グランドタクティクス



「人さらいは魔物だったのね。旅人のあなたたちに退治してもらうなんて……」
 息を詰めて話を聞いていたセシリーが肩を落とす。町の住民として責任を感じたらしい。
「いや。犠牲は出なかったし、依頼も果たした。あいつらも森に行ったこと自体は後悔していないだろう。だが――」
 オルベリクは苦い気分でワインを喉に流し込む。彼を含めた残りの四人は宿に戻るなり惨状を目の当たりにして驚いた。オルベリクは「自分がその場にいれば」と悔んだものだ。しかしオフィーリアたちを責めることはできなかった。もし同じ立場であれば、自分も似たような油断をしたかもしれない。
 幸いにもテリオンは一命をとりとめたのだから、反省は今後に活かせばいい。それでこの騒動は終わるはずだった。
「まだ何かあるのか?」
 身を乗り出したネッドと物思いに耽るオルベリクとの間に、突如としてほっそりした腕が割り込んだ。カン、と新たなグラスがカウンターの天板を叩く。
「あったのよそれが。その後でね、起きてきたテリオンとサイラスがけんかをはじめちゃったの!」
 ほおを上気させて叫んだのはプリムロゼである。いつの間に話を聞いていたのだろう。おまけに相当飲んでいるようで、緑の瞳が不穏に揺らめいていた。
「えっと、あなたは……」
「プリムロゼよ。見ての通りの踊子でそこの剛剣の騎士様の仲間」
 戸惑うセシリーに向けて、プリムロゼは色っぽく髪をかきあげる。
「で、怪我人と学者さんがけんかしたのか?」ネッドが不思議そうに首をひねった。
「いや、あれはけんかというか……」
 オルベリクはつい数刻前の顛末を思い出して、眉をひそめる。
「完全にけんかでしょ。あの二人、ほんっとに面倒ごとばっかり持ち込むわよね」
 プリムロゼはよほどご立腹らしく、無理やりネッドを押しのけてオルベリクの隣の席を陣取った。「なんだこの女」というネッドの視線は、熱っぽい流し目を浴びてすぐに霧散する。踊子は見境なく相手を誘惑するほど酔っ払っていた。オルベリクは「あとで俺が面倒を見ることになるのか」と内心ため息をつく。
 ごほんと咳をして仕切り直し、ネッドが尋ねる。
「今の話にけんかする要素あったか?」
「普通はないけど、あの二人は特殊だから。サイラスが魔物と戦う時にある魔法を使ったことを知って、テリオンが急に怒り出したのよ」
「ああ、オルベリクの話にあったわね。聖火教の神官だけに伝わる秘術で、効果が続く間は痛みを軽減できる……だったかしら。便利だけどちょっと怖い魔法よね」
 セシリーは真顔になる。剣闘士に使用した場合を考えたのだろう。オルベリクは彼女の懸念が手に取るように分かった。痛みを弱めればぎりぎりまで戦うことができるが、逆に命の尽きる寸前まで粘ってしまう危険がある。つまり、その魔法を使った時、サイラスはかなり追い詰められていたのだ。
「テリオンはあの術をことのほか嫌っていてな。どうして使ったんだとサイラスを問い詰めた」
「あの人、自分が四人の中で一番強いって思ってたのに、真っ先に倒れちゃったからプライドが傷ついたのよ」
 プリムロゼは唇を尖らせる。散々な言いようだが、核心をついていた。確かにテリオンにはそういう気負いがある。一概に悪い性質とは言えないが、今回は致命的に噛み合わなかった。
「サイラスは『あの魔法を使わなかったら全滅していた』『自分は間違ってない』って主張して、オフィーリアとアーフェンが止めに入って……もうぐちゃぐちゃよ」
 夕食の雰囲気は最悪だった。そのためオルベリクは酒場に逃げてきたのだ。プリムロゼの愚痴を聞いたセシリーが首をひねる。
「なるほどねえ。どっちも『仲間のため』っていう思いがあるから、余計にすれ違ってるのね」
「うわー確かに面倒くさいな、それ」
「でしょう!?」
