トラベラー・クロスロード



 実を言うと、クリスは父との思い出をほとんど持っていない。
 不治の病にかかった母を治すため、彼は息子が物心つく前に薬の素材を探す旅に出た。クリスは病床の母とともにボルダーフォールにある知人の家に預けられ、そこで育った。
 病人と一緒に居候していたわけだが、肩身の狭さはあまり感じなかった。知人の家はあたたかかった。親らしいふるまいのできない父母に代わり、知人夫婦はたいそう親切にしてくれた。クリスは十分恵まれた環境にいたと思っている。
 父親からは時折手紙が届いた。そこには旅の出来事に加えて、いつも最後に「絶対に薬をつくってみせる」という希望が綴られていた。まだクリスは字を書けなかったが、母が震える手でしたためた返事に絵を添えて送り返した。
 たとえ居場所は遠く離れていても、父親は家族のことを第一に考えている。知人が口を酸っぱくして説いた話を、クリスは無邪気に信じていた。
 だが、薬は間に合わなかった。母は命の火が尽きて死に、病気を広めないため遺体はすぐに焼却された。その数日後に父は帰ってきた。
「グラム、奥方はもう……」
 知人から「遅すぎた」という事実を突きつけられ、父親の肩から鞄が落ちた。その中からは完成した特効薬が転がり出てきた。
 そんな、とつぶやく父親の目から涙がこぼれたのを見て、クリスは驚いた。大の大人、それも実の親が泣く場面なんて、想像すらしたことがなかったのだ。
 父親はふさぎ込み、空っぽになった母の部屋から出てこなくなってしまった。
「クリスの前であんな態度をとるなんて」
「奥様の葬儀は一体いつ行うのかしら……」
 父の乱心は三日三晩に及び、知人夫婦もさすがに苦言を呈していた。その間、クリスはより一層まわりに世話を焼かれた。
「ごめんねクリス、寂しいでしょう」「本当はキミの父さんが気にかけてやるべきなのに」
 しかしクリスの心は凪いでいた。ただ「そういうものだ」と諦めていた。長い闘病生活をともにした母はこの世を去り、残った父はずっと昔から遠い存在だった。三人の家族は最初からばらばらに壊れていたのだ。
 そして、おそらく父親の精神は息子よりももろかった。クリスは刻一刻とやせ細る母親を間近で見ていたから、いつか来る「その日」の覚悟ができていた。しかし父はそうではなかった。長年のよりどころだった希望がなくなり、心が折れてしまったのだ。
 なんとか失意から回復した父親は、ようやく母の葬儀を行った。そして――すぐに家を出ていってしまった。
「私は彼を引き止められなかった……」
 知人は幼いクリスに頭を下げた。こちらが気の毒になるほど顔色が悪かった。前の晩、父と論争する声が聞こえてきたが、説得できなかったらしい。
 父親はクリスに「また戻る」とだけ告げていなくなった。今度は手紙もなく、完全に音信不通になった。この出来事も、いつしかクリスの中で諦めに変わっていった。
 ――それから十年の月日が流れ、ごく最近、久々に父の手紙を整理していた時のことだ。
 片付けの途中で何気なく手にとった便せんには、幼いクリスが母から伝え聞いた旅のエピソードが細やかな筆致で書かれていた。文面を読んで思い出に浸るうちに、母の語りでは表現しきれていなかった点に気づいた。
 それは、旅人の抱いた喜びが手紙全体からにじんでいたことだ。
(父さんは自分の旅を楽しんでいたんだ……)
 クリスは衝撃を受けた。彼は旅の空でも充実した人生を送り、それを家族に分け与えるために手紙を寄越していたのだ。最後に会った時の父親の印象が、一気に塗り替えられる心地がした。
 夢中になって手紙を漁るうちに、ひとつの封筒から群青色のリボンが出てきた。母親に贈ったものだろうか、と思いながら便せんを開く。
「息子のクリスへ――これは魔除けのリボンだ。いつかお前が旅に出た時、身に着けていればどんな不安も払ってくれるだろう」
 それは、クリスの長く続いた諦めに区切りがついた瞬間だった。
 父はクリスが旅に出ることを望んでいた。ならば、今もどこかで息子を待っているのではないか。
 根拠のない憶測だ。しかし、クリスは自分でも不思議なほどの熱意に突き動かされ、旅の準備を整えた。もちろんリボンは持っていく。珍しいものだから、もしかすると旅先でリボンや父を知る人に出会うかもしれない。
 知人夫妻には旅立ちを告げなかった。きっと引き止められるだろうし、「父親を追いかける」と言えばいい顔をしないはずだから。
 そうしてクリスはほとんど家出同然にボルダーフォールを旅立った。



「そうですか、お父様が幼い頃に……」
