グランドタクティクス



「ずいぶん辛気くさい顔してるわね、剛剣の騎士様!」
 酒場の喧騒を縫って、弾けるような呼びかけが耳に届く。カウンターで一人グラスを傾けていたオルベリクはのろのろと顔を上げた。
 豊かな銀髪を真っ赤なリボンで結い上げた女性は、ヴィクターホロウのコロシアムで興行主をしているセシリーだ。少女のような無邪気さを持つ人物だが、妙に酒場にしっくりくる。
「悩みでもあるのか? 前の打ち上げの時は楽しそうに酒飲んでたもんな」
 彼女とともにやってきた男が、オルベリクを挟んでカウンター席についた。剣闘士のネッドだ。
「……もう怪我はいいのか」
 オルベリクは尋ね返した。ネッドはしばらく前から故障を引きずっていたはずだ。
「うっ、まだちょっと……」
 相手はうつむいた。これで質問はかわしたと思いきや、今度は反対側からセシリーがジョッキ片手に切り込んでくる。
「そんなことより、冷たいわよオルベリク。ヴィクターホロウに来るなら一言くらい挨拶してほしいわ」
 以前、エアハルトの手がかりを求めてこの町にやってきたオルベリクは、彼女の要請に応じる形で武闘大会に出場し、優勝を勝ち取った。契約はそこで終わったが、セシリーはあの成績をよほど気に入ったらしい。オルベリクが町にやってきたとの噂を聞いて、わざわざ酒場まで文句を言いに来たようだ。
「で、何かあったの?」
 セシリーは周囲を見回して声をひそめた。
 オルベリクは酒を飲むと我知らず笑い出してしまう癖がある。が、今日はどうしてもそんな気分にはなれなかった。
「仲間が大怪我をしてな」
 ぼそりとこぼすと、セシリーが目を見開く。
「大変じゃない……! 仲間って、あの失礼な学者さんたちよね? 薬師にはもう診せたの」
 彼女はオルベリクの旅仲間を知っていた。特に、先の大会でサイラスが対戦相手の情報を探ろうとしたことを憤慨していたので、印象に残っているのだろう。
「薬師も神官も仲間にいる。幸い命に別状はなかった。しかし、その二人と一緒にいる時に怪我をしたんだ。還らずの森という場所に行ったらしくてな」
 ネッドがげえ、と嫌そうに舌を出す。
「あの森か……」
「曰くつきか?」
「よく失踪者が出るからみんな近づかないのよ。それじゃ、オルベリクは仲間が危ない目にあったから落ち込んでたのね?」
 セシリーの質問に対し、オルベリクは首を横に振った。
 グラスに満ちたブドウ色の液体に、浮かない顔をした自分自身が映っている。本来ならば部外者に話すべきではないのだろう。だが、打ち明けたら少しは気が楽になるかと考えたあたり、やはり彼はある程度酔っているらしい。
「少し違う。俺はその場にいなかったのだが――」
 オルベリクは、還らずの森に行ったオフィーリアから聞いた話をそのまま繰り返した。



 旅の途中でヴィクターホロウに寄った八人は、夕食まで自由行動という取り決めのもとに解散した。
 オフィーリアはにぎやかな露店街を外れて住宅地に向かった。以前そのあたりで見かけた孤児院が気になっていたのだ。もし何か困っていることがあればお手伝いします、と申し出るつもりだった。
 町を囲む森の呼気を浴びながら足を運んでいると、不意に声をかけられた。
「あの、神官様……どうか娘のために祈っていただけませんか」
「はい、わたしで良ければ」
 振り向く前に反射で答えた。首をそちらに回してぎょっとする。声の主の男性は、見るからに憔悴した様子だった。目の下に濃い隈ができて、ほおが痩けている。仕立ての良い服もどこかくたびれていた。
「だ、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
 オフィーリアは杖をしゃらりと鳴らし、男性を近くのベンチに導いた。すると彼はぎこちなく足をひきずって歩く。「もしかして怪我をされているのでは」との質問に相手がうなずいたので、オフィーリアは彼をベンチに座らせてからアーフェンに習った応急手当を施した。
「ありがとうございます。実は、昨日から娘が帰ってこないんです……」
