あなたの空いた椅子



「サイラスさん、テリオンさん。洞窟に入るのは少し待っていただけませんか」
 かすかな冷風にプラチナブロンドの髪をなびかせ、神官オフィーリアはこちらをひたと見据える。その双眸には茶色い炎が燃えていた。
 どうして彼女がここにいるのだろう。はっとしてテリオンを見ると、彼は素知らぬ顔で目をそらした。
(まさか……会話を引き伸ばしていたのか?)
 先を急ぎたがる彼にしては妙に動きが鈍いと思っていたが。疑いのまなざしを向ければ、別方向から否が突きつけられる。
「お二人がわたしに黙ってここに来たことは、ヴァネッサさんから聞きました」
 一歩一歩近づいてくるオフィーリアは、こちらを圧倒するほどの迫力を持っていた。ごくりと喉が鳴る。初めて会った時から芯の強い女性という印象があったが、今はその何倍にも存在感が増していた。いつの間にこれほど成長したのだろう? 漆黒の洞窟でマティアスに向けた眼力など、おそらくこの比ではなかったはずだ。
 彼女は数歩分の距離を開けて立ち止まった。
「この奥にスープに毒を盛った犯人がいるのですよね? わたしも行きます」
 提案ではなく宣言だった。こちらははたと我に返り、首を振る。
「犯人の狙いはキミかもしれない……いや、その可能性が高いんだ。私たちだけで処理した方がいい」
「そのくらいは覚悟の上です」
「相手はおそらくキミの知り合いなんだよ。もし犯人が親しい人物だとしてもキミは杖を向けられるのか?」
 果たして彼女はこの問いかけにうなずくのか。オフィーリアはきゅっと眉根を寄せ、唇を噛む。
「……辛いことですが、事実は覆せません。それに、もしわたしの知り合いの方が『そちら側』に踏み込んでしまったのなら、きちんとお話を聞いてあげたいのです」
 甘いな、とテリオンがつぶやく。だがその声色はオフィーリアの意思を歓迎しているようだった。
「サイラスさん。わたしを行かせたくない理由は、他にもありますか?」
 彼女はいつになく目を吊り上げていた。真っ向から注がれる強い視線になんとか耐えて、ぐっと腹に力を入れる。
「……オフィーリア君、無理だけはしないでほしいんだ。キミがついてくる必要はないのだから」
 そう告げれば、彼女の表情は一瞬泣きそうなほどに崩れた。こちらまで動転してしまい、テリオンともども息を呑む。
 オフィーリアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「わたしは無理なんかしていません。無理をしているのはサイラスさんでしょう!」
 彼女がこれほど激しい思いをあらわにしたのは、漆黒の洞窟でマティアスに対して「許さない」と言った時くらいだった。こちらの足は地面にはりついたように動かなくなる。
「犯人がどういう人物か分からないのは、サイラスさんも同じはずです。こちらの人数は多ければ多いほど心強いでしょう。あなたも本当はついてきてほしいのではありませんか。そう思ったから……ダスクバロウでわたしたちに『旅を続けたい』と言ったのですよね?」
 心臓がうるさく鳴り、こめかみを冷や汗が流れた。
 今この場面で仲間を頼ることと、旅の続きを約束したことに大きな違いはないだろう、と彼女は指摘する。確かにその通りだった。むしろ、自分は黒炎教の残党が潜む洞窟よりも、よほど危険な場所に仲間たちを連れ出そうとしている。己の行動は大いに矛盾していた。
 一言も返せずに固まっていると、また雪道の向こうから人影が現れる。
「サイラス……せめて、テリオン以外にも誰か頼れなかったのか?」
 やってきたのは呆れ顔のオルベリクだった。驚いて目を見開けば、オフィーリアが説明する。
「教会のお手伝いに区切りがついたら原初の洞窟に来てほしい、とわたしが頼んだんです。オルベリクさんはすぐに了承してくれました」
 まるで図ったように、いつか漆黒の洞窟を攻略したメンバーが集まった。オフィーリアは冷静に戦力を揃えて危険に挑もうとしている。どう考えても短慮なのはこちらの方だった。
「私は……」
 喉がつかえてうまく返事ができない。うつむき加減の視界の中で、白い衣が一歩分近づく。
「一緒に行きましょう、サイラスさん」
 オフィーリアにそっと手を握られる。手袋越しにあたたかさが伝わった。横でぼそりとテリオンがつぶやく。