 プリムロゼがグラスを持ったままネッドに絡む。なまめかしい踊子に寄られて、剣闘士は戸惑いつつもだらしなく顔を緩めた。オルベリクはプリムロゼの酒がこぼれないかヒヤヒヤしてしまい、酔いは冷める一方だった。視界の隅ではセシリーが思案顔で頬杖をついている。
 要するに、テリオンもサイラスもただ意地を張っているだけなのだ。しかし論点が今後の戦いの方針に関わるため、ここまでこじれた。最近のオルベリクたちは「やっと二人がまともに話し合ってくれるようになった」と安堵していたのに、ここにきて新たな問題が発生したわけだ。
 急にプリムロゼが体を傾け、悩むオルベリクの肩に手を置いた。
「ま、こういう時はあなたがいるから安心よね。あんな二人もう放っておきましょ」
「そういうわけにもいかないだろう」
 オルベリクは本日何度目かのため息を吐いた。こうして一行の中心人物たる二人が使い物にならなくなった時、最年長の彼が臨時でまとめ役を引き受ける羽目になるのだ。
 セシリーがジョッキに口をつけながら問う。
「そういえば、オルベリクがあなたたちをまとめているわけじゃないのよね?」
「ええ。一応今の話に出てきた二人がそうかしら」
「へー、二人もリーダーがいたら大変じゃないか?」ネッドが目を瞬き、
「そうそう、本当に大変だったのよ。特にダスクバロウに行った時なんかね……」
 踊子はいよいよくだを巻きはじめた。勢いよくグラスをカウンターに置こうとして液体がこぼれそうになったため、オルベリクがさっと取り上げる。
「プリムロゼ、そのあたりにしておけ」
 さすがに飲み過ぎではないか。酒好きのアーフェンも今回は責任を感じたのかおとなしくしており、付き合ってくれる相手がいなくなった彼女は一人で杯を重ねてしまったのだろう。グラスを取り上げられた彼女は「はいはい」と不平たらたらの様子でバーテンダーに水を頼んだ。
 荒れる踊子をさらりと流し、セシリーは渋面の剣士を覗き込む。
「つまり、オルベリクは仲間がけんかをはじめたから暗ーい顔をしてたのね?」
「こういう時は俺が頼られるからな……」
 先ほどプリムロゼが言いかけた「本当に大変だった」エピソードを思い出す。ボルダーフォールの宿にてサイラスの失踪が判明した夜、「これは絶対にテリオンのメンタルが崩れる」と確信したアーフェンは、すぐにオルベリクを呼び出して「代わりにリーダーを務めてくれ」と頭を下げた。今思えばあの判断は的確だった。わざわざ宣言せずとも他の仲間たちも自然とオルベリクを頼ったあたり、いつの間にかそういう体制ができていたらしい。今回も同じ展開になる予感がした。
 セシリーが眉をひそめてジョッキを傾ける。
「それ、オルベリクが黙って頼られてるからじゃないの? 学者さんたちは、あなただったらわがままを聞いてくれると思ってるのよ。一筋縄じゃいかないことを示さないと、いつまでも頼られっぱなしだわ」
「それは……」
 オルベリクは口ごもる。確かに、自分は今までサイラスたちに対してあまり強く出てこなかった。そもそも、学者も盗賊も二十を超えたいい大人なのだ。オルベリクの方が年上とはいえ、偉そうに説教をするのはどうなのだろう。彼らは直属の部下でもなんでもないのに。
 悶々としているうちに、握ったグラスが白い指に奪われる。酒を取り返したプリムロゼは一口飲んで、妖艶にほほえんだ。
「いいことを思いついたわ」
 オルベリクはこの上なく嫌な予感がした。



 翌朝、宿の食堂は重苦しい空気に支配されていた。
 卓に並んだ料理を前にオルベリクたちが待つ中、テリオンは一番最後にやってきた。体に巻かれた包帯はなくなり、見た目だけはいつもと変わらない。前髪から覗く右目が奇妙に凪いでいることがかえって波乱を予感させた。
 先にテーブルについていたサイラスが気遣うように視線を上げるが、テリオンは完璧に無視した。トレサがおろおろと二人を見比べる。