 彼はがくりとうなだれた。自身の体調よりも娘の行方が気になるらしい。説明によると、一人娘のエリーが昨日「怪我によく効く薬を持ってくる」と外出したきり音信不通になった。数年前、母親が原因不明のまま失踪する事件があったため、彼は「娘も同じ結末になるのでは」と思いつめてしまったようだ。
 話を聞く限り、エリーは家出するタイプとは思えなかった。となると、人さらいか。オフィーリアはクオリークレストの誘拐事件を思い出す。
(もしかして、サイラスさんなら何か知っているかもしれませんね)
 彼の情報収集能力は頼りになる。町に来てからの短い間にも、それらしい噂を耳に入れているかもしれない。オフィーリアは大きくうなずいた。
「娘さんの特徴を教えてください。もちろん祈りも捧げますが、わたしと仲間で行方を探してみます」
「本当ですか。助かります!」
 平身低頭した父親は、早口で説明した。エリーは波打つ金髪が印象的で、親の贔屓目を除いても整った造形をしているそうだ。
 どういう結果であれ今日中に報告する、と約束したオフィーリアは孤児院の訪問をやめて行動を開始した。サイラスはどこに行ったのだろう。このあたりで一番人通りが多いのはやはり露店街か。
 きびすを返した途端、ばったり別の仲間に出くわした。
「オフィーリア? そんなに急いでどうしたんだよ」
「アーフェンさん、テリオンさん!」
 若者二人が並んで歩いていた。珍しい光景に、オフィーリアは少し言葉に詰まる。どうやら薬の素材を見繕うアーフェンにテリオンがついてきたらしい。そちらの話もくわしく聞きたかったが、今は緊急の用件があった。
「実は、サイラスさんの居場所を探していまして……」
 オフィーリアは失踪事件の話をした。アーフェンはみるみる同情の色を顔に浮かべる。
「そりゃ大ごとだな……俺も手伝うぜ。でも先生は見てねえな」
「サイラスなら道具屋にいるんじゃないか」
「え」
 急にテリオンが口を挟んだ。オフィーリアは絶句し、アーフェンが目を丸くして盗賊を見下ろす。
「先生の行き先聞いたのか?」
「別に。この前、次の町で薬を見たいって言ってたのを耳に入れただけだ」
 真っ当な推理である。しかし、テリオンが学者のそんな些細な発言を覚えているなんて、オフィーリアは予想だにしなかった。アーフェンも同じ気分だったようで、微妙な表情でうなずく。
「……だとよ。俺たちもちょうど向かってるとこだったし、一緒に行こうぜ」
「あ、ありがとうございます」
 テリオンは無言であごを引いた。近頃、彼がいやに素直なのでびっくりしてしまう。サイラスはどう思っているのだろう。そもそも彼はテリオンの変化の理由に気づいているのだろうか?
 そしてテリオンは当たり前のようにオフィーリアたちについてきた。いよいよ調子が狂ってしまう。
 盗賊の予想は見事的中した。三人が訪問した道具屋では、見目麗しい学者が周囲の視線を引きつけていた。
「おや、みんな揃ってどうしたのかな」
 大きな買いもの袋を抱えたサイラスは、年下の仲間たちを見て柳眉を上げた。「それが……」とオフィーリアが説明すれば、彼は形の良いあごに指を添える。
「エリーさんが消えた場所はおそらく還らずの森だろう」
「森……ですか?」
「先ほど噂を聞いたんだ。どうやらそのあたりで人さらいが出るらしい。たまたま森の近くを通りがかって、標的にされたのかもしれないね」
 顔を曇らせるサイラスに対し、アーフェンがこぶしを握る。
「なら俺たちで行ってみようぜ! 聞いちまった以上ほっとけねえよ」
「はい。エリーさんとお父様を会わせてあげたいです」
「もちろん私も付き合うよ。テリオンはどうするんだい?」
「……行く」
 この返答を聞いて軽く動揺したのはオフィーリアとアーフェンだけで、サイラスは「良かった、助かるよ」と朗らかに笑っていた。テリオンは表情を変えず、率先して店を出て行く。サイラスは荷物を鞄にしまってから後に従った。
 自然、道案内する学者と盗賊が並んで前をゆき、残りの二人は後ろについていく構図になる。森へと石畳を歩きながら、サイラスは今買ったものについて一方的に解説しているようだ。テリオンは相槌を打つだけだが、彼が学者の話をきちんと聞くこと自体が大変な進歩であった。
