そのための解除法が部屋の中にあるのではないかな」
「よし、それを探すぞ」
 中途半端に終わった会話は一度頭から振り払い、脱出に専念することにした。
 まずは扉の周囲を探る。遺跡の入口のように石材が回転する仕掛けを探したが、外れだった。そこでテリオンははたと気づく。
「あんたとルシアが奥で話してた時、階段の前に見えない壁が張られていた。部屋にあった水晶を何個か壊したら破れたが」
「なるほど。だから突然キミたちが姿を現したのか」
 あの壁は内部にいる者の音や視界を遮る効果があったのだろう。現在直面する物理的な仕掛けとは異なるが、どちらもルシアの張った罠だ。ならば解除法も似ているのではないか。
「怪しいものを手当たり次第壊したらどうだ」
「うーん……」
 学者は首をひねり、ちらっと横目で本棚を見た。
「もしかすると、この部屋全体の時を動かすしかないのかもしれない」
「時を?」
「本を取り出せないようにすることも、書庫の出口を塞ぐことも、『蔵書を守る』という共通の目的を持っている。これらは同じ魔法の効果ではないかな」
 確かに、とテリオンは相槌を打つ。
「で、どうやって時を動かすんだ」
「……今から考えるよ」
 まぶたを閉じるサイラスに対し、テリオンは椅子に座り直してふんぞり返る。
「朝になる前に見つけろよ」
 学者は苦笑し、軽い足取りで部屋を歩き回りはじめた。テリオンは翻るローブをそれとなく目で追いかける。
「……ルシアさんは、自分の書いた論文を王立学院の前学長に却下されたことがあったらしい」
 机の引き出しを開けながら、サイラスは唐突にそんな話を振ってきた。一瞬頭が追いつかない。
「本人がそう言ったのか」
 サイラスは凍りついた本の背をそっとなぞる。
「いや、私がアトラスダムで調べた。彼女の論文は非常に画期的だったよ。だが学会には理解されなかった……危険なものとして処理されたんだ」
 それが空間転移の魔法だったという。彼はテレーズを連れてアトラスダムに帰った時、学院の片隅に埋もれていたルシアの論文を見つけて読み解き、自分なりに改良を加えた。その結果が例の魔法陣だ。
 テリオンは疑問を浮かべる。
「あんたがコブルストンに出口をつくったのは、アトラスダムに行く前だろ? 話が前後してないか」
「実は、論文自体は以前にも読んだことがあったんだ。ルシアさんの書いたものとは知らないままね」
 ストーンガードで転移魔法に過敏に反応していた理由はそれだろう。彼はもともとその存在を知っていたのだ。
 誰でもあんな魔法が使えたら、流通の概念など根本からひっくり返るに違いない。慎重に扱うべき技術であることは理解できる。一方で、あちこちにすばやく品物を届けられるなら、トレサあたりは大喜びするだろうとテリオンは思った。
「もちろん、論文の価値は前学長も認めていたはずだ。だが、おそらくはルシアさんが提案した活用法がまずかったのではないかな。いくらでも悪用できる魔法だからね」
 このような事件もあって、ルシアは「天才は天才同士でしか理解し合えない」と頑なに思い込むようになったらしい。テリオンは城下町をさまよう孤独な女の影を思い浮かべた。
「論文の一件があった後、ルシアさんはイヴォン学長を焚き付けて学院のトップに座らせた。話をぼかしていたが、おそらくはイヴォン学長に前学長を暗殺させたのだろう。そして学長経由で王立図書館から辺獄の書を手に入れ、ここに持ってきたんだ」
 テリオンは首を回して本棚を眺める。何度見ても圧巻の物量だ。
「あの女が一人でこれだけ集めたわけじゃないだろ。他にも協力者がいるんじゃないか」
「だろうね。ここの本は彼女が生まれるずっと前から収集されていたのだろう。ルシアさんは誰かから書庫をまるごと託されて、管理していたんだ」
 つまりは黒幕の黒幕がいるわけだ。話がややこしくなってきた。
「その誰かは今どこにいるんだ?」