 一方で、ハンイットが平常通りに声をかけた。
「おはようテリオン。怪我はもういいのか?」
「ああ」
 そのままテリオンは空いていた席――サイラスから一番遠い――に腰を下ろして、かごに盛られたパンに手を伸ばした。それを合図に他の者たちも食器を取ったが、いかんせん気まずい。あのアーフェンまで口を閉ざしていた。プリムロゼは昨夜の荒れ様はどこへやら、涼しい顔でだんまりを決め込んでいる。一口スープを飲んだハンイットが興奮した様子で「うまいな。これは何で出汁をとっていると思う?」と隣のオフィーリアに話しかけ、神官は苦笑いで答えていた。そんな仲間たちの様子を眺めつつ、オルベリクはのろのろと手を動かす。
 大皿に盛られた果物があらかた八人の胃袋に入った頃、サイラスが口を開いた。
「本来ならば今日この町を経つ予定だったが、もう一泊しよう」
「異議なーし」
 すかさずアーフェンが同意する。テリオンを気遣っての提案だ、と皆は暗黙のうちに了解した。
「それで、明日以降の目的地だが……オルベリク」
 学者のまなざしがすっとテーブルの上を流れる。近頃の彼ならば必ずテリオンに伺いを立てた場面だが、相手が応じないと見たのだろう。
 直後、視界の端でプリムロゼが「出番よ」と言わんばかりにウインクした。覚悟を決めたオルベリクはわざとらしく両肩を持ち上げる。
「そうやって、都合のいい時だけ俺に頼るのか?」
「え」
 サイラスの表情が瞬時に漂白され、食卓が凍りついた。オルベリクは静かに言葉を重ねる。
「ダスクバロウの時から何も変わっていないではないか」
 学者は固まったまま唇を閉ざす。一方のテリオンはうつむき、前髪で顔を隠していた。
(……さすがに言いすぎたか?)
 と思いながら黙って食堂を抜け出す。彼らのああいう反応には慣れておらず、若干の罪悪感がこみ上げた。このまま鍛錬に行って、もやもやを吹き飛ばしたい気分だった。
 部屋で剣帯を装着してから宿を出ようとすると、玄関の直前でプリムロゼが滑り込んできた。
「やるじゃないオルベリク。テリオンも真っ青になってたわよ」
「……焚き付けたのはお前だからな」
「分かってるわよ。ちょっとスッキリしたわ、ありがとう。二人にはいい薬になったと思う」
 プリムロゼは清々しい微笑を浮かべた。オルベリクはやれやれと体の力を抜く。そうこうするうちに背後からぱたぱた足音がして、商人と狩人がやってきた。
「オルベリクさん、さっきのって演技よね……? びっくりしたわよ、もう」トレサには驚かれ、
「あれほど芝居ができるなら、エバーホルドでももう少しうまくやれたのではないか」
 ハンイットに痛いところをつかれた。この分だと、おそらくアーフェンやオフィーリアも発言の意図に気づいただろう。オルベリクは頭痛を感じて額に手をあてる。
「こういうやり方であいつらを操るような真似は、どうもな……」
「何言ってるの、いつも迷惑かけられてるのはこっちなのよ。たまには反撃しなくちゃだめよ!」
 プリムロゼは肩を怒らせて力説した。他の女性陣まで「それ分かるかも、だってオルベリクさん頼られてばっかりだし」「一理あるな」と同意する。彼女たちを押しのけて外に出るわけにもいかず、対応に困ったオルベリクは腕を組んだ。
 その肩の向こうを見て、不意にトレサが目を丸くする。
「あ、先生」
 つられて振り返ると、廊下を一直線に歩いてくるサイラスが視界に入った。
「オルベリク、あなたに話があるんだ。時間はあるかな」
 少し離れた場所で立ち止まり、彼は真剣な青い瞳を向ける。オルベリクが答える前にローブを翻したので、拒否権はないのだろう。すれ違いざま「がんばってね」というプリムロゼの無責任なつぶやきが耳に入った。こういう展開になることは薄々予想していたので、商人や狩人の好奇の視線を浴びながら黙って学者の後についていく。
