種を蒔く人



 時の動き出した書庫で、いくつもの人影がせわしなく動いていた。
 ダスクバロウ近郊の遺跡は朝の光に包まれている。風が通り、会話が生まれると、そこはもう閉鎖された書庫ではない。きっと図書室と呼ぶべき空間になったのだ、とテリオンは思った。
 サイラスが本棚から一冊取り出し、丁寧に埃を払う。
「以前、アトラスダムの王立図書館から聖火教会史という本が盗まれた時も、こうして職員たちで蔵書を点検したものだよ」
 彼は机に向かい、紙にさらさらとペンを走らせる。一通り書庫を調べた結果、ルシアが作成した目録が見つかったため、所蔵物と照らし合わせているのだ。
「それ、先生が旅立つきっかけになった話でしょ」
 トレサは帽子の羽根をぴょこぴょこ揺らしながら本を運ぶ。オフィーリアがそこから数冊引き受けて、
「式年奉火を手伝ってくださったこととも関係があるのですよね」
「あのラッセルがアトラスダムから追放された原因だったか」
 ハンイットは一人で軽々と何冊もの本を持ち、サイラスのまわりに積み上げていく。
「で、本当にこれを解読なんてできるの?」
 重労働は勘弁とばかりに椅子に座るプリムロゼが首をかしげた。
「普通めちゃくちゃ時間がかかるよな」
 アーフェンは一冊とってぱらりとページを開き、すぐに顔をしかめる。テリオンが横から覗き込むと、まるで理解できない文字が並んでいた。
「何も全文を翻訳するわけではないさ。私はあの壁画を読み解きたいんだ」
 書見台の前に座るサイラスの手には辺獄の書があった。昨晩テリオンが返却したものだ。
 書庫から脱出した翌日、彼らは再びここに舞い戻り、朝から本の整理に勤しんでいた。翻訳を進めるために封印から解かれた本を手入れしなければならない、とサイラスが主張したためだ。彼は一人で作業するつもりだったようだが、仲間たちが異議を唱えたため、こうして全員で集まっていた。
 なお、昨日の「ここで旅は終わりだ」というサイラスの発言は、正式には撤回されていない。彼は昨晩テリオンと交わした約束について、仲間に公言することはなかった。今は、まだ。
「壁画って手前の廊下にあったやつよね。ここの本と関係あるの?」
 プリムロゼが疑問を呈した。遺跡に本を持ち込んだのはルシアの裏に控える者であり、本来は壁画と蔵書につながりなどないはずである。
「それについては後で説明するよ。オルベリク、その本をとってくれ」
 さらりと質問をかわし、サイラスは首を横に向けた。
「これが歴史から失われたとされる書物か……」
 オルベリクが山と積まれた本からおそるおそる一冊持ち上げ、サイラスに渡した。
「そうだよ、この『十二天の書』は六巻から九巻が逸失していてね。こうして保管されていたことは素直にありがたいな」
 サイラスは本を開き、最初から最後まで一気にページをめくった。ぱたんと表紙を閉じて、ひとつうなずく。
「……よし、だいたい分かった」
「えーっ、今ので全部読めたの!?」
 トレサが身を乗り出した。テリオンも瞠目する。サイラスはほんの一瞬中身を眺めただけだった。あれで内容を読み取れるとはとても思えない。
「あまり使いたくなかったのだが、こういう読書術があるんだ」
 彼が言うならそうなのだろう。もうサイラスが何を喋っても驚かないことにする。テリオンは宿などでよく見かけた光景を思い出した。
「そういえばあんた、いつもはもっとゆっくり読んでたな」
「ページをめくる感触を味わうことも読書の楽しみだからね。だが、今はこれが最短の方法なんだ」
 彼はハンイットが持ってきた本から一冊抜き取り、辺獄の書の横に並べた。
「この古代ホルンブルグ語の辞典はドミニクさんが作ったものだろう。いい仕事をするものだ」
「書き込みがありますね」オフィーリアの指摘どおり、ページの余白にはびっしりと細かい文字が記されている。
