あなたの空いた椅子



「そしてオフィーリア君が原初の炎の祭壇に近づいた時、彼女と私の脳裏に声が響いたのです。汝は採火を望む者か、そうであればここに資格を示せと。オフィーリア君がうなずいた直後、目の前に古代遺物の巨人が現れて――」
 身振り手振りを交えて解説すれば、ベッドの上で体を起こしたヨーセフ大司教が穏やかに相槌を打つ。フレイムグレース大聖堂の居住区にある大司教の私室で、今は彼と自分の二人きりだ。サイドテーブルの上に置かれたランタンの中には青い炎が揺れていた。
 大司教は聖火を眺めながら口を開く。
「二十年前も同じです。あの時は私一人でしたので、守護者にはなかなか苦戦しました」
「そうでしたか! 当時のお話もぜひ聞かせてください」
 思わず椅子から身を乗り出すと、大司教はかぶりを振った。
「まずはサイラス殿のお話が先でしょう。オフィーリアはどのように戦ったのですか」
 そうだ、大司教は何よりも義理の娘の活躍を知りたがっているに違いない。ここは彼女がいかに勇敢だったかを語るべき場面だ。
 つい先ほど、神官オフィーリアとともに原初の洞窟に赴き、式年奉火の最初の儀式である採火を行ったところだ。洞窟の最奥に安置された採火燈に、原初の炎を移す作業である。あらかじめ知識は持っていたが、まさかこの目で採火の瞬間が見られるなんて予想していなかった。興奮は未だに冷めず、フロストランドの厳しい寒気にも負けないほど体はかっかとあたたまっていた。
 肝心の神官は、病を患った大司教のために別室でお茶を用意している。彼女が洞窟から戻るまでずっと大司教を看病していた神官リアナも、一旦自室に戻って休んでいた。
 ベッドのそばに椅子を引いてきて冒険譚を語れば、大司教は安心したように息を吐く。
「オフィーリアは無事に務めを果たしたようですね。アトラスダムからやってきた学者が、サイラス殿で良かった。どうか娘を頼みます」
 ヘッドボードに上半身を預けた大司教は、ゆっくりと頭を下げる。
 その温厚さや高潔さにより、彼の名はアトラスダムにも届いていた。前回の式年奉火を行ったのが他ならぬ彼だったこともあり、直接顔を合わせる日を楽しみにしていた。しかし、大司教は今日の昼間に急激に体調を崩して、一度は意識を失ったという。そのせいで、本来式年奉火を行うはずだった実の娘のリアナが取り乱してしまった。オフィーリアはそんな義姉妹を気遣って、代わりに種火の運び手となることを決意したのだ。
 大司教は背を縮めて咳をしながらも、丁寧な態度を崩さない。その姿を見ると胸の奥が鈍く痛んだ。
「……もちろんです。オフィーリア君は、私が必ず無事にここへ連れて帰ります」
 そう、自分には旅の記録係としての役割と、神官本人の安全に対する責任がある。二十年に一度の儀式を間近で見学できるからといって、浮かれてばかりはいられない。
「ですからその時は、大司教様とまたお話を――」
 紡ぎかけた言葉は大司教の湿った咳に遮られ、中途半端に床の上に落ちる。どうしても「また」の先を続けられず、そのまま唇を閉じた。
 大司教の容態はどの程度悪いのだろう。教会に出入りしている薬師が診察したとの話だが、回復の見込みはあるのか。素人目には判断がつかなかった。
「サイラス殿?」
 しばらくして咳の衝動が落ち着いた大司教は訝しげに尋ねる。うまく返事ができなかった。それでも口を開こうとした時、部屋の扉がノックされた。
「失礼します。お茶が入りました」
 白い衣の裾を揺らして神官がやってくる。両手で持ったお盆には、湯気の立つカップが三つ載っていた。最初にカップを渡された大司教は笑みを浮かべる。
「ありがとう、オフィーリア」
 続いてこちらもカップに口をつけた。薫り高いお茶が喉を通り、気持ちが落ち着いていく。
「キミも座ったらどうだい」
「ええ、そうします」
 別の椅子を持ってきて腰を下ろした神官は、カップを手のひらで包んで指先を温めた。
「サイラスさんは大司教様と何のお話をされていたのですか?」