 連行された先はサイラスが滞在する部屋だ。開いたカーテンから明るい朝の日差しが差し込んでいる。音を立てずに扉を閉じた学者は、珍しくうつむき加減でぼそぼそと話した。
「その……あなたにはいつも負担をかけて、すまないと思っているよ」
 自分がオルベリクを怒らせたと考えたのか、サイラスはいつになく殊勝な態度だ。オルベリクは妙な感動を覚える。以前の学者が仲間を魔法に巻き込んでおきながら「そこにいるのが悪い」と言い放っていたことを思うと、大きな進歩だ。
 だが、オルベリクはここで引くわけにはいかなかった。
「そういうことは、俺ではなくテリオンに言えばいい」
「そうだね。きちんと話し合うべきだと……分かってはいるのだが」
 サイラスはらしくもなく歯切れが悪い。オルベリクはさらに踏み込んだ指摘をした。
「お前が悩んでいるのはあの魔法の件だろう。痛みを鈍くするのだったか」
 黒いローブに包まれた肩がびくりと揺れる。やはり、それこそが今回の論争の焦点だ。戦いにおける二人の方針の違いをどうにかすり合わせない限り、根本的な解決はできない。
 学者は思慮深いまなざしを足元に落とした。
「テリオンはあの術を嫌っているようだ。しかし、今後の戦いであれが必要になることは間違いないだろう。還らずの森で遭遇したレベルの魔物がまたいつ現れるとも分からない。ぎりぎりで生死を分ける場面があるなら、私は迷わずあの魔法を使うつもりだよ」
 やはり、彼は己の主張を曲げる気がまったくなかった。これでは完全に平行線である。勢いづいたサイラスは一歩前に出た。
「あなたも同じ考えなのでは? あの魔法を使えば『己の力で仲間を守る』というあなたの在り方を助けることができるだろう」
 彼は探るような視線を浴びせた。もしやオルベリクに味方になってほしいのか。ここで同意すれば、今度は「テリオンの説得を手伝ってくれ」とでも言い出すのかもしれない。
 しかしそれは問題の根元ではなかった。オルベリクは一呼吸置いて切り込む。
「お前は、自分の判断によってテリオンを死なせかけたことを気に病んでいるのだな」
 サイラスの怜悧な表情が、石を投じた水面のように静かに揺れた。
 昨日森から帰ってきた彼はテリオンの治療を仲間に任せた後、ずっと浮かない顔をしていた。気を遣ったトレサに話しかけられても上の空だった。テリオンが目覚めたと聞いて人一倍安堵していたのは彼だ。
 端正な顔を曇らせたサイラスは、弱々しく声を絞り出す。
「あの場面でなるべく多くの仲間を生き残らせるには、攻撃を優先すべきだった。私の判断は間違っていなかったと思う。だが……」
 閉ざした唇に本音が飲み込まれる。正しい正しくない、で割り切れないのだろう。それは当たり前のことだ。
 かつて騎士だったオルベリクも、否応なくその選択肢を突きつけられた経験がある。同じ騎士団で飯を食らった部下だろうが、戦場において「全員守る」ことは不可能だった。オルベリクは騎士としての生き方に従い、迷った時は必ずホルンブルグ王を優先して、他を切り捨てた。そうやって幾度となく割り切れない感情を飲み込んできた。
 だが、サイラスや仲間たちの生き方は違う。相当な戦闘能力を有しているとは言え、彼らはもともと戦いを軸とする生業ではない。もしかすると狩人や盗賊は似通った選択をしてきたかもしれないし、踊子も復讐をなす過程で同じ岐路に立たされた可能性がある。しかし、本来彼らはそんな判断を下すべきではないのだ。
 オルベリクは背筋を伸ばし、まっすぐに相手を見つめた。
「サイラス。お前が自分自身も含めて、誰か一人を切り捨てる決断をしなくて済むように、俺たちがいるんだ」
 一語一語区切るように言えば、学者はごくりと喉を動かす。