「あんたは自分の気持ちをちゃんと認めた方がいい。……俺が言えたことじゃないが」
 小さくオルベリクが笑ったので、テリオンは「おい」と不機嫌そうな声を発した。
 いつもの気兼ねないやりとりを聞いて、ようやく頭を整理できた。憑き物が落ちた心地で口を開く。
「勝手な行動をしてすまなかった。全部キミの言うとおりだ。みんな……よろしく頼むよ」
「はいっ」
 オフィーリアは花開くように笑った。思わず安堵の息が漏れる。あの気迫にさらされ続けていたらこちらの身が持たなかった。
 彼女に手を引かれるように原初の洞窟に入った。いつか二人でたどった道だ。その時は自分が前に出て、入口にいた聖火騎士に事情を説明し、オフィーリアが種火の運び手となったことを認めさせたものだ。それが、今は真逆の立場で彼女に導かれている。
 オルベリクが油断なくあたりを見回した。
「犯人は黒炎教の信者なのだろう。マティアスのような思想を持っていて、何かの復活を企んでいるのか?」
「その上、聖火に悪さをしようとしているかもしれないんですよね……」
 二人の推測を聞くうちに冷静さが戻ってくる。今は目の前の危険に対処すべきだ。しかし、現段階でまともに推理するにはいささか相手の情報が少なすぎる。犯人についてオフィーリアに尋ねても「心当たりはない」との話だ。
「例の魔法陣は警戒しておいた方がいいだろう。あとは――直接乗り込んで確かめるのが早いね」
 荷物から魔導書を取り出しながら言うと、テリオンが鼻で笑った。
「あんたらしくないな。推理はどうした」
「情報がないから足で稼ぐんだ。まあ、今回は相手に面と向かって尋ねることになるが」
「悠長に質問するよりぶちのめせばいいだろ」
 とテリオンは乱暴な結論を出した。しかし結局はそれが一番早いのだった。
 やがて原初の炎の近くにたどり着く。物陰から様子をうかがうと、祭壇の手前に一つの人影が見えた。四人は小声で作戦会議を開く。
「テリオンはここで待機を。まずは三人で突入するよ」
「了解」「分かりました」
 入口の足跡からして相手は一人と思われるが、万一を想定して人員を分けた。あとは予想外の伏兵がいないことを祈るだけだ。
 祭壇の前でこちらに背中を向けるのは、神官服をまとった男だった。意を決したようにオフィーリアが近づくと、男が足音に気づいて振り返った。
「オフィーリア様……」
 犯人が向ける憎悪のこもった視線を、オフィーリアは真っ向から迎え撃つ。知り合いか、と小さく問えば、彼女は「ええ」とだけ答えた。
「あなたがスープに毒を盛ったのですか?」
 オフィーリアは感情を抑えて単刀直入に問いかけた。
「そうです」彼はあっさりと犯行を認める。「もう気づいているのでしょう。大司教様の薬をすり替えたのも私です」
 なるほど、彼は大司教が本来の薬ではなく黒炎教の用意した毒を飲むよう仕向けたのだ。かの組織はそれだけ教会内部に食い込んでいた。
 男は瞳に暗い炎を燃やす。
「しかし、オフィーリア様が救世主様の邪魔をしたせいで、大司教様は復活されなかったんですよ。一体、彼の死は何のためにあったのですか!?」
「なっ……」
 オフィーリアは絶句した。オルベリクの眉間のしわが深くなり、腰の得物に手が置かれる。
 犯人は、大司教を毒殺した事実を死者の復活によって正当化しようとしているのか。罪悪感など微塵も抱いていないのは、おそらくマティアスによる精神操作の一環だろう。犯人はかつてのウィスパーミルの住人と同じような幻想にとらわれているのだ。
「それはオフィーリア君の責任ではない。大司教様は――」
「待て」
 つい反論しかけて、オルベリクに止められる。「オフィーリアに任せろ」ということらしいが、苦い気分は晴れない。
(……やはり、彼女を連れてくるべきではなかったのでは)
 オフィーリアは苦しげに胸の上に両手を重ねる。数瞬後、絞り出された声は予想に反して凛としていた。
「大司教様は……父様は死者の蘇りを否定されました。父様が亡くなったのは本当に悲しいことですし、悔しいとも思っていますが、わたしたちがどう思おうと蘇ることはありません。死とは本人にとっては単に『死』という状態であって、それに意味を見出すのは今生きているわたしたちです」