「ルシアさんが書き足したのではないかな。おかげで辺獄の書を翻訳できるよ」
 そうつぶやく彼の顔に、昨晩見せた悔恨は微塵も浮かんでいなかった。
 テリオンはふと違和感を覚えた。
「その本はホルンブルグができるよりもずっと前に書かれたんじゃないのか。なんでホルンブルグの言葉が使われてるんだ?」
 この指摘にオルベリクがうなり声を上げた。サイラスはきらりと目を輝かせる。
「よく気づいたね。つまり、ホルンブルグ建国以前から使われていた言語を、便宜上ホルンブルグ語と呼んでいるのだが――」
 べらべらと解説がはじまる。テリオンは口を挟んだことを後悔した。
「先生、壁画は放っておいていいの?」
 トレサが唇をとがらせた。おかげで説明は中断される。
「そうだったね。本の読み込みには少し時間がかかりそうだ。みんなは――」
「本を片付けて目録をチェックすればいいのだろう」オルベリクが請け合い、
「ついでにお掃除もしましょ」プリムロゼがわざとらしく咳をする。
「賛成だ、埃でむせそうだった」
 ハンイットが渋面をつくれば、ちょうどリンデのしっぽが塵を巻き上げたので、「それ禁止」とトレサに怒られていた。
「ありがとう、助かるよ」
 サイラスははにかんだ。
 一人で本を読み進める彼を置いて、仲間たちは各々行動をはじめた。乾いた布で掃除をはじめる者、目録と背表紙を見比べる者。指示はなくとも、自然と役割が分かれる。
 本の運搬を手伝おうとしたテリオンは、プリムロゼにつかまってしまった。
「あなた、昨日サイラスと何を話したの?」
 学者が周囲の音をシャットアウトしたのをいいことに、単刀直入に質問が飛んでくる。思わず顔を背けたが、今度はアーフェンが挟み撃ちにしてきた。
「気づかないわけねえよな。二人とも夜中までいなかっただろ?」
「きっとこの後サイラスさんから発表があります。そうですよね、テリオンさん?」
 雑巾を持ったオフィーリアがにこやかに援護した。テリオンは「そういうことだ」としかめっ面で取り繕う。踊子はつまらなそうに鼻を鳴らして引き下がった。
 学者は昨晩、少なくともテリオンには本音を打ち明けたのだ。仲間に何も言わないまま旅を終える、なんてことは絶対にありえなかった。
 遺跡が夕焼け色に染まる時刻になって、サイラスはやっと書物から顔を上げた。
「ふむ、だいぶ分かってきたぞ。今ならあの壁画を読み解けるだろう」
 彼は軽やかな足取りで廊下に向かう。テリオンたちは慣れない書庫の整理でへとへとになっていたが、それでも後ろについていった。
 サイラスが掲げたランタンが廊下の壁を照らした。相変わらず派手な色合いの壁画だ。テリオンにとってこの絵が示すものは明白だが、果たしてこの男はどんな意味を見出すのだろう。
 学者は皆に聞こえるように声を響かせる。
「この壁画はいくつもの文字の集まりによって描かれている。それも、ごく単純な単語の組み合わせだ。初めて見た時点でだいたいの意味には見当がついていたよ。
 だが、これが何を意図して描かれたのか、私はそれを知りたかったんだ」
「そのヒントが本棚にあったの?」プリムロゼが首をかしげる。
「そうだ。そもそも辺獄の書は、ザロモンがこの遺跡への訪問をきっかけに書いたものである可能性が高い」
「ザロモンっていうと……」
「ずいぶん昔の有名な学者さん、でしたか」薬師のつぶやきを神官が引き継いだ。
 オデットの話によれば、その学者は辺獄の書を執筆した後、別人のように変わったらしい。サイラスは壁画を背にして講義を続けた。
「今回辺獄の書をおおよそ読み解いて、壁画との共通点が分かった。この二つは、どちらもある特別な力について記しているんだ。そして知識を残した目的も一致している。ザロモンは、自身が壁画に見出した『意味』を込めて辺獄の書を執筆したのだろう」