 神官オフィーリアは聞き上手だった。おかげでクリスは旅に出た経緯をほとんど話してしまった。
 二人はリボンの行方を追って下層に向かっていた。「リボンは誰かに盗まれた」と責任転嫁した例の二人組が、下層の酒場に立ち寄ったことを告白したからだ。きっとクリスが追い返された後に顔を出したのだろう。今回はオフィーリアも一緒だから、なんとしてでも店主から情報を聞き出すつもりだ。
 加えてクリスは奇妙な衝動を胸に抱いていた。下層で何かが自分を呼んでいる。早く行かなければ。きっとリボンはそこにある、という確信があった。
 階段を降りるペースを上げながら、クリスは相槌を打つ。
「他に父の持ちものは何も残っていません。あれがたったひとつの手がかりなんです」
 クリスは旅立ちのきっかけとなったリボンをどうしても諦められなかった。あの置き土産こそが今後の自分を導く予感がしていた。
 オフィーリアはほおを緩めて、
「お父様もリボンも早く見つかるといいですね。わたしもクリスさんの旅を応援しています」
「ありがとうございます、オフィーリアさん」
 こういう気持ちを誰かに吐露するのは初めてだった。胸が軽くなった気がする。真正面から本音を受け止めてくれる神官と知り合えてよかった、と思った。
 ふとオフィーリアが立ち止まった。
「どうしました?」
 クリスが隣に並ぶと、彼女は不思議そうに手の中のランタンを見つめた。
「すみません、なんだか手が熱くて……きゃっ」
 いきなり彼女の左手から青い炎が燃え上がった。クリスは目を剥く。
「だ、大丈夫ですか!」
「はい、問題ありません」
 オフィーリアはにこりと笑う。確かに彼女の黒い手袋には焦げ跡一つなかった。ただし、ランタンに被せられていた覆いが燃え尽きてしまった。クリスはその下から現れたあたたかな光源に釘づけになる。
「もしかして、その炎は」
 ゆらめく空色をしていた。噂で聞いたことがある。これはフレイムグレースやセントブリッジの大聖堂にあるという――
「原初の炎の種火です」
 オフィーリアの返事に驚愕した。聖火神エルフリックがはるかな過去に天から持ち帰った炎そのものだ。クリスはまじまじと青色を見つめる。
「もしかして、オフィーリアさんが式年奉火の運び手なんですか!」
「はい。あまり目立ってはいけないと、ハンイットさんが覆いをつくってくださったのですが……」
 今年は二十年に一度の式年奉火の周期にあたる。すでに運び手がフレイムグレースから旅立った、という話は耳に挟んでいた。それがこんなに若い神官だなんて思いもしなかった。
「これが本物の聖火かあ……。なんで突然燃えたんでしょうね」
 おっかなびっくり炎に手をかざせば、穏やかな温度が伝わってくる。オフィーリアが伏し目がちに尋ねた。
「クリスさん。あなたのリボンには魔除けの効果があるのですよね」
「あ、はい」
「この種火も似た力を持っています。もしかすると……魔、と呼ぶべきものが近くにいるのかもしれません」
「ええ?」
 彼女は真剣そのもので、決してからかっている雰囲気ではない。クリスはぎょっとしてあたりを見回した。感覚が鈍いのか、そんな気配はどこにも見つからなかった。まさか、この先の貧民街に危険な何かがいるのだろうか?
「聖火がこのような反応をしたことは今まで一度もありません。わたしの思い過ごしなら良いのですが、この町に何か起こっているのかも……」
 刹那、彼女は表情を変えて「伏せて!」と叫ぶ。
 反射的に頭を抱えてしゃがんだ。すぐ上を巨大なものが通り抜ける。体勢を立て直し、風下に目を向けると、崖の外に翼を広げた影があった。
「魔物……!?」
 街道で戦ったバーディアンよりもはるかに大きな怪鳥だ。町中に魔物が出るなんて、いくら貧民街でもそうそうあるはずがない。しかも魔物はくちばしに紐のようなものを引っ掛けていた。探し求めた群青色を視界に入れて、クリスは一瞬絶句する。
「僕が探しているリボンはあれです!」
「えっ!?」
 オフィーリアがびっくりしたように口元をおさえた。
 どうして魔物がリボンを持っているのだろう? 誰かに盗まれたのではなかったのか? 疑問は尽きないが、考える暇もなくクリスは剣を抜いた。魔物もこちらを敵と認識しているらしく、高く啼いて威嚇する。その直後、空を切って肉薄してきた。クリスは階段の上で体をひねってなんとか避ける。
 鳥の魔物は執拗に突進を繰り返した。風にあおられて足を踏み外しそうになりながら、クリスは間一髪でかわし続ける。足元が悪く、ろくに反撃できない。しかも魔物は明らかに――
(僕を狙ってる……!?)