「もちろんキミの活躍についてだよ。守護者と戦った時、キミが果敢にも杖で巨人を叩きに行っただろう」
「そ、その話ですか」
 彼女は照れたようにほおを染める。洞窟では「あまり戦いに慣れていない」と申告していたが、守護者との戦闘においても萎縮せず、むしろこれからの旅で必要となるであろう度胸を見せた彼女だ。今後も戦闘に関しては心配いらないだろう。
 話が途切れた拍子に視線を戻すと、大司教はまぶたを閉じてうつらうつらしていた。
「やはりお疲れだったのですね……」
 神官は立ち上がり、義理の父親にあたる人物をそっとベッドに横たえた。大司教は少し苦しげに寝息を立てている。
「早く元気になられるといいのだが」
「はい。リアナによると、昼間よりもずいぶん落ち着いたみたいです」
 彼女は大司教のそばを離れ、静かに採火燈を見つめた。
「……本当はリアナが行うはずだった儀式を、わたしは勝手に横取りしてしまいました。でも後悔はしていません。サイラスさんが手伝ってくださったおかげで、リアナを大司教様のそばに残していけます。本当にありがとうございます」
 神官は微笑しながらこちらに顔を向ける。その瞳の中に、風に揺られて今にも消えそうな灯火が宿っていた。一瞬どきりとする。
 彼女だって、家族が病に倒れたことを心細く思っていないはずがない。だが、動揺する義姉妹とは対照的に、神官は原初の洞窟から今まで一言も不安を吐露していなかった。まだ出会って数時間の彼女は、持って生まれたであろう気丈さをはっきりと示している。
 これから自分はそんな神官と旅をするのだ。生徒ではない女性と二人旅――というと、ひとつ気をつけなければならないことがある。ついこの間、自分はまったく身に覚えのない醜聞を立てられたところだった。彼女にそんな汚名を着せるわけにはいかない。
 大司教の代わりには到底なれないけれど、ここは歳上として、彼女を不安にさせないようふるまうべきだ。己もまだ旅慣れない身とはいえ、落ち着きを失うことは許されない。そうやって己を律することで、式年奉火の障害をできる限り取り払うのだ。
 今後自分の取るべき態度は決まった。ほほえみをつくって神官と向き合う。
「私こそ、キミとの旅路を楽しみにしているよ。よろしくオフィーリア君」
「はいっ」
 彼女は晴れ空のような笑顔で答えた。
(この表情が二度と曇らないよう、彼女の力になろう)
 それが大司教の期待に応えるために立てた誓いだった。



 何気なく下ろした足が雪を踏み抜いた。べしゃ、と水っぽい音がしてじわじわ靴の中が冷たくなる。
「しまった……解けかけだったのか」
「ふふ、一番寒さの厳しい時期はもう過ぎましたから」
 思わぬ失敗にひとりごちると、たまたま横にいたオフィーリアがくすりと笑った。少しだけ心臓が跳ねて、その感覚をごまかすために声を張る。
「そうか、フロストランドにも次の季節がやってくるんだね」
 あたりを見回せば、ちらほらと雪の隙間に土が見えた。きっとその下では草花が芽吹くための準備をしているのだろう。時の流れの早さに思いを馳せていると、狩人と雪豹が隣に並ぶ。
「前歩いた時もこのあたりは雪が減っていたな」
「え、そうだったかい?」
「ノースリーチのあたりはまだ雪深いですが、フレイムグレースは比較的解けるのが早いんです」
 解説するオフィーリアの足取りはうきうきしたように軽やかだった。
「以前」というのは、彼女とともに聖火騎士を連れてノースリーチへ向かった時である。当時はテリオンの旅の目的との兼ね合いもあって先を急いでいたため、周囲の観察が足りていなかったのかもしれない。
「あまり遅れるな。そろそろフレイムグレースだぞ」
「ああ、今行く」
 隊列を率いるオルベリクの呼びかけを受けて、ハンイットとリンデがペースを上げた。それを追いかけるようにこちらも早足になる。
 とはいえ、雪で滑りやすい坂道を軽々と下りていく狩人らにそう簡単に追いつけるはずはなく、気づけばオフィーリアと二人で最後尾を歩いていた。