「えーっと、その意味って何ですか?」
 しびれを切らしたようにトレサが質問した。サイラスはもったいぶって壁画を見つめる。
「それを語る前に、まずは壁画を読み解こう。先ほども言ったとおり、この壁画は色をつけた文字を適切な場所に配置することで描かれている。それも、たった三種類の単語によって成り立っているんだ」
 アーフェンが片手を挙げる。
「ちなみにその三種類って?」
「死と呪詛と破滅」
「えっ」
 即答され、サイラス以外の全員に動揺が走る。ほらみろ、やっぱりやばい絵だったんじゃないかとテリオンは思った。
「つまり、この門のようなものを開けてしまえば破滅をもたらす力があふれ出すということだ。生と死の力――辺獄の書に書かれていた力は、かつて十二神が世界の果てに封印したものだろう。危険な代物だが、人によっては魅力的に映る」
 例えばルシアにとっては、喉から手が出るほどほしい力だったはずだ。
 サイラスはランタンの明かりで壁画の上に複雑な陰影を作り出す。暗くなった部分はまるで別の絵のように見えた。
「知識自体に善悪はない。とはいえ、使う人の行動には善と悪が存在している。それを分かっていたから、この壁画を描いた者もザロモンも、同じ想いで知識を残したのだろう」
 どうか、未来のために――決して忘れてはならない知恵を伝えるために。
「この壁画と辺獄の書が示すのは、知識を得ても実践してはならないという警告だったのだ」
 それならテリオンにも十分に理解できる。神話時代の人間は、あの場所の危険性をよく知っていたようだ。
 一方で、ルシアは力の危うさを分かっていながら、自分のものにしようとした。壁画や辺獄の書がつくられた目的とは真逆の受け取り方をしたわけである。
「書かれた意図はそうかもしれないけど、辺獄の書はルシアに悪用されたのよね。残しておいていいのかしら」
「うむ……」
 プリムロゼの指摘に、サイラスは口をつぐんで手元の書物を見下ろす。
「燃やすのか、その本」
 だったら協力するぞと言わんばかりにテリオンは前に出る。学者はかぶりを振った。
「そうするのは簡単だが……たとえ焼却しても、いずれこの知識にたどり着く者が現れるかもしれない。重要なのは、もし使われたときにどうするかだ」
「そのとおりだな」
 オルベリクが大きくうなずく。
 この世に危険な力があることは事実だから変えられない。だからこそ同時に対処法を広める必要がある、ということだろう。
「今私がすべきことは、この書と壁画を読み解き、必要な知識を後世に伝えることだ。いつかこの書に記された魔法が再び災いをなした時、そこに私がいなくとも適切な対処が行えるようにしなくては」
 サイラスは晴れ渡った顔で決意を述べた。
「うむ、忙しくなりそうだぞ、これは!」
 この発言を聞いて仲間たちは苦笑を返す。学者はにこやかに頭を下げた。
「みんなも本当にありがとう。おかげで一日で読み解くことができたよ」
「それはサイラスさんだからですよ」
 オフィーリアの言う通り、彼は驚異的なスピードで何冊もの本を読破した。古代文字を解読した上、本が書かれた意図まで汲み取るのはただならない成果だろう、と無学なテリオンにも想像はつく。
 そこでサイラスははっとしたように空を仰ぐ。遺跡は夕闇に沈みかけていた。
「もうこんな時間か」
 芝居がかった調子でつぶやくと、仲間にじっと視線を注いだ。
「……その、今後のことで、みんなに話があるんだ」
 やっと打ち明ける気になったのか。テリオンは肩をすくめた。
 サイラスは緊張しているようで、言葉がぎこちない。
「明日、朝食の後にまたここへ来てもらえないか。あまり時間はとらせないから……」
 語尾が弱々しく消えた。彼は戸惑ったように目線を落とす。
「いいわよ、もちろん」「楽しみにしているぞ」
 数瞬後、次々と返事があった。サイラスは安堵の息を吐いた。