 神官よりも弱いとみなされたのか。確かにそのとおりなので文句のつけようがない。それ以外の原因となると、思いもつかなかった。
 体当たりの合間に魔物が離れた隙をつき、オフィーリアが杖を構えて前に出る。
「クリスさん、下がってください。わたしがなんとかします」
「そんな、無茶です!」
 しかし彼女は一歩も退かず、真っ向から魔物に対峙する。相手は空中から急降下してきた。クリスが固唾をのんで見守る先で、オフィーリアはすっと背筋を伸ばす。
「光よ!」
 凛とした叫びとともに光の柱が出現して、魔物の翼を撃ち抜いた。今のは魔法だ。間近で見るのは初めてだった。怪鳥はバランスを崩して空中でふらついたが、墜落するには至らず、様子見のためか宙を駆けて遠ざかっていく。
「今のうちに移動しましょう」
 オフィーリアに急かされ、慌てて階段を駆け下りた。少しでも安定した地形に移動するためだ。下層に到着し、崖の先を見ると魔物はまだ遠くを飛んでいた。
 貧民街の住民は騒動を知って屋内に引きこもったらしい。あたりには人っ子一人いなかった。――と、足音が近づいてくる。
「オフィーリア、無事か!」
「ハンイットさん!」
 毛皮を肩にかけた女性がやってきた。品のある顔立ちをした彼女は、神官に聞いたシ・ワルキの狩人だろう。ハンイットは空を横切る手負いの魔物から視線を外さず、オフィーリアに話しかける。
「ここはわたしが引き受ける。あなたはサイラスの怪我を診てやってくれ。リンデと一緒に酒場の前にいる」
「サイラスさんが? ええ、分かりました」
 オフィーリアは疑問を飲み込み、狩人と交代して下層の奥へ駆けていった。ハンイットはクリスの隣に並び、森の色の瞳をちらりと動かす。
「もしかしてあなたがクリスか?」
「は、はい」
「わたしたちはあなたを探していたんだ。あのリボンの持ち主なのだろう」
 クリスはどきりとした。彼女が視線で示した先にはリボンをくわえた怪鳥がいる。相手はこちらに攻撃する機会を伺っているようだ。
「どうしてそれを……」
「サイラスの頼まれごとだ。それはともかく、あのグレートコンドルはあなたを狙っているようだな。心あたりは?」
「ありません。どうしてリボンがあそこにあるのかも、さっぱりです」
 力なく首を振ると、ハンイットは大きくうなずいた。
「よし、話は後だ。まずはあの魔物を撃退しよう。放置すれば町に被害が出るかもしれない」
 明朗に言い放った彼女は、流れるような動作で弓を取り出した。矢をつがえて強く引き絞る。一瞬後、解き放たれた矢がまっすぐに飛んで魔物の翼をかすった。それだけでは止まらず、彼女は腰に提げた矢筒に手を入れ、驟雨のように次々と矢を降らせる。クリスは手に汗握りながら戦いを見守った。
 怪鳥が崖の上空にいるため、ハンイットは周囲を気にすることなく攻撃できた。だが、もし距離を詰められたら――
 矢は何発か魔物に命中したが、撃ち落とすには足りない。速さと手数を優先したため一撃が軽いのだ。怪鳥はばさばさと翼を動かし、反撃とばかりに接近してくる。ハンイットは眉をひそめて弓を下げ、空いた手を背中の斧に伸ばした。
 魔物は彼女に迫る――と見せかけて、急角度に曲がった。にらみつけられたクリスは息を呑み、棒立ちになる。
「クリス!」
 ハンイットがとっさに弓を構え直して翼を撃ち抜いたが、魔物の勢いは止まらない。クリスは一直線に降下する鳥を見つめ、後ずさりそうになった足を叱咤する。
 自分はまた何もできないのか。この先一人で旅をするというのに、毎回他人に助けられてばかりだ。
(これじゃ、いつまで経っても父さんを見つけられない……!)
 切実な思いが全身を奮い立たせた。彼は無意識に剣を水平に構え、まぶたを下ろす。
 体の奥底から何かが湧いてきた。その流れに従い息を吐いた直後、轟音が走った。至近距離に雷が落ちたような衝撃があって、一瞬まぶたの裏が白く染まる。
 ぎょっとして目を開けると、半身を黒焦げにした魔物が崖下へと落ちていった。
「今のは……雷撃魔法か」
 ハンイットがこちらを見て呆然とつぶやく。その視線と台詞の意味を悟り、また心臓が跳ねた。
(もしかして僕が使ったのか……?)