 オフィーリアの瞳が原初の炎を反射して青く燃え上がる。それは月のない夜を照らす導きの星と同じ色だ。彼女は義父を殺した犯人を目の前にしても完璧に怒りを抑えてみせた。
「あなたは死者には何の意味もないと言いましたが、父様の言葉はリアナやわたしの中に残っています。それは彼が生きていたことの大きな意味でしょう」
 彼女のまとう静かな迫力に、犯人が身構える。その台詞は仲間たちの決意をも新たにした。
 ――洞窟に入る前、「オフィーリアのことを守るべき対象だと思っているのでは」とテリオンに指摘された。それはおおよそ事実だった。はっきりと言語化できてはいなかったが、自分は似たようなことを考えていたのだろう。だからこそ今、彼女の力強い言葉に圧倒された。ゴールドショアで義父の訃報を聞いて心を揺らしたオフィーリアは、それから家族の不在という現実と向き合ってきたのだ。
「……わたしは大司教様の死の真相を暴いてみせます。そして、あなたには犯した罪をきちんと償ってもらいます」
 杖が地面を突いた。その清浄な音を合図にオルベリクが駆け出し、こちらも追いかけるように詠唱を紡いだ。



「ただいま戻りました」
 オフィーリアの晴れやかな声が礼拝堂に響く。
 事を終えた四人が帰還すると、大聖堂にはすでに弛緩した雰囲気が漂っていた。出かける時は患者で満杯だった長椅子が、ところどころ空いている。それだけ患者が回復したということだ。
 その一角にぐったりと座っていたトレサが、こちらを見つけて「おつかれさま」と手を挙げる。付近に仲間たちが固まっていたので、四人で歩いていった。
 するとハンイットが何故かしかめっ面になる。
「水くさいぞサイラス、訳も話さず勝手に洞窟に行くなんて」
 出し抜けに文句を言われ、目を瞬いた。
「ああ、すまなかったよ。ところでどうしてキミたちがそれを――」
「事情はだいたいヴァネッサさんから聞いたわ。それとアーフェンからも」トレサがにやりとする。
「お、俺が聞いてたのはごく一部で、先生たちが洞窟に行ったのは知らなかったぜ」
 アーフェンは慌ててもごもごと弁解した。
「私も別に『話すな』なんて言われなかったし」
 一行の中で最も疲弊した様子のヴァネッサは、ほとんど椅子に寝そべるような体勢になっていた。器用にもそのまま肩をすくめる。
「まあ、口止めされててもお金次第じゃ話してたけど」
「だと思ったわ」
 プリムロゼが柳眉をひそめて不穏な言葉を投げた。一瞬ぴりぴりした視線を交わしたヴァネッサは、途端に元気よく起き上がる。
「何よ。薬の代金受け取らないアーフェンよりマシでしょ!」
「な、なんでいきなり俺の話が出るんだよ!」
 話題を振られたアーフェンが動揺したように叫び、礼拝堂の中に大声が響いた。彼も相当働いたはずだが、あの分だとそれなりに体力が余っているらしい。
 自分がテリオンとともに大聖堂を出た後で、ヴァネッサはあっさりと皆に洞窟の件を打ち明けたのだろう。ほぼ同時にアーフェンも嘘を保てなくなってしまったに違いない。
 そしてオフィーリアが洞窟の前でこちらに追いついたのは、テリオンが足止めしたためだ。礼拝堂を抜ける直前、彼はヴァネッサの視線を受けて己の役割を把握したのだろう。まったく見事な連携である。
 オフィーリアは穏やかな表情で皆を見回し、小声で言った。
「原初の炎の前には、やはり今回の事件の犯人がいました。拘束して、すでに聖火騎士に引き渡しています」
 アーフェンがさっと眉を曇らせる。
「なあ、やっぱり犯人ってここの神官だったのか……?」
「はい。長く調理係をつとめていた方でした。病気になった大司教様でも食べやすいように、特別メニューまでつくってくれたんです」
 彼女は痛みをこらえるようにまぶたを伏せる。それほど親しかった人物に、彼女は心無い言葉を投げられたのだ。だが、オフィーリアはそれを自力ではねのけるだけの力を持っていた。
 小さな沈黙が下りた時、リアナがやってきた。今の話は聞こえなかったようで、心配そうに義姉妹に走り寄る。
「オフィーリア! 大丈夫、怪我はしてない?」
「ええ、なんともありません。みなさんが助けてくれましたから」
 オフィーリアが笑顔でこちらを振り向く。茶色の視線とかち合う直前、つい目をそらしてしまった。