 明日の約束をし、遺跡を出た八人は列をつくって帰路につく。トレサはテリオンの隣をゆく学者に近づき、不意に質問を浴びせた。
「ねえ、先生は結局どうして一人でダスクバロウに来たの? 昨日先生が話した理由は間違いだった、ってテリオンさんから聞いたんだけど」
 いいことを訊いてくれた。ぎくりと固まったサイラスを横目で確認し、テリオンは口角をつり上げる。
「本人にも分からないんだとよ」
「はあ? 何よそれ」
 横から割り込んだプリムロゼが思いっきり眉をしかめた。
「はは……実はそうなんだ」
 仲間たちから不審のまなざしを浴びて、サイラスは困ったように笑っていた。
 本当の理由は、テリオンだけが知っている。もちろん本人に教えてやるつもりはない。ボルダーフォールで本心を悟ったテリオンがそうだったように、いつかサイラスも自分で気づいて、せいぜい恥ずかしい思いをすればいいのだ。学者には照れるという感情があるかどうかすら不明だから、もしそうなったら見ものだろう。
「テリオン、何変な顔してるのよ」
 プリムロゼが指摘した。どうやらまた内心が顔に出ていたらしい。
「うるさい」
 肘で小突き合う二人の横で、オフィーリアが穏やかに言った。
「でしたら、理由はみなさんで一緒に考えませんとね」
 途端に勢いづいたアーフェンが、にやにやしながらサイラスの肩に手を置く。
「先生、案外ルシアのこと気にしてたんだろー? だから一人で会いに行ったんじゃねえか」
「え?」
「そういえば、学院時代に彼女と関わりはあったのか」オルベリクが尋ねた。
「ほとんどなかったが……そうか、私は彼女のことを気にかけていたのか」
 本人はとぼけた返事をする。「その状態からはじまるのか?」とハンイットが呆れていた。
 やがて一行はダスクバロウに到着する。
「ご苦労さまじゃの」
 入口で待っていたのは村長だ。アトラスダムから寄付をもらっているとはいえ、いちいち出迎えるあたり律儀である。
 サイラスは前に出て優美に礼をした。
「ルシアさんの研究は私が引き継ぐことになりました」
 この宣言を聞き、テリオンたちの間に驚きの波が立つ。
「ほう、それはそれは」村長は白い眉を持ち上げる。
「そこであなたにお聞きしたいことがあるのですが……」
 サイラスは微笑とともにゆっくりと言葉を紡いだ。
「彼女のことをできるだけくわしく教えていただけませんか。どんな人だったのか、何を考えていたのか。彼女の残したものを、未来に伝える必要がありますから」
 ルシアが門の向こうに去った今、それは遅すぎる行動かもしれない。だが、彼は道を違えた相手にも歩み寄ろうと決心したのだ。
 それこそがルシアの求めた「理解」につながると信じて。



 常緑の広がるウッドランド地方を、昇ったばかりの太陽が照らしあげる。早朝、森閑とした木々の中に剣戟の音がこだましていた。
 練習用の木剣が振り下ろされるのを、テリオンは身をよじって避けた。その瞬間、「いける」という確信が身を貫く。体は意識よりも早く動き、踏み込みながら鋭く武器を突き出す。気づけば相手の剣を叩き落としていた。
 テリオンは草の上に転がった武器をぼんやりと見つめる。
「……お前の勝ちだ、テリオン」
 顔を上げると、練習試合の相手であるオルベリクが朗らかに笑っていた。テリオンはどきりとした。
 今、自分は初めて剛剣の騎士に勝ったのだ。
「やるじゃねえか!」
 見物していたアーフェンが脇からやってきて、どんと肩を叩く。テリオンはよろけながら、じわじわとこみ上げる達成感に浸っていた。
「いい試合だった。感謝する……オルベリク」
 自然とそんな感想が出てきた。相手が無言で手を差し出したので、握手する。力強い手のひらだった。