「テリオン、変わったよなあ……」
 頭の後ろで手を組んで、アーフェンがしみじみとつぶやく。
「ええ。今のようになられたのは、ダスクバロウの後からですよね」
 オフィーリアは一連の騒動を思い出してほおを緩めた。事件の渦中にあった時はとても落ち着いてなどいられなかったが、今となってはいい思い出だ。
 あの時、テリオンはある重大な選択をした。事が済んでからオフィーリアは彼の導いた答えを知り、心底安堵したものだ。過去の事情に関係なく「それ」を選べる人こそ、今のサイラスに必要だったのだろう。
 アーフェンはひらひらとなびく紫と黒の布を眺め、目を細める。
「何にせよ、これでやっと安心できるな」
「アーフェンさん、お二人のことをとても心配されていましたよね」
「オフィーリアだってそうだろ? だって、さすがに作戦くらい普通に話し合ってくれないと、こっちもやりづれえもんなあ」
 実感のこもった発言にオフィーリアは苦笑を返す。八人という大所帯なのに、彼女たちの間では長らくリーダーという概念すら曖昧だった。そんな状況でよく今までやってこられたものだ。
 しかし、今はサイラスもテリオンも意識して互いに意見を交換し、旅の方針を決めている。ろくな情報がない中、四人だけで森に向かっていても安心できるのは仲間の団結があるからだ。オフィーリアはしっかりと土を踏みしめ、頼もしい背中に従った。
 還らずの森は住宅街の端にある石段を下りて、すぐそこにあった。確かに不用意に近づいてもおかしくない配置だ。
「ここから先は、いつ人さらいが現れるか分からない。いつものとおりこちらの気配は遮断するが、注意していこう」
 サイラスが魔法で見えない帳を周囲におろした後、四人は気を引き締めて森に突入した。ろくに枝葉が手入れされていないためあたりは薄暗く、ところどころ地面にぬかるみがある。
 途中、アーフェンが立ち止まってあごを上向けた。
「どうした薬屋」テリオンが見咎める。
「これ、ウッドランドじゃ珍しい木なんだ。あっ思い出した。確か樹液を傷に塗ると治りが早くなるんだったな」
 勉強熱心な薬師が指さしたのは、それほど背の高くない木だった。サイラスがぴんと人差し指を立てる。
「なるほど。エリーさんは父親のためにその樹液を採取しに来たのではないかな」
「ってことは、やっぱ森の中にいそうだな」
 そのままふらふらと列から外れていくアーフェンを、テリオンがすばやく小突く。
「寄り道は後にしろ」
「へいへい」
 大人しく歩みを再開する薬師を見て、オフィーリアは小さく笑う。――と、弛緩した空気を破るように、ごく近くで葉が擦れる音がした。
 すぐに全員身構えた。が、現れたのは見知った枯れ木のシルエットだ。魔物は驚いたように一瞬動きを止める。たまたま相手の通り道とこちらの進路が重なったらしい。
「魔物化した樹木だ。油断は禁物だね」
 サイラスが魔導書をめくる音を合図にテリオンが地を蹴る。わずかな陽光を反射した短剣がいつも通りの冴えを見せ、戦斧が魔物の腕を切断し、最後に放たれた魔法が氷像を作り出す。オフィーリアが聖火神に祈りを捧げるまでもなく、数体の魔物は動かなくなった。この程度は今の彼女たちの敵ではなかった。
 その後も出くわす魔物を蹴散らしながら、四人は森の奥へと進んだ。
 真っ先に「それ」に気づいたのはテリオンだった。彼は「妙な匂いがしないか」と険しい顔でアーフェンを振り返る。薬師は鼻を動かした。
「なんかの植物……かな。確かに森の匂いとは違えな」
 サイラスが興味深そうにあたりを見回し、オフィーリアは杖をぎゅっと握った。もしや匂いの出どころにエリーがいるのでは、という予感があった。
 木の密度が減り、広場のような場所に出る。ぽっかり開いた森の天井から薄く光が差し込んでいた。広場には白っぽいものがうず高く積まれている。
「これは……」
 正体に気づいた瞬間、皆が固まった。背筋を悪寒が走り抜ける。サイラスが身を翻し、片手でローブを広げてオフィーリアの視界を塞いだ。
「オフィーリア君、キミは見ない方が――」
「いえ、大丈夫です。エリーさんが近くにいるかもしれませんから、全員で探さないと」