「さあ……ここしばらくはルシアさんが一人で書庫を守っていたようだけれど」
 サイラスは言葉を飲み込み、話を戻した。
「ルシアさんはイヴォン学長やドミニクさん、ギデオンを使って辺獄の書の翻訳を進め、血晶石を作成した。石の力で寿命を伸ばして、この世のすべての知識を自分一人のものにするために……」
 血晶石の効果は単に戦闘能力を底上げするだけではなかったのか。テリオンが魔力を奪って弱体化させる前、ルシアの肉体は刻一刻と変化を続けていた。あのまま野放しにしていたらもっと面倒なことになっていたかもしれない。
 それでもルシアは土壇場にならないとあの石を使わなかった。人の姿を捨てることにはさすがに抵抗があったのだろう。怪物となってからは一転して己の力に恍惚としていたが、あれは正常な判断力を失っていたということか。
 テリオンはあごを持ち上げて本棚を示す。
「あんたもここの本を全部読みたいって思うのか?」
「時間が許すならば、もちろん。だが自分のものにしようとは思わない。きちんと保管して、テレーズ君や他の生徒たち――もっと未来の人々も平等に読めるようにしたいんだ。知識に至る道筋さえ整備されていれば、みんな私よりも先に進んでくれるはずだから」
 棚の間をゆっくりと通り抜けながら、サイラスは満ち足りた表情でつぶやいた。
 だが、テリオンは違和感を抱いた。学者はまるで「自分はその光景を見られなくてもいい」と言っているようだった。知恵を広めて大きく社会に貢献した当人は、何も受け取らなくてもいいのだろうか。いくらサイラスが満足しても、テリオンにはそれが希望にあふれた未来とは思えなかった。
「……で、最終的にルシアと決裂したんだな」
 サイラスは背表紙をなぞる指を止め、うなだれる。
「そうだ。私は彼女の手を取らなかった」
「知識の扱い方が違うからか」
 イヴォンと袂を分かった要因でもある。サイラスは苦しげにかぶりを振った。
「それもそうだが、一番の理由は別にある。ルシアさんは、キミや仲間たちのことを私にふさわしくない存在だと言ったんだ」
 テリオンは軽く目を見開いた。戦闘中の学者があれほど怒っていた理由はそれなのか。
 サイラスは体の横で白い手をぎゅっと握った。
「私は……どうしても許せなかった。それからは売り言葉に買い言葉という状態になり、最後にルシアさんが血晶石の力を使ったんだ」
 アトラスダムにいた頃のサイラスは友人が少なかったようだから、ろくに他人と喧嘩したこともなかったのではないか。ルシアもあの性格なら似たり寄ったりだろう。そのため二人は会話の落とし所を見つけられず、最終的に実力で決着をつける事態になった。それは、テリオンがダリウスに対して犯した過ちとも少し似ていた。
 サイラスの沈鬱な顔には「もっと別の方法があったのではないか」と書いてある。ルシアの考えを看過できないこととは別に、感情に任せて魔法を放ったことを後悔しているようだ。
 テリオンはきっぱりと言い切る。
「そんなの、先に手を出した方が悪い」
 サイラスがぴくりと体を震わせた。
「どのみちあの女は、誰と手を組んでも本を独り占めしようとしたはずだ。あんたが気に病むことじゃないさ」
「そうだろうか……私が彼女の手を振り払ったのは事実だよ。
 ルシアさんは自分の考えが誰の理解も得られないことに絶望していたのだろう。却下された論文のことも念頭にあったはずだ。……彼女は今際のきわに『あなたも私と同じで、誰にも理解されない』と言っていたよ」
 余計なことを言い残しやがって、とテリオンは唇を噛む。
「気にするな。あんたとルシアは全然違う。あんたはどんなにがんばって一人になろうとしても、多分無理だろ」
 少なくともアトラスダムに戻れば生徒たちが待っているのだから。それを聞いたサイラスは伏し目がちにほほえんだ。
「そうだね。私には歩み寄ろうとしてくれる人たちがいる。そうだ、ノースリーチでキミが『もし子どもの頃出会っていたら』と言ってくれたこと、とても嬉しかったよ」