 クリスはどぎまぎしながら手のひらを見つめた。魔法なんて今まで一度も使ったことがなかった。そもそも詠唱の文言すら知らないのだ。それなのにどうして。
 早鐘のような鼓動がおさまらない。生まれて初めて味わう高揚が全身を満たしていた。
「待て!」
 唐突にハンイットの叫びが耳に入った。顔を上げれば、瀕死の魔物がリボンをくわえて空に逃げていくのが見えた。ボロボロの翼で町の上層に向かったらしい。
 なんてしぶといのだろう。グレートコンドルといえばこのあたりでは強敵として知られるが、それにしても異常な生命力だった。
 剣をしまい、遠ざかる魔物を追いかけようと浮足立った時、背後から軽やかな足音がした。駆けてきたのは白い獣だ。新たな敵かと身構えたが、ハンイットが顔を明るくして「リンデ!」と呼ぶ。
「来てくれたのか。頼む、あの魔物を追ってくれ」
 ハンイットに託された獣は猛スピードで階段を駆け上がっていった。どうやら狩人の仲間らしい。
 一息ついてから、彼女はこちらに向き直る。
「先ほどの魔法といい、尋ねたいことは山ほどあるが……ひとまずサイラスたちと合流してリンデを追おう。それでいいか?」
「あ、はい」
 クリスはどこかふわふわした気分のまま彼女の後ろに従った。早足で酒場の前に行くと、黒いローブを羽織った男性とオフィーリアが立ち話をしていた。二人はこちらに気づいて表情を和らげる。
「怪我の調子はどうだ、サイラス」ハンイットが尋ねた。
「オフィーリア君のおかげで綺麗に治ったよ」
 サイラスと呼ばれた男性はひらひらと片手を振る。彼がレイヴァース家を訪問したという学者だろう。真っ白な袖口が鮮血に濡れていたので、クリスはぎょっとした。神官の魔法で治したようだが、ひどい怪我だったのかもしれない。
「先ほどの魔物はどうなりましたか?」神官が首をかしげた。
「すまない、仕留めそこなった。しかもリボンをくわえたまま上に行ってしまった。今リンデが追跡しているから、一緒に追いかけよう」
「それがいいね」
 うなずいたサイラスは、次いでこちらに目を向けた。彼の顔立ちは非常に整っていて、真正面から相対したクリスは緊張してしまう。
「キミがクリス君だね。怪我は?」
「だ、大丈夫です」
「それは良かった。きっと聖火のお導きだね」
 彼は意味ありげにオフィーリアにほほえみかけた。神官ははっとしたように種火を持ち上げ、「ええ……きっとそうですね」と応じる。どういう意味だろう。ハンイットも何か言いたそうに学者を見つめていた。
 切り替えた四人は魔物を追って上層に向かう。ハンイットが先導し、オフィーリアとクリスが続いて、サイラスが最後尾だ。中層にたどり着くとまっすぐに道を突っ切って、さらなる階段に足をかける。
 クリスは目まぐるしい移動に息を切らしながら、脳裏に疑問を浮かべていた。
(あのリボン、魔除けじゃなかったんだ……)
 むしろ魔物を引き寄せているではないか。父親は手紙に嘘を書いたのだろうか? 今度会ったら恨み言をぶつけてやろう、と考える。
 階段の頂点に着いた。クリスのよく知る上層の屋敷街が広がる。しかもハンイットが目指すのはレイヴァース家の方面だ。道中、知人の屋敷の前を通りがかったので、クリスはうつむきながら一層すばやく足を動かした。
 やがて住民の憩いの場である庭園に到着した。そろそろ日も落ちてきて、あたりは閑散としている。獣の姿はない。
「リンデ、どこだ」
 ハンイットが静かに呼びかけた。茂みの向こうから「ガウ」と返事がくる。
 そちらに踏み込めば、リンデが顔を出して案内してくれた。ほどなく四人は植栽の陰に隠れた魔物の死体を発見する。どうやらここで力尽きたらしい。
 さらに、死体のそばには何故か人間がひとり立っていた。
「アルファス殿? 一体どうしたんだい」
 サイラスが声をかけた。クリスはひそかに驚く。アルファスといえば、近頃知人の家に出入りしていた傭兵ではないか。いつの間にかサイラスと知り合っていたらしい。
 クリスはそっと学者のローブの陰に隠れる。が、アルファスはまるでこちらに注意を払わず、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「あの女性は……俺の運命の人かもしれん」
「え?」
 突拍子もないつぶやきに、四人分の疑問が重なった。
「ああリブラック殿、あなたはどこへ行ってしまったのか。いいや俺は諦めないぞ……」
 アルファスは謎の単語を口走ってこぶしを握ると、夢見る瞳のままいずこかへ歩き去ってしまった。