 彼女は蒼白になりながらつばを飲む。乾いた表面を持つそれは、生物の肉体が朽ちたあとに残るもの――骨であった。何故こんなものが大量に転がっているのだろう。理由が分からず、いっそう寒気がこみ上げた。
 サイラスは表情を消し、膝をついてそれを調べる。
「人骨は少ないな。ほとんど動物のもののようだ」
 アーフェンは吐き気をこらえるように片手で口を押さえた。
「どういうことだよ、これ……」
「何かが食い散らかしたんだろ」
 テリオンが吐き捨てた。彼はいつの間にか短剣を抜いて、鋭い視線を周囲に投げていた。
 オフィーリアは震える喉を振り絞る。
「エリーさん、いらっしゃいますか? わたしたちはあなたを探しに来ました。お父様が心配していますよ」
 一瞬沈黙が流れ、骨の山の一角ががらりと崩れた。
「あなたたち、あたしを助けに来てくれたの……?」
 エリーだ。聞いたとおりの容貌だが見る影もなくやつれており、全身をぶるぶる震わせていた。こんな場所に身を隠すなんて、相当のことがあったに違いない。オフィーリアは駆け寄り、ぎこちなくほほえみながら彼女の手をとる。
「もう大丈夫ですよ。一緒に町に帰りましょう」
 エリーはほっとしたように力を抜いて、そのままふらりと倒れかけた。オフィーリアは慌てて体を支える。サイラスが厳しい顔であたりを睥睨した。
「しかし、この有様は一体……」
「何か来る」
 テリオンがさっと前に出た。骨の山の向こうで茂みが揺れている。何かが地を這う音がして、大きな気配と腐臭が近づいてきた。四人は即座に戦闘態勢を取る。
 エリーが顔をひきつらせて叫んだ。
「あたし、あいつに襲われたの!」
 葉の隙間に毒々しい色が見えたと思った瞬間、太い根っこのようなものが木をなぎ倒す。幹を割って現れた気配の主は、巨大な花を三つ束ねたような魔物だった。かつてクオリークレスト近くの廃坑で戦ったデッドモウルともまた違う種で、あれより数段凶悪な気配を放っている。おまけに、魔物は供のように二体の猛菌を引き連れていた。
 花と呼ぶにはあまりにも醜悪な全容を視界に入れて、皆が息を呑む。これがテリオンの感じた匂いのもとであり、骨の山を築いた犯人だ。人さらいの正体は魔物だった!
 出し抜けに、腕のような根がうなりを上げて襲いかかってきた。距離をとっていたオフィーリアですら目で追うのが精一杯の速度で、狙われたのは突出した位置にいたテリオンだ。とっさに振り上げた短剣では受けきれず、彼は衝撃音とともに跳ね飛ばされて背中から骨の山に突っ込む。
「テリオン!」
 近くにいたサイラスがすぐに駆けつけて、骨の中からテリオンを助け起こした。盗賊は歯を食いしばって立ち上がり、緑の片目を燃やす。
「大丈夫だ。……しかし、こいつは一筋縄ではいかないぞ」
「そのようだね」
 サイラスが声を低める。オフィーリアも相手の脅威をひしひしと感じていた。何度も強敵と戦火を交えてきたからこそ、あの花の恐ろしさがよく分かる。下手をすると今までで一番厄介な敵かもしれない。
 背を向けて逃げることなど到底できそうにない威圧感だ。エリーも含めて全員で町に帰るには戦うしかなかった。一行の戦術の要であるサイラスがじりじりと後退しながら指示を飛ばす。
「オフィーリア君は回復とエリーさんの守りを、アーフェン君とテリオンは二人であの花の対処を頼む。猛菌は私が足止めしよう」
 サイラスは言い終わるや否や魔導書を広げて幸運の風を呼び、今にも飛びかからんとしていた猛菌を風圧によりその場に釘付けにした。アーフェンたちはその横を駆け抜け、人さらいの花に向かっていく。
 杖を構えたオフィーリアは二つの戦場を広く見渡せる場所に陣取り、背後の少女に声をかけた。
「エリーさん、今のうちに下がってください!」
「あ、え、ええ……」
 曖昧な返事をしたエリーは、そのままぺたんと地面に座り込んでしまう。魔物にさらわれた時の恐怖が蘇ったのか。とてもではないが無理に動かせる状態ではなかった。
(わたしがここで食い止めなければ……)
 盾になってでもエリーを守ろうと決めたオフィーリアは、仲間を手助けするタイミングを計るため、視野に意識を集中した。