 隣からじっと視線を感じた。近頃、彼女といるとこういう瞬間が訪れる。その度にオフィーリアが何か言いたそうにしていることは分かっていた。だが――
「オフィーリア君は、故郷に着いたらどうするつもりだい?」
 先手を打って話しかけると、彼女は一旦唇を閉じて、再度開く。
「しばらくはゆっくりしようと思います。ああ、でもその後には『再集合』がありますから、教皇聖下にあらかじめお話を通さなくてはなりませんね」
 にこりとする彼女の手は空いていた。しばらく前に式年奉火の儀式が完了したため、採火燈は原初の洞窟に返還したのだ。
 ――ダスクバロウにて辺獄の書を発見したことで、八人の旅の目的はすべて達成された。その後、本来ならばパーティは解散するはずだったが、訳あって旅の続行が決定した。それは他ならぬ自分が言い出したことだった。
 今は「旅の延長戦」の前に各々故郷に戻って羽根を休めるため、大陸を東回りに進んでいる。クリフランドを出発して大森林を抜け、最初の目的地はフレイムグレースだ。そこでまずオフィーリアが離脱する予定である。ちなみに故郷を通り過ぎたハンイットはこのままノーブルコートまでついてくる気らしい。そうやって順番に全員が別れた後は、しばらく間を置いてから別の町に集合する予定だ。
 旅の再開が決まった経緯については、未だに実感が湧かなかった。新たな目的すらろくに話していないのにあっさり仲間に了承されたことも、戸惑いに拍車をかけている。そのせいか、なんだか足取りまでふわふわして落ち着かなかった。
「遅れてるぞ」
 いきなりどんと乱暴に背中を小突かれ、前につんのめる。顔を上げればテリオンが脇を抜けていくところだった。そばにいたはずのオフィーリアもいつの間にかずいぶん先に行っている。
 その光景に、ふと違和感を覚えた。
(あれ、私は最後尾を歩いていたはずでは……?)
 テリオンはよほどこちらの遅れ具合が気になったのか、わざわざ戻ってきたらしい。変なところで律儀な青年である。彼に指摘されたとおり仲間と大幅に距離が離れていたので、慌てて歩みを再開した。またばしゃんと水っぽい雪を踏んでぬかるみを越える。ちょうど仲間の背に追いついた頃、いよいよ町の入口が見えた。
 フレイムグレースを訪れるのはそれほど久しぶりではない。だが、視界に入る雪の量は以前よりも確実に減っていた。漂う空気もどこか穏やかな色をしている。
 一番乗りで石畳に足を載せたトレサが、ぱっと両手を挙げて仲間たちを振り返った。
「あー着いた着いた。ね、これからどうするの?」
「まずは宿に行きましょう。わたしはその後で大聖堂に向かいます」
 オフィーリアが皆を先導するようにしずしずと進む。程なく道の先からざわめきが聞こえた。
「いやに騒がしいわね」
「ほんとだ。けんかでもやってんのか?」
 プリムロゼとアーフェンが首を伸ばして前方を見る。視線の先では、数名の住人が道端に固まって、何やら切羽詰まったように会話していた。すわ暴力沙汰か、とオルベリクが剣の柄に手をやりながら歩幅を広げた時、
「オフィーリア様!」
 こちらに気づいた町人が血相を変えて駆けてきた。式年奉火の運び手をつとめた神官はこの町では有名なので、こうして見知らぬ人物にも呼びかけられる。彼女は落ち着いて答えた。
「どうかされましたか?」
「大聖堂が大変なんです。お早く戻られた方がいいですよ」
「え? それはどういう……」
 きょとんとするオフィーリアを尻目に、町人は何故かアーフェンの大きな鞄に視線を留める。
「あなたは旅の薬師ではありませんか? お願いします、すぐに大聖堂に行ってください!」
「別に構わねえけど……俺が必要ってことは、もしかして」
 アーフェンがあごをさすりながら険しい表情になる。町人はくしゃりと顔を歪めた。
「どうやらお食事にあたったようで、神官様や聖火騎士様たちが大勢倒れてしまったんです。町からも何人も看病のお手伝いに行っています」
「そりゃあ大変だ」