「今のはどういう意味だったのだろう?」サイラスが首をひねる。
「さあ……素敵な女の人に出会って、一目惚れしたということではないでしょうか」
 オフィーリアが解説すると、ハンイットは「そういうことか」と納得していた。クリスはあっけにとられて今の光景を反芻する。生真面目な傭兵の意外な一面を垣間見た気分だ。
「ふむ、リブラックというのは彼女のことか……?」
 低いつぶやきが耳に入る。声の主サイラスは眉根を寄せて何かを考え込んでいた。
 人間たちが戸惑っている間に、リンデは鼻先でごそごそと死体を漁っていた。やがて何かを見つけ、狩人のもとに駆け戻る。
「リボンだな。ありがとうリンデ」
 受け取ったハンイットは獣の頭をなでて、そのままクリスにリボンを渡した。
「やっと取り戻したのだね」「良かったですね、クリスさん」
 学者と神官に祝福されながら、クリスはじいっとそれを見つめた。しばらくして口を開く。
「これ、僕のリボンじゃありません」
「えっ? そうだったのですか」オフィーリアが目を丸くした。
「本物のリボンは薬のにおいがしましたから。何年も染み付いたものがそう簡単にとれるとは思えません」
 クリスは冷静に言った。便せんを開けた瞬間に漂うあの香りに、いつも父の存在を感じていた。だから間違えるはずがない。このリボンは見た目はよく似ているが、まったくの別物だ。
 サイラスは得心がいったように何度もうなずく。
「やはりそうか。おかしいと思ったんだ。行方不明になった父親が残したものが、魔物を引き寄せるリボンだとはとても思えなかったからね」
「引き寄せる? 魔除けじゃなくて?」
 クリスは素っ頓狂な声を上げた。サイラスが真剣な表情でリボンを見つめる。
「これは引き寄せのリボンだよ。とある人物から渡されたもので、しばらく私が所持していた。しかし、リボンに誘われてきたグレートコンドルに奪われてしまったんだ」
 つまり、本物のリボンの行方は分からないままだった。がっくりと肩が落ちる。
「なんでそんなものがこの町にあるんでしょう……」
 クリスを惑わせるために仕組まれたたちの悪いいたずらではないか、と思えてくる。
「おそらく……このリボンで誰かを引き寄せようとしたのではないかな。しかし、何かに阻まれて失敗したというところか」
 おとがいをなぞるサイラスは、曖昧な台詞を断定的に言った。クリスがぽかんとしていると、彼は青い目を細める。
「とにかくキミが無事でよかったよ。ところで、先ほどキミが魔法を使う場面を目撃したのだが、もしや詠唱をしていなかったのではないかな。一体どうやってあれを?」
 いきなり矢継ぎ早に質問してきた。一瞬「話をはぐらかされたのでは」と思ったが、相手の勢いに流されてしまう。
「ぼ、僕にもよく分かりません」
「そうなのかい? なかなかの威力だったね。そうだ、キミも是非学者に――」
 瞳を輝かせたサイラスが急に距離を詰めてきたので、クリスはのけぞった。
「勧誘は後にしろ、サイラス」
 ハンイットに肩を引かれ、学者はおとなしく口をつぐむ。なんだか掴みどころのない人だった。
 オフィーリアが小さく首をひねる。
「それにしても不思議ですよね、詠唱なしで魔法が使えるなんて」
「僕、魔法なんて一度も使ったことなかったんですけど……」
「魔法には適性があるから、キミには詠唱を省略できる才能があるのかもしれないね」
 サイラスの発言にどきりとした。もし血の系譜でクリスに才があるとすれば、それは薬師の方面だろう。とはいえ父の仕事ぶりはほとんど見たことがなく、調合の仕方すら知らなかった。それでも目の前に新たな道を提示され、クリスは少しだけ自信が湧いてきた。
 オフィーリアは庭園に面してそびえる大きな屋敷を見上げる。
「そういえばサイラスさん、レイヴァース家を訪問していたのではなかったのですか?」
 彼は肩をすくめた。
「いろいろあって、夕方に出直してくれと言われたんだ」
「それならもうお時間では……」
「その前にクリス君、キミに会わせたい人がいる。少し場所を移動しよう」
 学者サイラスはにこりと笑った。クリスはその時やっと彼の意図に気づいた。が、逃げようとは考えなかった。
 四人と一匹が立ち止まったのは、知人の屋敷前だった。
 前に出たサイラスが呼び鈴を鳴らす。すると、しばらく会わないだろうと思っていた人が姿を現した。知人の貴族はクリスに気づかず、どこか不安げにサイラスを見つめた。