 テリオンが意地悪な顔で腕組みする。
「というか完全に過剰戦力だったな。特にオルベリクが」
「……あのくらい戦力差があった方が拘束しやすいだろう」
 と言いつつも、生真面目なオルベリクは居心地悪そうにしていた。
「今回は相手が何をしてくるか分からなかったから、十分な戦力を用意するのは正しい選択だったのだが……あれは予想外だったね」
 洞窟での出来事を思い出すと、自然と苦笑が浮かぶ。
 威勢よくオフィーリアに啖呵を切った犯人だが、戦闘能力はごく平凡だった。こちらが詠唱している間にオルベリクがみねうちで相手を昏倒させてしまったくらいだ。温存戦力だったテリオンなど、すべてが済んでから呆れたように物陰から出てきた。
 犯人を確保した後でオフィーリアとともに原初の炎をよく調べた結果、異常は見受けられなかった。地面に魔法陣でも描かれていたら自分の出番だったが、それすらなかった。どうやら相手は本当にやけになって毒をばらまいたらしい。ヴァネッサによる毒の解析も終わりが見え、ちょうど今日オフィーリアが大聖堂に帰還するということもあって追い詰められた結果、彼は後先考えず犯行に及んだのだろう。道理でこの事件には合理性も計画性も感じられなかったわけだ――
 オフィーリアが気を取り直したようにほほえむ。
「とにかく犯人の処置は教会に任せてください。みなさんお疲れでしょう。宿をとっておきますから、もう休んでください。今日は本当にありがとうございました」
「そうさせてもらうわ……」
 プリムロゼがよろよろと立ち上がり、その横でヴァネッサはあくびをしながら肩に鞄をかけ直した。
「私も毒についていろいろ報告したいけど、明日にするわね。今日はもう閉店よ」
「分かりました。今日働いていただいた分も含めて、報酬を用意しておきます」
 オフィーリアが請け合うと、ヴァネッサは「分かってるじゃない」と嬉しそうに言う。それから彼女は表情をがらりと変えた。
「……毒を盛ってじわじわ殺すなんて悪趣味よ。殺したらもうお金が取れないのに」
 真剣な声色だった。毒の後始末をした薬師として、犯人の所業には思うところがあったのだろう。
「ほー、ゴールドショアの時と言ってることがずいぶん違ぇな」
 面白がるようにアーフェンが口を挟めば、うんうんとテリオンやプリムロゼがうなずく。ヴァネッサは眉を吊り上げた。
「うるさいわねっ。ただ、何も殺すことはなかったでしょ、って思っただけ」
「……そうですね」
 オフィーリアが粛然と相槌を打つ。ヴァネッサは真顔で神官たちに視線を注いだ。
「それとね、こんな毒はプロの薬師でもなかなか気づかないから、素人じゃ判断できないのは当然よ。これを用意した奴らはめちゃくちゃ性格が悪かったに違いないわ」
 オフィーリアはきょとんとしてリアナと顔を見合わせた。どうやらヴァネッサは、「自分がもっと早く大司教の異変に気づいていれば」と考えたであろう二人の心を軽くしようとしたらしい。
「ありがとうございます、ヴァネッサさん」
 正しく意図を把握したリアナは顔をほころばせた。それに軽くうなずいて、ヴァネッサは口元を緩める。
「そうそう、あなたもちょっとは元気になったみたいね。さっきの看病も的確だったし、臨時の助手としては悪くなかったわよ」
「えっ……」
「じゃ、また明日」
 我に返ったリアナにお礼を言われる寸前、ヴァネッサはけろりとして礼拝堂から出ていった。きっと照れたのだろう。
 その背を見送ったアーフェンは、嬉しそうに鼻の下を指でこする。
「へへ、あいつに毒の解析を頼んで正解だったな、オフィーリア」
「はいっ」
 神官は満面の笑みでうなずいた。
 一方、脇でそのやりとりを見ていた盗賊が腕組みする。
「……あの女、よっぽどあのトゲが効いたらしいな」
「もしくはアーフェンの人徳かも」商人がにこにこしながら相づちを打ち、
「単に教会にコネができて喜んでるだけじゃないの?」
 最後に踊子が辛辣な評価を下す。今の女薬師の態度は、かつてゴールドショアの町で彼女と戦った者たちに一定の感慨を抱かせたらしい。金銭至上主義で他人を脅かすことを厭わなかった薬師のスタンスが変化するには、十分な時間が流れたということだ。