 花の魔物が振りかざす無数の根が、あらゆる方向からテリオンに襲いかかる。彼はその攻撃を間一髪で避け、または短剣でいなしながら徐々に本体に接近していった。盗賊を援護するためアーフェンが何かの薬を本体に投げたが、相手は液体を被っても変化はなく、薬師は「くそっ」と顔を歪めた。サイラスに弱点を分析してもらいたくとも、あちらは連続で魔法を放って猛菌を食い止めることに手一杯だ。
(今は一匹でも相手の数を減らすべきですね)
 ならば自分の取るべき行動は――オフィーリアは覚悟を決めて片足を踏み込んだ。
 その時、視界に違和感を覚えた。あたりが夜のように暗くなったのだ。雲が太陽を隠したわけではない。魔法による濃闇だと悟ったオフィーリアは、とっさに杖の柄を地面に突き刺して、己とエリーの周りに防壁を張った。
「なんだ!?」「ぐっ……」
 光る薄板の向こうから仲間の苦悶の声が聞こえてくる。あの花は闇の魔法まで使いこなすのか。オフィーリアは唇を噛み、先ほどとは異なる力を杖に込める。
 視界が晴れた時、男性陣の体勢は大きく崩れていた。
「癒やしの奇跡を与えたまえ……」
 オフィーリアは用意していた魔法を即座に発動させる。天から降り注ぐ光が、魔物のもたらす闇により奪われた体力をじわりと回復させた。
 サイラスのようにあらゆる魔法を使いこなすには、その効果に合わせて瞬時に意識を切り替えなくてはならない。守りから癒やしへと短時間で魔力の質を変化させたため、体にずしりと疲労がのしかかった。だがここで気を抜くわけにはいかない。オフィーリアは癒やし手としてどんな時も生き残り、戦況を立て直す役割を担っている。
「よっしゃ、もっぺん戦うぞ――って、うわっ」
 痛む体をさすりながら起き上がろうとするアーフェンへ、花が容赦なく根を振り下ろす。なんとか姿勢を戻したテリオンがすばやく腕を引いて、二人は攻撃から逃れた。重い音とともに根が地面を叩き、もうもうと土埃が立つ。
 その手前でサイラスが襲い来る猛菌に向かって詠唱をはじめようとする――刹那、オフィーリアは思い切って片手で神官服の裾をたくし上げた。大きく動かせるようになった足でくるりとターンし、定められた手順に従って腕を宙に泳がせた。
「孔雀の舞……!」
 それは舞踏姫シルティージの力が宿る特別な舞である。少しでも仲間の助けになればと思い、ひそかにプリムロゼから教わっていた。彼女のような滑らかさはなくとも、正しい順番でステップを踏めば効果は発動する。あとは魔力を込める対象を杖ではなく自分の肉体にするだけだ。プラチナブロンドの髪を空気に踊らせ、オフィーリアはサイラスに向かって手を差し伸べた。
 魔力を増幅させる舞が彼のもとに届く。己に宿った力に瞠目したサイラスは「幸運の風よ、吹き荒れよ」と早口で叫んだ。威力を増した風が見えない刃となって、足の生えた菌類を切り刻む。無数の裂傷を浴びた魔物たちは地に伏せた。狙いどおり相手の数を減らせたわけだ。
 サイラスは息を切らしながらも決然と戦場に立つ。
「助かったよ、オフィーリア君」
「いえ、お礼ならプリムロゼさんに」
 踊子には何度も練習に付き合ってもらったものだ。彼女の厳しい指導を思い出して一瞬気が緩みかけ、オフィーリアは慌てて杖を握り直す。まだ戦いは終わっていなかった。
 全員で花に向き直った。これで四対一だ。しかしサイラスは魔法の乱用で消耗しており、「すまない」と言い置いて鞄から取り出したプラムを口に含む。それを視界の端で確認したテリオンが短剣を振り上げた。
「一気に畳み掛けるぞ!」
 号令を受けたオフィーリアは深呼吸してさらに魔力を高める。一方、前に出たアーフェンが空いた片手を魔物に向けてさっとかざした。
「剣も薬も通らねえなら……これはどうだっ」
 オフィーリアは彼の手のひらから不可視の魔力が解き放たれるのを感じ取った。その傍らでテリオンが進路に立ちふさがる根を横薙ぎにすると、今までと違ってあっさりと千切れ飛んだ。盗賊は目を丸くする。
「なんだ今のは」
「え、相手を弱体化させる魔法だろ。たまにテリオンが使ってるやつだけど……?」