 アーフェンは弾かれたように走り出した。足を滑らせないよう注意しながら、七人と一匹も最大速度で追いかける。
「まさか食中毒ってこと? 教会にしてはお粗末ねえ」とプリムロゼが顔をしかめ、
「近頃急にあたたかくなったから、食材の管理を怠ったのか……?」ハンイットが疑問を呈した。
 オフィーリアは顔を曇らせている。リアナや知り合いの神官が心配なのだろう。そんな彼女に、酷だとは思いつつも質問する。
「オフィーリア君、今まで類似の事件が発生したことは?」
「わたしの知る限りではありません。ただ、教会の食事は一つの調理場でつくっているので、悪くなった食材があればみなさん倒れてしまうことは考えられます……」
 町人の支援が必要なほど手が足りていないということは、相当な規模の惨事らしい。嫌な予想を立てながら大聖堂の前にたどり着けば、なるほど扉を守る聖火騎士すらいなかった。
 ばん、とアーフェンが大扉を開け放つ。
「失礼するぜ、旅の薬師が助けに――うわ」
 彼は礼拝堂を見渡して絶句した。遅れて踏み込んだ仲間たちも同様に声を失う。
 その広い身廊は、平時は参拝者が長椅子に座って静かに祈りを捧げる場所だった。しかし今は横たえられた大勢の患者によって椅子が埋まり、あちこちからうめき声が聞こえてくる。町人の話の通り、神官服や鎧下をまとった教会関係者ばかりである。眉をひそめたくなる匂いは、処理しきれなかった吐瀉物のせいか。
 難を逃れたと思しき神官や町人の手伝いが長椅子の間をせわしなく歩き回り、患者の面倒を見ている。しかし彼らは患者に対して圧倒的に数が少なかった。とりわけ忙しそうに指示を飛ばしている人物を発見し、アーフェンが目を丸くする。
「ヴァネッサじゃねえか! こんな場所でどうしたんだよ」
 大きな声が届いた先で、紫に色づいた髪が揺れた。かつてゴールドショアの町でアーフェンと対立したという女薬師である。彼女は患者に薬を飲ませる手を止めて、顔を上げた。
「いいところに来たわね。説明は後よ! あなたも手伝いなさい」
「へっ、言われなくても」
 アーフェンは鞄と愛用の手帳を引っさげてヴァネッサのもとに向かう。患者の症状を聞き取り、処方する薬を決めるためだろう。薬師同士で情報を共有するに越したことはない。
(ここに彼女がいるということは……おそらく理由は「あれ」だろうな)
 礼拝堂の惨状に驚く一方で、冷静に分析している自分がいる。だが、今は仮説を確かめている場合ではない。
 ヴァネッサのそばには見慣れた神官がいた。オフィーリアが駆け寄り、仲間たちもぞろぞろとついていく。
「リアナ、あなたは無事だったのですね」
「オフィーリア! ごめんなさい、今日帰ってくるって分かっていたのに迎えに行けなくて」
 患者の額を布で拭いていたリアナは申し訳なさそうに眉を下げる。ノースリーチに向かう直前にも少しだけ会ったが、やはり一時よりもずいぶん顔色が良くなっていた。
 オフィーリアは毅然として首を振る。
「出迎えなんて構いません。それよりも、何があったか教えてもらえますか」
「えっと……」
 リアナは不安げにあたりを見回した。アーフェンはすでにヴァネッサの指示を受けて動きはじめ、離れた場所で患者の診察を開始している。礼拝堂のそこここで、わずかに残った神官や手伝いに来た町人たちが懸命に働いていた。そんな状況で仕事を手放していいのか迷っているのだろう。
 事情を察したトレサがどんと胸を叩く。
「リアナさんは休んでて。その間あたしたちが手伝うから!」
「で、でも……」
 躊躇する彼女を手で制し、オフィーリアは仲間たちに頭を下げる。
「ありがとうございますトレサさん。みなさんはヴァネッサさんの指示に従ってもらえますか?」
「なんであの女の言うことなんか聞かなきゃいけないのよ」
 プリムロゼが腰に手を当ててしかめっ面になった。その肩に、ハンイットがぽんと手を置く。
「薬の腕自体はいいのだろう? 今は彼女に従うべきだ」
「もう、分かってるわよ!」