「アルファスを知りませんか。リボンをくわえた魔物を追いかけていったのですが……」
「ええと……遅くなるかもしれませんが、必ず戻ってきます。きっと今は魔物の死体を処理しているのでしょう」
 学者は言葉を濁し、こちらを振り返る。「それよりも、クリス君を見つけました」
「え」
 驚きに揺れる知人の視線が一点に固定された。真正面から彼に向き合い、クリスは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、勝手に出ていってしまって」
 どんな説教も受ける覚悟だった。決して知人の家に不満があったわけではないのに、無用な心配をかけてしまった。今思えば、自分は十年前に家を飛び出した父親と同じことをしてしまったのではないか。背中に冷や汗が流れる。
 しかし知人は緩やかにかぶりを振った。
「何ごともなかったならいいんだ。下層に行ったのかい?」
「はい。一度街道に出て、リボンをなくしたことに気づいて戻ってきたんです。それからこの人たちに助けてもらいました」
 学者たち三人はそろってうなずく。知人は彼らに穏やかなまなざしを向けた。
「みなさん、ありがとうございました」
「いえ。クリスさんのお父様もきっと見つかりますよ」
 オフィーリアの台詞に、知人は息を呑んだ。彼は痛みをこらえるような顔になって、
「やはり、父親を探しに行くんだね」
「はい。どうしてもまた会いたいんです」
 それだけは譲れなかった。きっぱり言い切ると、知人はそっとため息をつく。
「……キミは父親を恨んでいると思っていたんだ」
 クリスは胸を衝かれた。
(そうか、そういう可能性もあったんだ……)
 自分を置いてけぼりにした父親に対して怒りを燃やす方が、よほど自然だろう。知人はそれを気にかけていたのだ。
 クリスはぶんぶん首を振る。
「父のことをどう思っているのか、正直自分にもよく分かりません」
 父親はクリスの人生においてほんの一瞬交わっただけの人だった。記憶に残らぬほど幼い頃にはおんぶや抱っこもしてもらったのだろうが、そのぬくもりはもう遠すぎる。父との思い出は、わずかな手紙のやりとりと、母の死の直後に交わした短い言葉だけだ。
「だから父を探して、自分の気持ちを見極めたいんです」
 それは自分にしかできないことだ。ぶつけるべき恨み言さえ分からないから、とにかく会ってみたい。
 クリスは葬式の前後の父の様子がずっと気にかかっていた。重い後悔に囚われた彼の心を軽くする役割は、息子である自分が果たすべきだったのではないか――そんな思いが拭えなかった。
 すべてを諦めて流されるままに生きるのではなく、父を探しに行きたい。十年前の自分には不可能だったけれど、今なら彼の悲しみを分かち合えるはずだ。それはクリスが旅の果てに目指す自分の姿であり、未熟な息子なりの精一杯の親孝行だった。
 知人は顔をほころばせた。
「分かった、もう止めないよ。だが、旅の準備はきちんとしていきなさい。分かったね」
 今朝方ブドウを使い果たしたクリスは、赤面しながら小さく「はい」と答えた。
 振り返ると、夕焼けに包まれた旅人たちが、静かな表情でクリスの門出を祝っていた。オフィーリアが胸元に手をあてる。
「ところでクリスさん、リボンはどうしましょう」
「手がかりがなくなってしまったな」
 ハンイットが渋面を刻む。クリスは引き寄せのリボンを顔の前に持ち上げた。
「そうですね……町を出発するのは明日にして、ぎりぎりまで探してみます」
 リボンを惜しむ気持ちはいくらか薄らいでいた。ささやかな手がかりにすがっていたのは、自分の気持ちを見極めきれていなかったからだ。今のクリスは、やりたいことも目指すべき理想もはっきりしている。
 サイラスは一歩踏み出して、
「是非キミに協力したいところだが、私はそろそろレイヴァース家に行くよ。そうだ、そのリボンは私が預かろう」
「え? はあ、分かりました」
 確かにクリスが持っていても仕方がない。魔物が寄ってくるならなおさらだろう。とはいえ、少しだけ手放しがたい気持ちになってしまった。リボンを渡すと、サイラスは口元を緩める。
「ありがとう。キミとはまだ話したいことがあるから、夜にでも宿に顔を出してもらえるかな」
「喜んで!」
 クリスは満面の笑みになり、深々と頭を下げた。
「本当に……ありがとうございましたっ」
 この三人と銀髪の青年がいなければ、自分は今頃どうなっていただろう。彼らはクリスの恩人だった。父の手紙にあった「旅における格別の出会い」とは、まさにこのことだ。