「覚えがない」
 なんだそりゃ、とつぶやいたアーフェンは斧を垂直に振り下ろして邪魔な根を断つ。踊りの真逆の効果を持つ魔法は、確かにテリオンが幾度か無意識で操っていたものだった。それを薬師が見て「盗んだ」のだろう。着実に影響を与え合う仲間たちの姿に、オフィーリアはこっそり顔をほころばせた。
 回復薬によって魔力を復活させたサイラスが戦線に戻り、魔導書を開く。根を切り裂いたテリオンたちがついに本体のもとに到達し、頭部と思しき花弁や幹のように太い胴部に刃を突き立てた。その度に魔物が悶絶する声が響く。オフィーリアは状況が安定したと判断し、さらなる攻勢に出るべく新たなステップを踏み込む。
「きゃああっ」
 ――と、いきなり背後から悲鳴が聞こえた。オフィーリアは真っ青になって振り返る。
「そんな、エリーさん!」
 地面から突き出した根がエリーの胴に巻き付き、細い体を宙に吊り上げていた。魔物はオフィーリアたちの死角で根の一本を地中に忍ばせ、獲物をとらえるべく密かに伸ばしていたのだ。今にも失神しそうな顔のエリーを見て、仲間たちに動揺が走った。
「まずい!」
 叫んだサイラスは即座に詠唱を紡ごうとするが、中断を余儀なくされる。別の根に弾き飛ばされたアーフェンが横合いからぶつかったのだ。二人は地面に倒れ込む。
(一体どうすれば……)
 瞬く間に形勢の変わった戦場を見渡し、オフィーリアは逡巡した。なかなか止まない攻撃を一人で捌くテリオン、体勢を立て直そうとする学者と薬師、そして今も魔物に引き寄せられるエリー――回復か防御か攻撃か、どれを選べばいいのか分からない。
 その迷いを断ち切ったのは、仲間たちではなかった。
「そうだわ、これがあれば……!」
 恐怖におののいていたはずのエリーの瞳に、突如として理知的な光が宿る。彼女が震える手で取り出した何かを根に叩きつけると、魔物は劇的な反応を見せた。一瞬すべての動きを止めたかと思うと、エリーの体を宙に放り投げたのだ。たまたま彼女が落ちてくる方向にいたアーフェンが、驚きながらもしっかりと受け止める。
「エリーさん、大丈夫ですか!?」
 オフィーリアは二人のもとに走り、慌てて回復を施した。治癒の光を注がれたエリーは両の足でしっかりと地面に立つ。恐怖が振り切れたのかオフィーリアたちの奮闘に感化されたのか、彼女は蒼白になりながらも毅然としていた。
「あたし、あいつの苦手なものを知ってるわ」
「本当かよ」
 前線に復帰しようとしていたアーフェンがはっとして足を止める。弱体化の効果が切れた魔物をテリオンとサイラスが必死に抑え込む中、エリーは早口で言った。
「昨日、あたしはこの森に生えてる木の樹液を採りに来たの。怪我によく効くから父さんに渡すつもりだった。でも、ちょうど樹液を採り終わった時、いきなりあの魔物が出てきて……びっくりして樹液を地面に落としたら、どういうわけか魔物はそれ以上近づいてこなかった。
 あの時は逃げるのに必死で気づかなかったけど、あの樹液があいつの弱点なのよ。今、ちょっとだけ残ってた樹液をあいつにぶつけたら、動きがおかしくなったから」
「入口にあったあの木か!」
 閃いたアーフェンはすぐさま体を反転させ、前線から遠ざかりながら背中越しに叫ぶ。
「テリオン、先生、援護頼む! 魔物の弱点が分かったんだっ」
「承知した」「任せたよアーフェン君!」
 サイラスによって高度に制御された火炎が、アーフェンを狙う魔物の根を燃やした。オフィーリアは獅子の舞で仲間を援護し、踊りで強化されたテリオンが黒焦げになった根を次々と切り落とす。
 アーフェンが無事に離脱するのを見届けた三人は、無限に生えてくるように思える根の攻撃をあしらい、着実に数を減らしていく。彼女たちはだんだん相手の攻撃に慣れはじめていた。
 オフィーリアは闇の魔法に備えて反射の防壁を張る。奥義を使うために集中する隙は未だにないけれど、アーフェンが戻ればとどめを刺せるはずだ。
 手袋に包まれた腕で額の汗を拭った彼女は、ふと視界に異常を感じた。
「えっ……?」