 ふてくされた踊子は、トレサに「まあまあ」となだめられながら歩いていく。一方オルベリクは別の神官に頼まれたのか、すでに仲間たちの輪を離れて物資を運ぶ手伝いをしていた。
 動き出しの遅かった自分とテリオン、それにオフィーリアがその場に残される。だが、己には看病よりも優先すべき役割があった。原因の究明だ。
「リアナ、話してください」
 オフィーリアに促されたリアナは「こっちに来て」と言って礼拝堂の側廊に移動した。テリオンともども従う。祭壇で燃え盛る大聖火が遠ざかったためか、少し肌寒くなった。
 リアナは小声で話しはじめた。
「今朝、教会のみんなで食べた料理があたったみたいなの。私はたまたま風邪気味で、食事を残したから助かったんだと思うわ」
 ふむ、とあごを指でつまみ、こちらから質問を挟む。
「ということは、問題の料理はだいたい絞り込めているわけだね」
「ええ……おそらくスープだと思います」
 ここで違和感を覚えた。具材を煮込む料理で食中毒? 火の通し方が甘かったのか、もしくは常温のまましばらく放置してしまったのか。リアナは調理係ではなかったようなので、疑問は一旦脇に置いておく。
「スープを飲んだのは神官と聖火騎士だけかい? 高位の神官――例えば教皇聖下は?」
「それが、教皇聖下も倒れてしまって……今はお部屋で休まれています」
 なるほど、患者は礼拝堂にいる者だけでないのか。これでは教会はほとんど機能停止しているようなものだ。
「ヴァネッサさんのお話だと、幸いみなさん命に別状はないとの話ですが……心配です」
 リアナは両手を組み合わせて祈るようにまぶたを閉じる。この分だと神官たちは看病に手一杯で、ろくに原因を調査できていないらしい。自分のやるべきことは決まった。
「調理場はまだ誰も検証していないのだね? では私が――」
「ねえ、ちょっといい?」
 突然会話に割り込んできたのはヴァネッサだった。いつの間にそばに来たのだろう。黙って話を聞いていたテリオンが彼女をねめつける。
「あんた、仕事はどうしたんだ」
「アーフェンに任せてきたわ。何時間もずっと働いてたんだから、ちょっとくらい休憩させてよ」
 彼女の声には確かに張りがなかったが、眼光だけは冴え冴えとしていた。
「そこの学者さんと……ついでにマフラーのあなたも来て。話があるわ」
 思わぬ指名を受けて、テリオンと顔を見合わせた。オフィーリアが心得たように首肯する。
「では、わたしはアーフェンさんたちを手伝ってきます」
「私も一緒に戻るわ」
 そう言って続こうとしたリアナは、「朝から風邪気味だったのでしょう。一度休んでください」とオフィーリアに止められてしまう。
「わ、分かったわ……」
 押し切られたリアナがうなずくと、オフィーリアは飛ぶように身廊の方へ戻っていった。以前オアウェルの村で流行り病に遭遇した時も、彼女はアーフェンの助手として大活躍したものだ。リアナは義姉妹の背中を見つめてしばらく逡巡していたが、ぺこりとこちらに頭を下げてから礼拝堂を出ていった。素直に休むことにしたようだ。
「おとなしく行ってくれて良かったわ」
 ヴァネッサは肩の力を抜く。彼女はどうやらオフィーリアたちに聞かれたくない話をするつもりらしい。
「……で、話ってなんだ」
 テリオンが言葉少なに問えば、ヴァネッサは口の横に手をあてて声をひそめる。
「朝食のスープに入ってたのは、多分毒よ」
「なっ……」
 二の句が継げなかった。テリオンも息を呑む。もちろんその可能性を考えなかったわけではないが、唐突に断言されるとは思わなかった。慎重に尋ねる。
「断定する理由はあるのかい?」
「この症状、つい最近調べたばっかりだからよく知ってるの。入ってたのは多分これ」
 ヴァネッサは鞄からガラスの小瓶を取り出す。中身は乾燥させた草のようだ。テリオンが胡乱な目つきになる。
「あんたが犯人だったのか」
「そんなわけないでしょ! これは、私があの神官さんから調査を頼まれた薬よ」
「……なるほどね」
 やっと話が見えてきた。ヴァネッサはテリオンを思いきりにらみつけてから、こちらに向かって説明する。