 たかだか一度きりの勝利であり、決して剣士の実力を越えたわけではない。けれども、テリオンにとっては大きな一歩だった。この男は誰よりもそれを分かっていて、掛け値なしにテリオンの成長を祝福していた。
 アーフェンが木剣を拾い上げ、腕をぐるぐると回す。
「んじゃ、次は俺が相手な!」
「よしこい、ボコボコにしてやる」
 テリオンは剣を構え直し、にやりと笑った。
 宣言通りアーフェンを叩きのめして満足した。鍛錬を終えた三人は宿に戻り、ざっと汗を拭いてから食堂に向かう。
 朝食の場にはすでに女性陣がそろっていた。
「あら、サイラスはどうしたの?」
 朝から完璧に身支度を整えたプリムロゼに尋ねられ、テリオンは首をすくめた。
「寝坊だ」
「よほどお疲れだったのですね」オフィーリアが口元を緩める。
「遅くまで何か調べていたからな」
 同室のテリオンがさっさと布団をかぶってからも、サイラスは明かりをつけていた。そのためか、先ほど部屋に戻った時も彼は太平楽に眠りこけていた。
 トレサが首をかしげる。
「大事な話があるって言ってたのに……」
「朝ごはんの後なんだろ? ゆっくり寝ててもらおうぜ」
 アーフェンが笑って顔の前で手を振った。
 七人で囲んだ卓に、宿の主人がつくった料理が並ぶ。ダスクバロウに滞在する間は常にこの宿で食事をとってきた。主人のこだわりがあらわれたメニューは田舎食堂の割に飽きのこない味だ。
 テリオンはこうして幾度も仲間と食卓を囲ってきた。以前は食事といえば酒場が基本で、しかも栄養補給より情報収集が主な目的だった。誰かと食事するなんてもってのほかだと思っていたのに、いつの間にかこの習慣が当たり前になっていた。
 トレサはぱくぱくと気持ちの良いスピードでサラダを平らげる。一方、オフィーリアは自分のペースを守って汁物を飲んだ。プリムロゼは体重を気にしているのか、食事の量を調整しているようだ。その効果のほどはテリオンには判別不能だが。ハンイットは卵液にひたして焼いたトーストがお気に入りらしく、よく味わって食べていた。もしかすると、次の野営の時は彼女がアレンジした一品が出るかもしれない。オルベリクは騎士団の教えがあるため、ああ見えて抜群にマナーがよい。流れるような手つきは見事なものだった。アーフェンは酒が入っていてもいなくても、常にうるさく話題をリードしていく。テリオンはといえばそれなりに食べる方なのだが、悲しいことに身長にはほとんど結びつかなかった。全体的に健啖家が多く、にぎやかな食卓である。
 その中でサイラスはいつも少し引いた位置にいて、食事をしたり酒を嗜んだり、話の流れでうんちくを語ったりする。彼は仲間と過ごす時間そのものを楽しんでいるようだった。今ここに当人がいなくても、テリオンは簡単にその様子を思い描けた。
「サイラスの話が終わったら、まずはノーブルコートよね」
 プリムロゼがおもむろに切り出した。
「どれだけ待たされたと思ってるの? 絶対真っ先に行ってもらうわよ」
 彼女は宿の主人自慢のハムに勢いよくフォークを突き刺す。
「でもよ、先にコーデリアさんに挨拶した方がいいんじゃねえかな。世話になったし、先生のこと心配してるといけねえし」
 アーフェンの発言に、オルベリクが真顔でうなずく。
「手紙で済ませるべきか悩みどころだな。比較的近いから寄るのは簡単だが」
「それならオデットさんはどうするの? クオリークレスト組はお世話になったんでしょ」台詞の後、トレサは勢いよくコップを空にする。
「テレーズさんにも無事にサイラスさんが見つかったことを報告したいです」オフィーリアが祈りの形に手を組む。
「関係のない話で恐縮だが、師匠がちょうどこの近くを狩場にしていて、通りがかったら顔を出せと言われているんだ。寄り道することは可能だろうか」
 ハンイットが誰ともなしに質問を投げ、リンデが同意するようにガウと啼いた。