 森が動いた――否、魔物の本体がこちらに向かって移動している。相手は戦闘開始からずっと同じ場所にとどまっていたので、もう動かないものだと勝手に思い込んでいた。そもそも姿を現す前、あの魔物が根っこを足のように使って徘徊していたことが、三人の頭からすっかり抜け落ちていたのだ。
 つまり次に起こるのは……破局を予期したオフィーリアが必死に叫ぶ。
「二人とも、逃げてください!」
 魔物は三人めがけて一直線に突進してきた。前にいた盗賊たちの姿が、相手の巨体と土煙に隠される。オフィーリアは慌ててエリーの手を取って退避した。
「テリオンさん、サイラスさん……!」
 オフィーリアの祈るような問いかけに応え、むくりと起き上がる影がある。視界を覆う砂塵が流れると、土で汚れた黒いローブが見えた。サイラスは先ほどまで立っていた場所から大きく移動していた。脇腹を押さえた彼は呆然と魔物を見つめる。正確には、魔物のそばに生えた木を。
 その視線の先で、ぼろぼろになった紫の外套が枝に引っかかっていた。オフィーリアは凍りつく。外套は重みに耐えきれずに破れ、吊り下げられたテリオンごとずるりと地面に落ちた。うつ伏せに転がった青年は完全に気を失っていて、あたりに血溜まりが広がっていく。
 おそらく彼はとっさにサイラスを突き飛ばし、魔物の体当たりから逃したのだろう。しかし自身の回避は間に合わなかった。
「聖火神の御業よ……」
 オフィーリアは冷や汗を流しながら復活魔法の詠唱に入る。あれは致命傷だ。今すぐ治さなければ彼の命が危ない。問題は、テリオンが魔物を挟んだ向こう側に倒れていることだった。なんとか治癒の光が届く距離まで近づかなければ――
 その時、すっと目の前に手が差し出された。
「サイラスさん、何を……!?」
 彼は瞳に強い光を宿してオフィーリアを制した。一瞬頭が真っ白になった彼女は改めて学者の姿を確認し、ぎょっとする。オフィーリアを背にかばい、にじり寄る魔物をにらみつけるサイラスは、ローブの下から赤黒い血を地面に滴らせていた。テリオンと大差ないほど怪我をして、とっくに倒れていてもおかしくないのに、彼はしゃんと背筋を伸ばしている。オフィーリアは嫌な予感を覚えた。
「まさか……魔法で痛覚を遮断したのですか」
 学者は無言で首肯した。間違いない、いつかストーンガードでオフィーリアが使用した神官の秘術だ。
(そんな。わたしは教えていないのに)
 いつの間に覚えたのだろう。混乱するオフィーリアに背中を向けたまま、学者は力の入らない声でつぶやく。
「テリオンのことは一旦後回しにしよう。このままでは私たちも全滅しかねない」
「で、ですが……」
 反論しかけたオフィーリアだったが、彼に従うべきだと思い直した。ここで自分たちがやられては、結局倒れたテリオンも助けることができない。それどころか、もうすぐ戻ってくるアーフェンまで危険にさらしてしまうだろう。彼女は強く唇を噛んだ。
「ここは私が抑える。キミは光明魔法で相手の体勢を崩してくれ!」
 回復、補助ときて今度は攻撃だ。オフィーリアは急いで意識を切り替えた。
(わたしの魔法にサイラスさんほどの威力はない……だったら奥義を使わなければ)
 矢面に立った学者に魔物が容赦なく襲いかかる。サイラスは炎で迎え撃ったが、すべての根を防ぐことはできなかった。杖が弾き飛ばされ、一本の根が学者の体に巻き付く。身動きが取れなくなった彼が本体に向かって急速に引き寄せられていく中、オフィーリアは必死に集中を解き放ち、己の守護神の名を呼んだ。
「聖火神エルフリックよ!」
 天から舞い降りた光が彼女の体にまとわりついた。すかさず光明魔法を詠唱する。光は宙を二度走り、サイラスを捕らえた根を切断した。続けてオフィーリアが回復魔法の準備に入った時、遠方から力強い足音が聞こえた。
「悪ぃ、待たせた!」
「アーフェンさんっ!」
 切り札を持ったアーフェンが落ち葉を踏み分けて戻ってきたのだ。オフィーリアは奥義により加速した集中で再び光を呼び、彼のゆくべき道を切り開く。サイラスはその隙に力を失った根から脱出し、魔物と距離をとった。
「喰らえ!」
 投擲力に優れた薬師が瓶ごと魔物に投げつけた。薬品と混ざった樹液は見事本体の花弁に当たり、砕けたガラスとともに霧雨のように降りかかる。