「ちょっと前、私はあの神官さんにフラットランドからここまで導かれてきたでしょう。その時に瓶の中身を調べてほしいって頼まれたの。ここの亡くなった大司教が晩年に飲んでいた薬ね」
 テリオンの顔色が変わる。彼もヴァネッサが言わんとしていることに気づいたのだろう。
「つまり……大司教は薬じゃなくて毒を飲んでたのか」
「それも、相当蓄積量が多くないと効かないタイプの毒をね。犯人はこれを毎日少しずつ飲ませて大司教を弱らせたんだわ。厄介なことに本物の咳止めと混ぜて処方されてたから、無駄に解析に時間がかかったわよ。大陸のあちこちを調べ回って大変だったわ。
 で、それを神官さんに伝えるために大聖堂に来たら、この有様ってわけ。きっと、誰かがこれと同じ草を煮出した汁でもスープに混ぜ込んだんでしょ。そこで倒れてる人たちの症状、この草を大量に飲んだ場合と一致してるもの。十中八九、大司教に毒を盛ったのと同じ犯人の仕業よ」
 不穏な予想を一息に言い切ったヴァネッサは、この上なく苦い顔をしていた。
 大司教が毒などによって意図的に殺されたのではないか、という仮説については、マティアスの企みを知った直後からオフィーリアと話し合っていた。彼女がヴァネッサに薬の解析を頼んだことも知っていた。つまり、自分は教会に漂う不穏な空気に薄々勘付いていながら、結局はこのような事態を招いたのだ――
(いや、それは今考えることではない。先に目の前の事件を解決すべきだ)
 胸のざわめきは一旦無視して、ヴァネッサの出した結論を検証する必要がある。まずはこう尋ねた。
「どうしてその話をオフィーリア君ではなく私たちに打ち明けたんだい?」
 ヴァネッサは堂々と胸を張る。
「こんなものを大司教に盛るってことは、ほぼ間違いなく教会内部の犯行でしょ。今の状態で神官さんに言ったらかなりややこしいことになるわ。
 それにあなた、こういうの考えるの得意そうだし」
「まあそうだが……」
 妙な部分で頼られたものだ。微妙に居心地が悪くなってほおをかく。とはいえ彼女のオフィーリアに対する配慮は的確だった。
「ちなみにこの話はアーフェンにもこっそり伝えたから、今頃あいつも毒に合った処方をしてるはずよ。あっちには『面倒な話は学者さんたちが全部解決するから任せておきなさい』って言ってあるからね。なんとかしてよ」
 ヴァネッサはやや無責任に急かしてきた。テリオンが怪訝そうに首をひねる。
「薬屋が今の話をオフィーリアに隠し通せるのか……?」
「ううん、少し怪しい気がするな……」
 アーフェンの正直さは美徳だが、今回の場合は明白な欠点である。ますます謎の解明を急ぐ理由が増えてしまった。
 ヴァネッサはつんとあごをそらしてテリオンを見やる。
「ちなみに、アーフェンはあなたのことを『先生の助手みたいなもんだ』って紹介してたわよ。だからついでに話したの」
「あいつ勝手なことを……」
 額をおさえるテリオンを横目に、今後の段取りを考える。
「まずは犯人の狙いを探る必要があるだろう。ただ毒をばらまいて教会関係者を苦しませるだけの愉快犯とは考えづらい」
「今ある情報だけで何か分かるか、サイラス」
 テリオンが明確な意図を含んだ視線をこちらに向けた。追加で推理の材料を揃える必要があるかと尋ねているのだろう。「そうだね……」とつぶやいてまぶたを閉じた。いつものように自然と集中状態に入り、周囲の音が遠のいていく。
 ――大司教が亡くなったことで得をしたのは誰か。もちろんマティアスたち黒炎教の一派だろう。彼らには大司教の死によりリアナの精神をコントロールする狙いがあったから、毒殺に関与している可能性は高い。つまり、教会に黒炎教の信者が潜り込んでいたということだ。
 それが今、どうしてこんなに派手な事件を起こしたのか? そもそもマティアスが死んだ時点で、犯人はいくら自分がノーマークでも即刻教会から去るべきだった。しかし相手はそうしなかった。何か狙いがあるのだ。自分の身を顧みず、このような行動に出た理由が――