 急に話題を振られ、テリオンの肩が小さく跳ねた。
(そんなふうに思っていたのか……)
 胸にあたたかい水が満ちていくようだった。とはいえ、その件に関してはこちらからも言いたいことがある。
「あれは俺が間違ってた。ダリウスのことは俺の責任で、あんたに押し付けるべきじゃなかった」
 テリオンがあの発言をしたのはダリウスの遺体を見た直後で、ひどく動揺していた。そのせいで、自分にだけ都合のいい未来を描いてしまったのだ。
 もし本当に子どもの頃に出会っていたら、テリオンはサイラスの一方的な庇護下に置かれていただろう。それでは今のような関係は絶対に成り立たない。テリオンは彼と対等でありたいと願うから、あの日ボルダーフォールで出会ったことに大きな意味を見出していた。
「それに、俺がアトラスダムにいたのは十五年も前じゃないからな」
 わざと「十五年」を強調する。サイラスはまつげを震わせた。含みを持った視線が遠慮がちに注がれる。
「テリオン……キミはクオリークレストに行ったのだろう。オデット先輩から、昔の話を聞いたのでは?」
 怜悧な顔がかすかに緊張をはらんでいた。テリオンはそっと息を吐く。
「いや、知らない。何か言おうとしてたが、聞きたくないから断った」
「えっ……」サイラスは目を丸くする。
「他人の事情を探り出すのは学者の仕事だろ。俺がやることじゃない」
 あの夜、サイラスの過去を打ち明けようとしたオデットに対し、テリオンは「知らなくていい」という結論を出した。
 学者はテリオンとダリウスの関係について、肝心な部分には絶対に踏み込んでこなかった。その気遣いをありがたく感じたから、同じことを返しただけだ。
「それならば何故……」
 サイラスは呆然としていた。
 十五年前、彼の身辺では「何か」が起こった。そのせいで彼の中にはあの子どもが残ってしまったのではないか。サイラスは成長できない心を理性と知識で覆い隠し、なんとか大人としての体裁を保っていたのだ。
 実際、彼の取り繕い方は完璧だった。だがルシアとのやりとりを経て、今テリオンの前でそれが崩れた。
 本人はその揺らぎを誰にも見せたくなかったのだろう。最終的には切り捨てたいとさえ思っているのかもしれない。だがテリオンには、何よりも大切にすべき「弱さ」だと思えた。
「どうしても話したいなら聞いてやらないこともないが、今は脱出方法を見つけるのが先だろ」
「……そうだね」
 うつむいたサイラスが、小さく「ありがとう」と言う。
 そろそろ話の続きをする頃合いだろう。テリオンは椅子から立ち上がり、ひらりと流れるローブの袖をつかまえる。
「あんたの事情には踏み込まない。その代わり――」
 静かに振り向いた学者へ、噛んで含めるように告げた。
「俺は、あんたがこれからどうしたいのかを聞きたいんだ」
 テリオンはいつもサイラス自身の目的を後回しにさせていた。きっと、学者本人も気づかぬうちに追い詰められていたのだろう。ルシアからのメッセージ、佳境に迫る旅、黒曜会との戦い。負担は積み重なっていつしか限界に達していた。その責任はテリオンにもある。
 しかし、自分の痛みにとことん鈍い男は首をかしげた。
「私のやりたいこと……? 夕食の時にも話しただろう。辺獄の書を読み解いて、遺跡を調べ、書庫の管理方法を考える。すべきことはいくらでもあるよ」
「それはあんたがやらなきゃいけないことで、やりたいこととは別だろ」
「いいや違う。私はここにたどり着くために旅をしていたのだから」
 彼は取り澄ました顔で否定する。
 なんとかこの態度を崩してやりたかった。テリオンは夢の中で出会ったあの子どもと話がしたいのだ。
 ならば、切り札を使うのは今だ。
「……あんた、俺があの門の先で何を見たのか、知りたくないのか」
 その瞬間、はっきりとサイラスの顔色が変わった。