「だがヴァネッサさんのおかげで神官たちが助かったのは事実だろう。さあ、わたしたちも戻るぞ」
 ハンイットがさっぱりとまとめて号令をかける。頭を切り替えた仲間たちはぞろぞろと大聖堂の入口に向かった。
 こちらも最後尾に続こうとした時、
「サイラスさん」
 オフィーリアに呼び止められた。
 振り返れば、すでにリアナはいなかった。オフィーリアと二人きりだ、と思うとにわかに緊張が走る。
「何だい?」
 できるだけ平静を装って尋ねた。彼女はほおを緩める。
「一緒に大司教様のお墓参りに行きませんか。今日の事件を報告したいと思いまして……サイラスさんはまだ一度も行ったことがありませんよね。いかがでしょう?」
 内心どきりとした。どういう意図があって誘ったのか、思わず探りの視線を入れてしまう。彼女は屈託なくこちらを見上げていた。
「……そうだね。ぜひ、そうさせてくれ」
 了承すれば、オフィーリアはぱっと破顔した。そこには素朴な気遣いが見て取れた。仲間に対して思いやりを示す姿も、敵対者に怒りを燃やす姿も、どちらも彼女の持つ一面なのだ。
 仲間たちと別方向を目指して、神官用の出口から大聖堂を抜ける。すでに日は傾き、残光が雪の表面を赤く照らす時刻だった。
 案内された先は緩やかな丘だ。雪の積もった起伏の上に、いくつもの石碑が立っている。フレイムグレースの共同墓地だ。アトラスダムのものとはずいぶん違う景色だった。
 ヨーセフという名の彫られた石碑は、特別立派なつくりをしているわけではなかった。しかし、素朴な墓標にこそ生前の彼の人柄や思いがあらわれていた。墓前には野花が供えられている。
「まずはわたしがお祈りしますね」
 オフィーリアは墓標の前に屈んでしばらくこうべを垂れていた。それはどんなに親しい人物でも決して聞くことができない対話だ。故人と二人きりで過ごす大切な時間を、こちらは黙して待つ。やがて彼女は立ち上がった。
「サイラスさん、どうぞ」
「ああ」
 地面に膝をつき、手を祈りの形に組んで、そっとまぶたを閉じた。何から報告すべきか迷ったけれど、言葉は胸の奥からするりと出てくる。
(大司教様。私はオフィーリア君を――あなたの娘をここに連れて帰りました)
 たったこれだけのことを、今やっと報告できた。式年奉火が終わったばかりの頃はまだ心が整理できておらず、近頃はフレイムグレースを訪れてもなかなか時間がとれなかった……と自分に言い訳していたけれど、本当は機会を避けていたのかもしれない。己は正しく大司教の死と向き合うことができていなかったのだ。
 今の言葉は、フレイムグレースを旅立った時の大司教との約束を受けてのものだ。もう一つ、自分には門の向こうに去った者へ伝えるべきことがある。
(ですが……私は彼女をまた危険な場所に連れ出してしまうかもしれません)
 この旅の果てに待っているものも、その危険性も十分に承知しているのに、足を止めるつもりはなかった。
 自分は大司教に謝るべきなのか、それともオフィーリアがついてきてくれることを素直に喜ぶべきなのか。もし大司教が生きていればなんと答えたのか――想像しても分かるはずがなかった。だから、自分にできることは一つしかない。
(私は何に代えても、必ずオフィーリア君をここに帰します)
 誓いを胸に刻み、決然とおもてを上げた。一日の最後の陽光を反射して、遠くの雪山がきらきらと光っている。
 振り返れば、オフィーリアは穏やかな顔でそこに佇んでいた。うなずいてきびすを返す彼女に従い、墓地を後にする。
 二人の間を軽やかな風が吹き抜けた。近頃、彼女といると必ず湧いてきた気まずい思いが、今は嘘のように消えていた。
「わたしはここに来ると、祭壇から礼拝堂を見下ろした時の景色を思い出すんです」
 オフィーリアの唇から流れ出た言葉がすんなりと胸に染み込んでいく。先ほど見た墓地と二重写しになって、彼女の語る光景が脳裏に浮かんだ。
「ほう。それはどうして?」
「ええと……一定の間隔で整然とものが並んでいるから、ですかね? ほら、あの墓石と長椅子が似ている気がして」
 そのような見方はしたことがなかった。思わず背後の墓地に目をやる。丘はほとんど夕闇に沈み、黒々とした墓石の影が見えるだけだ。大司教の墓はもうどれか分からない。