 疑問は雫となり、ぽつりと思考の水面に落ちて波紋を広げる。それはこの町に来る前に見た雪解け水を思わせた。氷を溶かすのは熱――炎。
「相手の狙いは原初の洞窟だ」
 導いた答えを口に出せば、「どういうことだ」とテリオンが問う。
「犯人は黒炎教の残党だろう。彼らには大司教を死に追いやる動機があり、今回はその時と同じ毒をばらまいている。そして、黒炎教の目的は聖火を黒く染めることだった」
 ヴァネッサは眉をひそめ、テリオンは耳を澄ませている。
「あのスープはほとんどの教会関係者が飲んだはずだ。ならば、原初の洞窟の入口を守る聖火騎士も同様なのでは? 今はあそこの守りが手薄になっていて、その隙に犯人が乗り込んだのかもしれない」
 ヴァネッサはいまいちぴんと来ていないらしく、渋面をつくった。
「聖火が狙いねえ……ま、確認くらいはしてもいいかもね」
「ああ、すぐに行ってくるよ」
 言葉とともに体を反転させると、すかさず背後からフードを掴まれてのけぞった。近頃テリオンにしばしばこうして引き止められるのだが、毎回不意打ちなので見事に首が絞まる。抗議するために振り返れば、鋭い瞳に射すくめられた。
「待て。オフィーリアには話さないのか」
 思わずぱちりと瞬きする。やっとフードが解放されたので、襟元を軽く緩めた。
「ヴァネッサさんも懸念していただろう。内部の犯行ということは、彼女の知り合いが犯人である可能性が高い。もし犯人と衝突することになれば、彼女には厳しい選択を迫ることになる。
 それに、犯人は聖火だけでなくオフィーリア君のことも狙っているかもしれないんだ。黒炎教の企みを打ち砕いたのは彼女だから、逆恨みされてもおかしくない。オフィーリア君はここで大勢の人と一緒にいた方がいいよ」
 理路整然と説明する。ヴァネッサが唇を尖らせた。
「確かにさっきは神官さんに気を遣ったわよ。でも、自分が狙われてるかもしれないってことくらいは本人に知らせた方がいいんじゃないの?」
 テリオンが小刻みに頭を縦に振った。どうやらこのままでは二人を説得できそうにない。仕方なく、言及を避けていた理由を打ち明けることにした。
「そうしたら……きっと彼女は自分の身を顧みず、無理をして私についてきてしまうだろう?」
 かの神官はそういう人格の持ち主だから。するとテリオンは黙したまま眉を跳ね上げた。ヴァネッサが肩をすくめる。
「……私はなんでもいいけど。神官さんには適当に話しておくわ。そろそろ私も戻らないとね」
 彼女は急に興味をなくしたように、くるりときびすを返した。その寸前、何故かテリオンに視線を投げる。盗賊は軽くあごを引いて応えた。
 それが何を意味するのか、気になったけれど探っている暇はない。こちらも仲間たちに見咎められる前に外に出ようと、がらんとした側廊から大聖堂の入口に向かう。不意にテリオンが真横に並んだ。
「俺はあんたと洞窟に行くからな」
「あ、ああ……願ってもないことだ。助かるよ」
 正直言うと、その言葉を少し期待していた。テリオンは何故か盛大にため息をついた。
 入口の大扉をくぐる直前、あらためて礼拝堂の様子を確認する。ぐったりと臥せった人々を見ると犯人の行動に疑問が湧いた。相手もほとんど自暴自棄のような行動に出たものだ。黒炎教の残党がどの程度の数いるかは分からないが、相当追い詰められているらしい。
 二人で大聖堂を抜け出し、湿った雪道を通って家々の間を抜ける。町のシンボルたる大聖堂の一大事ということで、なんだかフレイムグレースの町まで雰囲気が沈んでいた。人通りは少なく、原初の洞窟に向かった者がいたかどうかの目撃証言はとれなかった。
 町の端から階段を下りると、聖火の眠る山へと続く道がある。雪の上にはいくつか足跡があった。山から町へ戻る足跡が二対。そして、こちらから洞窟に向かう足跡が一対だ。
「犯人の足跡かもしれない」
「だな」