 途端に大きな変化が起こった。魔物は苦悶の声を上げ、ゆっくりと横倒しになった。花弁がだらしなく地面に広がる。先ほどサイラスがオフィーリアに攻撃を指示したのは、相手の残りの体力を計算していたからだ。ぎりぎりまで粘った結果、今の樹液がとどめになったらしい。
「た、倒した……んだよな」
 アーフェンがはあはあと肩で息をする。オフィーリアは怪我こそないものの、慣れない踊りと複数系統の魔法の使い分けにより精神力を消耗し、杖にすがりついた。
 一方のサイラスは、不自然にも軽く脇腹を押さえているだけだ。彼は怜悧な瞳を薬師に向けた。
「すまないが、キミはテリオンを治療してくれ。オフィーリア君は私の回復を頼むよ」
「おうっ」
 呼吸を整えたアーフェンは倒れたままのテリオンのもとに駆けつけて、つかの間絶句した。
「うわ、ひでえなこりゃ……すぐ手当てするぜ」
 その間にオフィーリアはサイラスに歩み寄り、癒やしの魔法を唱える。彼は紙のように白くなった顔でゆっくりと息をついた。
「サイラスさん……」
 今も彼の体に作用しているであろう魔法について尋ねたいのに、言葉が出てこない。ストーンガードであの魔法を使った時、彼は体を酷使したせいもあってぱったりと倒れてしまった。今回も同じことになるのでは、という危惧がある。
 清浄な光がサイラスの体に浸透していく。流れた血は戻らずとも、傷はあらかたふさがった。治療の間じっとテリオンの方を見ていたサイラスは、やっとオフィーリアに視線を戻した。
「大丈夫だよ。今のうちにしっかり傷を治しておけば、ストーンガードの時のように後に引くことはないから」
 彼は妙にきっぱりと言い切った。
「……ご自分の体で試されたのですか?」
 つい詰問調で尋ねれば、彼は口ごもる。オフィーリアは顔を歪めた。
「どうしてそんな……いえ、今は無事に帰ることだけを考えましょう」
 問い詰めるのは皆がそろってからでいい。サイラスは気まずそうに目をそらす。
「ああ、今はエリーさんを優先してもらえると助かるよ」
 その言葉を受けて、オフィーリアは後ろを振り返った。勝利の一端を担ったエリーは戦闘時の高揚が冷めたのか、両腕で己の体をかき抱いていた。
「ごめんなさい、あたしがもっと早く弱点に気づいてたら……」
「そんなことはありません。わたしたちが助かったのはあなたのおかげですよ」
 オフィーリアはエリーを安心させるために笑おうとして失敗した。顔がすっかりこわばっている。むしろエリーがこちらを気遣うようにぺこりと頭を下げた。
 治療を終えたサイラスは、テリオンの体に包帯を巻くアーフェンを手伝いに行く。
「容態は?」
「生きてるよ。旦那に鍛えられただけあって頑丈なもんさ。でもここじゃ応急手当しかできねえ。宿に行って治療しねえと」
「そうだね。町に戻ろう」
 サイラスは沈んだ声で答えた。意識のないテリオンはアーフェンが背負い、五人は消耗した体を抱えて帰路につく。
 幸い魔物による追撃はなく、入口付近まで戻ってきた。例の木を見つけたアーフェンがぼんやりと言う。
「さっきの魔物、この木が森の端に生えてるから町に出てこなかったんだな……」
 口調に悔恨がにじんでいた。最初の時点で気づいていれば、と思ったのだろう。一方オフィーリアはエリーの手を握りながら「もっと大勢で森に来ていたら……」と考えてしまった。後悔の種は尽きない。
 一番前をゆくサイラスは無言で歩を進める。どのタイミングで魔法の効果が切れるのかは分からないが、今のところは平気そうだ。彼が使った魔物よけの魔法もいつも以上に冴え渡っていた。
 一行はなんとか森を抜けて宿に戻った。テリオンはこんこんと眠り続け、夜になってやっと意識を取り戻した。診察したアーフェンによると、すぐに戦線復帰とはいかないが、後遺症はないだろうとの話だった。
 苦い勝利の裏で、離れ離れになっていた父と娘が無事に再会を果たしたことだけは、ささやかな慰めになった。

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