「あのお墓は、祀られている人たちが座る椅子のようにも見えませんか。そうだとすると、一人の死は、他の誰かの心の中に空いた椅子ができた……ということなのだと思います」
 彼女はたどたどしくたとえ話を続ける。
「……ヨーセフ大司教様が亡くなって、わたしの中にあった『父様』という名前のついた椅子は、空きました。その時気がついたのですが、わたしの中には他にも空いた椅子がありました。生みの親のものです」
 オフィーリアは神官服の胸元の飾りを握り込む。彼女は幼い頃にリバーランド地方の戦乱で実の両親を亡くしたため、大司教に引き取られたという。
 足元に目線をさまよわせていた彼女は、不意に顔を上げた。星の炎を思わせるあたたかなまなざしが注がれる。
「きっとリアナや仲間のみなさんも、それぞれ同じような椅子を心に持っていて……そこには誰かが座っていたり、空いたままだったりするのでしょう。
 もちろんサイラスさん、あなたもそうです」
 学者のベストの胸に、そっと指が向けられた。
「……わたしはあなたの空いた椅子についた名前を知ってしまいました」
 反射的に体がこわばる。それは二人の間に横たわる禁忌のような話題だった。
 ――少し前、自分が単身でダスクバロウに向かった時のことだ。オフィーリアとハンイット、それにトレサはこちらの行方を探るために魔法陣でアトラスダムに赴き、前者二人は自宅まで行って「過去の出来事」を知ったという。
 自分がそれを聞いたのは狩人経由で、その時神官はいなかった。「オフィーリアはまだ少し悩んでいるようだが、いつか直接話をするはずだ」とハンイットは言っていた。
「勝手に家を探ったことは謝る。すまなかった。だが、わたしたちを心配させたあなたのせいでもあるんだぞ」
 そう言い切ったハンイットは、当たり前のようにあの過去を受け入れた。むしろ、他人の目がない場所では普通に話題に出すことすらある。「きっとあなたの家の料理はおいしいのだろう。だから舌が肥えているんだな」と不意打ちのように断定された時は、少し笑ってしまった。そのなんでもない距離感がありがたかった。
 一方で、オフィーリアとの間には見えない隔たりがあった。互いになかなか決定的な部分に踏み込めず、相手の出方を探る空気があったのだ。他者を慮る彼女は、こちらの過去を暴いたことを後ろめたく思っているのだろう。きっと自分はオフィーリアに良からぬ影響を与えたのだ、と推測していたが――
 今、彼女の口から真実が告げられようとしている。思わず背筋が伸びた。オフィーリアはゆっくりと歩みを続けながら、前を向いて話す。
「……空いてしまった椅子は、たとえその名前が記憶から消えたとしても、代わりに誰かが座ることはできなくて、ずっと空っぽのままなのでしょう。それはとても辛いことですが……いつかは、空いた椅子があることを意識しなければなりません」
 彼女の言わんとすることを悟った瞬間、はっとした。そう、確かに自分はその空席をまともに認識することを避けていた。彼女は、「あの時」こちらがどのような心理状態に陥ったのか、かなり正確に把握しているのだ。
 山の端に太陽が沈み、あたりが暗くなっていく。のろのろと足を動かせば少しずつ大聖堂の明かりが近づいてきた。不鮮明な視界の中、オフィーリアは不意に立ち止まり、真正面からこちらに相対する。
「あなたの過去を知ってしまったことは、後悔していません。サイラスさんはきっと誰にも知られたくなかったのでしょうが……あなたもわたしと同じ弱さを持っていることが分かりましたから」
 自分の行いを後悔しない――彼女は式年奉火の旅に出る前にもそう言っていた。その頃から彼女は自分の持つ負の側面をきちんと認められる人物だった。
 過去を隠していたつもりはない。ただ、教えたところで相手に気を遣わせるだけだと思っていた。もうすべては終わったことで、今さらどうにもならない話だから。
「そうか。私は、キミに余計なことで負担をかけてしまったのではないかと……そればかり気にしていたんだ」
 あらためて言葉にすると、なんとも情けない告白だった。するとオフィーリアのまとう雰囲気が少し和らぐ。
「余計なことではありませんよ。サイラスさんは、遠い存在だと思っていた人にも自分と同じ部分があると知った時、嬉しくなりませんか?