 一斉にバラバラの話をはじめてしまい、まるで意見がまとまらない。口を閉ざした彼らは、何故かそろってこちらに視線を向けた。テリオンは即座に結論を出す。
「サイラスに調整してもらう」
 この意見で全会一致した。
 ひととおり料理を平らげ、七人と一匹は席を立つ。部屋に戻るテリオンとは別方面に足を向けて、オルベリクが言った。
「俺たちは遺跡で待っているぞ」
「ああ。すぐにあいつを起こして行く」
 そのまま食堂を出ようとすると、何故かオフィーリアが近づいてきた。
「テリオンさん」
 彼女はにこにこしながら真っ赤な果実を差し出した。
「これ、朝食代わりにもらってきました。サイラスさんに渡してください」
 リンゴを受け取ったテリオンは「任せろ」と言ってにやりとする。
「……ご自分で食べないでくださいね?」
 オフィーリアは不安になったのか、余計なことを言い添えて去っていった。
 テリオンはふところにリンゴを入れ、マフラーを翻して宿の廊下をゆく。
 部屋に戻ると、サイラスはすでに目覚めていた。
「おはようテリオン……」
 一応ベッドの上に半身を起こしているが、ひどい有様だった。髪はぼさぼさで目は半開きのまま、シャツのボタンをのろのろと留めている。
 学者のこんな間抜けな姿はついぞ見たことがなかったので、思わずまじまじと観察してしまう。
「さっさと準備しろ。もう全員遺跡に向かったぞ」
 テリオンが急かすと、サイラスはあくびをかみ殺す。
「そうだったね。あまり待たせるわけにはいかないな……」
 とはいえ言葉ほど急いでいる様子はなく、彼はのんびりと身支度を整えた。最後にローブを肩にかければいつもの学者の完成だが、どこか気の抜けた表情だった。
 宿を出た二人は、まぶしい木漏れ日を浴びながら遺跡への小道をたどった。学者がわざとらしくスピードを落としているため、自ずとのんびりした歩調になる。
 それが嫌でないのは何故だろう。テリオンは、目的のために急ぐばかりが旅ではないと思えるようになっていた。
 サイラスが不思議そうに眉を上げ、こちらを覗き込む。
「テリオン、なんだか珍しい顔をしているね。いいことでもあったのかい?」
 いいことといえば、今この瞬間も起こっている。目の前の男をしげしげと見つめながら、テリオンは唇を曲げた。
「当ててみろよ」
 学者はおとがいに手をあてた。危なっかしいことに、歩きながらまぶたを閉じる。
「ふむ、そうだね……キミが試合でオルベリクに勝利したのではないかな」
「は」
 浮ついた気分はすぐさま冷えた。サイラスは涼しい顔で、
「私が眠ってから目覚めるまでの出来事といえば、それくらいか……もしくは朝食にリンゴでも出たのかい?」
 テリオンはわなわなと震えた。
「あんた、どうして試合のことを」
 サイラスは何度か瞬きしてから付け加える。
「オルベリクから聞いたわけではないよ。だが、みんなもすでに知っていると思う」
 直接試合を目撃したオフィーリアやアーフェン、何故かいきなり質問してきたハンイット以外にもばれていたらしい。まったく、テリオンは自分で思うよりもずっと察しが悪かったようだ。
 サイラスは小さく拍手をする。
「おめでとう。私もその試合を見たかったな」
「だったらもっと早起きしろよ」
「そうしたいのは山々なのだが、昨日も夜更かししてしまって……」
「辺獄の書でも読んでたのか」
 昨晩テリオンはすぐに眠りに落ちたので、サイラスが何をしているのかよく確認しなかった。
「本を読んでいたのは確かだが、よく眠れなかったのは……きっと、今日を迎えることが楽しみだったからだと思う」
 ガキかよ、という言葉は飲み込んだ。あの夢を覗いたテリオンが言えることではない。
 サイラスは柳眉をひそめた。
「だが、今は少し緊張しているんだ。昨日の発言を撤回するわけだし、みんながどんな反応をするか分からなくてね」