「やはり……あの夢は、キミが……?」
 本当は彼も夢の内容を覚えていたのだ。
 あの夢で、子どもは無邪気に門を目指していた。テリオンにとっては厄介極まりない感情だが、「門の先に行って答えを得たい」というのがサイラスの偽らざる本心だった。
「あれは多分フィニスの門だ」
 断言すると、相手は息を呑んだ。
「オルベリクから話を聞いたんだろ。竜石がその門を封じるものだってことも、コーデリアに教わったはずだ。だったら気になってるんじゃないか」
「気になると言ってどうなるんだね? それは私には関係のない――」
「謎は、解き明かさなければならない」
 テリオンは彼の口癖を盗んでやった。サイラスは完全に言葉を失った。
「途中で謎解きを放り出すなんてあんたらしくないぞ。あの門は、アトラスダムで本を読むだけじゃ絶対にたどり着けない場所にある。
 しばらくアトラスダムには帰らなくていい。これまでさんざん言うことを聞いてきたんだから、ちょっとぐらい自分の好きにしてもいいんだ」
 その勢いのまま畳みかける。
「サイラス。本当はどうしたいのか、俺に教えてくれ」
 理由よりも何よりも、テリオンはそれを知りたかった。
 サイラスの中には、ひたすらに未来を求めるだけではない衝動が存在する。きっと仲間たちとも共有できる、彼の根源たる思いが。
 月光が降り注ぐ音すら聞こえるような静寂の中、テリオンはひたすら言葉を待った。
 サイラスの震える唇が、ついに答えを紡ぐ。
「私は……みんなと一緒に旅を続けたい。まだこの旅が終わってほしくない……」
 直後、彼ははっとしたように口元をおさえた。テリオンが一歩近寄ると、慌てて後ずさる。
「いや、違う。私の旅の果てはここなんだ」
 均整の取れた顔立ちがくしゃりと歪む。それは自分に言い聞かせるための台詞だった。
 本当にどうしようもないやつだ。テリオンは諦めずに口を開く。
「旅に果てなんかない。俺はあんたよりずっと長く旅してるから、よく知ってるんだ。素人が適当なことを言うんじゃない」
 もし旅に終わりがあったらテリオンはそこで死ぬ。彼にとっての旅とは、生きている限り永遠に続くものだ。旅が日常であり生活の場所だった。
 それは他の仲間たちも同じだ。たとえ目的を達成しても己の旅は終わらないのだと、彼らは気づいている。それぞれの帰るべき場所で、この先も歩みは続いていく。
 反論できなくなったサイラスに、テリオンははっきりと声を届けた。
「死の門の向こうにあんたが求めるものがあるのかは知らない。少なくとも、俺にとっては全然面白い場所じゃなかったぞ。
 だが……あんたがどうしても行きたいって言うなら、俺が連れていってやる!」
 腕輪の外れた右手を差し出し、万感の思いを込めて叫んだ。竜石を取り戻して自由になった彼が選んだ道は、それだった。
「俺だけじゃない。誘ったら他のやつもついてくるはずだ。だから……サイラス、一人で行くのだけは絶対にやめろ」
 この手を取れ――テリオンはルシアと同じ誘いをかけた。だが、あんな女が示した未来より、ずっと楽しい旅になる自信がある。
「あんたがアトラスダムに帰らなくちゃならない事情もだいたい聞いた。どうしても町から出られないなら、辺獄の書はどこぞの盗賊に盗まれたとでも言え。あんたがやるのはそれだけでいい」
 ウォルド王国の実情や十五年も昔の話など、こちらの知ったことではないのだ。それに、サイラスが囚われているのは自分自身の「こうあらねばならない」という意思だった。そんなつまらない枷は即刻外すべきだ。
 サイラスは顔を隠すようにうつむいた。停滞した空気の中で、つややかな黒髪が額を流れ落ちる。
「キミにそんなことをさせるわけにはいかないよ」
「だったら――」
 テリオンの言葉を遮り、学者は顔を上げた。
「本当は……どうして一人でここに来たのか、自分でも分からなかったんだ」