「お前の判断は間違っていなかったが、仲間の命を諦めることが正しいと思う必要はない。そんな考えを受け入れることは誰にだって無理だろう。もちろん今の俺にもだ」
「オルベリク……」
 青い双眸に不安のさざ波が立っていた。
 ちょうどダスクバロウを訪れたあたりから、サイラスは自身が持て余した感情をささいな仕草の中にあらわすようになった。オルベリクはその場面を見る度にひそかに安堵していた。素直に仲間を頼るにはまだいくらか段階があるだろうが、学者の秘密主義は一時期よりもずいぶん改善された。今回はその要因になった人物が死にかけたのだから、動揺するのも無理はない。
 オルベリクは誓いを立てるように胸にこぶしを置く。
「俺も今はただの剣士だ。仲間を誰一人失わないために、この力を使おう」
「ああ、頼むよ」
 サイラスは肩のこわばりを解いて、ようやく少し笑った。そして穏やかな顔で付け加える。
「あなたは『剣でしか語れない』とよく言うけれど、そんなことはないんじゃないかな」
「それは……きっとお前に影響されたのだろう」
「私に?」
 サイラスはぽかんとした。相変わらずこういう話には鈍いものだ。
「口に出して伝えるべきこともある、と俺たちに教えたのはお前だ。おそらくテリオンも俺と似たような影響を受けたのだろう」
 最近、テリオンははっきりと自分の考えを表明するようになった。相変わらず声のボリュームは小さいけれど、今まで語られることのなかった彼の言葉は、仲間の胸によく響いた。
 サイラスは微妙にぴんときていない様子で首を傾けていたが、やがて大きくうなずいた。
「そうだといいね。うん、やはり彼とは一度協議しなければ――」
 思い立った学者が部屋を飛び出しかけた時、廊下側から扉が叩かれた。
「おっと。開いているよ」
 サイラスが声をかけると、すぐに戸が開け放たれる。入口に立つテリオンを認めて学者は動きを止めた。薄々登場を予期していたオルベリクは口をつぐみ、一歩退いて場所を譲る。
 ずかずかと歩いてきたテリオンは一瞬だけオルベリクを見た後、真正面からサイラスに向き合った。
「あんたに謝りに来た」
 開口一番にそう言って、盗賊は深々と頭を下げた。サイラスは狼狽したように肩を揺らす。
「ええと、謝罪というのは……」
「昨日のあれはただの八つ当たりだ。俺の実力が足りなかっただけなのに、あんたに責任転嫁しようとしていた」
 緑の片目には無念がにじんでいた。昨晩のプリムロゼの予想は当たっていたようだ。怪我から復帰したテリオンは「最初に自分がやられたせいで仲間が傷つき、サイラスがあの魔法を使う羽目になった」と考えたに違いない。
 ここに来る直前まで、彼はアーフェンやオフィーリアと何か相談していたのかもしれない。こういう時にテリオンが頼るのはあの二人だろう。そうやって頭を冷やしてからサイラスを訪ねたのだ。
 テリオンの実直なまなざしを受け、学者は苦しげに表情を歪めた。唇から罪悪感にまみれた言葉が流れ出す。
「いや……私の方こそ謝らなければならないことがある。あの魔物と戦った時、私は大怪我をしたキミではなく、仲間やエリーさんが生き残ることを優先したんだ。一つ間違えればキミの命は――」
 その懺悔を途中で遮り、テリオンは鋭く反論した。
「何言ってるんだ。あんたは俺を見捨てたわけじゃなくて、万が一の時の責任を背負っただけだ。オフィーリアやアーフェンはあんたの指示に従ったことにすれば、俺が助からなくてもあいつらの心の負担が軽くなるとでも思ったんだろ」
 この推測を聞いたオルベリクははっとした。テリオンは学者の思考回路をよく理解していた。実際は誰もそんな責任なんて追及しないのに、サイラスは土壇場の判断によって最も重い役割を自ら引き受けたのだ。
 若々しい緑に燃える瞳がサイラスを見据えた。
「そもそも俺は、あんたをあそこに連れて行くまで絶対に倒れてやるつもりはないぞ。覚悟しておけよ」