「では行ってくる」
 サイラスはローブを翻して颯爽と去っていく。続いてハンイットとオフィーリアが一礼した。
「わたしたちも宿に戻るぞ」
「またあとでお会いしましょう、クリスさん」
 不思議な旅人たちは穏やかにきびすを返した。あの三人はどういう経緯で旅をしているのだろう。普通に考えれば式年奉火の運び手たるオフィーリアの従者という組み合わせだろうが、どうもそういう雰囲気ではなかった。
(まあ、これからゆっくり知っていけばいいか)
 いつの日か、また彼らと道が交わるかもしれない。もしくは本当に一期一会かもしれない。たとえどちらの結果になったとしても、今日の出来事がクリスの心に深く刻まれたことは事実だった。
 彼は満たされた心地でゆっくりと家路についた。



「リボンの行方に心当たりができたよ。きっと明日にでもキミの前に現れるはずさ」
 その晩、宿で再会したサイラスは朗らかに告げた。クリスの頭は疑問符でいっぱいになる。
「どういうことですか……?」
「この人はいつもこうなんだ。くわしいことを話してくれない」
 ハンイットが不満げに腰に手を当て、リンデが鼻を鳴らした。サイラスは涼しい顔だ。オフィーリアが申し訳なさそうに眉を下げて、
「最後までお手伝いできずにすみません。わたしたちは船の時間があるので、明日は朝早くに失礼します」
 三人は宿の部屋で慌ただしく荷物をまとめている最中だった。どうやら突然サイラスのもとに手紙が届き、進路変更を余儀なくされたらしい。明朝、ボルダーフォール近くの港に赴いて中つ海を東へ渡る予定だという。
 あれほど親切にしてもらったのだから、クリスは文句を言うつもりはない。しかし彼らの旅路には謎が多かった。式年奉火の次の目的地であるセントブリッジと逆方向に行って、何をするのだろう。
 それを尋ねるべきか迷っていると、
「クリス、あなたは一人で旅に出るつもりなのか?」
 荷物の準備をしながらハンイットが質問した。クリスは分かりやすく狼狽する。オフィーリアとサイラスもこちらに視線を注いでいた。
 もしかしたら、彼女たちは同じ旅路に誘ってくれているのかもしれない。しかしクリスの決意は固かった。
「はい。父も一人旅だったと聞いています。少なくとも、最初くらいは一人を味わってみたいんです」
「それもいいでしょうね。クリスさんなら大丈夫です」
 オフィーリアがやわらかく笑み、サイラスは荷造りの手を止めて考え込む。
「一人の時は何かと大変だったな。魔物と戦闘してもすぐに魔力が尽きてしまって……」
「それはあなたが魔法を使いすぎたからだろう?」
 ハンイットの容赦のない発言にクリスはくすりと笑う。サイラスも最初は失敗しながら旅をしていたのだ。彼でさえそうなら、自分がミスをすることは当たり前だと思えた。
 それから他愛もない雑談とともに夜は更けていき、クリスは知人の家に戻った。
 ――翌朝を迎えた。クリスは出発する三人を見送るため、町の入口にある岩のトンネルの下に立つ。
 濡羽色の髪に朝日を受けたサイラスが、ひたと青い瞳を向けた。
「クリス君、キミのリボンには誰かと誰かを結ぶ力があるのかもしれない」
「はい?」
 いきなり何を言い出すのだろう。クリスは困惑しつつ、学者の整った相貌を見返した。
 ちなみに引き寄せのリボンは依然としてサイラスが所持している。彼の調べにより、魔物を引き寄せる効果は無作為には発動しないことが判明した。よってまじないを抑え込むため、聖火の近くに置くべきだという結論が出たのだ。
 学者はリボンを握り、ほほえみを深める。
「昨日、私は自分の身で体験したんだ。ボルダーフォールでキミをはじめとする多くの人との出会いがあったのは、このリボンのおかげかもしれない」
「え……でも、そのリボンは父さんのリボンとは関係ないんですよね?」
「二つのリボンは元は同じものだったんだよ」
 クリスはびっくりして目を見開く。オフィーリアたちが興味深そうに耳を傾ける中、サイラスの涼やかな声がクリフランドの風に乗って届いた。
「キミの父親は、このリボンに秘められた力をまったく逆のものに――魔を遠ざける力に変えたんだ。まじないか何かを使ってね。
 だから、キミのなくしたリボンは魔除けと引き寄せという二つの性質を持つのだろう。彼はキミの旅に良い出会いがあるよう願いを込めて、リボンを託したんだ」
 サイラスは予言めいた言葉を残した。どうしてそんなことが分かるのか、皆目見当もつかない。ただ、ひとつだけクリスは思い当たることがあった。