 彼は途方に暮れていた。まるで帰り道で迷った子どものように。
 それは、サイラスがずっと隠し続けて、いつしか自分でも見失っていた姿なのだろう。少し前までテリオンも似たような状態に陥っていたからよく分かる。
「ルシアさんに『一人で来い』と呼ばれたのは確かだ。しかし、どう考えても罠だろう。仲間と一緒でも危険だが、一人で行っても迷惑がかかる。むしろ後者の負担の方がよほど大きいと分かっていたのに……足は止まらなかった」
 この述懐を聞いて、テリオンは学者が失踪した真の理由を悟った。
 サイラスは寂しかったのだ。もうすぐ旅が終わってしまうことに耐えられなかった。だからテリオンが依頼を達成するその日、迫り来る現実から逃げ出した。彼の本質が夢に出た少年だというのなら、あの合理性皆無の行動にも納得がいく。
「一人でウッドランドを歩きながら、たくさんのことを考えたよ。その結果、私は何も理解していなかったのだと気づかされた」
 自嘲混じりの独白を、テリオンは凪いだ心地で聞いていた。もちろん右手は出したままにして。
「みんながどうしてこれほど私に良くしてくれるのか、ずっと分からなかったんだ。
 トレサ君は知らないうちにお金の問題を解決してくれた。文句も言わずに面倒な話を聞いてくれたオルベリクも……余計なことを押しつけてしまったプリムロゼ君も、わがままを言って振り回してしまったハンイット君も、何も伝えずとも気遣ってくれたアーフェン君も、迷った時いつも導いてくれたオフィーリア君も」
 最後にサイラスは小さく笑う。
「クオリークレストでもストーンガードでも、いつも私を助けてくれたテリオン――キミのことも。
 みんながそうする理由が見つからなかった。私は何もしていないというのに。今回だってむしろ迷惑をかけてしまった。私は、どうやってみんなの気持ちに報いればいいのだろう」
 これはもう、鈍いなんてものではない。
 テリオンは盛大にため息をつきたい気分だった。だが、自分だけはサイラスに文句を言ってはいけない。テリオンだって、この間のレイヴァース家からの帰り道でやっと「それ」に気づいたからだ。
 相手の期待を素直に受け入り、手を貸し借りをすることは、ごく自然な気持ちの発露である。ただ「そうしたかったから」というだけで人は行動するのだ。そして、すでに学者は仲間の心を動かすには十分すぎる働きをしていた。
 眉根を寄せて黙り込むテリオンに、サイラスが笑いかける。
「それに、キミの考えもなかなか読めなくて。私が何か言う度におかしな顔をするものだから」
「そりゃ悪かったな」
 長い間、学者に対してどういう態度を取ればいいのか分からなかった。そのせいで、サイラスはこちらの表情にばかり注目するようになったのだろう。しかし、顔から読み取れる感情とテリオンの言動には大きな開きがあったため、学者を相当混乱させてしまったに違いない。
 テリオンは手のひらを差し出して叱咤する。
「分からなかったらちゃんと考えろ。あんたは俺にそう教えたよな」
「……そうか。キミはすでに答えを見つけていたんだね」
 サイラスはおそるおそる手を伸ばした。指先はまだ触れない。
 月光に包まれたローブの縁取りが仄白く光る。サイラスはまぶしそうに目を細めた。
「見てみたい景色も、離れがたい居場所も、この旅の中にある。私があと少しの間だけそれを望むことを、どうか……許してはもらえないだろうか」
 テリオンはその手を掴み、強く握った。血潮の通った皮膚だ。夢の中では待つだけだった手に自ら触れたから、その温度を知ることができた。
「許可なんてとらなくていい。俺は単に自分勝手でやってるんだからな」
「もしかして、キミも私と同じ考えだったと?」
「……あいつらには言うなよ」
 小声で付け加えると、サイラスは破顔した。
「ありがとう。私もその想いに応えなくてはね」
 彼は空いた方の手を自分のあごの下に持っていく。
「さて、この部屋の封印を解こうか」