 顔を下に向けた学者がどのような表情を浮かべたのか、オルベリクには分からない。しかしテリオンの言葉には、サイラスの抱えた後ろめたさを吹き飛ばすだけの力があった。
 オルベリクは確かにこの時、二人の間には他人が入り込めない「何か」があると悟った。それは疎外感ではなく、むしろ心地よい感覚を引き出した。今の二人の関係は、おそらくテリオンが竜石の奪取を経て培った――もしくは取り戻した彼本来の性質によって成り立っている。仲間とともに歩んできた旅路があったからこそ、テリオンは皆の中心に立つのにふさわしい人物になった。
 騎士であったオルベリクが生涯剣を捧げるべき相手は、やはりホルンブルグ王以外にありえない。それでも今、テリオンやサイラスの指示に従い剣を振るうことに微塵も抵抗を感じなかった。二人がこれから目指す道にはそれだけの価値がある、と無条件で信じられた。
 サイラスは小さく「ありがとう」と言った。軽くうなずいたテリオンは再び口を開く。
「で、あの痛みを軽減する魔法の件だが……使う度に寝込まなくて済むような対処法があるんだな?」
 オルベリクも忘れかけていたが、それこそがけんかの焦点だ。確認しないわけにはいかない。
 顔を上げたサイラスは、すっかりいつもの自信に満ちた態度を取り戻していた。
「あるよ。さすがにノーリスクとはいかないけれどね。現に今、私はぴんぴんしているだろう」
 胸を張る学者へ、テリオンは疑り深い目を向ける。
「絶対使うなとは言わない。許可がおりるなら、他の奴らに術をかけてもいいだろう。だが……あれを使うのは本当にどうしようもない時だけにしてくれ」
「もちろん。みんなに使う場面はよく見極めよう」
 この言い回しだと自分自身にはあっさり使うのでは? とオルベリクは思ったが、口には出さなかった。今は話をこじれさせたくない。
(テリオンは気づいていないようだしな……)
 などと考えていたら、本人がくるりと振り返った。
「オルベリクにも迷惑をかけたな」
 急に話を振られ、目を瞬く。
「私もだよ。申し訳ないとは思っているのだが、ついあなたに頼ってしまうんだ」
 サイラスは照れくさそうにしていた。朝食の席での発言がよほどこたえたのだろう、二人はいつになく反省しているようだ。オルベリクは腕組みをする。
「頼られて悪い気はしないが、ほどほどにしてくれ。皆は俺じゃなくてお前たちの方針に従っているのだからな」
 プリムロゼに言わせると、こういう態度が「甘い」ということなのだろう。しかし、これはもはやオルベリク本人ですら曲げられない性分だった。
「分かったよオルベリク。みんなにも一言謝らないとね」
 サイラスが破顔した時、出し抜けに部屋のドアノブが回った。
「こんにちは! あら、いい具合に三人とも揃ってるわね」
 許可を得る前に戸を開けたのはセシリーである。今日も赤いリボンを可憐に揺らし、上機嫌そうな顔をしていた。不意を打たれた三人は一拍遅れて驚く。
「あなたは確か武闘大会の……。どうしたんだい」サイラスが首をかしげると、彼女はにこりとした。
「昨日の踊子さんに頼まれたのよ。あなたたちを気分転換に誘ってあげて、ってね」
「プリムロゼが?」
 オルベリクは意外な名前を聞いて瞠目する。
「あなたたちのけんかを気にしてたんでしょう。まあ、仲直りはできたみたいだけど」
 セシリーに意味深な笑顔を向けられ、テリオンとサイラスが居心地悪そうに顔を見合わせた。
「でもいい機会だもの、三人でコロシアムに来て! 絶対に損はさせないから」
「どういうことだ?」
 いまいち話が読めない。困惑するオルベリクに対し、セシリーは腰に手をあてる。
「あなたたちは戦い方について悩んでるのよね? ヴィクターホロウにはその道のプロがわんさかいるのよ。今日の試合を見れば、何かヒントがつかめるかもしれないわよ」