 わたし、ダスクバロウでサイラスさんが『旅を続けたい』と打ち明けてくださったことが、とても嬉しかった……。だって、ウィスパーミルでわたしと話した時は何も言ってくれませんでしたから。あなたも本当はわたしと同じことを考えていたと分かった時の喜びは、今でも忘れられません。あの言葉をあなたから引き出してくださったテリオンさんにも感謝しました」
 彼女は冷気を受けたほおをかすかに染めながら胸の裡を明かす。訥々とした話し方には、あふれんばかりの情がこもっていた。
(オフィーリア君はそんなふうに捉えていたのか……)
 故郷の生活では決して出会えなかった人々と親しくなり、その中に己と似た部分を見つけた時に感じるもの――それは異なる生業を持つ仲間たちと旅をする過程で得た喜びに他ならなかった。自身の経験に照らし合わせれば、その話には確かな説得力があった。
 彼女は湧き上がる思いを言の葉に換えていく。
「あなたの空いた椅子とは、これからゆっくり向き合っていきましょう。自分の気持ちを受け入れるまでにどれだけ時間がかかるのかは、人それぞれです。
 その代わり、もし何かあってわたしがだめになった時はサイラスさんが支えてください。ゴールドショアで父様の訃報を聞いた時と同じように」
 そう言ってオフィーリアは雪解けのように相好を崩した。日が落ちて視界は暗いのにその笑顔がまぶしくて、思わず目を細める。
「ああ……そうなれるよう、努力するよ」
 小さく息を吐いて、胸に置いたこぶしを握り込む。言葉を尽くして気持ちを伝えたオフィーリアに対し、ただそれだけしか返すことができなかった。だが彼女の瞳は「それでもいい」と言っていた。
 今なら率直に本心を打ち明けられる気がした。意を決して唇を開く。思い出すのは在りし日、採火の儀式を終えた後に訪れたフレイムグレース大聖堂だ。
「……私は大司教様に、キミの旅の安全を頼まれた。そのこともあって、家族と離れて不安になったはずのキミに、意図して弱みを見せまいとしていたんだ。
 しかし、キミに心配をかけたくない、情けない部分を見せたくないと思ったのは……今思うとただの強がりだったのかな」
 急に照れくさくなり、己の首筋をなでる。年下の者に格好悪い部分を見せられない、というのはなんとも子どもじみた思考だった。自分の気持ちを認めるのは、かくも難しい。
 オフィーリアはこちらの恥すら受け入れたように微笑する。
「強がりもあっていいんですよ。サイラスさんがそういう気持ちを抱いたのは本当ですから。でも、わたしのことはもう少し頼りにしてほしいです」
「うん、すまなかったよ」
 素直に頭を下げると、一歩踏み出したオフィーリアに両手を取られる。
「父様のことを、あなたにとっての『あの人』と同じくらい気にかけてくださっていたんですよね。ありがとうございます」
 指摘されてやっと気づいた。自分は大司教の穏やかな雰囲気に、顔も思い出せない「彼」の面影を勝手に重ねていたのだ。しばし絶句してしまう。
 考えてみれば簡単な話なのに、自覚すらできていなかった。おそらくこういう感情は己の中に山ほど眠っているのだろう。自分が今まで何気なくとってきた行動の裏にどんな思いがあったのか、これからじっくり掘り下げる必要がありそうだった。
 ろくに返事ができないままでいると、オフィーリアはこちらの内心を見透かしたように告げる。
「また一緒に旅をしましょう、サイラスさん。わたしは……わたしたちはどんな場所にだってついていきます。父様もきっとそれを望んでいます」
 彼女の語りに現れる大司教はくっきりと輪郭を持っていた。こちらの勝手な想像よりも何倍も信頼できる言葉だ。墓前に立てた誓いを思い出し、軽く息を吸う。
「……オフィーリア君」
 彼女の誘いに応えるためにふさわしい言葉は、きっと一つしかなかった。



 事件が解決した後、フレイムグレースで数日を過ごして疲れを癒やした一行は、オフィーリアと別れて七人になった。無事に依頼を果たしたヴァネッサも、報酬を受け取ってすぐに町を発っている。
 薬師たちの活躍により、教皇をはじめとする教会関係者たちの毒は問題なく取り除かれた。犯人は罪を認め、正式に裁かれることになった。ただし死罪ではない。黒炎教の信者が死を厭わないことはすでに知れ渡っており、犯人はむしろ貴重な情報源として期待されていた。
「いつか、彼も大司教様に毒を盛ったことを後悔するかもしれませんし、一生そうならないのかもしれません。どうであれわたしは彼を見守っていきますし、黒炎教の情報はきっちり聞かせてもらおうと思います」
 オフィーリアはしたたかに言い残して、仲間たちを見送った――
 北フレイムグレース雪道を東へ。初めてここを通った時は盛大に道に迷ったな、と思い出しながら歩く。今回は地図の見方を確立している上にリンデの先導もあり、スムーズにフロストランドを抜けることができた。
 最後の峠を越えると、眼下に柔らかい緑の草原が広がっていた。
「フラットランドだー!」
 アーフェンとトレサが競うように坂を駆け下りていく。魔物に出くわすと言っても、このあたりならフロッゲン程度なので彼らの敵ではないだろう。