(あの薬のにおいは、魔物が嫌うものだったのかな)
 十年越しに父親の思いを知って感慨に浸るクリスに対し、オフィーリアは両手を組んであたたかいまなざしを向け、ハンイットは胸元に提げた紐を握って何かを思い出すような顔をしていた。
 あらためて別れの挨拶を交わし、去りゆく三人の背中が朝もやに溶けた。そろそろクリスも動く時だ。
 リボンは必ず自分の前に現れる――サイラスの言葉を信じて、最後に中層をぐるりと一周した。が、収穫はなかった。仕方ないので諦めて町を出ることにする。
 今度こそ鞄は薬で満杯だった。それに、今の自分には魔法がある。昨晩、宿でサイラスに使い方を教えてもらったのだ。おかげでクリスはある程度魔法を操れるようになった。自分でも驚くほど短時間で習得でき、アトラスダムで教師をしていたサイラスに「筋が良い」と褒められた。結局、あれから一度も詠唱なしで使うことはできなかったけれど。
(案外僕って魔法使いの素質があったりして……)
 という期待は、サイラスのとんでもない火力の見本の前にもろくも崩れ去った。
 クリスは思い出し笑いをして、昨日とは違う心地で町の入口に立つ。
 またここから旅がはじまるのだ。今度こそ胸を張って父親を探しに行こう。この大陸のどこかにサイラスたちがいて、最後に父が待っているなら、一人でも多少の困難は乗り越えられるはずだ。
 彼が決意を抱いて一歩踏み出した、その時。
「邪魔だ」
 低い声とともに紫の外套がするりと脇を通り抜けた。
「あ、あなたは……!」
 クリスは逃げゆくマフラーの端を掴む。ぎろりと振り向いた相手の眉間にはしわが寄り、見るからに気が立った様子だった。だがクリスはひるまずに声をかける。
「また会いましたね」
「……そうだな」
 昨日、魔物から助けてくれた銀髪の青年である。彼は不機嫌そうに手を振りほどいた。クリスは彼を逃さないよう質問を重ねる。
「その腕輪、どうしたんですか?」
 彼の右手には見慣れない腕輪がはまっていた。金属製で、手首のサイズとあまり合っていない。表面には奇妙な模様が刻まれていた。昨日は身につけていなかったはずだ。
 指摘すると、すさまじい舌打ちが返ってきた。よほど触れられたくない話題だったらしい。それでもクリスは話を続けた。
「そうだ、あなたの名前を教えてください。ほら、会うのも三回目ですし!」
 彼は「なんでまだ町にいるんだお前」とでも言いたそうな目線をクリスに刺して、
「……テリオン」
 ぼそりと答えた。クリスは大きくうなずく。
「テリオンさんですね。僕、これから北に向かうんです。あなたはどちらへ?」
「反対方向だ」
 すげなく言われてしまった。それでも街道の分岐点までは一緒に歩けるかもしれない。一人旅の予定は変わらないけれど、テリオンとはもう少しだけ話をしてみたかった。
 不意に、テリオンがこちらに手を伸ばす。
「忘れ物なんて二度とするなよ」
「わ」
 軽く頭を叩かれたかと思えば、ひらりと目の前に何かが垂れてきた。
 目の覚めるような群青色をしたそれは、この二日間探し求めたリボンだった。ほのかに薬のにおいが漂う。
「え、テリオンさんこれって――ああ、待ってください!」
 クリスは早くも道の向こうに消えそうになる紫の外套を、急ぎ足で追いかけた。
 どうしてテリオンがリボンを持っているのだろう? 彼がいつの間にか例のバンダナをした二人組から盗んでいたということか? まさか。
 それに、サイラスはクリスのもとにリボンが戻ることを確信していた。つまり、学者はリボンを持ったテリオンとどこかのタイミングで顔を合わせていたのだ。
(そうか、これもリボンの結ぶ縁なのかな)
 まるで接点のない旅人同士が確かにつながった。テリオンたちの助けを借りて取り戻したリボンは、サイラスの言うとおり単なる魔除けにとどまらない効果を持っていた。
 旅立ちを決意してから、クリスのまわりでは不思議なことばかりが起こる。きっと父親は幾度もこういう経験したからこそ、旅の空における出会いや道行きそのものを楽しんでいたのだ。
 人の旅路を結んだリボンを、今度こそなくさないように鞄にくくりつける。弾む足取りで街道をゆけば、間もなくテリオンの背中に追いつくだろう。
 クリスが旅の果てに結びつくべき人の後ろ姿は、まだどこにも見えなかった。

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