「ほう……それは興味深いね」
 サイラスがぽんと手を叩き、テリオンはまんざらでもなさそうに肩をすくめた。
 いささか唐突な話だが、断る理由はないだろう。プリムロゼのはからいとなればなおさらだ。こうして三人は、浮かれた足取りの興行主に続いてコロシアムに向かった。
 豊かな森を背景に、重厚な円形の建物がそびえている。町のシンボルであるコロシアムは、以前と変わらず威風堂々としていた。建物の前の通りには入場券を売る客引き、試合結果の予想を立てて賭け金を募る者、その間を通る観客たちが密集して、本日も大盛況だった。オルベリクの出場した武闘大会は年に一度だけ開かれる大規模なものだったが、それ以外にも大会は複数あるらしい。剣闘士を生業とする者たちは一年を通してここで競い合っていた。
 人混みを抜けたセシリーが慣れた様子で入口の男に話しかけると、あっさり中に通された。興行主の特権だろう。
 彼女の案内に従って、オルベリクは初めて観客席を訪れた。円い試合会場を囲むようにいくつも石段が積まれており、観客は天日を浴びながらそこに腰掛ける。高い視点から見下ろす会場は試合前の静けさを保っていた。自分は以前あそこに立ったのだ、としばし感慨に耽る。
 セシリーは見晴らしのいい空席に三人を案内した。
「さ、ここに座って。次の試合はすぐだから。あ、そこのあなた、こっちに飲み物ちょうだい」
「はいはーい」
 聞き覚えのある声がした。人垣の向こうに、商人のシンボルである茶色い帽子と羽根が見える。ひょいひょいと客席の間を抜けてやってきたのは小さめの木箱を持ったトレサだ。彼女はこちらを認めて目をぱちくりさせる。
「あれ、オルベリクさんたちも来たの?」
「どうしてお前がここにいるんだ」
 テリオンが不思議そうに眉を上げた。トレサは胸を張って、
「試合を見てたら白熱して喉が渇くでしょ? だからこうやって飲み物を売ることにしたの! ちゃーんと許可はとったのよ」
 なるほど商魂たくましい。飲み物はよく売れているらしく、トレサは「お代はまけといてあげる。あとで回収に来るわね!」とオルベリクたちにカップを押し付けてから、別の観客のもとに走っていった。
 カップの中にはなみなみと果汁が満ちており、氷が一片浮かんでいた。「飲み物を冷やすために魔法で作り出したのか。トレサ君も器用だな」とサイラスが笑う。テリオンは味が気に入ったのか、早速ごくごく飲み干していた。
 三人が人心地ついた頃合いを見計らって、セシリーが説明する。
「ちょうど今は団体戦の大会をやってるの。いろんな戦法があると思うから、きっと参考になるわよ。
 そうそう、あなたも怪我がなかったらぜひ出場してほしかったわ」
 熱視線を受けたテリオンは「勘弁してくれ」と言わんばかりに顔を歪めた。
「ほう、さすがは辣腕の興行主だ、お目が高いね。テリオンは近頃オルベリクに弟子入りをして……」喜々として語りはじめるサイラスに、セシリーは瞳を輝かせて「今からスケジュールおさえておくべきかしら?」と相槌を打つ。
「おい、やめろ」
 テリオンは半ば本気で焦っていた。オルベリクはこっそり笑いを噛み殺す。
 カップの中身が空になった頃、あたりのざわめきが大きくなる。試合会場に目をやれば、西と東からそれぞれ剣闘士たちが入場してきた。四対四で戦う形式らしい。
 向かい合って静かに武器を構える出場者を眺め、セシリーは感に堪えないような口調で言った。
「あなたたちがどう思ってるのかは知らないけど、私たちにとっての戦いはやっぱり楽しいことなの」
 つかの間、オルベリクの視線は彼女の充実感に満ちた横顔に吸い寄せられる。
「こんな考えは綺麗ごとかもしれないし、世の中にどうしようもない戦いがあることは分かってるわ。あの剣闘士たちだって、そういう戦いを何度もくぐり抜けてきた。だからこそ、純粋に力比べを楽しめるここが好きなのよ」