「脱出方法が分かったのか?」
「キミが協力してくれるなら可能だよ」
「いいからさっさとやれ」
 テリオンは手を離し、ぱしんとローブの背中を叩いた。苦笑したサイラスは完全にいつもの調子を取り戻していた。
「テリオン、キミの左目には盗公子の力が宿っているね」
「……クオリークレストの祠で何か見つけたのか?」
 思わず身構える。サイラスは首肯し、靴音を立てて入口に移動した。テリオンは後ろからついていく。
「私は辺獄の書に記されている黒呪術への対抗策を得るため、あの祠を訪れたんだ。
 盗公子の逸話にはこういうものがある。死の国に封じられた魔神と十二神の戦いのさなか、聖火神エルフリックの掲げる炎が消えかけた時、エベルは自らの力を分け与えたという。私は、それは魔力ではないかと考えた。
 黒呪術には魔力を奪う技があることも知っていたから、もし魔力の受渡しができれば対策になると思ったんだ。しかし私には盗賊の素養がなかったのか、いくら祭壇に祈りを捧げても反応がなくてね」
 この学者が大真面目に盗公子に祈ったのか。その場面を想像すると少し愉快な気分になる。学者の守護神たる碩学王には嫌がられないのだろうか。
「だが、昼間の戦いで分かったよ。エベル神が無反応だったのは、すでにキミに力を託していたからだったんだ」
 サイラスは晴れやかな顔で言った。
 盗公子はテリオンに何かをさせたがっているのでは、という突拍子もない想像はいよいよ補強されてしまった。テリオンは口元を引きつらせる。
「……説明はもういい。それで、どうやったら脱出できるんだ」
 サイラスはひとつうなずいた。
「キミの左目で本棚を見てくれ」
「魔力の流れを追うのか。だが、どうやったら使えるのか未だによく分からんぞ」
 左目が発動するタイミングはまばらで、現に今は何も見えない。サイラスはぴんと人差し指を立てる。
「鬼火を使う時と同じように、ゆっくり呼吸して、力を抜いて。魔法を扱う基本だよ」
 集中状態に入ったテリオンは、サイラスが示した先をぼんやりと見つめた。
「本棚に何かが絡んでいないかね?」
 その瞬間、左目が形を捉えた。本棚には白っぽいロープが――否、うっすら光る蔦が縦横無尽に張り巡らされていた。もはや本を守るというより閉じ込めようとしているようで、薄気味悪い。テリオンは見たものをそのまま伝えた。
「なるほど、それで本が動かなかったわけか」
 サイラスは見えない蔦に手を置き、半眼になる。
「ルシアさんはこの閉ざされた空間で何を考えていたのだろう。一人きりで本を読むことに耐えられなくなったから、私を引き込もうとしたのだろうか」
 彼女は壁を作って他人を拒絶し、本を独占していた。誰からも理解されない絶望を抱えながら、最後に伸ばした手さえサイラスに拒絶された。
 だからといって、誰かの命を研究に使っていいはずがない。テリオンにとってルシアの末路は自業自得だ。それでも、哀れな女だったことくらいは気に留めておこうと思った。
 サイラスはかぶりを振る。
「……壁は壊すものだが、植物ならばもっといい方法がある。この蔦に魔力を――栄養を与えて時を進め、枯れさせよう。それには私の魔力を使えばいい」
「もう魔法が使えるのか?」ルシアにとどめを刺した分で魔力は空になったのではなかったか。
「夕食にプラムが出たからね」
 学者は涼しい顔で答えた。こいつはプリムロゼの剣幕を浴びながらデザートまで平らげたのか、とテリオンは呆れ返る。
 それでは、と言ってサイラスが差し出した手を、ごく自然に握った。
「反対の手で蔦を掴んでくれ」
「分かった」
 テリオンは言われたとおりにした。
「……行くよ」
 サイラスから流れ込む魔力を、自分の体を通して蔦に注ぐ。変化はすぐに訪れた。本棚をがっちり覆っていた蔦はみるみる成長し、天に向かって伸びていった。やがて本棚よりもはるかに背が高くなる。
(失敗したか?)