 プリムロゼはうーんと伸びをしてから、残った仲間たちをにらみつけた。
「あなたたち、分かってるわよね。先にノーブルコートに行くのよ。最近レブロー様が『早く帰ってこい』って手紙でうるさいんだから」
「分かってる分かってる」
 ハンイットとリンデがそろって首を縦に振る。プリムロゼは手近なところにいたオルベリクをつかまえ、戸惑う彼を引っ立てるように歩いていった。
 三人と一匹の後ろ姿を尻目に、ふと立ち止まって平原を眺める。アトラスダムはまだ見えなかった。前方からはぬるい風が吹き、季節の変わり目がどんどん迫っている。
 思えば、最近は景色に対して鈍感になっていた。鼻をくすぐる薫風にも、フロストランドの変化にも気づかないままだった。それは見慣れた風景に感覚が鈍っていたからではなく、辺獄の書の件で余裕をなくしていたからだろう。今は懐に本があり、新しい「約束」も結んだから、ずいぶん落ち着いた心地でいられた。
(ノーブルコートに行った後は、アトラスダムに帰って……陛下に報告か)
 自分は故郷で重要な役目を果たさなくてはならない。ここでウォルド国王の説得に失敗して「やっぱり旅に出られませんでした」では洒落にならなかった。ある程度の勝算があるとはいえ、結果がどう転ぶかは分からない。あらかじめ話の順番からきちんと組み立てておくべきだろう。
 真剣に考えごとをしていると、不意に誰かが隣に立った。視界の端に紫のマフラーがなびく。
「俺はアトラスダムには行かないからな」
「……え?」
 唐突に投げられたテリオンの言葉に瞬きを返す。彼は探るような目で見つめてきた。
「ノーブルコートを出たら、先にリプルタイドに行ってる。だからあんたとは次の町でお別れだな」
 凪いだ緑の片目ははっきりと彼の意思を伝えていた。テリオンは、ダスクバロウで言った「あんたの事情には踏み込まない」という台詞を徹底するつもりなのだ。
 こちらの過去を分かっていて気遣うオフィーリアも、受け入れた上で普段どおりに接するハンイットも、知らないままで「連れて行く」と言ってくれたテリオンも、そのどれもがありがたく、決して代えのきかない存在だった。他の仲間たちも含めて、誰もが自分にとってただひとつきりの椅子に座っているのだ。
 その椅子が決して空かないようにするにはどうすればいいのか、考えなくてはならない。この旅の延長戦で。
「分かったよ。好きにすればいい」
「言われなくてもそうする」
 すまし顔で答えた後、テリオンはどこかいたずらっぽく笑った。それは近頃急に彼が見せるようになった表情で、珍しいものだからついじっくりと観察してしまう。
「あんたはアトラスダムでせいぜい頭を冷やしておけよ。オフィーリアを怒らせたことをちゃんと反省しろ」
「うっ……やはりあれはまずかったかな」
 原初の洞窟の前でぶつけられた言葉とあの時の緊張感を思い出すと、今でも肝が冷える。
「むしろよく反論できたもんだ。俺ならあんなの耐えきれなくてすぐに謝ってた」
 テリオンはうそ寒そうに腕をかき抱く。オフィーリアに平謝りするテリオンというのは、あまり想像できない光景だった。くすりと笑いが漏れる。
「テリオンさん、先生! おいてくわよーっ」
 前方からトレサの声が聞こえる。彼女たちはもうずいぶん先行しているらしい。あまりのんびりしていたらプリムロゼに叱られそうなので、慌てて早足になった。
 テリオンはこちらに歩調を合わせながら尋ねた。
「あんた、今でもあいつらが旅についてくる理由が分からないのか?」
「ああ……。ゆっくりでいいとオフィーリア君は言ってくれたが、どのくらい時間がかかるのか見当もつかないよ」
 おそらくその答えは、自分の気持ちを受け入れなければ見つからないのだろう。だが、己はずっとそれをないがしろにして生きてきた。それが間違った選択だったと気づくことすら遅れてしまった。
 自らの思いを認めることにかけてはもう何歩も先に行っているであろうテリオンは、小さく笑った。
「まあ、今すぐでなくてもいいだろ。それに……」
 一旦言葉を区切り、彼は目を細める。
「オフィーリアと別れる時、あんたは自分から『また』って言ったよな。だったら、そのうちなんとかなるさ」
 小さな声が鼓膜を叩いた。テリオンは返事を待つことなく、スピードを上げてあっさりとこちらを追い抜かす。
 ――オフィーリア君、また会おう。
 確かにフレイムグレースで、自分は彼女との再会を疑わずそう言ったのだ。それは式年奉火に旅立つ時、ヨーセフ大司教に届けられなかった言葉でもあった。
 踏み出した先の地面は乾いていた。季節は移ろい、人と人との関係も変わっていく。容赦なく過ぎ去る時間に翻弄されながらも己が仲間とともに進むのは、「この道の果てに自分の行きたい場所がある」と信じているからだ。
 吹き抜ける風が前方から草の息吹を運んでくる。長い冬が終わり、もうすぐ次の季節が訪れようとしていた。

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