 セシリーの言葉には並々ならぬ熱意がこもっていた。オルベリクも以前武闘大会に出て、剣闘士たちが剣に込めた様々な思いを知った。何よりも、誰の命も奪わず、汗を流して剣で通じ合う試合が心に風を吹かせた。この町における経験がなければ、エアハルトともうまく向き合えなかっただろう。
 コロシアムの観客は十分に気分転換を楽しんだ後、会場を出て自分自身の戦いに向かっていく。それも試合の持つ一つの側面だ。セシリーは、それを引き出すことができる興行主という生業に心底誇りを持っているのだ。
「なるほど。見世物としての試合にもそのような意義があるのか……」
 サイラスは感心したようにあごをなでる。
「それじゃ、賭けごとに関してはご自由に」
 そう言い残して、セシリーは試合がはじまる直前に席を立った。また別の仕事があるのだろう。
 オルベリクは静かにその背中に感謝した。また武闘大会への出場を依頼される予感がしたので、口には出せなかったが。
 視線を戻すと、いよいよ試合が開始した。テリオンとサイラスは熱心に観察している。
「ふうん。ああやって敵の隙を突くために、槍と剣を使い分けてるのか」
「手数の多さで押す東と、一人に戦力を集中させて突破を狙う西……それぞれの戦い方があるようだね」
 真剣な分析だが、声はわくわくしたように弾んでいる。これほど二人が試合を楽しんでいるなら、セシリーやプリムロゼも本望だろう。
「二人とも、やっといつもの調子に戻ったんだ」
 オルベリクの脳内を代弁したような台詞とともに、小さな人影が隣の空席に座る。試合前に無事飲み物を売り切ったトレサだ。彼女は安心した表情で学者たちを眺めた。
「オルベリクさんが怒ったのがよっぽど効いたのね」
「そうだといいのだがな」
 もしかすると、サイラスたちもあれが演技だと気づいていたかもしれない。しかし真相はどうであれ、オルベリクの行動によって丸く収まったのは事実だろう。プリムロゼに焚き付けられた甲斐があったというものだ。
 トレサはにっこり笑い、脱いだ帽子を指に引っ掛けてくるりと回した。いかにもテリオンがやりそうな仕草だった。
「それで、どうして三人でここに来たの? さっきは興行主の人がいたけど」
「プリムロゼの頼みを受けたセシリーが案内してくれたんだ」
「へえ! プリムロゼさんも、案外サイラス先生たちのこと気にかけてるわよね」
「自分では絶対に認めないがな」
 オルベリクの発言にくすりと忍び笑いを漏らしたトレサは、一転して声をひそめた。
「あのさ……普通は仲間が大怪我したら、あたしも含めてみんな暗い気分を引きずっちゃうよね」
 彼女はちらりと盗賊を見て、いっそう小声になる。
「前にもそういうことは何回かあったけど、今回はテリオンさんが目を覚ました途端に先生とけんかしはじめたから、どんよりしてる場合じゃなくなったでしょ? アーフェンもオフィーリアさんも持ち直すのが早かったし、みんな『またはじまった』って感じだったじゃない。
 わざとやってるわけじゃないんだろうだけど、あの雰囲気はサイラス先生たちがつくったのよね」
 仲間内で最年少の彼女は鋭い観察眼を披露した。確かにあの二人が持ち込む騒動には、他の仲間を落ち着かせる効果がある。手間のかかる二人が中心にいるからこそ、オルベリクたちは「自分がしっかりしなければ」と考えて行動する。本人たちにとってはいささか不名誉なことかもしれないが、あれも武器を使わない一種の戦術だろう。
 学者たちと試合会場の間で何往復か視線を動かし、真面目な表情を崩したトレサは大きく伸びをした。
「あー、でもちょっと回りくどいかな。やっぱり普通に仲良くしてほしいわ」
「まったくだな」
 オルベリクはつられてからりと笑った。

inserted by FC2 system