 と思った時、あちこちの本棚から伸びた蔦が空中で絡まり合って幹となり、部屋の中心に大きな光の樹を生んだ。いつの間にか枝先に木の葉までぶら下がっている。
 ざわざわという葉擦れの音が鼓膜を叩く。思わぬ景色を目の当たりにして、テリオンは声が出なかった。
 この大樹はサイラスにも見えているらしい。彼は顔を上向けて、
「学者の服に描かれた蔓草は、伸びゆく知識の象徴だ。私が生徒に教えた知識も、いつか育って実りをつけるだろう」
 サイラスは空いた手を持ち上げ、大樹を指さす。
「見てくれ。枝はどの方向に生えても必ず天を目指している。
 アトラスダムでは、太陽の象徴たる碩学王の教えに到達する道はただひとつ……研鑽によって己の知識を高めることである、と言われていたんだ。
 だが、私にはそれがずっと疑問だった。たとえ大いなる知識の源は唯一でも、そこにたどり着く方法もひとつだけとは考えられなかった。この枝を見ると、そう思わないかい?」
 それはいつか聞いた話の続きだった。今のテリオンにはなんとなく意味が分かる。
 成長しきった大樹から次々と葉が散っていく。寿命を迎えて枯れはじめたのだ。その間も延々と魔力が受け渡されるので、テリオンはだんだん不安になってきた。この男はどれだけ魔力を貯め込むことができるのだろう。
 サイラスは横顔にほほえみを浮かべた。
「キミたちとの旅でよく分かったよ。神官でも、狩人、商人、薬師、踊子、剣士――そして盗賊でも。その生業に関わらず、誰もが自分の道をゆく先できっと、求める場所へたどり着くことができる。
 それは、キミたちが私に教えてくれたんだ」
 やがてすべての葉が散った。光の大樹は消え失せる。
 同時に部屋にも変化があった。入口を塞いでいた石の板が床に飲み込まれる。どこからか夜風が入り込み、書見台に置かれた辺獄の書がぱらぱらとめくれた。新鮮な空気を浴びた本たちは、まるで息を吹き返したかのように見えた。
 手を離したテリオンは、試しに手近な一冊に触れてみる。かさついた感触が伝わってきた。棚からもすんなり引き出せる。
 サイラスはかすかな風をほおに受け、書庫を見渡した。
「私はこの本を外に連れ出そうと思う。……キミが、私にそうしてくれたように」
 テリオンはもう一度学者を見上げる。
「約束する。俺たち全員で、あんたが行きたい場所まで連れていってやる」
「ありがとう、テリオン」
 漆黒に塗りつぶされた夜の中、サイラスはまだ見ぬ朝焼けを思わせる笑みを浮かべた。

inserted by FC2 system