 そんなことを考えるのは彼だけである。仲間たちはサイラスの話を聞いて、二言目には「それで今後の予定なんだけど」と言うはずだ。決死の告白はあっさり流されるわけである。その場面を想像したテリオンはにやけそうになる顔を引き締めながら、
「でも話すって決めたんだろ」
「そうだ。どうしても、みんなとともに行きたい場所がある」
 サイラスはふかふかした土を踏みしめる。この道の先には山地、川辺、砂漠、高山、海辺、雪原、そして平原が待っている。
 あの輝ける平原こそ、彼が歩みたい外の世界なのだろう。アトラスダムにいた頃からずっと憧れていた――いつしか自分で行くことを諦めていた場所。でも今は、手の届く距離にある。
「まあ、もしみんなに拒否されてしまっても、キミはついてきてくれるのだろう?」
 サイラスは屈託なく笑った。テリオンは思いっきり顔をしかめる。
「断る。俺一人であんたの面倒なんて見られるか。絶対に全員説得しろよ」
「め、面倒って……」
 しゅんとする彼を物珍しい気分で眺めてから、テリオンは話題をずらした。
「アトラスダムにはどう説明するつもりなんだ?」
「一昨日キミがやったことと同じさ。辺獄の書を交渉材料にするんだ。そこまで分の悪い話でもないから、なんとかしてみせるよ」
 サイラスがこぶしを握った時、ぐうと腹の虫が鳴った。彼は「あ」と気の抜けた声を上げる。
 テリオンは神官に託されたものの存在を思い出した。荷物から赤い果実を取る。
「オフィーリアからだ。これでも食べて気合を入れろ」
「ありがとう」
 サイラスは当たり前のように受け取って、そのままリンゴにかじりついた。しゃり、といい音が立つ。
 彼の信条は誰にでも平等に知識を分け与えることだ。しかし、自分一人で抱えるべきものだってたくさんあるだろう、とテリオンは思う。このリンゴや旅の思い出は、無闇に分けたりすり減らしたりしてほしくない。そうして得られたたくさんのものを、いつかアトラスダムに持ち帰ったらいい。
 二人は遺跡の前にたどり着いた。どちらともなく入口の前で立ち止まる。清涼な風が吹き抜けて、紫の外套と黒いローブを揺らした。
「知るという行いに、終わりはない」
 サイラスは書物の一節を諳んじるように声を張った。
「だからキミの言うように、何かを知る旅にも果てなどないのだろう。それは私がどこにいても、誰と一緒にいても続くものだ。
 だが今は、みんなとともに『その先』を見たいと願っているよ」
 彼の浮かべたとびきりの笑みの中に、テリオンはあの子どもを見つけた。
 いつの日か、サイラスは己の無意識に住む存在を認められるようになるだろう。場合によっては、テリオンがその瞬間を見届けることになるかもしれない。
 テリオンはもうしばらくの間、彼とともに歩みを続ける。サイラスが未来を願って蒔いた種は、とうの昔に芽吹いていたことを教えるために。
 旅に果てはないけれど、それは各々で歩むべき道であって、二人がともにゆくのは区切りのある旅だ。テリオンはそれで構わなかった。相手の過去など知らなくていい。理解するのはただの一点――サイラスが心の底からやりたいことだけでいい。
 果てのない旅路の終わりが輝く平原だろうが、暗い門の中だろうが、どこへだって連れ出してやろう。
 まだ見ぬ世界を誰かと歩む道行きは幸福に満ちていると、テリオンは仲間たちから教わった。だからこそ旅が好きだった。たとえいつか一人に戻っても、この充足感は決して変わらないと信じられる。
 テリオンは唇をほころばせ、躊躇する学者の腕を取って一歩踏み出した。
「行くぞ、サイラス」
 新たな約束を抱いた二人は、ようやくひとつに交わった道を、肩を並べて歩いてゆく。

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