 必要最小限のやりとりで話が通じるのはありがたい、と思いながら山道をゆく。標高が上がるとさすがに冷え込んできた。しんと静まり返った斜面を、二人で口を閉じて歩く。
「……あんた、妙にオフィーリアをかばうんだな」
 道の途中で急にテリオンが話しかけてきた。彼の足取りは普段よりのろく、水っぽい雪に辟易しているようだった。
「そうだろうか」と答えようとして、一度考え直す。確かに自分はオフィーリアを気にかけている。それは、フレイムグレースという土地に宿る記憶に引きずられているからかもしれなかった。
「実は、オフィーリア君の旅立ちの前に、今は亡き大司教様に頼まれたんだ。娘のことをよろしく、と……」
 あの時飲んだお茶の味や、大司教とともに過ごした安穏とした時間は今でも鮮明に思い出せる。それなのに、結局自分はオフィーリアを生前の彼に会わせることができなかった。
(毒殺か……)
 ヴァネッサの話を聞いた瞬間からずいぶん遅れて、じわじわと苦い後悔がこみ上げてきた。自分がもっと早く気づいていればあんな事件は防げたのではないか。考えれば考えるほど、腹の底に黒いものがわだかまる。
 しばしの沈黙を破り、テリオンがぽつりとつぶやいた。
「娘のことを頼まれたのは、式年奉火が終わるまでの話じゃないのか?」
「それはそうだが、私は大司教様に儀式の完了を報告できなかったからね」
 何かと忙しかったせいもあって、未だに墓前に挨拶すらできていなかった。いつまで経っても心に区切りがつけられないのはそれが原因なのか。
 テリオンの刃物のような視線がほおにあたる。
「……あんたは一度誰かを生徒だとみなしたら、ずっとそう思い込む癖があるな」
 いきなり何を言い出すのだろう。少しむっとした。
「オフィーリア君のことかい? 彼女を生徒だとは思っていないよ」
「似たようなもんだろ。自分が守ってやらなくちゃいけない、とでも思ってるんじゃないか」
 テリオンは山の中腹で立ち止まり、こちらの胸元に指を突きつけた。思わぬ指摘を受けて、とっさに声が出ない。
(私は彼女のことを守るべき対象だと思っている……?)
 台詞を反芻していると、テリオンはまっすぐに顔を上げて言った。
「あいつは少なくとも俺よりずっと強いぞ。あんまりあいつを見くびるんじゃない」
 彼の言葉はいつも端的で、ひとつひとつが重く響く。その余韻を払うようにかぶりを振った。
「……見くびってなどいないよ。ほら、今は先を急ごう」
 胸のざわめきに気づかないふりをして、歩みを再開した。やや強引に雪をかき分けて坂道を登る。テリオンはもはや何も言わずについてきた。
 山頂に向かう道から外れ、少し下ったところに原初の洞窟の入口がある。しばし立ち止まって息を整えた。いつもなら入口に詰めているはずの聖火騎士の姿がない。
「やはりな……」
 結界を張る余裕もなかったのだろう、入口には簡単にロープが渡してあるだけだ。そして、洞窟の中には湿った足跡が残っていた。もちろん奥へと向かっている。やや遅れて到着したテリオンを振り返り、洞窟内を指さした。
「誰かがここに入ったことは確実だ。きっと犯人だろう」
「聖火の守護者とやらは侵入者を撃退できないのか?」
 テリオンには以前、採火の儀式について簡単に説明をしていた。だからこそ疑問が湧いたのだろう。
「この前オフィーリア君と二人で倒してしまったので、守護者はまだ弱っているのだろう。基本的に二十年周期で起動しているわけだから、動力となるエレメントの補給が追いついていないんだよ」
「面倒だな……」
 顔をしかめたテリオンは、ちらりと肩越しに後ろを見る。
「だから私たちもさっそく突入して――」
 その視線に釣られて上半身をひねった時、背後でさくりと雪を踏む音がした。
(え?)
 まったく意識の外にあった第三者の登場だ。背中がひやりとする。
 雪景色の中に決然と佇んでいたのは、肩に白いケープをかけて杖を持った女性だった。
「オフィーリア君……」

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